ライト
教室の壁際から見る空は、遠いな、と思った。
「――そんなわけで、再来週から中間テストだ。お前ら、今年は進路のこともある。くれぐれも気ぃ抜くなよ。あといろいろと面倒だから、俺の教科で赤点は取らないように」
クラス替えをしたというのにも関わらず、何故か去年と変わらない担任教師が、呆れ笑いを浮かべながらそんなことを冗談めかして口走っている。
教室の壁に半身を寄り掛からせて、聞き慣れたその、少し気だるさの滲んだ声をぼんやりと聞く。右耳を壁に押し当てているせいなのか、普段だったら流れていく担任の声が、自分のこめかみの辺りでこだましているような心地になって、耳を壁に当てるのはやめた。
ふと、手持ち無沙汰になった片手で、試験範囲の書かれたプリントを持ち上げる。
持ち上げてみたのはいいものの、自分の視線は紙面を滑っていくばかりで、その内容は頭にまったくと言っていいほど入ってこない。試験二日前になって焦り出すのが自分で分かっているのに、いつもこうだ。我ながら懲りない。
自分の成績は平均して中の中から中の下。特別出来がいいわけでも、或いは悪いわけでもない。これと言って面白みのない成績だ。しかしべつに、自分の成績に面白みなど求めてはいないのは当たり前のことである。
「そんじゃ、今日のホームルームはこれにて終了。気ぃ付けて帰れよ」
その声にふと顔を上げると、担任がひらりと片手を振って扉を出ていくところだった。
壁から自分の身体を離して、持ち上げていただけで大して読んでもいなかった紙切れをその指先から離す。がたがたと椅子を動かす音と、その脚がぎいと床を擦る耳障りな音が、教室中で一斉に立ち上がっていた。
入学当時は聞くたびに顔をしかめていたこの音も、しかし三年目となればいい加減に慣れてくるものだった。ぼろ高校の成せる、じつに尊い音楽。撤回、うるさいものは何年経ってもうるさかった。
前のめりになって、頬杖をつく。尊い音楽が静まったかと思えば、今度は人の声が教室中に響き渡っていた。
自分が人と話しているときは全く気にならないが、しかし一人でいるときに聞くこの大音声は、何故こうも心の中をざわめかせるのだろう。
これは自分だけなのだろうか。或いはそうかもしれない。そうでなければ、いつも教室の片隅で一人きりでいるクラスメイトは、一体どうやって毎日をおくっているというのだろう。
机の脇に引っ掛けた黒いリュックサックを引き上げて、その中に入っているファイルに今しがた配られたプリントを挟み込んだ。正しくは、リュックからファイルを出しもしないで直接その中に突っ込んだ。横着にもほどがあるがオール・ライト。これがいつもだ。全く、いつも通り。
「もう帰るのか、茜」
聞き覚えのありすぎる声に振り返る。
「そりゃ帰るけど。お前も帰るだろ、蛍。え、ってか、お前これからなんかあんの?」
「掃除当番だよ。先帰るか?」
「ああ……んじゃ、廊下で待ってるわ。すぐ終わんだろ」
「そっか、じゃあ悪いけど待っててくれ。行ってくる」
「はいよ」
教室を出て、掃除場所へと向かっていった茶髪を、椅子に座ったまま片手を上げて見送った。
幼馴染の蛍は、そういえば昔から明るい茶髪をもっていた。なんとなく、その隣に並ぶと自分の色が沈んでいくように思えて、高校に上がってから真っ先にしたのは自分の髪を赤く染めることだった。ばかばかしい。
自分の地毛は清々しいほどに真っ暗な黒髪だ。ほんとうにばかばかしいが、けれどその黒に戻る気は今のところさらさらなかった。
幼馴染の名前はホタルと書いてケイと読む。類友と言うべきなのか、自分の名前もアカネと書いてセンと読んだ。
名は体を表すとはよく言うが、蛍は確かに虫の蛍というよりは、蛍光灯のようなやつだと思う。蛍は優しい。その優しさは、蛍の光に似ているかもしれなかった。
けれどもそんな彼の隣にいると時折、ほんとうに時折だが、自分の卑小さをその光で晒されているような気持ちになる。そのとき思い出すのは、今自分を上から照らしている蛍光灯の明かり。呆けた瞳を刺す、強い光だ。
思い出したくない自分の卑小さというのは、たとえばそう、こういうところ。自分の親友に対して、つまらない嫉妬や羨望を抱くところだ。こんなことは言い出したらきりがない。やめにしよう。くだらない。
軽く息を吐いて椅子から立ち上がり、リュックを片手に人もまばらになってきた教室を出る。
廊下の窓際の壁に背を当てて、開け放された窓から空を見上げた。晴天。入ってくる風はどこか生ぬるく、まだ空の色が変わるには早い時間だった。
「だる……」
五月。
高校三年の五月は、特にいつもと変わらず、何事もなく、普通に過ぎていく。
進路、テスト、赤点、補習、部活、バイト、云々かんぬん。
進路という単語は去年よりは聞くようになった気もするが、それ以外は二年のときとなんら変わらず、飽きもせず教師の口から、クラスメイトの口から、何度も何度も繰り返される。そしてその中には、もちろん自分も含まれていた。
おそらくこれは、誰にとっても口癖のようなものだ。会話の隙間を埋めるための目地材のようなものに過ぎない。
試験勉強はしているか?
アルバイトはほどほどにしているか?
進路は決めたか?
そう、誰も彼もひどいことばかり訊いてくるものだ。むしろ何故、答えられると思っているのだろう。こんな中途半端で、つまらない自分に。未来のことなど、こちらが訊きたいくらいだというのに。
今日、帰りに買うアイスの味すら分からない。
中間テストだって、必ずしも赤点を回避できるとは限らない。
何をやったらいいのか分からずに、部活だって今の今までやってこなかった。
アルバイトのシフトはよく覚えてすらいない。
はっきりと答えられるのは、親が付けた自分の名前くらいのものだ。
ぱたぱたと自分の前から過ぎ去っていく足音の中に、こちらへと向かってくるものがあって、思わずそっちを振り向いた。飽きるほど見慣れた茶髪が小走りに近付いてくる。目が合うと、蛍は軽く手を上げた。
「――茜。担当の先生が出張でさ、今日は掃除やらなくていいって」
「あ、なんだ。よかったじゃん」
「ああ。それじゃ帰ろう。どこか寄る?」
「アイス食おうよ。今日、微妙に暑いし」
「いいね」
壁から背を離して、ちらりと軽く窓に視線をやった。開けっ放しの窓は、気付いた誰かがその内締めてくれるだろう。
片足を一歩踏み出して、なんとなく背後を振り返った。その先にあったのは、窓の鍵を締める蛍の手。それがあまりにもいつも通りで、思わず笑いが込み上げてくる。
おそらく変な顔をしている自分を見て、蛍が怪訝な表情を浮かべた。
「なんだ、どうした?」
「いや、べつに……お前ほんと、むかつくなあって思って」
「なんだそりゃ……」
「何、嫌よ嫌よも好きのうちですよ」
「うわ、むかつくな」
廊下に笑い声が響き渡る。
一人きりで喧騒の中にいるときの、煩わしい心のざわめきも今はもう感じなくなっていた。
五月。
高校三年の五月は、特にいつもと変わらず、何事もなく、普通に過ぎていく。
教室の壁際から見る空も、こうして廊下の窓越しに見る空も、同じようにいつも通り、平凡に、ただ遠かった。
20170730
シリーズ:『春の歌』
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