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コーデリア

 目次

 空が高く、澄んでいる。
 色いぶきの月。木々の葉、辺りの緑などは色も形もその力を増し、吹く風に乗る命のにおいも、けもの歌の月のそれよりも大分濃くなったように感じる。陽も風も未だ穏やかに差しては柔らかに吹くが、彼らは時折、自身のもつ激しさを思い出したかのようにまばゆく、熱く、こちらの身を焦がし煽り遊んでいた。
 春が終わる。夏が来る。
 少し離れたところから子どもたちの笑い声が聞こえる。外で跳ね回って遊ぶには、なんてぴったりな日和だろう。その内、ラフ辺りが追いかけっこにでも誘いに来るだろうか。自分もそろそろ休憩を取るべきかもしれない。コージィに言われた畑の草むしりは大体片が付いた。
 ここ一週間でぐんぐんと成長を続ける野菜たちの隣で、ふかふかとした土からこっそり養分を拝借している小さな緑色を引っこ抜く。そうして立ち上がると、しゃがんでいたときよりも空がちょっとだけ近くなった。
 此処で初めて鍬を持った日よりも、空は自分に近付いたような気がする。此処に来て、どれくらい経ったのだったか。どれくらい、そう、どれくらい……
 かぶりを振る。そういえば、喉がからからだ。腰に下げた革の水袋から、少しぬるくなったそれを喉に流し込む。けもの歌の月での失敗を反省して、あれから外を出歩くときは水袋を持ち歩くようにしていた。それに、持ち歩かないとコージィの雷が頭のてっぺんに落ちる。
 風がふわりと吹いて、自分より先の方まで進んでいく。それに微か背中を押された気がして、思わず風が向かう方を見やった。
 瑞々しく色付きはじめた緑の絨毯が続く、緩やかな丘の上。そこには低木と高木が入り交じる、自然の果樹園が在った。少し前、春林檎や野いちごの収穫にラフをはじめとする子どもたちと共に駆り出されたが、一人きりであの場所に踏み入ったことは、そういえばなかったようだ。
 背後に在る一本の木を振り返る。豊かな枝葉と太い幹につくり出された木陰が、流した汗も癒やしてくれそうだった。
 鍬を持ったままそこまで歩を進め、幹にそれを預ける。もうすっかり手に馴染んだ相棒には、しばらくそこで涼んでいてもらおう。
 木に背を向けて、自分は歩き出す。水袋の中身をもう一口だけ含みながら、丘の上を目指した。自分が緑の絨毯を踏み締める音と、風がそこここの植物たちの身体を揺らす音が耳に心地好い。歩を進めるごとに子どもたちの声は遠ざかった。
 こういうことが多くなったな、と自分でも思う。
 時間が空くと、こうしてふらりと足を進めてしまうことだ。記憶もなく得体の知れない自分が転がり込んだことにより忙しなかった周りの環境や、自分の気持ちなどがもうほとんど落ち着いたこの頃は、それこそ子どものように、何処へでも行ってみたい気持ちに駆られて仕方がなかった。
 そして、その欲求に、あまり逆らうことはしなかった。コージィはそれを止めることはなかったし、子どもたちはそんな自分を見かけたなら、喜んで後ろをぴょこぴょこついてきたからだ。
 だから、何処へでも行った。コージィのお祖父さんが遺したというこの高台の土地は広々とした場所だが、それでも、この土地の中で行ったことがない場所は、おそらくもう一つもなかった。
 そう——高台の端に在る自分の腰ほどの岩には、子どもたちが花の絞り汁で描いたと言うらくがきがうっすらと残っていたし、子どもたちの一人であるファインが熱を出したときには、家の裏手から少し距離を空けた場所に在るちょっとした崖を登って、その上に群生するという熱冷ましの薬草を摘んでみたりもしたものだ。それを見上げていたラフには、ヤギみたいだなあ、イソウロウ、と笑われたっけ。
 何処かへ行きたいのだろうか。
 何処へ行きたいのだろうか、自分は?
 柔らかな緑を眺めながら、丘の上を目指す。丘へと向かう細い獣道は、コージィと子どもたちがその足で描き出したものだろう。
 そして、その道の近くにはぽつぽつと低木が連なり、丘の頂上、自然の果樹園に近付くにつれて数を増やしている。それはこの高台のそこここに生え、家の前にも、高台へと足を踏み入れるために上らなければならない長い階段の両脇にも、それを上りきって見えてくる門の近くにも、優しげな緑の葉を蓄えては、しかししたたかに息づいている。
 頂上に辿り着く。丘の上の果樹園では、木々が陰をつくり出して涼しく、またその枝葉の隙間から零れる光の一筋ひとすじが暖かだった。深い緑の葉を湛えている果樹の一本には、この間の収穫のときには他よりもまだ青かった春林檎が赤々く色付いて実り、甘く爽やかな香りを辺りに振りまいていた。
 その中の一つに手を伸ばしてみる。春林檎の木はそこまで大きいものではないが、自分のいちばん近くに実っている林檎でも、伸ばした手は実に指先を掠める程度だった。自分の確かな年齢は分からないが、見たところきっと、たぶん、まだ身長は伸び続けるくらいではあると思う、おそらく。
 元々幹に立て掛けてあった梯子を昇り、目の前で陽を受けてつやつやと輝く林檎をもぎ取ってはそこから飛び降りる。渇きを訴える身体は水袋を探し当てるより先に、手に有る林檎に歯を立てた。
「……何やってるんだよ、イソウロウ」
 呆れたような声に振り返れば、また呆れたような色を瞳に宿したコージィと目が合った。しゃくしゃくと林檎にかじり付き、手首まで伝った甘い蜜を思わず舌で追いながら、まだ言葉を発せないのでコージィに向かってとりあえず頷いてみる。
「や、うんじゃなくてさ」
 コージィが溜め息を吐きかける前に、口の中にあった林檎をすべて飲み込んだ。
「ああ、……ええと、休憩です。畑の草取り、大体終わりましたよ。後で確認しておいてください」
「もう? 随分と仕事が早くなったな」
「先輩がたくさんいますからね」
 言いながら、もう一口林檎をかじる。
「厳しい先生も」
 コージィは、は、と息を洩らして笑い、口も随分達者になったことだ、と自身の口角を上げた。そんなコージィの角のない声色にこちらも思わず小さく笑いながら、彼女が春林檎の木の幹に背を預けたのを見やり、半分ほどに減った林檎を食べるのを再開した。
「低木、蕾がついてますね」
 ふと思い至り、林檎が芯だけになったところでそう呟いた。喉にも舌にも、春林檎の余韻は甘やかに残っている。蜜が滴ってべた付く右手を開いたり閉じたりしながらコージィを見やれば、彼女はこちらの言葉に閉じていた両瞼の片方だけを上げた。
「なんていう花なんです?」
 高台のそこここに生えている低木は、コージィが背を預けている果樹の隣にも在った。
 その低木の前に片膝を突いて見れば、親指ほどの蕾はその身一つひとつで幾つも色をもっているようである。蕾の底から先端に向かって、鮮やかな赤、柔らかな桃、優しい橙、そして、金のような黄へと色が移り変わっていた。不思議な色合い。咲いたらどのようになるのだろう。
 それに半ば見惚れて腰を下ろせば、いつの間にか、コージィが隣で先の自分のように低木へ向かって片膝を突いていた。
「コーデリア」
 その蕾に触れながら、コージィはそう発する。
「大抵は略されて、ディリィって呼ばれてるがな。夏が始まると、一斉に咲いて辺りを染めちまう。この分だと、たぶんもうじき咲くだろう。どうも、今年は夏が早いらしい」
「此処以外にも、咲きますか?」
「此処、以外?……」
 問えば、コージィは一度頷き、その後首を左右に振った。彼女の瞳が一瞬だけこちらを向き、そうしてすぐにコーデリアの蕾へと戻っていく。それからもう一度コージィは頷いた。
「この花はな、この大陸の西側にしか咲かないんだ」
「西?」
「そう。それも西の端っこから、ちょっとだけ手前の土地にしか咲かない」
 コージィの言葉に、彼女たちが住むこの高台が、緑の大陸の〝ほとんど〟最西端に位置していることを思い出す。西。思わず左手を見た。西の、いちばん端より少し手前。そうだ。それではまるで……
「——心臓、みたいだろ?」
 言って、コージィは親指で自身の左側、その心臓をとん、と示した。彼女の親指が示した場所から少し視線を外して低木の蕾を見た後、再びコージィの指先を見つめ、気が付けばふっと言葉が零れ落ちていた。
「コーデリア、ディリィの花。綺麗ですね」
「……咲いてもねえのに、よくもまあ」
「変ですか?」
「あんたはいつも変だよ」
 そうかぶりを振って仕方なさげに笑うコージィに、蕾へ伸ばしかけていた手を止めた。つと動きを止めた自分をおかしく思ったのか、彼女の細められていた瞳が普段の緑に丸くなる。
「なんだよ?」
「いえ……少し」
 少し、なんだろう。何を言おうとしたのか自分でも分からず、指先で蕾に軽く触れた。ひんやりとした感触。蕾の先が光を受け取ってきらきらと輝くようだった。
 ふと、風に揺れるコージィの前髪を見た。穏やかに吹く風に合わせて揺れるそれは、今しがた触れていた蕾のように、柔らかな金の色に輝いている。少しばかり風が力を増した。片膝を突いている彼女のスカートと服の袖が、ふわりと空気を含む。時折ぎらりと鋭くなるコージィの緑の瞳は、今は無防備にコーデリアの蕾を見やっていた。
 風が吹いている。低木の葉と共に、不思議な色合いを帯びた蕾たちも微かに揺れ、コージィの髪や服の裾もまだ柔らかな風に揺らされていた。その音が聴こえる。耳を澄ませなくとも。
 そうか。
 風が吹く。片手に有る林檎の芯をちらと見やる。先ほど食べた林檎の味が、今になって心臓まで落ちてきたようだった。
 そうか。ああ、たぶん、——自分は、そうなのだ。
 立ち上がる。コージィがこちらを見上げるのを感じると共に、今までのどれよりも強く風が吹いた。
 今、コーデリアの蕾に留まろうとした硝子蝶が、突風に驚いてはその輝く透き色を羽ばたかせて飛んでいく。春林檎の木々の枝葉から、淡い水色をした色鳥が数羽旅立っていった。思わずそちらへ視線をやれば、枝葉の間を縫って零れている陽光が、色鳥の尾羽を虹の色に煌めかせている。
 そろりと、隣でコージィが立ち上がる気配がした。目を瞑る。風はもう柔らかなそれへと変わっていた。瞼を閉じてしまえば、心臓の奥をちりちり焦がす小さな雷が目に見えるようだ。瞼をゆっくりと上げ、それを誤魔化すように深く、静かに息を吸った。
「——コージィ」
 名を呼ぶ。彼女からの返事はなく、ただ、こちらを向いていたその深い緑が丸く見開かれるばかりだった。
「此処を発ちます」
 自分の言葉に、風が止むことはなかった。風は、春と夏の間に在る暖かさを宿して緩やかに吹き、こちらの言葉をその身に乗せてはコージィの元まで届け、また何処かへと流れていく。
 彼女は一瞬だけ表情を失ったように見えた。そうして一度瞬きをすると、そっとすり抜けるような微笑みを浮かべる。ああ、もう分かるようになってしまったのに。どこか見憶えのあるその笑み方は、初めて自分に声をかけた、柔らかで薄い帳の下りたそれだ。何か心を演じるとき、片手を後ろに回すのも彼女の癖だった。
「やっとだな。いつだよ?」
 手のひらも汚したことのないような微笑みに、飾り気のないいつも通りの声色がどこかあべこべだ。そんな彼女の姿がなんだか可笑しいようでいて、しかしそれとは別の色をしたものが様々な名前の感情たちと一緒にこみ上げてきていることを自覚し、そのことがやはり可笑しくて、自分は、ああ、ただ、零すように小さく笑うしかなかった。
「この花が——」
 視線を彼女から外して、眼下の低木を見やった。コーデリアの蕾たちは葉の間から差し出される昼間の光を浴びて、黄の先端を金色に輝かせている。コージィの方を見て、少しだけ目を細めた。
「この花が、咲いたら」
 散ったら、と紡ごうとした自分の口が、違う言葉を紡いでいく。言ってしまってから微かな後悔が胸に波紋を広げたが、それを上回る納得が、大きな雫となって同じところへ落ちてきた。
「そうかよ。好きにしろ」
 呆れたように、或いは疲れたように溜め息交じりでそう言ったコージィは、再びコーデリアの低木の前に片膝を突いて、そこで優しげな緑の葉に守られている蕾の一つに触れた。
「今年は夏が早い。すぐ咲くよ」
「たとえば、何日くらいです?」
「あと……七日もあれば」
 言われて、片手に有る林檎の芯を見る。未だ種の残っているそれをくるりと回して、言いようもない思いを振り払うように、コージィへと微笑みかけてみた。
「これ、植えたら芽が出たりしませんか?」
「さあな」
 片膝を突いたまま、こちらを見上げて笑ったコージィは、もういつも通りの彼女だった。
「——誰が育てると思ってるんだよ?」




 緑の絨毯のそこここに、赤、桃、橙、黄のすべてを宿した花が咲いている。
 満開となったコーデリアの花は、その低木の葉も霞ませるかの如く、高台全体で鮮やかに咲き誇ってみせた。花の中心から赤、外に向かうにつれて桃、橙と色を変えているそれは、蕾だった頃と同じく、花びらの先端を金のような黄色に彩っている。
 春の終わりに舞っていた硝子蝶はいつの間にか何処かへ旅立ち、眩しい黄色の揚羽蝶がその数を増やしていた。水色の色鳥もまたあの日以降、姿を見かけなくなり、彼らは硝子蝶よりも遠く、追いつけないほど遠くへと飛んでいってしまったのだろう。
 蝶や鳥には遅れてしまったが、自分も今日、此処を発つ。彼らは群れで、自分は一人で。此処で過ごしたのは、数えてみれば、半年にも満たない。たった四月半のことだった。背後に在る高台の門は、もう開かれている。
「さて、と……全部持ったんだろうな。水袋は?」
「有ります」
「食糧は?」
「荷物の中に」
「金、持たせたよな?」
「……何から何まで、ありがとう」
 子どもたちを前後左右に引き連れたコージィが、門の手前に立つ自分を見ながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「あんた、けっこう働いたからな。貸しの釣りとでも思えばいい」
「服も……ありがとうございます」
「元々あんたの持ち物だったやつに、ちょっと手を加えただけだ。あんたに持たせた金は、きっちりそこも差し引いた額だから安心しな」
「似合うよ、おにいちゃん!」
 コージィと言葉を交わしていれば、彼女の横から飛び出てきたチャクルが、手鏡を片手にぴょんと跳ねた。その隣でラフもうんうんと頷いている。
「その杖もけっこういい感じだよぉ、イソウロウ。見付けてきたかいがあった」
「おまえが見付けてきたのは幹だろ。杖まで整えたのはおれだ」
「細かいなあ、コージィは」
「ほう……その口の利き方、いい度胸だなぁ、ラフ?」
 にっこり笑ってラフの方を振り向いたコージィに、彼がひいっ、と声を上げる普段通りの光景に、思わずふっと笑いを洩らした。チャクルがこちらへと向けている鏡の中に、そんな自分の表情が映り込んで、なんとなく気恥ずかしさに首の後ろを掻いてみる。
「……あんたの身に付けてたもん、どれも上等だったからな。どうしても血が抜けなかったところ以外は使い回したよ」
 言われて、自分の姿を見下ろした。
 自身の足は、木の幹にも似た焦げ茶色のサンダルに守られ、足の甲から足首までに繋がれた二本の留め革は、色とりどりの小さな石たちで彩られている。七分丈の洋袴は裾のところで脚の形に合うように絞られ、目に心地好い榛色をしていた。
 上着の襯衣は襟なしの白。長めのそれは右の膝まで下りているが、面白いことに裾が斜めを描いているため、左へと向かうにつれてその短さを増している。へその辺りで襯衣を絞る腰帯は、春林檎の色よりも深い赤。布よりは固いが革よりは固くない幅広のそれは、後から自分で身に付けるもので、その結び方は昨日コージィから散々教わったところだった。
 滑らかな襯衣のふわりと膨らんだ袖を、赤く大きな石が飾られ、植物の意匠を凝らされている金色の太い輪が固定している。輝く金の輪に、鮮やかな赤は自分には少々派手な気がした。だが、それはコージィ曰く、倒れていた自分が腕輪として手首でじゃらじゃらさせていたものの一つらしい。ほんの少しだけ抗議すれば、彼女はこちらの髪や目を手のひらで軽く示して、
「あんたの目や髪色の方がよっぽど目立つぜ」
 と、皮肉っぽく笑ったものだ。
 白い襯衣の中心は茶褐色の布地へと切り替えされており、そこには金糸で葉を象ったのだろう刺繍がされている。けれども、その葉の形は高台の草原で見かけたことはないものだった。刺繍は、元々施されていたのだと言う。釦は穴のない卵型で、深い緑色。それは少しだけ、コージィの瞳の色に似ているような気もした。
 ふと、視界の隅に柔らかい緑が入り込んできて、顔をチャクルが掲げている鏡の方へと向ける。自分の両耳には太陽を模した大きめの耳飾りが揺れ、首元、襯衣の袖、手首では金の輪が淡く光を反射していた。
 華美な装飾は自分には釣り合わないと思っていたが、コージィの見立てがいいのだろう、ごてごてとした印象はほとんど感じられないように思える。それに最も貢献しているのは、きっと、自分が今羽織っているこの緑色のマントだろう。
 首元ではなく肩の辺りで固定されるようになっているマントの、その端の部分を指先で触れていれば、それを見留めたのかコージィが洩らすように笑った。
「マントの出来はもちろんのことだが、それ、いい色だろ。生葉染めだよ」
「生葉……」
「そうさ。コーデリアの葉で染めた」
「わたしも手伝ったんだよ、おにいちゃん! そうやってると、魔法つかいか、詩人さんみたい!」
「そぉそぉ! その杖も様になってるぜえ、イソウロウ!」
 コージィの隣でぴょこぴょこ跳ねているチャクルとラフの前に片膝を突いて、そのあたたかさに思わず笑みを零した。二人の未だ細く、さらさらと柔らかな髪の毛と、林檎のほっぺたを包むように撫でて、少しだけ水の膜が張っているチャクルの下睫毛を軽く拭う。
 ラフが果樹園の隅で見付けた、突風で折れてしまったという細木の幹は、天に向かう方がくるりと丸く弧を描いていた。コージィがその幹を削り削り、整え、支えとなる形までもっていったこの杖は、驚くほどに自分の手に馴染んでいる。
 杖には、コーデリアの葉を模した飾りと共に、自分が最初持っていたという透けるような橙色の硝子玉を、幹が弧を描く手前の持ち手部分に填め込んであった。
 そして、コージィが放ったあの硝子玉を両手で抱き止めたのは、確かにチャクルだったのだ。
「——ありがとう」
 言えば、チャクルはかぶりを振って鼻を啜った。その隣で、ラフの両目から、ぽろりと大きな涙が落ちるのが見える。
 子どもたちは、誰かが泣けば、また別の誰かがその子をからかうというのが日常茶飯事だったが、今日に限ってはそんなこともないようである。それが逆に自分の調子を狂わせていくのを緩やかに感じながら、痒くもない頬を掻いて、チャクルとラフの頭を再び撫でた。
「おにいちゃん、これからどこへ行くの?」
「……そう、だなあ……」
 少しだけ赤くなっているどんぐりまなこが、こちらを真っ直ぐに見つめてそう問うた。そんなチャクルの瞳を見つめ返して、曖昧に言葉を浮かべながら顔を上げれば、ふとこちらを見やっているコージィと目が合う。
「何処に行けば、いいんだろう?」
 彼女の方を見つめ、呟くようにそう発すれば、コージィは呆れたようにその緑を細め、腕を組んでは溜め息を吐いた。
「……自分のことだろ。てめえで決めろよ」
 その言葉に、自分は少しだけ笑ったようだった。頷いて、立ち上がる。風が背後へと吹き、陽光が視界の端でちらちらと輝いていた。
「コージィ、みんな」
 そうして杖を両手に抱いて、彼女たちに頭を下げる。それは、自分の中から何かが溢れ出しそうで、その何かを堪えるためでもあったかもしれない。下げた視界の中にふと太陽の姿が映って、顔を上げながら、片耳に手をやった。
「なんのお礼にもならないかもしれませんが」
 言いながら、太陽の耳飾りを外して、コージィの手を取った。そこに耳飾りの片方を置いて、瞳だけで首を振ったコージィの手に半ば無理やり握らせる。そうすればコージィの顔が怒りと呆れをないまぜにしたかのような表情に歪み——たぶん、自分はそんな彼女を見て笑ったのだろう——そこから軽く舌打ちも聞こえてきた。
「おれは、耳に穴は空けない」
「じゃあ、売るか——首飾りにでもしてください」
「そこまでやってやるのは一体誰だと思ってんだ」
「すみません」
 コージィの手からゆっくりと自分のそれを離して、一歩分身を引いた。
 子どもたちの顔を一通り目に焼き付け、コージィの瞳を見つめた後、それでは、と発して、くるりと踵を返して歩を進めれば、開かれた門を越えるのも、そこから町へと続く階段を下りていくのも、思ったより簡単に——短い時間でできてしまった。
「まっ、またな、イソウロウ!」
 そうして階段を下りていれば、軽い足音が駆けてきて、自分の上の方で止まる。それと同時にラフの声が自分の元まで飛んできて、思わず足を止めそうになった。歩を進める。自分はもう、此処へ戻る気はない。だから止まるな。
 数人分の足音が、ラフを追って駆けてきた。その中に一つ、自分が最もよく拾える足音も交じっている。ラフの靴が、一段分、階段を下りた音がした。それにたまらず唇を噛んだ後、振り返らずに言葉を発する。
「こういうときは、さよならって言うんですよ、ラフ」
「——さよならじゃ、ないだろ!」
 自分の言葉に、ほとんど怒鳴るような声が返ってきて、今度こそ足を止めた。泣き出しそうなラフの声が、雨よりも厳しく自分の元まで降ってくる。
「イソウロウ、おまえ、お子さまだから知らないんだろっ? また会いたいんだから——そういうときはさ、またな、って言うのが、普通——なんだぞ!」
 ラフの声色に、その言葉に、きっと浮かべているだろう表情に、太陽の輝く青空を見上げた。ああ、だめだ。もうだめだ。心でかぶりを振って、堪え性もなく降参をする。
 階段の途中でゆっくりと振り返れば、こちらを階段のいちばん上から見ていたラフが、ぱっと笑顔になった。そんな少年につられて笑みを浮かべ、少しだけ視線をずらせば、その隣に立っていた蜂蜜色が目に入る。そこではコージィの深い緑色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
 けれども、言葉は発せない。何か言えば、そしてその言葉に返事をもらえば、ほんとうにだめになってしまうような気がしたから。
 言葉の代わりに頷いて、杖を持たない方の手のひらをコージィたちに向けて振った。
 再び彼女たちと高台へ背を向けて階段を下りはじめれば、コージィが笑ったのが風の運んでくる気配で分かった。もしかしたら、彼女は手を掲げたかもしれない。それを振り返しているかもしれない。或いは、彼女のことだから、拳を高く突き上げている可能性だってある。
 分かるわけがない。だってもう、見えないのだから。
 ただ、そこから発された言葉が自分を抱き、それからその背を強く押したのは、きっと今、この世界で何よりも揺るぎなく——そして、何よりも確かなことだった。
「——マイロウド(往きたいところへ)!」


20180729 
シリーズ:『マイロウドの手記

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