足跡日記👣§31 会話ができない

 福岡に異動して1ヶ月半が経った。日常生活は漸く馴れてきて、生活することに難儀はなくなった。一方で仕事は、目下大きな壁に当たっている。予て思い描いていたように、スイスイと成果が上がらないのだ。営業という役割を全うできず、忸怩たる思いで毎日にしがみついている体たらくである。

 ぶち当たっている難題は「会話ができない」ことである。論理を通し、感情を制することはおろか、生まれてこの方呼吸をするようにしてきた会話がままならない。これは一周回って、私の中ではいたく解しがたい問題である。

 立ち返って、では今までどのように会話してきたのか、換言するといかなる状態の時に流暢な会話ができるのか、考えてみる。私が蟠りなく話せるのは家族、親戚、友人、新卒の同期などなど。こと家族に至っては、 脳死の状態でも会話ができる。これらの間に共通するのは何だろうか。

 熟考した挙句、たどり着いた答えは純粋な興味/相手を知ろうとする気持である。「暫し見ない間に、彼/彼女にはどんな事があったのだろう」という、他意のない純粋な疑問から、「最近どう?」という言葉が口を衝くし、そこで悄然となったら純粋な心配から「大丈夫?」と言って心配する。

 翻れば、円滑な会話に支障を来すのは、決まって複数の事が気に掛かり、自己優先になったり、視野が狭窄している時である。なるほど営業における会話においては、「数字を追いかけなくては」「この会話をどう着地させよう」「私の言葉は冗漫で不快に思われていないだろうか」「相手は私をどう評価しているのだろう」と、煩悩は枚挙に遑がない。そんな様子では、定めし誠実感の欠けた受け答えになっているだろうし、そんな奴には信頼も置けないだろう。

 冷静に見れば、至極当然のことである。けれども、煩悩に苛まれている私には、視野が非常に狭くなっており、いきおい頑迷固陋になっていたんだろう。一言で言えば、考えすぎていたのかもしれない。考え過ぎは、大抵徒爾に終わる。明日からは、いかに純粋に相手と向き合えるか。無意識に意識しようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?