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「訂正」2つに思うこと

 相変わらず購読している新聞の訂正欄には目が引きつけられてしまう。このnoteであげつらうネタになるというダークな目的もあるが、「他山の石にしたい」という記者時代からの習性でもある。
 
 こんな訂正があった。「7日付文化面の●●教授インタビューで、自公政権に国民民主党が閣外協力する形になれば、「戦後日本初の『連合少数内閣』」とあるのは誤りでした。羽田孜内閣も連合少数内閣でした。」
 
 おいおい。終戦直後のことなら見落としも仕方がないのかもしれないが、少数与党の羽田内閣がわずか64日で総辞職したのは1994年、わずか?30年前の平成の出来事だ。それをすっぽり見落とすとはどういうことだ?
 
 気になったので会社の古新聞の山から当該記事を引っ張り出してきてみたら、これは「民意のゆくえ 多党分立 どう向き合う」というタイトルの某大学教授のインタビュー。しかもこの教授サマの専門分野は「現代政治分析」とあるではないか。すごい専門家がいたものである。
 
 文化面なので書いた記者は政治にそれほど詳しくないのかもしれない。しかも30年前にはまだ記者になっていなかっただろうことも想像できる。だから専門家の発言を鵜呑みにしてしまったのだろう。しかし、「何事も疑ってみる」ことは記者の基本なのではないか。発言の要旨の字数をまとめて紙面に並べるだけなら、まさにAIにやらせればいいだけのことになる。
 
 もうひとつ。「9日付国際面「取引外交 欧州の安保揺さぶる」の記事につく写真説明で「戦士した兵士」とあるのは「戦死した兵士」の誤りでした。」おいおい、小学生の誤変換でもあるまいし。ま、写真のキャプションなんてその程度しかチェックしていないということか。
 
 それにしても、ミスが発生することは自明である。だからこそマスメディアは二重三重のチェック体制を敷いてそれをつぶしていくのは当然の責務ではないのか。

 これが固有名詞の間違いでれば、ある程度は「仕方がない」部分がある。取材した記者がぼんやりした出稿をしてきたら、本社で防衛することはほぼ不可能だからだ。ところが今回の2つはきちんとしたチェック体制ができていれば防ぐことができたケースではないのか。
 
 「こんな初歩的なミスは恥辱の極みだ!チェック体制はどうなっているんだ」というくらいの議論になっていないのかな。「あーあ、またやっちゃったよ。このコストカット時代には仕方がないよね」程度だとすれば、新聞の使命の終焉は近いぞ。
(24/11/16)

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