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紅いアンブレラ 01 SCRAMBLE

 雨は一人だけに降り注ぐわけではない ロングフェロー

 信号が変わるとそれまで歩道に寄せられていた傘の群れが、スクランブル交差点の中心に向かって一斉に流れ出した。鬱陶しい雨と無数の傘に自由を奪われてか、あちこちで小さな接触や衝突が見られる。雨の日は数メートルの距離でさえ、対岸にたどり着くのもなかなか容易ではない。
 そこを人目もはばからず走っている男と女がいた。傘を差していないため早く目的地に着きたいという以外に、何か他に理由があるように見える。意思疎通があるのかどうか、二人は走る方向さえ違えど、ほぼ同じ地点に向かっていた。
 交差点の中心付近まで差し掛かったときだった。
 湿った衝撃音とともに二人の身体が一瞬、宙に浮いた。
 その刹那、小さく短かな悲鳴の合図が上がった。
 傘の群れは逃げるように四方へと散り出した。
 不運にも近くに居合わせた歩行者が恐々と二人に歩み寄る。
 どの顔にも労わりというより困惑の表情が浮かんでいる。
 アスファルトに横たわる白いタキシードとウエディングドレス。
 交差点はざわめきとクラクションの混沌に包まれた。
 誰かが呟いた。
 まるで映画のワンシーンのようだと。
 やがて、救急車のサイレンが一切の喧騒をかき消した。
 雨は二人に容赦なく降り続いている。

                *

 怪我人を搬送した救急車がサイレンをフェードアウトさせながら現場を離れると、野次馬が一人、二人と立ち去っていく。傍らで立ち尽くしていた山岡圭助は交通整理の警官から促されようやく歩き始めた。
 なんでこんなことになったんだ。圭助はいち早く青木雅治と奥寺瑤子の元に駆けつけ、びしょ濡れになりながらも119番への通報や救急車の誘導と精力的に動いた。彼は医師でも救命士でもない。彼がそこまでした理由は運ばれていった二人が仲間だということ以外他ならない。
 搬送されるまでに圭助は知り合いと救急隊に告げ、できるだけ二人の容態を聞きだした。青木は左胸を強打して一時的に呼吸困難になり肋骨に骨折の疑いが残った。一方の瑤子も強打した左頭部から出血し、意識不明の重体になっているらしい。救急隊は圭助に同伴するよう求めたが拒否した。そうせざるを得ない理由があった。
 仲間への心配は自らへの苛立ちへと変わり始めていた。無謀な計画であることは圭助をはじめ他の一人一人も十分承知していた。万一のことがあった場合、自己責任で対応するという申し合わせもしていた。
 しかし、こんな大騒ぎになった以上、ただの事故処理では済まされないだろう。容体が回復すれば自然と関係者の身元が割れ、警察から事情聴取を受け、根掘り葉掘り訊かれることは避けられない。
 とにかく落ち着こう。圭助は現場の交差点が見える、少し離れた位置に停めておいたワンボックスカーに戻った。外からは中の様子が見えないスモークガラスになっている。
 これで少しは人の目から解放されると安堵した束の間。リクライニングシートを倒そうとしたとき、後部座席の人影から聞き覚えのある声が圭助を呼んだ。
「ちょっとーいったい、どうしたの」
 圭助がおそるおそる振り返ると、ウエディングドレス姿の奥原瑤子が腕組みをして座っていた。
「もう予定の時間から30分も経っているじゃない。こんな人通りの多い場所で、しかも無許可で見つかるとヤバイから、あれだけ時間厳守でやろうっていってたのに、なんの合図もないなんてさ。そりゃあ、車の中でうとうとしていて時間を見過ごした私も悪いけど」
 圭助はなぜここにもう一人花嫁がいるのか全く理解できなかった。それもそのはずで、運ばれていったのはてっきり、この瑤子だと思い込んでいたからだ。
「おまえ、どうしてここにいるんだよ。まさか救急車から逃げ出してきたんじゃないよな」
 瑤子は圭助の言っていることがさっぱり分からなかった。
「いったい救急車って、どういうこと。だれか運ばれたの。それに青木君や他の人たちはどこにいるのよ」
 畳みかける瑤子を圭助は落ち着かせようとした。ここまでの経緯を説明するにはまだ頭が混乱している。だが、そうもいってられなかった。
「青木とどこかのもう一人の花嫁が運ばれたんだよ。交差点で正面衝突してな」
「え、うそ」
「二人とも命に別状はないみたいだけど、青木は胸部の打撲、花嫁の方は意識不明」
「ちょっと待って。もう一人の花嫁って、私以外にこんな格好した人がいたわけ」
「ああ」
「でも、どうして圭助はその花嫁が私じゃないって気がつかなかったのよ。それに確認するでしょ、普通」
「そういうけどな、まさかあんな所にウエディングドレスを着た花嫁がお前以外にいると思うか。しかもな─」
 圭助が駆けつけた時には、花嫁はほぼうつぶせの状態で顔を横に向け、すでに顔中血だらけだった。その上には血が滲み雨に濡れたベールがべったりとかぶさっていた。その光景を見て怖気ついたとは意地でも言えなかった。
「なんかその人、私の身代わりになったみたい」
「いやそうとも言えない。彼女さえ出てこなければこんなことは起こらなかったんだ。こっちだって被害を被っているわけだし」
「そりゃそうだけど」
「事故は事故として、もう起きてしまったものは今さらどうしようもない。今は彼女の一日も早い回復を祈るしかないだろう」
 二人の救護に加担した圭助の言葉には、やるだけのことはやったという実感がこもっていた。瑤子にもそれが通じたようだった。運ばれた花嫁がここにいる瑤子じゃなかったことだけが、せめてもの救いだった。
 圭助はそれまで後部座席に向けていた体勢を運転席側に反転させると、大きく伸びをした。
「それにしても、あの花嫁姿は普通じゃなかったな」
「どんなだったの」
「なぜか裸足でさ、ウエディングドレスもそうだけど、手足もそこらじゅうかすり傷だらけだった」
 それはまるで森から逃げてきた手負いの小動物みたいのようだった。
 瑤子は首を傾げた。
「でも、その傷だらけの花嫁さんはいったい誰なんだろう。なんでまた、あんなところでそんな目に」
 圭助と瑤子がスクランブル交差点に目をやると、そこには慌しく横断歩道を渡る通行人のいつもの光景が蘇っていた。上空は雨雲が流れ、隙間からあかね色の日差しがにじんでいた。

                

                 *

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