セピア色の約束(2008)
都心を離れた閑静な住宅地にそのカフェショップはある。ゆったりとした店内にはジャズが心地よく響く。併設されたギャラリーにはかつて写真家だったオーナーの前野ジュンの作品が大きく引き伸ばされてバランスよく飾られている。その殆どが風景や建造物だが、一枚だけ異彩を放つ一枚の写真があった。
少し人目を避けるようにさりげなく。初めての客は物珍しそうに尋ねる。
「あの写真はどなたですか」
「娘です」
「あんな小さなお子さんがみえるんですか」
「いえいえ、20年前の写真ですよ」
名刺2枚分ほどのセピア色の世界には屈託なく微笑む一人の少女が写っていた。
前野には婚姻暦があったが自らの性同一性障害による異質な交友関係で幸せな家庭生活を崩壊させていた。多感な時期を迎えた娘に相応しくないと伴りょが下した結論は別々の道を歩むこと。最後に一枚だけ写真を撮ることを懇願した。それがあのセピア色の写真だった。
「え~、一枚だけなの、お父さん。また撮ってね、約束だよ」
娘の無邪気で残酷な言葉が今も時折胸を締め付ける。何事もなく順調に育ってくれていれば、そろそろ適齢期か。
ある日、沢渡という常連客に結婚式の写真を撮って欲しいと頼まれた。形式ばった記念写真ではなく式を挙げる前の様子をスナップとして残したいという。前野は自分でよければと快諾した。
結婚式当日、前野は案内された控え室で我が目を疑った。そこには20年ぶりに見る娘がウェディングドレス姿で立っていた。
─まさか、いや、でも間違いない。間違えるわけがない。
前野に気づいた花婿が花嫁を連れ近づいてきた。
「本日はおめでとうございます」
「ありがとうござい─」
花嫁が前野の顔を凝視した。前野は思わず視線をそらした。
「何か─」
「何となく、父に似ていたので」
「こら、前野さんに失礼だぞ」
前野は式前の幸せそうな二人の様子を慎重な面持ちでシャッターを押し続けた。係員がスタンバイを告げに来たところで撮影は終了。前野は再度二人にあいさつをし、控え室を後にした。
極度の緊張から解放されたせいか、急にトイレが近くなった。洗面台の鏡の前でふと足が止まる。鏡に映った自分の顔を見つめ、大きくため息をついた。20年前の約束は思いもよらない形で果たすことができた。たしかにあの娘のウェディングドレス姿は本当に綺麗だった。それよりも前野の顔を不思議そうに見ていたあの表情が忘れられない記憶の1枚になりそうな気がした。
─似ているか、無理もないな
前野はポーチから口紅を取り出し唇にあてがった。