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やさしさの相伝〜バスでの出来事

親戚の1周忌で墓参りをした際に、こんなことがあった。

80代後半の両親と最寄り駅で待ち合わせた。目的の墓地は最寄り駅からタクシーまたはバスを利用しなくてはならないので、「ま、タクシーをつかまえよう」と安易に構えていた。

タクシー乗り場はすぐに見つかった。同じ墓地へ行くのだろうご一家の後ろに並んだところ、親切にも「なかなか来ませんよー。うちは電話で呼びました」と教えていただいた。お礼を述べて乗り場に表示されたタクシー会社2つに電話するも、どちらも呼び出し音ばかりで応答がない。かなり経ってからやっと1社につながったが「すみません、いま、すべて出払っています」。郊外のタクシーって週末の日中はそこまで稼働が少ないのか。

このままでは待ち合わせに遅刻である。そういえばバス停は線路を渡って100Mほど先にあったようだ。かなりヨタヨタしている両親を歩かせて路線違いなどの空振りでもしたら切ないので自分だけ小走りで“斥候”にでたところ、ちょうど目的地を回るバスが停車しているではないか。慌てて両親を呼び寄せてなんとか乗り込むことができた。バスはここが始発、しかも発車時刻の前だったようでほかのお客さんにご迷惑をかけることもなかったのが幸い。

車内はほぼ満員。なんとか二人のために空いている席は・・・と見回したところ、前方でベビーカーを広げていた若い女性がすぐに立ち上がってくれた。それに気づいた彼女のご主人もまた素早い動作で席を譲ってくれたのである。

混雑するバスでしかもベビーカー付きなら、せっかく確保した席を譲ることに躊躇するのではないか。それをまったく感じさせない爽やかな所作に感心するなり恐縮するなり。

ご夫妻、バス走行中はしきりと子どもに話しかけるなどしていて、そんなところも微笑ましい。

ベビーカーに乗っていたのが男の子だったのか女の子だったのか、よく見えなかった。いずれにしてもこの日のことはきっと覚えてないだろう。それでも両親のこんな立居振舞はこれからもたびたび見るだろうから、その子も自然に同じことを続けるに違いない。

「一子相伝」という言葉は「ものごとの奥義を自分の子供ひとりだけに伝えること」で、どうしても排他的秘密主義の匂いがするが、こうしたやさしさの相伝は素晴らしい。

震災復興ソング「花は咲く」の歌詞に「わたしは何を残しただろう」というくだりがある。この歌を聴きながらあの日のバス車内を思い出すと、「私は次世代に何を“相伝”できるのだろう」と「うるっ」としてしまう。

トシで涙脆くなったのかなぁ。
(21/12/6)

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