夢
〈第七章〉
イシ
✴
ばちり、と火が爆ぜていた。
王都〈アッキピテル〉にそびえる王城——そこに位置する騎士の詰め所の、一階に設けられた、騎士の数にしては狭い談話室。夜も深まって長いというのにもかかわらず、そこに備え付けられた煉瓦作りの暖炉には、未だ赤々と火が灯っていた。
彼女はふと、閉じていた目を開き、息を吐く。
手燭に灯っていた蝋燭はとうに燃え尽き、今はただ、その名残の蝋が暖炉の赤に照らされて、微か橙に色付いているばかり。
夜の闇に塗れた談話室の中で、いつの間にか唯一の照明となった暖炉の火は、睫毛を伏せるようにして、とうに冷めてしまったココアを見つめるその勿忘草色の瞳をもまた、昇る太陽の色でただ照らしている。
頼りない明かりの中、しかし彼女はカップに口を付け、それを微かに傾けてココアを含む。舌でしばらく転がしてからそれを飲み下してみても、ただ冷たいばかりで、大して味も感じなかった。
——いつからだろう、何を食べても、何を飲んでも、ほとんど味を感じなくなってしまったのは。
「意味が、ないな……」
そんなこと、今更問うまでもない。
——それは紛れもなく、〝あの日〟からだった。
故郷が焼け、家族が焼け、友人が焼け、身体が焼け、未来が焼けて、その灰の下に輝いていたはずの過去すらも埋もれてしまった、あの日からだった。
「……舌さえも、焼け爛れたのか」
ふと、誰に問うでもなくそう呟けば、自分のそのあまりにも静かな声の響きに、彼女は諦めたように小さく笑って、溜め息混じりに緩くかぶりを振った。
そうしてみれば、あの日、白く染まりきった自分の髪がちらりと視界の端に映る。最早、かつての自分の髪が、どんな黒をしていたかすらも想い出すのは難しい。そもそも、自分の髪はほんとうに黒い色をしていただろうか。
また、音を立てて火が爆ぜる。
赤く燃え上がるそれに、彼女は心の奥底であの日の立ち上る炎を想い出していた。
けれども、それだけだ。
それだけで、何も感じることはない。
この炎の赤色は、痛みすら、もう自分に与えてはくれないのだ。
焼け爛れたのは、或いは心なのかもしれない。
忘れていってしまう。すべて、時が灰ごと連れ去っていてしまうのだ。
何もかも、消え去ってしまう。
死んでいってしまうのだ、何もかも。
——殺せ、レースライン……
そう耳の中で響く祖父の声に、レースラインは見えない軍刀の柄を、右の手のひらでぐっと握り締める。しばらくの間どこか曖昧な輪郭をしていたこの声は、しかしこんにちではもう、そのかたちをすっかりと祖父のそれへと取り戻していた。
「……すべての、魔獣を……お祖父さま……」
そう呟きながら、彼女は今、自分のそばに軍刀がないことがひどく危ういことだと感じていた。
——〝黒の子ども〟の、呪われた刃。
これは、自分と燃えた故郷を繋ぎ止めておくための、たいせつな鎖なのだ。
それがたとえ、呪われているのだとしても、そのせいで自分が血に狂っているのだとしても、これがなくては、自分は祖父の声を聴くことができなくなるのだろう。これを失くせば、自分は祖父の声を、家族の声を、永遠に失うことになるのだろう。
「ならば……」
ならば、呪われていよう。
血に狂ってもみせよう。
聴こえてくる祖父の声がたとえ呪詛ばかりだとしても、それでもこれは、祖父の声だ。
——殺せ、レースライン……
ならば、愛していよう、この声を。
永遠に家族を失うくらいならば、自分は呪われていて構わない。
愛している、この声を。
永遠に独りになるくらいならば、自分は黄昏の獣よりも狂い咲き、この刃を振りかざしてみせよう。
はは、とレースラインはかさついた笑みを洩らした。
「……意味は、ないな……」
「なんの意味がないのです?」
ふと、背後で響いた声に、レースラインは流石に少し驚いて、微かに目を見開きながら振り返った。
「——ああ、カイメン、か……」
椅子の背板ごしに振り返った先には、呆れたように眉根を寄せている自身の部下の姿が在った。カイメンが持っている手燭の小さな火が、彼の生真面目で真っ直ぐなその強い茶の瞳を、柔らかな色で照らしている。
「……はい。申し訳ありません、驚かせてしまって……。しかし、隊長。一体いつまで起きていらっしゃるのですか?」
「そっちこそ。というか、私はこれでも寝てはいるんだよ」
「小刻みに、でしょう? お身体に障ります」
「私はもう、そういう眠り方しかできないんだ。私がひどい職業病なのは、おまえだって知っているだろう」
その言葉に、カイメンはなるべく音を立てずに長い溜め息を吐くと、失礼しますとだけ言って、レースラインの隣の椅子に腰掛けた。布張りの背板は、それなりに擦り切れており、談話室の歴史を感じさせる。座り心地は大して好いものではなかった。
レースラインは片方の眉だけをついと上げるようにして、隣のカイメンを首を動かさずに見やる。
「眠れないのか、カイメン?」
「ええ、まあ……お恥ずかしながら」
「へえ……つまり、あれか、休暇中に寝すぎたつけが回ってきたってところかな?」
「いえ、自分は寝ようと思えばいくらでも寝ていられるたちの人間です」
「ああそう、それはそれで羨ましいけれど」
では何故、と言う風に視線をカイメンへと向けたレースラインに、彼は小さく息を吐きながら、その細い腕を微かにさすった。
「明朝、〝世回り〟に出発ですね」
「ああ。まあ、またしばらく休みはないと思った方がいいだろうね」
「……こんなことを言っていいものか——しかし、今回は、少しばかり予感がするのです、嫌な予感が……。何か……何かを失うような、そんな予感です」
少しだけ不安を滲ませてそう言うカイメンは、暖炉で燃える赤い火をその澄んだ瞳に映す。レースラインはそんな彼を視界の隅に認めると、自分の睫毛を伏せるようにしてふっと微笑み、それから手に有る陶器杯を少しだけさすった。
「まあ、ね……私たちは魔獣を一匹斬るたび、何かを確かに一つずつ、失くしているだろうよ。何かを失うのは毎度のことさ、今更怖気づいたところでどうにもならない」
「隊長……」
「仕方がないんだよ、カイメン。私たちが選んだのは、そういう道なのだから」
カイメンは、レースラインのその悟ったような声色に振り向くと、目の合わない彼女の瞳をしかしじっと見つめたまま、少しだけ怒ったように自身の眉をひそめてみせる。
「——では何故、そんな顔をなさるのです?」
「は?」
「……隊長は、隊長が思っておられるほど、嘘が上手ではありませんよ」
言われて、彼女は思わず自分の顔を片手で触った。似たようなやり取りを、しばらく前に何処かで誰かと交わした気がする。
「……ま……私は確かに嘘吐きだけどね……でも今、おまえに嘘を吐いたつもりは、じつのところ全くないんだよ」
「隊長は、冗談ばかりを仰います。ですが自分は——あなたのことを嘘吐き者と思ったことは、ただの一度もありません」
「相変わらず人を見る目がないな、おまえは」
レースラインは呆れたように溜め息を吐いて、その目をカイメンの方へと向ければ、彼の茶色と真っ直ぐに目が合った。
そのあまりに揺るぎない意志を宿した、カイメンの茶の瞳を見続けていることが難しくて、レースラインは緩やかに視線を暖炉の方へと向ける。
——カイメンの瞳は、自分が見つめるにはあまりに眩しすぎるのだ。
まだ、暖炉で燃える火を見ている方が、何も感じられずにいられる。この赤は、自分にはもう何も——痛みすら、与えてはくれないのだから。
レースラインは暖炉の火を見つめたまま、冗談を言い終えた後と同じような声色で、小さく笑った。
「一昨日——私は騎士という名を盾に、ただ魔獣を殺したいだけなのではないかと、そう先生に言い当てられたよ」
「えっ?」
「……先生の、言う通りなんだよ」
静かに微笑んでそう零すレースラインに、カイメンは少しだけ不思議そうな表情をしてから、しかしすぐに騎士らしい生真面目な顔になって、暖炉を見つめるレースラインを彼は見つめた。
「……ほんとうに、そうですか?」
「今までの私の振る舞いを見ていれば、これは中々に納得できる答えだと思うのだけれどね」
「いいえ、全く。隊長は、なんのために騎士になったのですか?」
少しも揺るがない様子で、そう真っ直ぐに言葉を発するカイメンに、レースラインは少しだけ困ったようにその視線を彼へと向けた。
カイメンの顔は、その半分が暖炉の火に照らされて、夕暮れの陽光に照らされたかのように暗闇の中で輝いている。それにひきかえ、自分の焼け爛れた右半身はどうだろう。あの日燃え尽きた自分の中には、火を起こす火種すら、もう残ってはいない。
彼女は、闇の中にぽっかりと浮かぶ白い髪と共に、そのかぶりを振った。
「——魔獣を殺すため、だよ」
「……違う——違います」
「何?……おまえに、一体何が分かる?」
「分かります。あなたは魔獣を殺すためだけに、それだけのために騎士になったのではない。だって——だって私は、ずっとあなたばかりを見てきたんです!」
カイメンは、レースラインの勿忘草色の瞳を自身の瞳でしっかりと捉え、物怖じもせずにそう言い切った。そんなカイメンの言葉とまなざしに、流石にたじろいだレースラインは幾つか瞬きを繰り返し、それから少しだけ呆れの混じった苦笑いをする。
「おいおい……それではまるで愛の告白だぞ、カイメン」
「……あなたはいつもそうやって、笑って誤魔化してしまうんだ」
「ああ……うん、そうかもね」
「自分はもう慣れているので、誤魔化されはしませんが」
レースラインの目を見つめ、はっきりとそう告げたカイメンは、その表情をレースラインの笑みに流されることなく、真剣なそれのままで彼女へと問いかけた。
「あなたが魔獣を殺すためだけに騎士になったとするならば、私は何故、今、此処にいるのです?」
「それは、ただ——」
「自分は、魔獣に襲われていたところを、ゼーローゼ隊長に救われた人間の中の一人です。だから自分は、隊長に憧れて騎士となった。世回りの騎士たちに命を救われた者は、きっと、隊長が思っているよりもこの世界に多くいます。つまり、隊長に救われた命も、この世界にはたくさん在るのですよ」
年頃の少年よりも澄みわたった声で、そう言葉を紡ぐカイメンのまばゆさに、レースラインは思わず目を逸らしたくなった。
けれども、それより強くカイメンの瞳が自分を掴んで離さない。内に宿した輝くものを隠せずにいる少年の言葉に、レースラインは自分にないものを彼の中から感じ取っては、喉の辺りが少しだけ息苦しくなるのを感じていた。
「自分は、隊長が斬った魔獣と同じくらい、誰かの命を救うのをあなたの隣で見てきました。あなたが気付かなかった分まで、私は見てきたのです。ゼーローゼ隊長——あなたが世界を見回るのは、そうして剣を振りかざすのは、ほんとうに魔獣を殺すためだけですか? そうだとしたら、何故私は生きていて、此処にいるのですか? あのとき私を見殺しにすれば、あなたはもっと多くの魔獣を殺すことができたはずだ!」
「……やめないか、カイメン」
「隊長は、魔獣を殺すということが騎士となる、最初の理由だったかもしれない。ですが、今も——今もそうだと、それは揺るがないと、あなたは言い切れますか?」
「もうやめろ、カイメン。おまえは私に夢を見すぎだ」
レースラインはかぶりを振ると、カイメンの言葉を遮るように、その片手を彼の顔の前に緩く突き出した。
「——言い切れる。軽蔑してくれて構わないよ。私の使命は、魔獣を殺すことだ」
「だとすれば、それこそがあなたの嘘だ」
「……やめろと言っているだろう」
レースラインの制止を無視して、カイメンは目の前に突き出された彼女の手のひらを、自身の手で緩く振り払った。
彼を照らす暖炉の火が、また一つ爆ぜ、光を放っている。
カイメンは、少しだけ怒っているようにも見える表情でレースラインを見据えると、深く息を吸って、そのまま真っ直ぐに彼女へと自分の言葉を届けた。
「あなたは、怖いんだ」
「やめろ、カイメン」
「——あなたは、〝騎士という名を盾に、ただ魔獣を殺したいだけの自分〟を盾に、重りに、枷に、そこから先に進むのが怖いだけだ!」
「やめろ!」
カイメンがその言葉を言い切るか言い切らないかの内に、レースラインはまるで戦場にいるときのように声を荒げ、手にしていた陶器杯を椅子の肘に叩き付けた。
その様子に一瞬だけ身体を強張らせたカイメンだったが、しかし彼はすぐに自分を取り戻すと、レースラインに向かって、少しばかり困ったように微笑んだ。
「私、知っているのですよ。ゼーローゼ隊長が、今まで失った自分の部下たちの名を、決して一人も欠けることなく諳んじれることを」
「私は、たかが一隊長の一人に過ぎない。それも世回りの小隊の、だ。小隊ならば人数だって覚えられないほど多くはない。べつにおかしなことではないだろう」
「休暇中、何処に行っているのかも存じ上げています。城内の礼拝堂に在る、騎士たちの慰霊碑の処と、王都と城下町の教会墓地でしょう。そこで眠る騎士たちの数を、私も知らないわけではありません」
「……おまえ、尾けているの? その年でその愛の重さだと、中々後が怖そうだな……」
「まさか。王都や城下町の花屋で、いろんな種類の花をたくさん買っていく白い髪の女性がいる、という風の噂を聞いただけです。隊長の容姿は目立ちますし、尾けようと思えば尾けられるとは思いますが。
——何はともあれ、護るべき町の、護るべき人々のことを知るのは、騎士としてたいせつなことでしょう?」
言うと、カイメンは悪戯が成功したような顔で少しだけ声を立てて笑った。その笑顔が、あどけない少女の面影を残していたものだから、レースラインはまた少しだけ、自分の呼吸が苦しくなるのを感じていた。
「墓に供える花は、いつもその者が好きだった花だそうですね。好きな花を知らない者は、その家族や友人にまで訊き込みに行く。……休暇はしっかりとお休みになられるべきだと、自分はいつも申し上げているのに」
「……おまえこそ、人のことばかりじゃあないか。もっと自分のことを気にしたらどう?」
「私のことは、隊長が気に掛けてくださるからいいのです。隊長こそ、私みたいなのに付き纏われるのは、ご自分がご自分のことを顧みないからですよ」
「……見事にいたちごっこじゃないか……ばかみたいだね、私たちは……」
呟いて、レースラインは疲れたように息を吐いた。
——自分は、確かに一人の子どもの命を救ったのかもしれない。
けれども、その子どもを——〝彼女〟を戦いの道にいざなったのも、紛れもなくこの自分なのだ。こんなことが正義であるはずもない。あるはずもないが、しかし、おそらくこれを罪と呼ぶこともまたできないのだろう。いっそ誰かが罪人の名で自分を指差してくれれば、いくらかこの心も楽になるだろうに。
レースラインは、暖炉に向けた目の端で、ちらりとカイメンの方を見た。
カイメンの好きな花を、自分は知らない。
そして、自分が戦い続ける限り、それを知りたいと思う日も来ないのだろう。もしかすると、それは寂しいことなのかもしれないと、彼女は焼け爛れた自分の心の片隅で思った。
ふと、カイメンがレースラインから視線を外して、その瞳を夜の中に燃える赤へと向けた。それから彼は火の粉が爆ぜるのと同じくらい小さな、しかしレースラインには届く音色をもった声で、彼女の前へと言葉を零す。
「……化け物と戦うのは化け物でなくてはならないと、あなたはそう仰いました。私に言わせればよくもまあ、あなたのような人が、自分のことを化け物などと呼べたものです」
「だってそれは、ほんとうのことだろう。私はもうずっと前から、魔獣が流す血の水晶に狂っている化け物なんだよ」
「まだ、お気付きになられないのですか?」
「何?」
「私の目を見てください、ゼーローゼ隊長」
言って、カイメンは視線を暖炉からレースラインへと戻すと、その未だ幼さの残る丸い瞳で、しっかりと彼女の瞳を見た。レースラインはカイメンの言葉につられるようにして、自身の視線を彼の茶色へと持っていく。
「分かりますか? あなたが今、どんな表情をしているか」
「……分かるわけ、ないだろう……」
そう返しながらもレースラインは、カイメンの透き通った瞳に映る、その情けない自分の姿を見ていた。
暖炉で燃える炎は、カイメンの横顔だけでなく、彼の瞳の中にいる自分の横顔のこともまた、同じように照らしている。それを自覚すると同時に、照らされている片側に火の熱さを感じて、レースラインはそれを振り払うかのように、椅子の袖に叩き付けたままのカップを口に運び、その中身の冷え切ったココアを飲み下した。
しかし彼女は口に含んだココアのその冷たさに驚いて、思わず嫌悪をその表情に浮かべる。
「不味い、な……」
「……あなたは悲しいのですよ、隊長」
少しばかり寂しげにそう呟いたカイメンに、レースラインは眉間に軽く指を当てながら、どこか疲れて苛立ったような視線を彼へと飛ばす。それでもカイメンは怯むことなく、背筋を伸ばしたまま、彼女のその視線を真っ向から受け止めた。
「あなたは、人が死ぬのが悲しいのです。人が死ぬのが怖くて悲しくて、そしてきっと悔しいのです、ゼーローゼ隊長」
「……レンと呼べと言わなかったか」
「嫌です」
「即答か、すごいな……私は一応、これでもおまえの上司なのだけれどね、カイメン」
「だからこそ、ですよ」
カイメンはかぶりを振ると、少しだけ呆れたような、それでいて怒っているかのような顔でレースラインの方を見た。彼は言葉を探すように、自身の短く切り揃えられた黒髪を軽く掻くと、少しだけ困った風に息を吐く。
「自分はあなたのことを隊長——ゼーローゼ隊長と呼びます。それと同じように、あなたのことをレースラインと呼ぶ者もいるでしょうし、まあ……その、ゼロと呼ぶ人間も、また、レンと呼ぶ者もいるでしょう。でも……けれど、結局のところそれは、どれも意味は同じものです。どれもが違わず、あなたのことを呼ぶ言葉に他ならない」
「うん、なら、レンと呼んでくれてもいいんじゃない?」
「いえ、あの……違うの、ですよ」
カイメンは歯切れ悪くそう言うと、少しだけ唸って、しかしその視線はレースラインから外すことはしなかった。
「他の者があなたのことを呼ぶ〝レン〟と、そう呼べと言うあなたの口から聞く〝レン〟は、別の言葉に聴こえる。あなたに指図されて口にする〝レン〟は、なんだか……まるで他の人の名前を呼んでいるみたいで、少し気持ちが悪いのです、ゼーローゼ隊長」
カイメンの言葉に、レースラインの水色の目が見開かれ、その横でまた一つ、火の粉が赤く爆ぜていた。それから流れる短い沈黙。
「……そう」
「隊長?」
「……そう……。すごいね、おまえは……」
どこか諦めたように微笑んで、レースラインはそう呟く。そういえば、これと同じようなことを、失せ物探しの召喚師に言われたような気もする。あの少年もまた、カイメンと同じくらいの年だったろうか。
——ああ、一体なんなのだろう。
どうしてこう、どいつもこいつも眩しいのか。あまりにまばゆくて、見ていることすらままならない。ただの子どもが、ただの子どもたちが、いいや——ただの子どもたちだからこそ、燃える赤よりもまばゆい痛みをこんな処まで連れてくるのだろうか。焼け爛れてしまった自分の、心臓の奥にまで。
「すごい、な……」
怪訝な顔をしてこちらを見ているカイメンに、しかしレースラインは参ったように小さく溜め息を吐いて、その全体重を椅子の背もたれに預けた。
「シバルリード——〝騎士道〟の名は、おまえのような人間にこそ相応しいのだろうね。先生などにではなく」
「ま、まさか……トゥールムさまは、素晴らしいお方ですよ」
「それは知っているさ。あの方は少々、性格がよろしくないけれどね」
そう言って渇いた笑いを零せば、カイメンは元々正されていたその姿勢を更に正して、何か緊張をほぐすかのように大きく息を吸い、それから吐いた。
「……この程度のことで、隊長が自分のことを嘘吐きだと仰るなら——白状しましょう、自分は大嘘吐きの大罪人です」
「は? 何、どうしたの、急に……」
「自分はあなたに憧れて騎士になったと、そう言いましたね。もちろん嘘ではありません。ですがそれは、騎士となったいちばんはじめの理由としては、嘘も嘘。大法螺もいいところなのです」
どこかやけになったように、そうまくし立てはじめたカイメンに多少面食らいながら、レースラインはその瞳を瞬かせた。カイメンの瞳が焦ったように微かに震える。その耳が赤く染まっていたのは、果たして暖炉の火のせいだったろうか。
「わ——私、私は! 私は、自分を救った命の恩人に近付きたくて、騎士となったのです! 私はどうしても、もう一度あなたに会いたかった! あなたに会って、ちゃんと、目を見てお礼を言いたかったんだ! それだけです! こんな、ただの我が儘——私欲のためだけに、私は騎士となりました!」
「は、はあっ?」
「あなたは、私があなたに夢を見すぎているとそう言いましたが、その言葉、そのまま隊長にお返し致します! 私だって、嘘くらい吐く! きっとあなたよりたくさん、毎日嘘を吐いてる! だって、そうしないと、誰かを傷付けてしまうことだって、生きていけないときだってあるじゃないか!」
そう言い切ると同時に、カイメンはしぼむようにその身体を椅子の中に縮み込ませた。
「……まだ、ありますよ……」
それから、ほとんどレースラインから逸らすことのなかったその視線を彼女から外すと、暖炉の火に暖められる空気を見やるようにして、カイメンはレースラインに届くか届かないかくらいの声量で、彼女へと問いを投げかける。
「……騎士の中には、隊長のように女であることを隠さないで、ありのままに振る舞う人も、少数ですが……それなりにいます。そんな中で、私があえて男のなりをしている理由を——あなたは、ご存知ですか」
「その方が強く在れるからだと、おまえは前に言っていなかったかな。それに、男装をしている方が何かと便利だとも」
「そうです、それもあります。確かに私は、〝ステラーニャ・カイメン〟でいるよりは〝スタラーニイ・カイメン〟でいた方が強く在れる。だけど、それだけでは……それだけではなくて……私が、男のなりをしているのは……」
途切れとぎれに言葉を発して、カイメンはレースラインの方を振り向いた。
短い黒髪が揺れ、橙色の縁取りに煌めく。
そうしてレースラインの方を見て微笑んだ、まだ幼い芽生えの騎士は、しかしほんの少しだけ泣き出しそうな表情をしていた。
「——私は、男になりたいのです」
「……カイメン」
「ごめんなさい、申し訳ありません、隊長……やはり言うべきではなかったかもしれない……」
そう言ってかぶりを振ったカイメンに、レースラインはふっと微笑みかけると、彼の頭に片手を置いては軽く叩いた。
「なんの問題もないんじゃないかな。だっておまえ、そこらの男よりはもう大分——格好良いよ、かなりね。まあ、ちょっと、愛は重いかもしれないけれど」
カイメンはすべてを吐露してしまったことにより、その瞳の色を少しだけ沈ませる。しかし彼は紡がれたレースラインの言葉に引っ張り上げられるようにして、それからすぐに彼らしい真っ直ぐな光を取り戻した。
「……ステラーニャの名前も、スタラーニイの名前も、カイメンという家名も、私にとってはすべて大事な名前なのです。どれかは選べない。どれもたいせつだから。どれもたいせつな、私の名だから。どの名で呼ばれても私は嬉しいし、どの名で呼ばれても、私は私だ。だってどの名も、私のことを呼んでいるのだから」
言いながら、カイメンはレースラインの目を見つめた。それはただ、真っ直ぐに。
「……レースラインも、ゼーローゼも、レンも、ゼロも、隊長という言葉すら、あなた自身に呼びかけるものならば、それはもう、あなたの名前なのです」
カイメンはレースラインの瞳を見つめたまま、息を洩らすように優しく微笑んだ。
「すべてあなたのものですよ。他の誰のものでもない、あなただけの。——すべて、あなたの名前です」
そうして柔らかな表情を浮かべる彼の横顔が火の色に照らされて、それはまるで、夜明けを抱く朝の太陽に、彼のその温かな頬が照らされているかのようだった。
「……カイメン」
「隊長、そのココアはもう冷めてしまったでしょう。淹れ直してきます。それを飲んだらお休みに——」
穏やかな声でそう声をかけるカイメンに、レースラインは力なく彼の肩に自身の額を預けた。
白い髪が宙に緩く舞い、片方の肩に重みが乗ったのを自覚した少年は、あまりにも驚きすぎてその動きをぴたりと止める。
しかし自身の肩でレースラインが呼吸をしていることを感じると、彼はすぐに我に返って彼女の肩に触れようとし、そして再び動きを止めた。
——相手は自分の憧れであり、命の恩人であり、夢である。
気安く触れられるはずもない、と少年は微かに上げた手を引っ込めた。或いは少年は、触ったところから彼女が壊れていってしまいそうだと、そう思ってその手を引いたのかもしれなかった。
カイメンは、もしやレースラインが泣いているのではないか、と少しだけ不安になって、覗き込むようにその首を動かしながら、未だ額を肩に預けている彼女へと小さく声をかける。
「た——隊長……?」
「カイメン」
「はっ、はい」
「……死ぬな」
「えっ?」
ふと発されたその声は、しかし命令でも懇願でもない色をしていた。
その声は、静かなしかし凛とした、どこまでもレースライン・ゼーローゼらしい、いつも通りの声だった。
「死ぬな、カイメン」
けれども、それは小さな声だった。ほんとうに、小さな声だったのだ。それは火が弾ける音よりも小さく、ただ、カイメンの耳にのみ届くほどの、小さな声だった。
しばらくそのまま呼吸を続けて、カイメンはやっと、レースラインの言葉が自分の心臓の奥まで落ちてきたのを感じていた。彼は彼女の顔の横で小さく頷くと、微かに笑んで、椅子に座ったままで騎士の礼をする。
「——は。隊長こそ」
「嘘は許さないからな」
「は。私はもう、あなたにすべてを話しましたので」
カイメンは、騎士の礼をレースラインに捧げたまま、決意を抱くようにその両目を閉じ、それから開いた。
「——これからは真を貫きましょう。己の真を貫く——それこそがきっと、騎士で在るということですから」
それからカイメンが淹れ直したココアに、レースラインはふと、ほんの少しだけ味がする、とそう思った。
そう——
それは、ほんの少し、ほんの少しだけ、甘かった。
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