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 目次

 声が聴こえる。
「……ベル——」
 これは誰の声だ。
「……アインベル——」
 声が聴こえる。
「——アインベル!」
「え!?」
 耳元で呼び声が響き渡って、少年は驚き、その勢いのまま飛び起きた。
「え……? な、何……」
 目を開けたアインベルは、自分の上げた声にまた驚いて、ぱちぱちと忙しなく瞬きをくり返す。そうして身を起こしたアインベルは、困惑したように呟きながら辺りを見回した。
 地面についている両の手のひらには、そういえば、何かひんやりと冷たい感触があった。気になってそちらへと視線をやれば、目に映るのは石造りの床。背中にも少しばかり、その冷たさが残っている。
 ——と、いうことは自分は、此処で気を失いでもしていたのだろうか。ずきりと頭が痛み、その瞬間、目の中で何か赤い色が弾けたような気がした。
 まだ覚醒しきっていない少年は、こめかみを押さえ、眉間に皺を寄せながらその視線を上げる。するとそこには自らの義姉、イリスが心配そうにこちらを見やっていた。光が一筋しか差し込まない、この薄暗い石室では、姉の目の色がいつもよりも鮮やかな赤色に映って見える。
 アインベルは姉の方を見て小さく微笑むと、掠れた声で彼女に声をかけた。
「あの、僕はだいじょうぶだよ。それより、一体何が——」
 言いかけて、アインベルは言葉に詰まった。
 それは、石室に立ち込めているこの沈黙が、明らかにどこかおかしかったため——まるで音が存在しなかったためである。
 アインベルは寝惚けている視界を広げるために、なるべく音を立てずに大きく息を吸った。だが、この石室に充ちている空気を吸い込むと、まるで真綿で首を絞められているかのような気分に、しかし少年はなった。
 リトが、イリスと同じように気遣わしげな視線をこちらへと送っている。その後ろのハルはどこか青い顔で口元を押さえ、ジンは眉根を寄せたまま、石室の床を睨んでいた。クイに至ってはこちらを振り返ることもせず、ただ一点の場所に視線を注ぎ、拳をきつく握っている。
 そして、そのクイが視線を向けているもの、それは。
「あ……」
 ——それは、アインベルの鈴の杖だった。
 今は石室に備えられた台座の窪みにしっかりと収まっているそれに、クイは声もなく視線を向け続けている。それはまるで、そこに何かを見出そうとするかのように。
 アインベルは、そんなクイの視線を辿るようにして自分の杖へとその目を向けると、瞳の中で再び赤い色が弾けるのを感じた。そして、その朝焼けの中で鳴り響く大水のような音楽と、夜明けに打ち鳴らされた鐘の音、それから遠い潮騒の声を、少年は今確かに、もう一度聴いたのである。
 ——もう、一度?
「……ああ……!」
 視界の端やこめかみの辺りで弾ける赤色に、アインベルは明らかな恐怖を滲ませて、小さく呻いた。
 そしてアインベルは、ふらりと壁を支えにして立ち上がり、何も聴きたくないというように、青白い顔で思わずその両耳を押さえる。けれども耳を押さえて外の音を遮ると、ますます朝焼けの——かわたれの〝彼〟が聴いたものたちの存在が大きくなることに気が付いて、少年は慌てて両手を耳から離した。
 信じたくない。
 信じたくはないが、この音は確かに、自分の内から鳴っているのだった。
「ぼ——僕、僕は、何を……僕は何を、したんだ……!」
 目がぐらぐらと泳ぎ、自身の両の手のひらを絶望したように見つめるアインベルに、彼の姉がその両肩を優しく握った。
「アインベル、落ち着いて。あなたは何もしていない。遺跡自体にかかっている古い召喚術で、私たちは前時代の記憶を体感した。だいじょうぶ、それだけよ。あなたの杖が触媒になって、この遺跡に眠る記憶を喚び出したの」
「ま、待ってよ——な……なんで、僕の杖が触媒になるんだよ……? 此処は、〈オルカ〉の遺跡だろ。〈オルカ〉は僕の故郷からはずっと遠い、陸の……町で——なんで……僕には、なんの関係も……」
 苦笑にも似た、引きつった薄笑いをその顔に浮かべて、アインベルは焦点の定まらない目でイリスを見、小刻みに震える腕を手のひらで隠すように押さえる。
 しかし、ふと近くで息を吸う音が少年の耳に届いて、彼の目や腕の震えは一瞬治まった。
「……〝呼び声ある者〟、〝瞳もつ器〟、〝真なる言葉〟を知る者——そして、〝導の鐘〟」
 確かめるように、けれども感情を見出せない声が、少年の耳に入り込んで、虚ろに響いた。
「——もう、分かってるんだろう」
 イリスに対して、眩暈のような言葉を訥々と発していたアインベルに、ふと、台座の杖へと視線を向けていたクイが、そう声をかけた。
 その声にアインベルは身を固くし、驚いたようにその目を見開いてクイの方へと顔を向ける。分かってるんだろう、と呟くようにアインベルに問いかけたクイのその声は、少年の心臓を凍らせてしまいそうな冷たさを以って響いていた。
「なあ……」
 クイはゆっくりと振り返ってアインベルの方を見やった。そしてそこにどこか困ったような、或いは引きつったような笑みを浮かべて、今度は悲しいほどに優しい声で、杖の持ち主の少年へと問いかける。
「召喚術って、なんのために在るんだ……?」
「……そ、そんなこと……」
 クイの焦げ茶色の瞳が、今は沈んで淀んだ黒に映る。
 アインベルはそんな彼の目に怯んで言葉を失い、ただ成すすべもなくその場に立ち竦んだ。そんな少年の怯えたまなざしと、クイの言動を見かねたリトが彼らの間に割って入って、彼にしては鋭い視線を自身の幼馴染へと向けてみせる。
「クイ、待てよ。……そんなの、ベル坊に言うことじゃないだろ」
「ああ。だからアインベルには言ってないさ。俺は、そこにいる召喚師に訊いてるんだよ」
「ふざけるな。同じことだろ!」
「いいから、黙っていてくれないか」
 吐き捨てるようにそう呟くと、クイはリトの肩を片手で、しかし力を込めて思い切り押しのけた。
 気の置けない仲間にそんなことをされるとは思ってもみなかったリトは、いとも簡単に体勢を崩して、自分の背後に在った石壁にその肩をしたたかに打ち付け、それから微かに呻く。
 全員の視線がリトに注がれているその間に、クイはアインベルのその緑の震える瞳を捉えた。
「俺は、さっき——〝あのとき〟、兵の一人だった。武器を喚んでくれる召喚師は姿をくらまし、戦うすべもなく、武器の代わりに楽器を持って敵へと決死の行進をしていった、その中の一人だった」
「クイ……?」
「なあ……なんであのとき、お前、裏切ったんだ? いや、そんなことはどうでもいい……そんなことより、なんで、よりによってお前が、〝子孫を残している〟んだ……?」
「え……?」
 クイの静かな中に激情を宿した声に怯えながら、しかし言われている意味がよく理解できず、アインベルは小さく疑問の声を発した。少年のその声を聴いた途端、一瞬だけクイの瞳に、相手を刺すような白い光が鋭く閃く。
「その目の色、髪の色、声の響き、召喚術……そして、その杖……。だってアインベル、お前、〝あいつ〟にそっくりじゃないか……! まるでそこにいるみたいだよ、あの日俺たちを裏切った〝あいつ〟がさぁ……!」
「違う、クイ、僕は……!」
「子孫を残したってことだろう、俺らを裏切ったお前がのうのうと! お前だけ生き残って、お前だけ、生き残って……! 俺だってな、俺だって、やりたいことが山ほど在ったんだ! 作りたい楽器だって、まだまだたくさん在ったんだよ! それを、お前、あんな死に方があるか? なあ、あんな終わり方があってたまるか!」
 笑っているのか、怒っているのか、それとも泣いているのかも分からない風にその表情を歪ませて、クイが血走った瞳でアインベルに詰め寄った。
 その様子にいよいよ嫌なものを感じたリトは、自分を心配そうに取り囲んでいる仲間たちを緩く押しのけると、立ち上がって再びクイとアインベルの間に割って入る。
「——クイ、落ち着け! あれはお前じゃない!」
「分かってるんだよ、そんなことは!」
「いや、分かってない! 場所がいくら今の〈オルカ〉でも、あれはただの、前時代戦争の記憶だ! 記憶のくり返しなんだよ! あれは俺たちじゃない、俺たちはただ、目になっただけだ。見せられただけなんだよ! 俺たちは今まで何度も、仕事の中でそういうものの片鱗に触れてきただろう!」
「ただの……?」
 リトの発したその言葉に、クイが恐ろしく冷たい声を発する。
 クイはちら、と台座の鈴杖に視線を向けると、それを取り上げて投げ付けるようにアインベルの方へと放った。アインベルがそれを受け取ると同時に、石室には鈴の涼しげな音がしゃん、と鳴り響く。
 その音に、先ほど自分たちが体感した、彼らにとっての裏切りのかわたれを見出した〝ポロロッカ〟たちは、皆が各々微かに顔を歪ませて、恐ろしいものを見るようなまなざしで、アインベルの手に有る鈴の杖へと視線を運んだ。
「ただの戦争か、これが! 一体……一体、何人の人間が死んだと思ってるんだ!」
「……終わったことだろ、それも俺らが生まれてくるずっと昔に。くだらねえことでごちゃごちゃ騒ぐんじゃねえよ、やかましい」
「くだらない? いいか、ジン。あの召喚師、あいつさえまともにしてりゃあ、俺たちはやつらに勝てたかもしれないんだぞ……!」
「だからなんだよ、何も変わらない。俺らの先祖が勝てば、今度は向こうが死ぬ。んなの、ただ虚しいだけだろ」
「向こうの人間は、武器を持たない者に平気で発砲するような連中だ。そんなやつら、死んで当然じゃないか。死ぬとするなら、こっちじゃなくて向こうだろう!」
「こっちだあっちだってうるせえな。てめえ、長老の内輪主義を嫌う割には、厭にじいさんみたいなことを言うじゃねえか」
「それとこれとは話は別だ。いや、もう、この際なんでもいいさ。だが、俺は何か間違ったことを言ってるか? お前、死ぬべきだったのはこっちだって、ほんとうにそう思うのか?」
「ああくそ……! 頭冷やせって言ってんだよ、このがきが!」
「黙ってろよ、俺は冷静だって言ってるだろ!」
「てめえのどこが冷静なんだよ、なんなら一発殴ってやろうか? 適当に血でも吐けば、てめえの頭も多少はまともになるんじゃねえの?」
「ああ、なんだと……!?」
「ちょっとあんたたち、いい加減にしなさいよ!」
 クイの胸ぐらを掴み上げたジンに、今度は先ほどまで血の気の失せた顔をしていたハルが、正気を取り戻してその二人の間に割って入っていく。
 各々の怒鳴り声が、この遺跡ごと揺らさんばかりの圧力で、狭い石室に幾重にも反響していた。鳴り響いている。幾重にも、幾重にも。何度も、何度も。大きく、大きく。
 それはまるで、〝あの日〟のかわたれに響いた、呼びかける悲壮な決意の音楽のように。
 まるで、また別の〝あの日〟に響いた、戦の終わりを告げる暁の鐘の音のように。
 まるで、たそがれの〝あの日〟に響いた、吹き付ける〝渦潮〟の唸り声にも似た轟音のように。
 ——ああ、生き残るのだ、おれは。
 ——ああ、生き残るんだ、ぼくは。
 たった、独りだけ。
 生き残るのだろう、自分は。
 たった、独りだけ。
 生き残ったのだ、自分は。
 ——たった、独りだけ!
 その希望が、まるで鋭く閃く剣のように、激しい痛みを連れては自分の肉に食い込んだようだった。
 少年は、かわたれに感じたその痛みを今、想い出していた。そしてまた少年は、たそがれに感じたその痛みも今、同時に想い出す。
 透明な剣が突き刺さった心臓から溢れる血を押し止めるように、アインベルは片手で自身の胸の辺りを掴んだ。どくどくと速い鼓動は、ああ、一体誰のものなのだろう。
 仲間たちが声を荒げて言い争うのを聴きたくなくて、アインベルは心臓を押さえていない方の手のひらで、ほんとうにゆっくりとその片耳を押さえた。そうしてみれば、自身の鼓動が更に大きく聴こえてくる。
 痛いほどに鳴り響くその心音に、少年は〝あの日〟に走った自分の、打ち鳴らされる警鐘のような鼓動を想い出し、
 ——けれども、ああ、それは、一体どの〝あの日〟の鼓動で、〝誰〟のものの心臓だった?
「……知らないよ……」
 嗤うように呟いて、少年は力の抜けたその手のひらから、先ほどクイから投げ渡された鈴の杖を取りこぼした。
 鈴の音が、床に落ちて転がりながら軽やかに鳴ってみせる。石室の空気とは裏腹な鈴の音に、その場にいた全員の視線がアインベルへと向かった。
「知らない……僕は……何も、知らなかった……僕の先祖が何処から来た人なのかも、この召喚陣や杖がどんなものなのかも、自分がなんの力を借りる人間なのかも——昔、人と人が争い合っていたことも、なんにも……そんなの、僕は知らなかった……!」
「ア——アインベル……」
「うるさい……! うるさいな! もう、なんにも喋らないでくれよ……! ああ、もう、もう、頭が割れそうなんだ……!」
 くしゃりと前髪を潰すように片手で押さえ、アインベルは床に転がった鈴の杖を、その目を見開くようにして見るともなく見つめた。
 ふと、少年の喉から、渇き切った笑い声が洩れ出る。それはまるで、〝あの日〟、幼馴染を失った自分が上げた、あの泣き声にも似た笑い声のようだった。
 それから彼は、どこかの歯車がずれてしまったかのように腹を抱えて笑い出し、しかしほとんど泣き声にも聴こえるその笑いが収まると、少年は冷たいまなざしを鈴の杖に向け、その杖をクイの方に向かって蹴飛ばした。
「はは……ああ、ほんと、なんなんだろうね。なんのために在るんだろうな、召喚術は……」
「アイン、ベル……?」
「〝あの日〟も、〝あの日〟だってそうだ、何一つ守れやしないじゃないか、この術は。そうだ、たいせつな人を誰一人守ることができなかったじゃないか。なんのために在るんだ、この術は? こんな術を、僕はなんのために描いていたんだ? 今まで僕は、一体なんのために描いていたんだ?」
 瞳孔を開いたまま、自分自身を嘲笑うようにそう発していたアインベルは、すっと一瞬無表情になった。
 しかし、それからすぐにそのまだ幼さの残る顔に、どこか望みの絶たれたような笑みを浮かべて、そうして泣き出しそうに震える声で彼は呟く。
「……ねえ……僕は……なんの……?」
 そうこぼせば、石室には沈黙が流れる。
 アインベルは呆然と自分を見つめる仲間たちの、その視線に耐えがたくなり、ついには唇を噛み締めて、その踵を返した。
「——アインベル!」
 石室の出口に身体を向けたアインベルに、ポロロッカたちと同じく呆然としていたイリスが、しかしいち早く正気を取り戻して制止の声を上げた。けれども少年は止まることなく、遺跡の入り口まで続いている廊下を、自身の心臓を抑え付けるようにして駆け抜けていく。
「アインベル、待って!」
 姉の制止を無視したまま遺跡から外に出ると、背後で姉の悲鳴が聴こえて、少年は思わず立ち止まって後ろを振り返った。
「アインベル!」
 振り返った先では、〝呼び声なき眼〟の施された楽器も持たず、〝あの日〟のかわたれの記憶も血に混じっていないイリスが、遺跡に張られた魔術の障壁に弾かれて、遺跡の廊下にその背中を打ち付けられていた。
 その姿にアインベルの目が見開かれ、寒空色の睫毛が動揺に震える。
「アインベル、待って……!」
 そうする内にイリスはぐっと立ち上がり、その手を握ってアインベルに呼びかけるように、その見えない扉を叩きはじめた。
 何度も、何度も、激しく、激しく。
 遺跡の入り口では、打ち付けられる手を跳ね返す障壁が、ばちばちと音を鳴らして火花を散らしている。
 ——ふと、イリスの手から、赤い血が滴って、遺跡の地面に弾けるのが見えた。
 その色に、少年の目の中で同じ色が閃く。その感覚に彼の喉と背骨は凍り付くように冷え、アインベルはそれを振り払うかのように再び遺跡と——自分が何よりもたいせつにしてきただろう姉に、しかし背中を向けた。
 そして、一心不乱に彼は駆け出す。
 ただ、走った。
 ひたすらに、走った。
 そこから先は、振り返らなかった。
 それはまるで、〝あの日〟のように。
 何も、聴きたくなかった。
 何も、聴こえなかった。
 いいや、聴こえるものが在る。
 一つだけ、在る。
 心音だ。
 やかましい、自分の心音。
 それでも、ただ走った。
 走りながら、自分の中の獣が目を覚まし、自分の言葉を喰らっていくのを、ただ感じていた。
 ——ああ、いっそ、自分の心音さえも喰らってくれればよかったのに。
 それでも、心音は鳴っている。
 うるさいくらいに響いている。
 けれども、その音を聴きながら、ふと知った。
 自分はもう、何も描けなくなってしまったことを。
 自分はもう、心の臓の言葉——己の意志を、失ってしまったことを。
 ああ、それでも。
 それでも鈴の杖がないと、その音が響かないと、心の臓はこんなにうるさい。
 早く喰ってくれ、こんな自分の心臓を。
 何も、誰をも守れず、たいせつな人たちを傷付けてばかりの、こんなぼくの心臓を。
 鼓動が強く、鳴っている。
 それはまるで、何かをこちらへ呼びかけるかのように。
 まるで、呼び声のように。


20171111 
シリーズ:『たそがれの國』〈失せ物探し〉

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