雨を待つなんてばかなこと、それでも光る雨を知っている
強くも弱くもない雨が、それと似たようにぬるい温度で頬を打った。
透明な雫たちが空から突然降りはじめたために、慌てて雑貨屋へと駆け込んで傘を買った丹は、その辰砂の瞳に鈍い青の混じった雨雲を映しながら少し唸って頭を掻き、こぼすように溜め息を吐く。
(……すぐ止みそうだな)
それでもないよりはましだ、というように彼は今しがた買った傘を広げ、右手でそれを持つと左手には店の宣伝がてら持ち歩いていたランタンを下げた。丹が歩くたびにランタンが立てる、乾いているが優しい音と、傘の上を雨粒が跳ねる音とが静かな音楽を奏でている。丹はくるりと傘を回した。
――雨は、好きな日と嫌いな日がある。しかし、雨が降ればいいと思う日は大抵空は晴れ渡っているし、雨など降るなという日は大抵一日中どしゃ降りだったりするものだ。今日はどちらだろう。どちらでもないような気がする。今日はとくべつ雨を呼んでもいないし、かと言って特に拒んでもいない日だ。まあ、それなら、自分ではない誰かがこの雨を呼んだのだろう。果たして雨が人に呼ばれてやってくるものなのかは分からないが――と、丹は思う。分からないが、時折降るこういう唐突な雨は、どうにも誰かが呼んでやってきたようにしか丹には思えないのだった。丹は薄暗い傘の中で、意味もなくランタンの明かりを灯した。
それから丹は何処に向かう気もなくしばらく歩き、町の大通りから少し外れたところに在る空ばかりが目に入るひらけた道の真ん中で、彼はいつの間にか傘の上から音が消えたことに気が付いて傘の隙間から空を仰いだ。空を流れていく雲の中に在った悲しみ混じりの色が段々と薄れていき、さながら汚れを知らない白へと緩やかな速度で変わっていく。ちかっと雲と雲の間から太陽の眩しい光が顔を覗かせた。まるで太陽が瞬きをしたかのようである。その様子をぼんやりと眺めながら、丹は自らが立っている道の先に見覚えのある色を見付け、思わず口元を緩ませた。そうして未だ傘を差したまま、あまり整備されていないおかげで水溜まりだらけの道を少しばかり早足に進んでいく。
「――美穂!」
少し離れたところからそう声をかければ、美穂と呼ばれた少女はあたたかな黄土色の髪を揺らして振り返り、
「あ、丹さん!」
と、こちらに向かって手を振った。それに応じて丹も軽く手を振りながら少女との距離を縮めると、彼は彼女の目の前まで来たというところで突然動きを止める。それは、彼女の瞳と丹の瞳がかち合った瞬間の出来事だった。そのまましばらく丹が微動だにせず押し黙っていれば、それを怪訝に思った少女が首を傾げた。丹はそれが目に映っていないのか、黙ったまま視線を自らが手にしている開いたままの傘に持っていくと、何を思ったのかその傘を彼女の方へと傾ける。
「……傘?」
「……傘」
それにしても、無骨な傘である。真っ黒で大きな、柄も飾りも何もついていない傘布――洒落物好きの丹のことだ、手元くらいには何か意匠がこらされたものを選んでもよさそうなところだが、これにはそういった意匠すらもない。ひたすらに地味である。しかしやたらと大きいものであるため、傘の下に入った者はすっぽり影に覆われることになるのだった。丹の明かりを点けたままのランタンの火が、晴れ間の覗く空の下で見るそれよりも煌めいて見える。彼の瞳は目の前の少女の瞳を見てはいるが、しかしそれでも、何故か目は合っていないような気がするのだった。彼は目よりも何か、それより奥に在る違う何かを見ているようだった。少女が今日はどこかぼんやりして見える丹に傘の中から声をかけた。
「丹さん」
「ん?」
「雨は上がりましたよ」
「え?……そうだっけ。ああいや……そうだったよな」
そう言いながら、丹は頭を傘の中から出して、もはや真白と澄んだ青の色ばかりになった空を見上げた。それでも彼は傘を折りたたむ気がないようで、大きな傘は少女の方に傾けたままである。しばらくすると、ほとんど呟くように彼は言った。
「雨が」
「え?」
「雨が、また降るかもって思った」
言われると、少女は反射的に指先で自らの目元に触れ、未だ空の方を見つめている丹の方を仰ぎ見た。
果たして、彼の瞳に映る色が見えただろうか――彼の瞳、そこに映っていたのは何を隠そう、雨の色だった。雨のにおいも音もとうに周りから消えてしまっている。しかし、それでも、雨の色を自分は此処で見たのだ――と、ひとりでに丹は思いながら、青の中を泳いでいく白い雲を眺め、無意識に傘を握る手に力を込めた。
……雨は、誰かに呼ばれてやってくるのだろうか。
誰に問えばいいのか分からないその問いを心の中だけで呟くと、丹は傾けている傘を一回転させて、いつものように人懐っこい笑みをその顔に浮かべた――もとい、今日だけはつくって見せた。何故、そんなことをしたのだろう。ああ、と心の中で頷く。ああ、もしかするとおれは、悲しい青を胸に抱いた雨雲が帰ってきて、再び此処にぬるい雨が降り注ぐことが怖かったのかもしれない。いいや、きっと、そうなのだろう。丹は軽く笑って言った。
「ごめん、使いたかっただけだよ。……さっき買ったばっかりでさ、この傘。それなのにこんなすぐ晴れちまうんだぜ、ひどいよなぁ」
「……」
「……美穂?」
「……丹さん……あははっ、変なの!」
ぷっと吹き出した彼女が心底可笑しそうに笑い出すのを見ると、丹は何だか自分でもよく分からない安堵のようなものを覚えては少しだけ笑い、再び傘を回転させた。黒い傘に吸い込まれていく光は眩しい。雲は白く力強く、空はそれを讃えるようにどこまでも澄んだ青色をその身に宿していた。丹は瞬きをして、小さく息を吐く。――雨の色は、もう見えない。
雨に濡れ、影に覆われている地面の上では、ランタンの光が雨の雫に反射してさながら星を散らしたかのように、その傘の下をあたたかく照らしていた。それはきっと、青に抱かれていつも笑っている太陽には気付くことのできない光なのだろう。それでも――丹は空を見上げた。それでも、雨雲が去り、太陽が再び眩しく輝いていることが嬉しかった。彼は黒い傘の上でも白い光が踊っているのを見てとると口元を緩め、それから眩しそうに……しかし柔らかく笑ったのだった。
20160829
シリーズ:『手のひらのかがり火』〈燐寸箱〉
※美穂ちゃん(@hasu_mukai)をお借りしました!
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