源
振り返った目に、樹海は映らなかった。
それと同じように、樹海手前に位置する町の姿も最早遠く、アインベルの目に映ることはなかった。それはもちろん、彼の隣に葦毛を伴って立ち、振り返ったアインベルと同じ方を向いているレースラインの目にも同様だった。
彼女の葦毛は朝陽の柔らかな光を受けて、今はその毛並みを黄金の色に輝かせている。
「——此処でだいじょうぶかな、アインベルくん」
ふと、アインベルの向いている方角を眺めやっていたレースラインが、その視線を少年の顔の方へと向けた。アインベルは、その凛と鳴る鈴のような声にはっとして、レースラインの方を見て頷く。
「あ……はい、もちろん……。それより、レンさんの方はだいじょうぶなの?」
「問題ないよ、私の隊の駐屯地はこの町だしね。ま、これから出発にはなるんだけれど」
「え——これから? じ、時間は平気?」
「まあ、ぎりぎり。でも……此処できみとのんびりお喋りしていたら、それはそれで遅刻してしまうかな」
冗談めかしてそう笑うレースラインの顔には、夜明け、森で見せたあの寂しげな色は浮かんでいなかった。
森を出てからと言うもの、彼女はまるきり何もなかったかのように、或いは自分が語ったことなど忘れたかのように振る舞い、冗談を言い、笑っている。それはまるで、朝の光が彼女の痛みまで白く飛ばしてしまっているかのようだった。
「レンさん……」
そこから続く言葉も見付からず、アインベルは曖昧な笑みを、陽光に照らされるその顔に浮かべた。
——出発。
レースラインは、魔獣と戦い、民を護る騎士〝世回り〟である。
今回の巡回は、これといって命じられている討伐の仕事はないと彼女は言っていたが、しかし世回りの騎士は、野生の——魔獣遣いが従わせている以外の——魔獣に出会えば、すぐさまその魔獣を斬り捨てざるを得ない。それがたとえ、こちらに敵意のない魔獣だとしても。人だとしても。相手が魔獣ならば、殺さねばならない。そう——それがたとえ、自分の仲間だったとしても。
それが世回りの務めであり、さだめだった。
けれどもそれは世回りという職業のさだめであり、レースラインという人間のさだめには繋がらないのではないか。
森で語っていたレースラインの話を思い返せば、彼女は今までの生をすべて魔獣を殺すことだけに捧げてきたように、アインベルには聞こえた。それが正しいことなのか、それとも間違っていることなのか、それはアインベルには分からない。そしてそれを決める権利も、おそらく自分にはない、と少年は思う。
今の自分の有り様を、自分は自分自身で選び取った、そう彼女は言った。
けれども、軍刀の白刃を見つめて己を語るレースラインの瞳は、反射する刃の光をうわべの水面に映しはしてこそ、その内側は光を宿さず、どこまでも虚ろに見えた。
ふと、レースラインの勿忘草色と目が合った。
——古来、人の魂というものは、二つの〝イシ〟から成ると云われている、とレースラインが語る過去の中で、彼女の祖父はそう言った。
その魂を形づくるイシの存在を感じる欠片のようなものたちを、アインベルはこれまで失せ物探しとして生きてきた中で、何度も垣間見てきた。けれども今、たった今、アインベルはそのイシの姿を、初めてしっかりと自分自身の目に焼き付けられたように感じたのだった。
——それは、青い薔薇だった。
そして、その青い薔薇を守るようにして細い茎に巻き付く、黒尖晶石の茨。
黒尖晶石は、地面を這うようにして燃え上がっている白い炎から薔薇を守るため、その棘のある身体を青い薔薇へときつく巻き付けているが、けれども自身の持つその鋭さのために、むしろ薔薇を傷付けてしまっているようだった。
黒尖晶石の茨は、しかしそれを自覚しているのかもしれない。自覚していて、それでも薔薇を離すことができないのかもしれない。離せば、離したところから、薔薇は地を這う白い炎に灼かれることだろう。それが分かっているから、自分の棘が薔薇を傷付けると分かっていても、それでもその身体を離すことができないのかもしれない。
それはなんだか、どうすればいいか分からず、腕に爪を立てては自分を抱き締めてうずくまる、そんな人の姿に似ているように思えた。
——ああ、そうか、〝呪い〟とは……
「アインベルくん」
少年の心が何かを見付けかけたところで、アインベルの耳にレースラインのよく通る声が響いた。
「どうかした? ぼうっとしてるみたいだけれど……もしかして、どこか体調が悪い? 思えば、きみのような子が、あんな処で夜を明かすのに慣れているわけがないか……頭が痛いだとか、気持ちが悪いだとか、そういうのはない?」
「あっ……、だ——だいじょうぶです。ごめんなさい、ほんとに今、ぼうっとしてただけだから」
「ん? なんだ、そうか。つまり……私に見惚れていたってわけだね」
「え!? い、いや、あの、違——」
「……そう必死に否定されるのも、それはそれで傷付くな」
顔をかっと赤くして、慌てて両手を顔の前でぶんぶん振っているアインベルを見て、レースラインは片方の眉だけをついと上げてどこか可笑しそうに微笑んだ。
「ま、冗談もこれくらいにしておかないと、そろそろほんとうに遅刻してしまいそうだ。そうすると遅刻の免罪符として、きみのことを報告させてもらわなくてはいけなくなるし……きみもそれは嫌だろう、アインベルくん?」
「嫌……? なんで?」
「迷子の失せ物探しを拾っていた——って、そんな名誉ある報告をしてもいいの?」
「……遅刻、しないようにお願いします、レンさん……」
「うん、素直なのはよろしいね」
彼女はそう言って笑うと、隣の葦毛の手綱を引き寄せて、それじゃあとだけ言い、くるりとアインベルに背を向けて町の中へと向けて歩き出した。
不死鳥の翼のような赤いマントの上で、彼女の浮き立つような白が揺れている。
アインベルは、遠ざかっていくレースラインへと向けて思わず一歩を踏み出し、彼女へと呼びかけた。
「レンさん!」
少年の腰で鈴が鳴り、レースラインは自分の呼ぶ声がした方を振り返った。呼びかけたところでアインベルは、しかしその続きを考えていなかったことに思い至り、けれども自分が何をしたいのかは、自分自身の心が知っていたようだった。
少年はその心のままに、朝の光よりも優しい笑みをその顔に浮かべ、包むように暖かい光を自身の柔らかな緑の瞳に宿すと、片手を高く上げる。そうしてアインベルは、その手をレースラインへと向けて、子どもらしくも大きく振った。
「——また!」
その声は、朝を迎えた町の入りを、揺り起こすかのように響いた。そんな少年の言葉にレースラインは何も言わず、アインベルへ向けて軽く片手を上げただけで去っていく。
何処かで、今日のはじまりを告げる鐘の音が、アインベルが発した声よりも遥かに大きな声で、微睡む町を叩き起こしはじめた。
✴
先ほどまで、町中に朝の訪れを大音声で告げていた鐘付きの時計塔は、しばらく経つとその鳴りを潜めて、今は静かに町の中心に佇んでいる。
少年は、自分が樹海を前にして気を失ったことを、一人になってふと思い出した。
ほんとうに、一体自分は何をしているのだろう。そんな風に、半ば呆れのような、或いは嘲りのような笑いを浮かべた自分が、心の中で首をもたげていることをアインベルは感じ、少年の喉の辺りはうっすらと冷たくなった。
広くもないが狭くもない町を、ただ当てもなく彷徨い歩きながら辿り着いた広場の中心に立つ時計塔を、少し離れた場所からアインベルは時間を確認するわけではないが見上げ、それから困ったように、しかし声もなく笑った。
(ほんと、何やってるんだろう、僕……)
普段自分が滞在して、失せ物探しの仕事をしている工房都市〈スクイラル〉を離れてから、七曜が二周する程度の時間は経っている。
けれども、〈スクイラル〉を離れることも、樹海へ向かうことも、一切誰にも告げずに出てきてしまったのだ。普段ならそんなことはしない。普段ならば、いつも自分が泊まっている宿屋に書き付けを残すか、女将に伝言を託すか、最低でもそのくらいの用意はする。
そも、樹海へ向かうなどと誰に言えようものだろうか。自分が海で生まれ、海で育った〝白の民〟だということは、〝あの日〟以降自分を育ててくれた、孤児院の家族たちしか知らないというのに。
渇いた笑いが自分の心から去っていくと共に、その姿を現しはじめるのは、何故、という問い。
何故、自分は樹海へ向かおうなどと思ったのか。樹海を越えて、一体どうするつもりだったのか。あの森の海を越えた先に在るのは、赤茶けた砂の浜と、何処までも果てしもなく続いていくように見える塩の大地——〈白き海〉。
そして、自分が迷うこともなく向かっていたのは、北でも南でも西でもなく、自分の生まれた故郷の在る、東の海だった。
それは、四つの海の内、〝渦潮〟の起こる、ただひとつの海である。
アインベルは、町の中心にそびえている時計塔の元へ向かって歩いていたその足をつと止めると、再びその古い石造りの時計塔を見上げた。
(僕は……)
遠くからでも時間を確認できるよう、大きく幅の取られた文字盤は、今まさに、長針を硬い音を立てて動かし、時を刻んでいる。進みゆく時間の中でアインベルはその足を止め、唇の内側を無意識に噛みながら、時計塔の文字盤からふっと顔を逸らした。
(……僕は、何処に帰りたいんだろう)
そうして逸らした視線の先に、アインベルは見覚えのある——と言うよりは、つい最近目にしたばかりの色を見付けて、伏せがちだったその睫毛をはっと上げた。
そうして時計塔の近くに在る、四角く石を切り取ったような長腰掛けに、どこか途方に暮れたように座る青年をアインベルは目に映して、彼は急速に自分の生業を思い出す。
アインベルは朝の光の中を小走りで駆け、冬の寒空のような色をした淡い水色の髪を、微か金に輝かせながら、見覚えのある色をした青年の座る腰掛けへと向かっていった。
青年の座るその場所では、朝の光と時計塔の影が、ちょうど半々に彼へと手を差し伸べている。
「——キトさん、何か失くしもの?」
「えっ——」
背後からひょっこりと顔を出してそう問いかけたアインベルに、青年——キトは、その孔雀緑の髪を微かな驚きに揺らして、声のした方へと目線をやった。
「アインベル……」
「うん。えっと……どうしたの、キトさん」
「あ……いや、なんでもない、だいじょうぶだ」
そう言って静かに首を振ったキトの唇が小さく、よかった、と言葉を紡いでいたような気がして、アインベルは疑問に小首を傾げた。
キトが長腰掛けの上で少し身体をずらしたのを見て取ったアインベルは、自分のために空けられた場所に礼を言いながら腰を下ろし、それからキトの方を見ながら問いかける。
「メグさんは? 一緒じゃないの?」
「ああ、あいつはちょっとな——まあ、すぐに戻るよ」
「そっか。……でも、キトさん、何か困ってたんじゃ? 僕にできることがあるなら、手伝うけど……」
「いや……それなら、ほんとうにだいじょうぶだ」
言いながら、キトはその褪せた黄金色の瞳をほんの微かに細めた。
「探していたものなら——たった今、見付かったから」
「え……?」
今? と、おうむ返しをしたアインベルの声から被さるようにして、明るく響き渡る声が、背後から一つ。
「あ! アインベルく——ん!」
その呼びかけに、キトもアインベルもはっとしてその声がした方向を見やれば、またもや、少年にとってつい最近覚えたばかりの色が、今度は二人の瞳に映った。
片手を大きく振りながらこちらへと駆けてくるその柘榴色に、隣の青年は、ふっと微かに笑みのような吐息を零したようである。 アインベルは近付いてきたメグに手を振り返すと、自分の座っている石造りの腰掛けの上で、彼女が座れるように半身をずらした。
それと同時にキトもまた半身をずらし、メグは二人の様子をいいことに半ば飛び込むようにして長腰掛けへと座り、それから嬉しそうに笑い声を上げた。
「ああ、よかったよかった! アインベルくん、ちゃんとこの町にいたんじゃない! もう、夜明け前から探し回っちゃったわよ、あたしたち!」
「えっ? それは……なんで? 僕に何か用事でも……?」
「いや、ちょっと心配になっちゃって。ほら、アインベルくん、さっさと塔を飛び出していっちゃったでしょ? でも、日暮れ前だったし……」
メグが一瞬言葉を切り、少しだけ息を吸った。
「……あの、あたしたち、アインベルくんにあれこれ訊いて、言って……きっと傷付けちゃったって思うから……それで、あれから急いで追いかけたんだけど……街道にはきみの姿が見当たらないし、もう、けっこう参っちゃって……」
主にこっちが重症だった、と、メグはちらりとキトの方へと視線を向けながら笑った。
「……軽率だったと思ってる。役人としても、まもりびととしても……すまなかった」
「あたしも……ごめんね、アインベルくん」
立ち上がり、そう言って頭を下げた二人に、アインベルはわっと声を上げ、慌てて自分も立ち上がっては二人の顔を覗き込むような体勢で、両手を自身の顔の前に突き出した。
「顔、上げてよ……! 僕はだいじょうぶですから! ほ、ほら、どこからどう見ても、だいじょうぶだろ? あのときは頭の中がごちゃごちゃになって、ちょっと気が動転しちゃっただけっていうか……とにかく、えっと、あの……」
驚いて頭の中がひっくり返り、こういうとき何を言うべきなのか全く見定められなくなってしまったアインベルは、気が付いたときには、頭よりも先に自分の心が口を突いて飛び出してしまっていた。
「——僕は、また二人に会えて嬉しいな……」
アインベルの言葉に、キトとメグは下げていた頭をつっと上げると、二人は声もなく顔を見合わせて、メグの方などは分かり易くその表情を緩めた。
「ほんと、アインベルくんってかわいいわぁ……」
「えっ?」
「お姉さん的には、キトくんにもアインベルくんを見習ってほしいんですけどねえ」
「……しつこいぞ、メラグラーナ」
「ねっ、こういうところよ……」
笑いながら呆れたように肩をすくめたメグは、ふうと息を吐いて長腰掛けに再び座り、それから二人も座るように促した。太陽が高みへ昇ると共に、時計塔から落ちる影はその歩を進め、今や三人が座る石の腰掛けは、そのまるまるすべてが陽の光に包まれている。
「……正直」
「ん?」
「正直、また樹海へ向かったんじゃないかと、そう思っていた。お前が今日、昼までに見付からなかったら、そっちを当たろうとも俺たちは考えていたんだ」
腰を下ろすと同時に、ぽつりとそう呟いたキトへ、アインベルが虚を突かれたように視線を向けた。
「そんなこと——」
「でも、お前は樹海の手前で倒れていた。ということは、樹海の先に、何か目的があったんだろう? だから、そっちへ向かってもおかしくないと……けどまあ結局、この町へ向かうと言った、お前のその言葉を信じて正解だったみたいだったな……よかったよ」
そう言って静かに息を吐いたキトを見て、アインベルは片方の手のひらをぎゅっと握り締める。
「……僕、分からないんだ」
「分からない?」
「何をしに樹海へ向かったのか、分からないんだ」
掻き消えてしまいそうな声でそう呟いたアインベルを挟んで、キトとメグが音も立てずに目を見合わせていた。そうして二呼吸の間流れていた沈黙を破ったのは、キトの発する凪にも似た静かな声。
「お前は……ふるさとに、帰ろうとしていたんじゃないか」
「……そうかな……。キトさんは、僕がそう思う限り、僕のふるさとは僕のふるさとのままだって言ってくれたけど……でも、やっぱり、もうなんにもないんだよ。あそこには、僕のたいせつなもの、もうなんにも残ってやしないんだ。全部、全部、渦潮が呑み込んで、黄昏が喰って、塩の底に埋もれてしまった……もう、なんにも……」
アインベルは俯いて自分の足元を見つめた。寒空色の前髪が眼前に垂れ、陽の光を受けたそれは内側に青みがかった影をつくり出している。
「——それは違うわよ、アインベルくん」
視線を落とすアインベルの、その顔を覗き込んでにっと笑顔を見せながら、少年の隣に座るメグがそう言い切った。それから彼女はアインベルの背中をぱしぱしと叩き、さも当然のことを言うかのように明るい声で言い放つ。
「だってきみは、埋もれてないじゃない」
「あ——で、でも、そんなの……」
「大事なものが埋もれちゃったなら、また掘り出せばいいのよ。できるでしょ? だってアインベルくん、きみは海生まれの海育ち——正真正銘の塩掘りなんだから。なんにも残ってないなんて、そんなことはないのよ。きみが、きみで在る限りね。そう、それに、さ……」
「——お前は、術師、だろ」
メグの言葉を引き継いで、アインベルの腰に差さった短杖を見やりながら、キトがそう言った。
「……うん、ありがとう」
「まぁまぁ、元気出しなさいって。今日はこんなにお天気もいいんだしさ!」
「いや、どういう理屈なんだよ、メラグラーナ……」
「細かいことはいいじゃないの。っていうか、いちいち細かい男は嫌われるわよ、キトくん?」
「はいはい……」
からかうようにそう言い放ったメグと、どこか疲れたようにかぶりを振るキトとの対比が可笑しくて、アインベルは思わずくすりと笑みを零した。少年のその声を聞いた二人もまた、安堵したような光を両の瞳に宿し、微かに自分たちの目尻を和らげた。
「でも、よく僕が術師だって分かったね。杖を持ってるってだけで、けっこう分かったりするものなんだ?」
「いや、というよりは……術師ってのは、そもそも分かり易い連中だよ。本人たちは気付いていないのかもしれないが……」
「そっか、ローブを着てたり、杖を持っていたり、三つ編みをしてたりする人が多いもんな」
「それもあるけど、何より術師には……なんというか、〝言葉が〟……そうだな……」
言いたいことが上手くかたちにならずに、しかしキトはそれでも訥々と自分の答えを探した。それから彼が少年へと向けて導き出した答えは、こうだった。
「——〝頭のてっぺんから爪先まで、言葉で充ち満ちている〟」
青年がなんとかして紡ぎ出したその答えは、奇しくもこの世に溢れる術の理について、かなり的確に言い表したものだった。
キトの言葉に術師の一人として触発されたアインベルは、先ほどまで抱えていた鬱屈した曇天のような思いを一瞬空の彼方へ吹き飛ばし、上着の隠しから分厚い手記を一冊取り出すと、ものすごい勢いでそれをまだ何も書かれていない白紙の頁まで持っていった。
「キトさんの言う通り、僕ら術師が術を遣うには言葉が要るんだ。僕らは誰でもたった一つだけ、世界に在るものから力を借りることができるだろ? 強くねがったり、感じたりすると、彼らは僕らに力を貸してくれる。
それはね、諸説在るけど——僕が推すのは、〝人は生まれつき、たった一つに呼びかけるための太古の言葉をもっている〟……という説なんだ。その言葉をもつ心を人はたぶん、魂のかたちって呼んだり、意志って呼んだりするんだと、僕は思う」
キトは、アインベルが少々早口気味にまくし立てはじめたその言葉に対し、無表情にだがどこか興味深そうに頷き、しかしメグはというと、眉間の間に若干皺を寄せては微かに呻き声を上げていた。その様子はまるで、嫌いな食べ物が目の前に出てきた子どものようである。
「そもそも僕がそう思うのは、術式に遣うのがいつも前時代の古代語と、それより昔に遣われていたという象形文字——人は紋様とか、模様って呼んだりするあれだね——だからなんだ。
語り継がれているのは、世界から力を借りる〝借りものの力〟が先で、僕らが扱う術が後に生まれたってこと。そして術は、借りものの力を真似たものだ。言葉を学び、言葉を用いて、世界のものへと呼びかける。
そうして——前時代の……術が今よりも遥かに繁栄していた時代では分からないけど——借りものの力よりは劣る、けれども確かに世界のものから差し出された、その小さくも大きい力を借りる……それが僕らの術なんだ、今の僕らの」
言葉が溢れ出して止まらないアインベルに、メグがいよいよ苦虫を噛み潰したような表情になってきていたが、もちろん夢中になっている少年はそれに気付かない。キトの方は、最早いつものことだと断じて、表情が険しくなっていくメグについては無視を決め込んでいた。
「借りものの力が先に生まれ、術はそれからずっと後に生まれた。術は借りものの力を真似たもので、術を遣うには太古の言葉が必要不可欠だ。そして借りものの力はその身一つ、自分の心で、魂で、意志で世界に在るたった一つへと呼びかける力。術に太古の言葉が必要なら、借りものの力にだって太古の言葉がきっと必要なはずだ。だから、僕は思う。人は生まれつき、たった一つに呼びかけるための、太古の言葉をもっている——ってね」
言いながらアインベルは、片手に載せた手記の白紙に、手記と同じく服の隠しから取り出した万年筆で、手慣れたようにくるりと円を一つ、頁の真ん中に描き付けてみせた。
「魔術師は声で術を遣うことが多いけれど、そこから発するのも古代語だよね。そして魔術というのは、その呼吸、動作、それによって動く空気のすべてが言葉となる。その言葉もきっと、太古の言葉だ。少しでも気を乱してはいけない、少しでも踏み外してはいけない。ゆっくりと正確な円を描くようにして、正しく世界へ自分の言葉を届けなければならない、厳しい術。
そして、その魔術の派生として生まれた錬金術や召喚術を扱う術師は、主に言葉を描くことによって術を動かす……」
手記に描いた円の中に、アインベルは無意識で古代語や紋様を描き付け、そうして一つの召喚陣を描いていく。それから、ついに額を押さえはじめたメグの方を振り返って、少年は小さく微笑みながら問うた。
「僕ら術師が、言葉を描いて術を遣うとき、いつも円のかたちを用いる理由を知っている?」
「え? えー……なんだろ……ま、丸いから?」
「おいメグ、流石に答えが投げやりすぎるだろ」
「あっでも……メグさん、それ、正解かもしれない」
「ええっ?」
太陽の光を受けたアインベルの丸い瞳が、きらりと輝く。
彼は片手に持つ万年筆をひっくり返し、その尾栓で今しがた描いた小さな召喚陣を示すと、それから内側にも外側にも言葉を抱いた円をくるりとなぞった。
「〝のべつの竜〟は知ってる?」
「あ、それなら分かるわ。ウロヴォロスのことだよね、自分で自分の尻尾を噛んでる……」
「のべつの竜、ウロヴォロス——この世でいちばん最初に生まれた命だと、そう云われているな」
「そういえば竜って、私たち人間の他に、唯一言葉を発する生き物だったとも云われてるよね。あ、もしかしてそれ、関係ある?」
アインベルは頷くと、ひっくり返していた万年筆をまたひっくり返し、召喚陣を描いたその下に更に円を描いたかと思えば、そこに肉の厚みと小さな翼、そして頭を付け足して、芸術的とは言い難いが簡素で分かり易い絵に仕立て上げた。
「たぶん、どんな生き物でも、命あるものならみんな、言葉を発しているよ。でも、僕たちの多くはそれを聴き取ることができない。他の生き物も、きっとそうだ。けれど、竜は違った、のべつの竜は」
アインベルが手記の頁に描いたそれは、自らで自らの尾を喰らう、蛇のような生き物の姿であった。
一般的に絵巻物や綴織で見られる、大きな双翼に金剛石のように強固な鱗をもち、四足でどっしりと猛々しくその生命を謳っている竜の姿とは打って変わって、アインベルが描いた、身を喰らう蛇のような生き物——のべつの竜、ウロヴォロスは、その体躯は斬って捨てられそうなほどに細く、すべての生命の頂点に君臨する竜の、その原始の存在とするには随分と非力そうだった。
「この世のはじまりと共に生まれたのべつの竜は、すべての言葉をその身に宿しているんだ」
言って、アインベルは自らが描いたのべつの竜を万年筆で指し示した。
そう、確かに非力で、他の生命を喰らうことなど、この竜には到底成し得ないように思える。けれども、己で己の尾を喰らうその竜の瞳には、何か、他を圧倒させる力のようなものが宿っているようだった。
「——この世界に息づくものたちに、はじまりの言葉を与えたのは、のべつの竜だと云われている。
太陽には太陽の、月に月の、植物には植物の、石には石の、はじまりの言葉がある。だけど、竜が滅んだ後に生まれた僕たちには、僕たちだけのはじまりの言葉がない。だからその代わりとして、世界に息づくものたちがもつ、どれか一つの、太古の——はじまりの言葉をもって生まれる。
それが世界に息づくものたちと僕たちを繋ぎ、そうして僕たちは、もって生まれたその言葉を魂と呼び、意志と呼んで、自分の心で彼らへとはじまりの言葉で呼びかける。それが僕たちの、借りものの力……」
言って、まあ、僕の勝手な考えなんだけどね、と二人に向けて笑いかけるアインベルを見ながら、しかしキトもメグも驚いたようにその表情を硬直させていた。
アインベルが怪訝に思って試しにメグの前で片手を振ってみると、メグははっとしたように目を瞬かせ、それから疲れたように長い溜め息を吐く。
「……あたし、アインベルくんはこっち側の子だと思ってたのに……そっかあ、そっち側の人間だったのね……」
「こ、こっち? そっち?」
「そっち側って言うのは——小難しいことを言って、あたしの頭を痛くする側の人間ってこと!」
「……まあ、メグは置いといて……まだ話、終わってないだろ、アインベル? それで、そのはじまりの言葉っていうのは一体どういう言葉なんだ? 今までのお前の様子だと、何かしら予想は立ててるんだろ?」
「ええ……まだ続けるの、あんたたち……?」
身体をぐらぐらと揺らしているメグをよそに、キトは気持ち前のめりでアインベルにそう問いかけた。アインベルは頷くと、けれども確信はなさげに、口元に万年筆の尾栓を当てながら、そうして彼なりの答えを発する。
「たぶん——〝名前〟、だと……僕は思うんだ」
「名前?」
「僕ら人間が付けて呼んでる名前じゃなくて、竜が生きとし生けるものすべてに付けた、いちばんはじめの名前。それがたぶん、竜が与えたはじまりの言葉……かなって。これにはなんの根拠もないんだけど……僕がのべつの竜だったら、そうするなって思っただけで」
アインベルがそう言ったところで、力なくうなだれていたメグがふと顔を上げ、先ほどまでの疲れた様子はなんだったのだろう唐突に二人の間に割って入った。
「あれ? でもアインベルくん、結局……そのウロヴォロスと術式の円には、一体なんの関係があるの?」
「あ……そっか、そうだな、ごめん。なんていうか、夢中になると話が長くなっちゃって……」
「ああ、キトが言ってたあれね。術師は〝頭のてっぺんから爪先まで、言葉で充ち満ちている〟!」
「術師としては、僕なんてまだまだひよっこだけどね……勉強はしてるけど、独学だし」
困ったように頬を掻きながら笑って、アインベルは再び手記に描いたのべつの竜の絵を指し示す。それから自分の中で言葉を整理するかのように、深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。
「何度も言うようだけど、術というのは借りものの力を真似たものだ。僕の説を採用すると、術とは、竜が与えたはじめの名前をもたない者でも、はじめの名前をもつ者と同じように、そのものから力を借りられるように創られたもの。
たとえば太陽の名前をもち、太陽の力を借りる者が、しかし月の力も借りられるように。火の力を借る者が、同じようにして水の力を借りられるように——そうして世界に在るものの力を借りて、魔術師はものに光を灯し、錬金術師はものの姿を変え、召喚師はものを此処まで喚び出す……」
緩やかに息を吸ってから、アインベルは自分の頭の中で、様々な言葉が声となり、しかし声が耳に届くよりも速く回転しているのを感じていた。まるで全速力で走ったときのように、少年の頬は熱をもっていた。
「それでもやっぱり、どうしたって僕らは竜の与えた言葉を、単語としてはともかく、それが一体なんの名前を表す言葉なのかを知ることはできないから、それに匹敵するだけの太古の言葉、言葉、言葉を集めて名前の代わりに、限りなく名前に近い——その存在を表す言葉で、力を借りたいものへと呼びかける。
……でも、言葉をただ並べるだけじゃだめだ。僕たちの言葉と、彼らを繋ぐ存在が要る。だから、言葉を円で囲い、その円を更に言葉で包むんだ」
「……どういうこと? なんで円なの?」
「——のべつの竜、ウロヴォロスだよ」
言うと、アインベルは何度目か、手記に描いたのべつの竜を万年筆でくるりとなぞってみせた。
「この円はね、のべつの竜を表しているんだ。のべつの竜はすべての言葉をもっている。だから、僕らの言葉を彼らに届けてもらうんだ。この太古の竜に、僕らと彼らを繋ぐ輪になってもらってね」
「え……じゃあ、ウロヴォロスって実在して、生きてたりするの?」
「うーん? それは、どうだろう……竜は、人が生まれる前に降る星によって滅びたって云うけど、のべつの竜って地中に棲んでるとも云われてるしな……でも、こうやって現に世界のものへと言葉が届いて力が借りられるんだし、もしかしたら生きてるかもしれないね」
「わ、それってなんだか浪漫ねえ。もしかして、深くまで穴掘ったら会えたりするかな?」
「いや、それはないと思う」
メグの極端な意見に、キトとアインベルが二人して同時にそう言い放った。そんな二人にメグは一瞬むっとした顔をしてから、しかしすぐにその表情を和らげてころころと笑うと、ぱんとその両手を叩いて頷いた。
「ああもう——さぁて! 小難しい話はおしまいにしましょ! そろそろ、あたしにも分かり易い話をしてってば。ええっと……あ、じゃあこれ、この術式は一体どういう魔術……錬金術? 召喚術? なの?」
「あ、これ、召喚陣だよ。僕の家で、タペストリーになって伝わってた——」
メグが指し示したのは、のべつの竜を描く前に無意識で描き付けた、アインベルの——ゼィンの家系で、綴織に織り込まれた状態で受け継がれ、あの日までは守られていた召喚陣だった。
ただ、それも定かではない。父が、〝いにしえの召喚師の忘れもの〟と言っていた杖の近くに、この図柄が描かれた綴織が掛かっていたから、てっきりアインベルはそこに織られたこの図柄が召喚陣だと思っていたが、今思えば、しかし真実は違うのかもしれない。そして、その真実を知っているだろう父は、今頃……
正円の中に、細長い楕円形。正円の内側にも、外側にも言葉は溢れんばかりに描かれている。円の内側には、その円に沿うようにきちんと一周して、文字が整列していた。
しかしその円の外側に関しては、内側と等しく一定の間隔を保っては並んでいた文字たちが、しかし頂点——最初の文字と最後の文字を結ぶ部分で、その間隔を不恰好に広げている。
楕円の中には無数のひし形をした象形文字。引いて見れば、それはおびただしい数の星を宿す瞳のようでもあった。
しかし、思い返して見ればこの図柄も久々に描いたものである。
言葉が一つ欠けているのだろうこの召喚陣——だと思われる図柄——が、一体どういったものを喚び出すためのものなのか、その答えをメグに差し出すことはできないが、それでも少年は何故か、根拠もなく、欠けている言葉が一体なんなのかをもう少しで見付けられるような気がしていた。
アインベルはふと、違和感を覚えて小首を傾げ、微かに俯いた。
「どうした、アインベル」
「うん、いや……」
確かに、この召喚陣にしか見えない図柄を、少年はかなり久しぶりに——それも数年振りといった具合である——描いたのだ。
けれども、久々に見たという感覚が全くない。むしろ、つい最近見たばかりなような気がする。それは、かつての記憶の中ではなく、あの日の悪夢の中でもない。
もっと、ちゃんと、そこに在って、手で触れられるという距離で、自分はこの言葉を——……
ふと、アインベルは、はっとしたようにその顔を上げた。
「——リト……?」
そう呟く少年の瞳は、驚愕に大きく見開かれていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?