
「狗」Ch.1 by Priest(翻訳)
「狗」 第1章
午後10時。夜も更け、街の人通りもまばらになってきた頃。
洗面用具、洗濯しての着替えの服、折り目正しいケータリングの弁当を携えて歩く男がいた。
ウインドブレーカーはブカブカ、色もパッとしない暗い色だ。その辺に落ちてる枝のみたいにガリガリで、縁なしメガネをかけている。血色のない顔はさながら幽霊のようだ。重力がないかのように、ふらふらとした足取りで歩いている。
男が向かっていたのは警察署だった。入り口すぐ傍の受付までやってきて、携帯電話を取り出した。
「僕だ。着いたから守衛に言って、入れてくれ」
電話の向こうの人物にそう告げると、傍にいた守衛に丁寧だが愛想のない口調で話かけた。
「すみません、えっと……」
守衛はちょっと残念な顔になった。
「知ってますよ、陸翊さんでしょう?先週、お話しましたよね?」
陸翊の幽霊のような顔色が困惑したように見えた。
電話の向こうの人物が叫んでいる。
「おいおい!お前は先週、張さんの寮住まいの妹に届け物をしたばかりだろ?忘れたのか?そんなことより早くメシを持って来てくれ!俺たち餓死寸前だ。頼むぞ同志!」
陸翊はぎこちなくメガネを押し上げ、機械的に守衛の張さんに微笑むと、また幽霊のようにふらふらと漂うように警察署の中に入って行った。
陸翊はルームメイトから、「ロブスター」と呼ばれている。「人の話を聞かない」、「人を見ない」といった類の意味らしい。とにかく興味がなければ誰と話しているのか、何を話しているのか、例え人が怒鳴っていたとしても耳を塞ぐことができるからだ。
電話口の人物であり、ロブスターの名付け親である人物が、黎永皓だ。彼は普段からこの「致命的社会不適合者」の面倒をよくみていた。そんな黎永皓が珍しく陸翊に助けを求めたのは、重要事件––––7歳の子供の誘拐事件が起こったからだった。
子供の誘拐事件が起きた場合、「黄金の24時間」といって、24時間以内に発見されなければ生存率は5%にも満たず、それ以降は生きて発見される可能性は限りなくゼロに近くなる。初動捜査が極めて重要だ。
そんなわけで黎永皓の所属する犯罪課は夜を徹して捜査すべく、帳場は腹を空かせた捜査員でごった返していた。陸翊は黎永皓に電話で呼び出され、人民を代表して応援物資を届けに来ていたのだった。
外ではまだ多くの捜査員が出ていたが、帳場では現在までの状況についてブリーフィングが行われていた。陸翊を迎えに出た黎永皓は、彼の顔を見るや否や差し入れに飛びつき、河粉の箱を取って歩きながら麺を口に流し込み始めた。
「仕事が終わって、帰って飯を食おうとしたときに事件の一報が入ってさ。今まで飲まず食わずで本当に死にそうだったぜ」
三、五歩の間に黎永皓は河粉の半分も食べ終えていた、というより、飲み終えていた。さすがに胸が詰まり、ゴリラのようにドンドンと胸を叩き、一息つくと苛立ちながら話だした。
「誘拐された子の母親が本当に頼りなくってさ。誘拐されたとき傍にいたらしいのに、口を開けば私は何も知らないの一点張りで、泣いてばかりいやがる。あれでも母親かよ。胸クソ悪い」
陸翊は黙っていた。彼が黎永皓の話を聞いていたかは定かではない。
「おい、ロブ。聞いているのか?いや、陸さんよ。少しは好奇心や同情心ってものがないのか?重要事件だぞ」
「ああ、うん」
陸翊のその場しのぎの返事を物ともせず、黎永皓はベラベラと話し続けた。
「だけど今まで誘拐犯から脅迫電話もかかってきてなくてさ。常識的に考えてこれは誘拐事件のはずなんだがなあ。うまく言えないんだが……ロブ、なんか変な気がするんだ」
「……」陸翊は無言のままだ。
「おい、もう一回なんか言えよ」
陸翊はメガネを押し上げ、ルームメイトに忖度するようにわざと口調を変えて言った。
「うん?」
「誘拐された子はもう七、八歳だ。小学生だろうから、多かれ少なかれ物心だってついているだろう。俺はそのぐらいの年齢のとき、彼女だって3人いたんだからな。だから子どもといえど、飴玉一つで騙されるはずなんかないんだ。しかも当時、その子は遠くに行っていたんじゃない。家の近くで遊んでたんだ。母親だって自宅の2階から見てた。このとき、もし誰かが急に出てきて、力づくで連れ去ろうとしたら、子どもは母親の注意を引くために叫んだりするだろう?よしんば知人の犯行だったとしても、大声で叫んで母親を呼んだりするもんじゃないか?」
黎永皓は片手でケータリングを持ち、箸を持つ手で眉を摘んだ。
「それに被害者の家は北城の別荘地だから、警備員だってうろちょろしてる。そんなところに誰でも入れるわけじゃない」
陸翊は一言も発しないが、黒い瞳があたりをギョロギョロ見回していた。
「俺たちはいま、実は第三の可能性を考えてる――もし両親への私怨による犯行なら、このままだと良い結末にはなんねえなあ」
部屋の中は煙が南天門のように立ち込めていた。喫煙者たちが駅の喫煙室のようにせっせと大気を汚染しているからだ。ドアが開くと人間を窒息させる。
帳場では人だかりの山で、口々に何かしゃべっている。中には黎永皓を見て「黎隊長」と呼びかける人もいれば、夜食だと叫ぶ人もいる。
少し潔癖症のある陸翊は後退りし、荷物を降ろすとようやくまともに喋った。
「あ、忙しそうだから、僕はこれで」
「ちょっと待てよ」
黎永皓は陸翊を引っ張った。
「さっきあんなに説明してやったのに、また聞いてなかったのか?なんのためにこんな夜中に呼んだと思ってる。まさか河粉を買いに行かせるためじゃねえぞ」