決め球
「アンパイアの代打?」
試合後、宗方はロッカー室で同期の仁井田に声を掛けられた。明日の試合に欠員が出たらしい。
「宗さんのジャッジは未だ健在だよ。あと1試合だけ頼むよ、な」
審判生活十八年目のシーズン途中、今季限りでの引退を申し出た。審判の定年まではまだ十年近くあるが、寄せる年波が目と肩の衰えを助長させていた。騙し騙しが通用するほど、甘い世界ではない。今日の試合も滞りなくこなせたが、すべてが完璧なジャッジだったかと問われれば正直自信がない。
返事に窮している宗方をよそに、仁井田はソファーで暢気にスポーツ紙を広げていた。
「そういや一軍に呼ばれたんだって、翔太君」
宗方の息子、市村翔太がプロ野球選手であることは極一部しか知らない。母親が再婚して名前が変わっているからだ。
若くして父親になった宗方はその自覚を持つことなく、仕事以外でも自由奔放に振舞い、挙句の果て帰る場所を失った。
野球の仕事してるんだからせめてキャッチボールぐらいやってあげてよ。
母親が願った理想の親子の姿が見られたのはほんの数ヶ月だった。
息子は複数のアルバイトをしながら奨学金が出る高校に通い、母子家庭を支えた。その過酷な試練を乗り越えた甲斐があってか、もともと備わっていた野球のセンスも育まれプロ選手としての道を自ら切り拓いていくことができた。
今となっては宗方も息子の活躍を影で応援するそんな父親に改心したが、まさか罪滅ぼしのジャッジをする、それこそ審判の日がこようとは。
「もしかして親子対決があるかもね」
懺悔とでも言いたいのか新聞越しに仁井田は宗方の様子を面白がっている。
そうかもしれない。
いっそのことバッターボックスに入ってデッドボールでも食らう方がまだましだろう。
運命の試合は奇しくも息子のデビュー戦になった。二死満塁、一打で出れば逆転サヨナラ負けという緊迫した場面で、息子のチームの監督が一軍に昇格したての高卒ルーキーをリリーフに送り出すと、球場の歓声が一際大きくなった。若さと度胸に賭けたその采配を野球解説者はマスコミ贔屓と罵った。
マウンドに上がった息子は緊張している様子を微塵も見せず飄々と投げ続ける。監督の選手を見る目もあながち節穴ではなさそうだ。
カウントはあっという間に5球を数え、スリー、ツー。
6球目を打者がファールで粘る。宗方から新しいボールを受け取った息子は心なしか首を傾げた。主審が誰かわかっているのだろうか。
終盤辺りからボールを返球する度に肩が疼き出していた。捕手の中にはすぐ新しいボールを要求するタイプもいれば、ほとんどアンパイア任せというタイプもいる。別にルールがあるわけではないが、今日の二人の捕手はどちらかというと後者だ。まさか老兵の引退を名残惜しんでわざと投げさせているのではあるまい。
ファールが3球続いた。バッターも段々タイミングが合い出している。4番らしくカットで逃げているスイングではない。三振か、ホームランか。決着は二つに絞られていた。
そろそろ仕留めてくれよ。
その思いが通じたのか、息子が投じた十球目は最後の1球になった。
ただ、宗方は審判人生最後の試合で自らがゲームセットのコールをすることができなかった。
気が付くと病院のベッドで横たわっていた。ベッドの横の丸椅子に腰掛けていたのは見知った顔だった。
「一応謝っとく」
数時間前までマウンドできらきらと輝いていた青年は一瞬だけ少年の面影を覗かせた。
「あそこで暴投なんて、ガキの頃から変わってないな」
「力が入りすぎたんだ」
渾身の一球をまともに顔面に食らった宗方はその場で昏倒し、そのまま病院に運ばれたが、幸い軽い脳震盪で済み、大事には至らなかった。
試合は最後の1球が押し出しの暴投となって息子に黒星がついた。
「すっぽ抜けか」
「いや」
「じゃあサイン違いか」
「そうじゃない」
息子はキャッチボールするといつもそうだった。フルカウントだぞ、さあ最後の1球だ。そう煽ると決まってボールは大きく上に逸れていった。その度に河川敷に捕りにいったボールを幼児用のグローブに力を込めて投げ返した。その父親の行為を息子は何か感じていたのだろうか。
とはいえ、息子が投げた十球は素晴らしいものだった。フルカウントにまでなったが、どの球も厳しいコースをついたもので、ボール三球の中にもストライクと一瞬判定を躊躇した球もあった。しかも、あの球だけは他の球とは全く違っていた。まるで敵を仕留める燃える矢のように魂が込められていた。決してコントロールミスなどではない。だとすれば。
「狙ってたんだろ、俺を」
息子の目は一瞬見開かれたが、口元は緩んでいた。
「親子で同じ日に引退っていうのも悪くないんじゃない」
まさか息子から引退の言葉を聞かされるとは。しかも宗方のジャッジをする最後の試合だということも知っていた。一瞬、仁井田の顔が浮かんだ。
「今日たった一回投げただけじゃないか」
「フルカウントから決め球が投げられないんじゃピッチャー失格なんだろ」
「これからもっと練習するんだよ」
「違うんだ。俺の野球人生はあの1球がすべてだったんだ」
宗方は悟った。息子は始めからそうするつもりだったのではないか。昔年の恨みを晴らすべくその場に父親の神聖なる職場を選び、世間に不様な醜態を曝け出させるためだけにプロ野球選手になったのだ。それは随分と手の込んだリベンジだった。
「じゃ、そういうことで」
息子はジャンパーのポケットから何やら取り出し、配膳用のテーブルの上にそれを転がすと部屋を出て行った。
洒落た餞別だ。
それは二度と投げることのない、宗方を仕留めた決め球だった。