惰性と思い込み
静岡の認定こども園でバスに取り残された3歳の園児が熱射病で死亡した事件。「空っぽになった園児の水筒が見つかった」という続報が出た。気温が上昇する車内でのありさまが目に浮かぶようで、いたたまれない。
報道によると、この日はいつもの運転手が休みだったために理事長が運転を代行、ほかの職員も添乗していたが、「降りる園児の人数チェックは、自分ではなく相手がすると思っていた」とお互いに思いこんでいた。
さらに登園時にはそれぞれの園児のQRコードをタブレットにかざして登録することになっていたが、この日はバスに乗っていた6人分をまとめて入力していたために、亡くなった園児も登園したことになっていた。
後づけでこのように知らされると「なんてお粗末な管理だ!」と思うが、惰性で日常業務をこなしていると、気づかないのだろう。昨年には福岡でも同じような案件が発生していたにもかかわらず、「園児の命を預かっている」という自覚がない。
事件を受けて文科省などが通知を出した。
「人数確認をダブルで」「運転手以外に園児担当職員を同乗させる」「乗降時に人数確認をして、座席に子どもがいないかを職員間で共有する」。なるほど、どれもまったく妥当な措置だが、やっぱり現場が危機感を失わずにきちんと運用しなければまったく意味がないのだな。
現場のことを詳しく知っているわけではないが、航空業界では「命を預かっている」ことを常に言い聞かせているらしい。マニュアルだけでなく、訓練やシミュレーションを繰り返していると聞く。
それでも、気は緩む。
1972年11月に旧ソ連モスクワの空港で墜落した日本航空の貨物機では、ボイスレコーダーに記録された乗員の会話の内容が大問題になったらしい。
昔の事故だが、私は漫画「サザエさん」でこの事故を知った。家庭教師と学生が「よっこらしょ」「ほいよ」とやりとりするのを見た親が「あんたたち、落ちるわよ!」と怒る、というものだった。
この程度のやりとりだけでは「気が緩んでいた」かどうかはわからない。
「惰性」「思い込み」は常にある。
私はかつて社会部で事件を担当していた際には殺人事件の被害者の名前を間違って放送に載せてしまったことがある。そもそもまったく違う名前で思い込んでいると、チェックから漏れてしまうのだ。
私はダイレクトに人の命を預かっているものではないし、いまは報道によって人さまの人権を侵害するようなこともない。それでも、日常に潜む惰性のおそろしさを再認識するきっかけにしなければならないだろう。(22/9/7)