レディ&ボーイ
このところ、木々の枝葉に隙間が増えた。
目にきんと沁みるような晴天に、自分の歩む足音がやたら近くに聴こえる。
わたり空の月、二十二日。秋空の透くような青空を見ていると、何故だろう、自分の中に在るあたたかさと冷たさの間を指差されているような気持ちになるものだ。まばゆい光を背に、冴えたまなざしでこちらを高みから見下ろす空の色をどこか遠くに見つめながら、今日もまた歩みを進める。日差しが白く、目の前に続く道を照らしていた。
ふと、一息分だけ頭上を仰ぐ。思えば近頃の空は、自分の呼吸を深いものにしてばかりだった。
そう、春の柔らかさとも、また夏の鮮やかさとも違うさやかな青を身に宿す空。そして、その空が纏う秋の風が少し乾いた風に香って、吸っても吸っても、身体に空気が足りないような心地なのだ。大きく息を吸う。夏の間は、様々な命の色彩がしたたかな叫び声を上げているのがそこここから感じられていたが、しかし、秋から冬へと移ろう今節では、その鮮やかな色彩たちは鳴りを潜め、かさかさ鳴る木の葉や草花たちのひそひそ声がよく耳につくようになった。大きく息を吐く。まだ、海は遠いのだろうか。
——遠いの、だろうなあ。
空から視線を下ろして、前を向いた。歩を進めながら、また何かが足りないような気持ちになって、すっと息を吸う。吹き抜ける風に色褪せた草木の葉が掠れて鳴り、自分のサンダルは一定の速度で地面を叩いている。辺りには家も見当たらず、人の行き交う様子もない。今、秋が冬へと季節を手渡そうとしているのを教えてくれるのは、吹く風と目に映る景色ばかりだった。
そうか。
そしてまた、息を吸う。それから淡く目を瞑って、そうっと息を吐き出した。言葉と共に。人と話すときとは違う声色で、紡ぎ方で、間隔で、音で、言葉を。人はそれを、歌と呼ぶ。それはきっと楽器よりも人に近く、言葉よりも感情に近いもの。息を吸う。そうして歌を歌った。自分以外にちゃんとそう聞こえるのかは分からないが、歌った。一人だったから。だから、自然と歌が零れた。常磐樹の街で習った流行りの歌しか自分には歌えるものがまだなかったが、それでも歌は自分の中で緩やかな螺旋を描き、外へ外へと出ていこうとする。歌い方を知らなかったとき、このような長い道を一人でどうやって歩き通したのか、今ではあまり想い出せなかった。それはまだ、木々が色とりどりな緑に強く染まっていた頃の話だろう。
ああ。——思えば、随分遠くまで歩いてきたものだ。
うっすらと閉じていた目を開き、なんとなく今まで歩いてきた道を振り返ろうとしたところで、しかしはたとする。
「あら……!」
目の前——正確には道沿いに生えている木々、その中の一本の下に女性と男性の二人組が立ち、こちらをじいっと見つめていたのだ。思わずと言うより、慌てて歌を引っ込める。前に進もうとしていた足は軋むようにその場に縫い止められ、半ば呆然としながらそちらの方を見てぱちぱちと瞬きをくり返した。
「もし……あなた、ごめんなさいね。盗み聞きをするつもりはなかったのよ。そのう、声をかけるタイミングを窺ってはいたけれど!」
それから先に目が合ったのは、そう言って少しだけ申し訳なさそうに笑う女性の方とだった。たっぷりとした緋色の長髪がふわりと風に揺れ、それと同じ色をした瞳がこちらの言葉を待ちながら、そっと問うような光を宿している。困ったな。なんだかすごくいたたまれない。見ず知らずの人に歌を聞かれるというのは、なるほどこんなにも気恥ずかしいものなのか。
「えっと、あの……こちらこそ、す、すみません……」
何に対して謝っているのかが正直自分自身でもよく分からないまま、けれど痒くもない首を掻いてそう発する。だって、それ以外に言葉が浮かばなかったのだ。とにかくこのなんだか気まずい空気を早く風に運んでほしかった。喉の辺りが燃えるように熱いから。
「あ、あ! 勝手に聞いてしまったのは申し訳なかったけれど、でも、でもね、歌はとってもお上手だったわよ! だからそんなに恥ずかしがらなくても……」
「……ミス・レディ。それはおそらく逆効果だと思いますよ」
「えっ、嘘! でもじゃああたし、なんて言ったらいいのかしら……?」
隣に立っているすらりとした長身の男性にそう囁かれて、驚いたように緋色の彼女は口元に片手を当てた。うら若く見える彼女とそう年も離れていないように映る男性は、しかし朱い髪をもつ色白の彼女とは対照的に浅焼けた肌と、ほとんど黒っぽい焦げ茶色の髪の持ち主だった。そんな男性へとどこか困ったようなまなざしを向ける彼女に、彼はその琥珀色の目を柔く細め、するりとした視線を一瞬だけこちらへ向ける。
「……あっ、そうか。それもそうね」
そうして男性から何かしらを耳打ちされたのだろう彼女は、思い至ったようにその両手を顔の前で軽く合わせ、明るい笑みを浮かべながらこちらへと一歩近付く。男性の方も彼女の半歩後ろにそっと付き添い、さながら静かな水面を思わせる微笑みをその口元に湛えていた。
「ハーロウ! 素敵なあなた、お会いできてとっても嬉しいわ! きっと旅人さんね?」
「わ……、はい! その、今は、海を目指して旅をしています。ええと……ハロウ?」
背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、片膝ばかりを軽く曲げるお辞儀をしてそう発した緋色の彼女に、ぱちりと瞬きながら半ば反射的に返事をする。それから、彼女から投げかけられた言葉の中で聞き慣れなかった一つを、問いかけの意味を込めておうむ返しした。けれど、たぶん、ちょっと発音の仕方が違ったのだろう。自分の言葉を聞いて彼女は優しげに淡く笑った。
「ハーロウ。それね、こんにちはの挨拶なのよ。そっか、此処では言わないんだった。ごめんなさいね、癖が抜けなくって……その、あたしたち、〝赤がねと黄金〟と呼ばれる王国からこの国にやって来ていて——あたしたちの国では、こんにちはのことをハーロウ! と言うの。ほらほら、言ってみると自然に口角が上がるでしょ?」
「ハ……ハーロウ?」
「そうそう、とってもいい感じ!」
こくこくと頷きながら嬉しそうに笑う彼女に、つられてこちらも笑った。昼間の白い陽光が、柔らかな温度をもって目の前に立つ二人を照らしている。そんな二人を目に映しながら、今しがた彼女が発した国の名前を頭の中でくり返してみた。おそらく、自分の知らない国だ。この旅の中でも、耳にしたことはなさそうな名だった。
「赤がねと黄金の王国……此処から、遠いんですか?」
「うーん、そぉねえ。少なくとも、あんまり気軽に行き来できる距離ではないことは確かかしら」
口の下に人差し指を添えて考えるようにそう発してから、彼女はふと、東——自分が今までも、これからも歩みを進めようとしている方角を見やる。そして、その先には、果てもなく広がる海が在るはずだった。おそらく、この緑の大陸へとやって来る際に、彼女たちが渡ってきたのだろう海が。
そうして不意に、彼女の朱い睫毛が伏せられる。
「——まあ、あたしたちの国、もう滅びちゃったんだけどね」
「……えっ?」
果たして彼女は今笑ったのだろうか、それとも何か別の表情をしたのだろうか。その表情の名前を上手く見付けられなかった自分は、彼女の口からぽつりと出た言葉に、ただ驚いて瞬くことしかできなかった。そんなこちらの反応に気が付いたのかもしれない、彼女は少しはっとした表情をすると、ちょっと可笑しそうな顔で笑った。
「あっ、ちょっと言い方が悪かったかな。あたしたちの国ね、あたしがまだ小さい頃に隣国に吸収されて、合衆国になったのよ。だからもう、地図の上に名前はないのよね」
それから彼女は一拍置くと、少しだけ頭上の青空を仰いで——そうしてすぐに自分の方へと視線を戻した。
「じつは、あたしね。その赤がねと黄金の王国では、ちょっとだけすごい立場の人間だったのよ」
「すごい……立場、ですか?」
「そう。王族」
「えっ、お、王族?」
「うん。お姫さまよ」
頷いて、彼女はひらりと軽くその手を振った。けれども何気ない調子で発するにはいささか衝撃的な内容の言葉に、自分はぽかんと彼女の方を見つめることしかできない。彼女はそんな自分を見て、何か悪戯が成功した子どものように小さく笑う。
「あはは、でもまあ、さっき言った通り滅びちゃった王国の、元お姫さまってだけよ。それにあたし、ただ王族の生まれってだけで、これといってなんの功績も残していないし。すごいのはあたしじゃなくて、民を犠牲にすることなく事を丸く収めたお父さまなのよね、結局のところ」
ふうっと息を吐き出した彼女の姿を、もう一度よく見てみる。動きやすそうな洋袴を身に着けているためあまり気に留まらなかったが、彼女の着ている洋服は全体的に見てどれも高級そうなものに映る。特に上衣などは、そのままドレスのような作りをしており、白を基調にした生地に淡い黄色と水色の刺繍、そしてその袖にはたっぷりとしたフリルの飾りが施されていた。首元で連なっている真珠の飾りが陽の光にちかりと煌めく。
「あっ、そういえば、まだお名前を訊いていなかったわね。伺ってもよろしい?……って言ってもあたしたちには、お返しできる名前がないのだけれど」
「名前が……ない?」
ふと、思い出したように彼女が発して、自分はその言葉に瞬きを忘れた。名前がない、とは。それではまるで。
「そのね。あたしたちの国では、そう簡単に本名を相手に告げないっていう古い慣習があるの。まあ、もう地図にない国のものだけれど!」
「あ……ああ、そうか、なるほど。僕はてっきり……」
「うん?」
「……いや、なんでもないんです。ええと……」
——それではまるで、あの日、目が覚めたときの自分のようだ。
喉元まで上ってきたその言葉を発することがなかったのは、彼女が名乗る名をもたない理由が自分のそれとは別に在ったからだった。そう、彼女は名乗らないのだ。名乗れないのではなく。ああ、だけれど。だけれど彼女の言葉によって一つ、気が付いたことがある。
「まあ、そういうことで、あたしのことは気軽にレディと呼んでちょうだいな。それで、こっちが……」
「ボーイと。元はミス・レディの給仕見習いとして仕えておりました。今はもっぱら護衛役ですが」
「僕は、マイロウドと言います。よろしく、レディにボーイ」
自分は、名乗れるのだ。名乗らないでも、名乗れないでもなく。そうなのだ、きっともう、旅立ちの日に与えられたこの言葉は、すっかり自分の名前として身体にも、心の中にも溶けてしまった。今更だ。今更なのだが、驚いた。あの言葉が、ごくごく自然に己の名前として自分の口から溢れ出すのが。その言葉が風に乗って耳に届けば、なんの躊躇いもなく名を呼ばれたと思って振り返るだろう自分自身が。ああ最早、記憶がないなどとは。自分にはこんなにも、記憶ばかりが残っているというのに。
「マイロウドは海へ向かっているのよね……何処か行きたい国でも在るの?」
ふとそう問われて、宙に浮かびかけた思考を地に降ろす。それから東の方角を眺めて、なんとはなしに空を見上げた。眩しいほどにきんと冴えた青空を、小さな黒い影が群れをなして横切っていく。もうじき冬を迎えようとしているこの緑の大陸を去って、何処か暖かな土地まで羽ばたいていく渡り鳥たち。視線を下ろし、顔をレディの方へと向ける。
「……分からないんです」
「分からない?」
「行きたい国だけじゃあない。僕は、自分自身がなんで海へ向かっているのかさえ、ほとんど分かっていないようなものだ」
「あら……」
息を吐くようにそう呟いて、レディがこちらを見る。絵に描いた太陽のような色をした瞳にじいっと見つめられ、その真っ直ぐな光になんだかばつが悪くなって眉を下げれば、彼女はちらりとボーイの方に顔を向けた後、どこかきょとんとした表情で少しだけ首を傾げた。
「不思議ね。まるで叱られる前の子どもみたいな顔をしてる」
「えっ……それって、ど、どういう顔……なんです?」
「小さい頃のあたしみたいな感じよ。叱られるときに決まって連れて行かれる部屋、大きな鏡が在ったからね」
「ミス・レディ。おそらくですが、それでは全く伝わらないかと」
「それは流石に自分でも分かってるけど、でもそれ以外に言いようがないわ。ボーイ、あなただってそう思わない?」
小さく笑んでレディは肩をすくめる。問われたボーイは、レディがよくそうするように、口の下に折った人差し指を添えてこちらを見た。そうして視線がかち合い、彼はその琥珀色の目に弧を描かせる。一つの瞬きの後にボーイはレディの方へと顔を向け、それからくすりと言うべきかくつりと言うべきか、微かな笑い声と共に呆れたように首を振った。
「正直、かつてのレディの方が遥かにふてぶてしい表情をしておられましたよ」
「まっ、失礼ね」
「ふふ、それは失礼致しました」
しかめっ面をしたレディを見やって潜めるように笑ったボーイと、そんな彼を眺めては仕方がなさそうに目を細めて息を吐くレディを視界に映して、なんとなくだが彼女たちの故郷の名前を思い出した。赤がねと黄金の王国。笑い合う二人の姿は絵画に描かれる赤々い太陽と金色の月のようであり、また、月光に照らされる銅か、陽光に照らされる黄金かのようでもあった。
「……なんだか……少し、寂しいような気がします。あなたたちの国がなくなってしまったのが。僕は、行ったことどころか、名前だって今まで聞いたこともなかったのに……」
喉元まで上ってきた言葉を今度は声にする。口の端からぽろりと零れたそれはほとんど独り言のようなものだったが、けれどもどうやら言葉はレディとボーイの耳に届いたらしい。二人は少しだけ丸くなった両目同士で顔を見合わせると、どちらからともなく柔く微笑んでこちらの方を向いた。レディの唇が笑みの形を保ったまま、微かに動く。それは声にはならなかったが、なんと言ったのかは自分にも分かった。それはきっと、ありがとう、だ。二人の故郷、赤がねと黄金の王国で言う、ありがとうの言葉。
「——だけどまあ、滅びちゃったのは仕方ないもんねえ」
つと、レディは冬空と言うよりは夏のそれのような声色でからりと事もなげにそう呟いた。その言葉にぱちりと瞬けば、彼女も何かを思い出したようにあっとその両手を合わせる。
「そう! あたしたち、マイロウド、あなたに訊きたいことがあったのよ!」
「訊きたいこと? なんだろう」
「常磐樹の街って、どうやって行くのかしら⁉」
彼女が半ば前のめりに発したその言葉に、もう一度瞬きをして思わずボーイの方を見る。地図は持っていないのだろうか。目が合うと、ボーイは自身の肩を申し訳なさそうにすくめた。
「港町では売り切れていたのです。港で売っている地図は共通語でしたが、他の町で見かけるものはどれもこの国の言葉で書かれているものばかりで……私たち、話すことはできるのですが、読むとなると……」
「そうなのよね、いつもぶっつけ本番なの。語学のお勉強もなあなあだったしね。だってあたしたち、超絶お転婆な元姫君となんだかんだでそれに付き合っちゃう元給仕の組み合わせだもの」
「申し訳ない。道筋だけざっくりとお教え頂けませんか? 覚えますので」
ボーイの言葉にもちろんと頷いて、大まかに此処から常磐樹の街までの道のりを説明していると、それがほぼ終わったところでレディがそうそう、とこちらの方を見て呟いた。
「ここだけの話でもないんだけど、じつはね、あたしたちっていうかあたし、王子さまを探しているのよ」
「王子さま?」
「そう。だから大陸から大陸へと飛び回っているの」
言って、レディはその口に指を当てて間を置く。そうして顔をずいとこちらへ近付けて、何かを見極めようとするように眉間に皺を寄せ、じいいっと自分の方を見つめた。それでも不思議と目が合わないのは、彼女の視線がこちらの瞳よりも少し上辺りを向いているからのようだった。彼女の顔の前で片手を振ってみる。けれども、集中しきっているのかレディは全く動じない。なんだろう。ちょっと困った。助けを求めるようにボーイの方を見てみたが、彼は諦めろと言わんばかりに緩くかぶりを振るばかりだった。
「……あなた……朱い髪に見憶えはないかしら? たとえば、あたしみたいな」
「赤い髪? 赤毛の人になら、この旅で何人か出会ってきましたけど……」
「ああ、違う違う。もっと昔のことよ。小さい頃の話!」
「小さい頃……す、すみません。僕、昔のことは憶えていなくて」
「……まっ、そうよねえ」
ううんと唸って、レディは両腕を組んで空を見上げた。そんな彼女に、ボーイは何も言わずに視線を送るばかり。彼が今浮かべている表情は、なんだか少し複雑なものだ。呆れるようでいて、面白がっているようでもあり、けれど、どこか不服そうでもある。笑顔と呼べばもちろんそう呼べるのだが、それでも一言で纏めてしまうには勿体ないほど様々な感情が見え隠れをくり返しているような気もした。レディが視線を戻して、やはりこちらの頭辺りを見やる。
「あたし、やっぱり金髪だったと思うのよね」
「金髪?」
「あたしの王子さま。小さい頃、ちょっと馬鹿やっちゃったあたしの命を助けてくださった恩人よ。ものすごい逆光で顔はぜんぜん見えなかったんだけど、それでも彼の輪郭が金色に輝いていたのはよおーく憶えているの」
「金の……輪郭? なんだかそれって、月みたいですね」
「月? 昼間なのに? あははっ、だったらあたしを助けてくれたのはお月さまってことね」
うんうんと可笑しそうに頷きながら、レディは腕組みを解くと、それからにいっと歯を見せるようにして笑った。
「だとしても、絶対に捕まえてみせるけどね。そのためならあたし、空だって飛んでみせるし、月へのながぁい梯子だって架けてみせるわ。絶対手の届かないものなんて、あたしの前には存在しないもの。恋する乙女のミス・レディのしつこさと言ったら、王国と言わず、全世界でいちばんの代物なんだから!」
そんなレディの勢いに思わず笑い声を洩らせば、彼女は不満の色を若干湛えたまなざしをこちらへと向ける。けれども彼女はすぐにその表情を和らげると、さも自信ありげにふふんと胸を張った。
「冗談だと思ってるんでしょ? あたしはやると言ったらやる女よ。ね、ボーイ?」
「……えっ? あ、ああ、はい。そうですね。そう、思います」
「ちょっと……何ぼうっとしてるの? だいじょうぶ?」
レディがボーイの方を振り向く前に見えた彼の表情からは、いつもそっと湛えられているものだと思っていた淡い笑みが消え失せていた。彼の特徴的な琥珀色の瞳は丸く見開かれ、驚いたようにレディの方を見つめている。微動だにしないボーイが、瞬きどころか呼吸すらも忘れているように見えて少しだけ不安だった。ただ、白い手袋をしている彼の右手だけが、心臓の近くできつく握られていた。
そうして彼は、レディに声をかけられて初めてその手を解き、瞬きと呼吸の仕方を思い出したようだった。レディは怪訝な顔をしながらも、視線をこちらへと戻す。
「……とにかくね、そんなあたしの王子さまを見付けてとっ捕まえて、〝愛しのマイ・レディ〟と言わせてみせるのよ!」
燃える緋色の瞳にきらきらとまばゆい光を宿して、レディははっきりとそう言いきった。ぐっと右手を握って己に言い聞かせるように力強く頷いてみせた彼女に感嘆の言葉を発するより早く、彼女の半歩後ろについているボーイが口を開いた。
「ミス・レディ。私はずっと気になっていたのですが、あなたはどうして……そんな名も知れぬ者のためにそこまでできるのでしょう?」
「はいっ?……あ、あなたまさか……今まで知らずについて来ていたの? な、嘆かわしいわね……何年あたしの従者をやっているのよ……」
「恐れながらレディ、一人では無理だから一緒に探してと泣きついてきたのはあなたの方で——」
「ああはいはい、それはそうでございますとも!」
額に手を置いて首を振るレディは、疲れたような溜め息を地面に落とす。それから顔を上げた彼女は片手を腰に当てたまま、仕様がなさそうにもう片方の手の人差し指を振った。
「——好きだからに決まってるじゃない。それ以外に何があるの?」
「……好きだから?」
「あら、もしかしてマイロウドまでご存知ない? 当たり前すぎてみんな忘れているけどね、好きっていうのは他の何よりも強い原動力になるのよ」
誇らしげにそう発して、レディはこちらを向いて笑った。彼女に気が付かれないようにそうっとボーイへと視線を動かせば、彼は自分の方を見て目を細めるだけの仕草で密やかに微笑んでみせる。レディはその長い緋色の髪の毛をかき上げると、腰に当てていた方の手でぱしりとボーイの背中を叩いた。
「さあーて、そろそろ行くわよ、鈍感さん!」
「ど、鈍感……」
「あたしがなんで王子さまを追いかけてるか、その理由にすら察しが付かないなんて従者としてまだまだねってことよ。常磐樹の街へ向かいながら、あたしが叩き直してあげるから覚悟なさい! 異存はないわよね、マイ・ボーイ?」
「……できれば、お手柔らかに……」
「やーよ! 無理よ!」
ボーイの方へ向き直ってそう断じたレディに、苦笑いを浮かべながらボーイが仰せのままにと頭を下げる。そんな二人の軽快なやり取りがボーイには申し訳ないと分かりつつも面白くて、思わず喉元から笑い声が洩れてしまった。けれどもその笑みをすぐ引っ込めたのは、おそらく、ボーイと向き合っているレディすら気付いていないことに自分が気が付いてしまったからだった。
「それじゃあ、マイロウド——マイロウド? どうかした?」
「——えっ、あっ、いえ……」
「……あなたたち、さっきからなんなのよ……」
呆れ混じりにそう言うレディの声が遠くに聞こえる。
——ああ、そうか。
そうなのだ。きっと、レディは気付いていない。だけれど、先ほど彼女自身が言ったのだ。好きというものは、他のどのようなものよりも人を突き動かす力になると。だとすれば彼は。彼が、今までずっと、彼女と共に歩いてきた理由は、その原動力は。ああ。単純な話だ。真っ直ぐで——少し、捻くれてもいる。だからこそ、ひどく光って見えるのだ。だって、彼は。そうだ、彼は笑っていた。彼女に頭を下げながら、顔に掛かる髪と伏せた目の下で、唇が弧を描いていたのだ。きっと、彼女以外の誰が見ても分かるだろう。その口元には、歌っているようにすら見えるほど、彼女への愛おしさが滲んでいた。彼の唇が、声のない言葉を紡ぐ。そのさまに、思わず太陽を見上げた。レディ、あなたはやっぱり気が付いていないのだろう、彼との距離が近すぎて。ああでも、彼は、彼の髪は、陽光を受けると金の輪郭を帯びるのだ。月のように。月でなくとも。
「……レディ」
「うん?」
「月って、どうして何処まで行ってもついて来るんでしょうね」
できるなら、すべてを言ってしまいたかった。けれども、できない。だって、彼がそうしていないのだから。彼女と長年連れ添っているはずの彼が、未だに。
「あなたが暗い道でも迷わないように、じゃない?」
そうしてやっとのことで吐き出した、突飛に聞こえるだろう自分の問いに、少しだけ首を傾げながらレディはそう答えを返した。それから彼女は何かを思案するように自身の口元を触って、東の高い空を見やった。
「マイロウド、あなた、どうして海に向かっているのか、何処に行きたいのか分からないって言っていたわね。なんだかすっごく悪いことをしてるみたいな顔をして」
「は、はい。その、自分がどういう顔をしていたかは分からないですけど……」
「たぶんね、いいのよ、それで。旅ってそういうものですもの。というか、だから人は旅をするんでしょう。分からないから。分からないのが、嫌だから」
レディの瞳がこちらを真っ直ぐに見る。その緋色と目が合った瞬間、その睫毛の隙間から、火の粉のように煌めく光が洩れているように感じた。
「マイロウド。人はね、見付けるために足を動かすものなのよ。手がかりも足がかりもなくたって、とにかく身体を動かすの。あたしみたいにね」
それはまるで、他人には見えないもう一つの心臓の場所を言い当てられたかのようだった。彼女はおそらく間抜けな顔をしているだろう自分の顔を見て、ふっと微笑むように表情を和らげると、西——常磐樹の街が在る方角へと一歩踏み出す。そうしてすれ違いざまに彼女はこちらの背中をボーイにしたものよりは優しく叩くと、
「良い旅を祈っているわ、マイロウド」
そう言って、ふわりとその髪を翻して歩き出した。彼女のすぐ後ろをついてボーイもまた西へと向かって歩を進めはじめ、そんな二人が頭上で輝く陽光を浴びるさまを眺めていれば、道端に立ち止まったままの自分の方をそっとボーイが振り返る。
そうして彼はこれまで見た中でいちばんの、とびきり悪戯っぽい笑みをその顔に浮かべると、妖しく弧を描いている唇に片手の人差し指を当てて、更に目をするりと細めた。秘密の合図。それを視界に映した瞬間、自分は何か神聖なもの、或いは見てはいけないものを目にしまったような気持ちに駆られて、慌てて顔を背けて二人とは逆方向へと早足に歩き出した。
——マイ・レディ、と言ったのだ。
彼女に頭を下げているとき、彼の唇が音もなく紡いだ言葉。彼は確かに、そう言ったのだ。マイ・レディと。自分にしか見えないように、彼はそう言ったのだ。
そうか。
ああ、そうだな。分かるよ。
彼の抱えているその感情を、想いを、きっと自分も知っているから。分かっているから。抱えてしまっているから。
自分は、彼とはまるで逆の道を選んだようだけれど。
東へ向かう。今はただ、海を目指す。分からないから。分かりたいから。分からないのは、嫌だから。マイロウド。自分の行き先が。自分自身が。
彼が左胸の辺りで手を握り締めていた理由も、ほんの少し、今なら分かる気がした。だって今、自分も同じところが熱を放っている。あの日、あの高台で湯を注がれた心の臓が、歩かなければ歩けなくなるほどに熱かった。振り返らない。振り返ることができない。きっと、その場にうずくまってしまうから。前を向く。歩き続ける。風が少しだけ吹いている。見上げた空が、息が詰まるほどに遠かった。高かった。青かった。
ああ。
知らないことが減るたびに胸が痛むのはきっと、一人になっても、独りぼっちにはなれないからなのだろう。
自分の足音だけが、澄んだ秋の終わりに響いている。
だから、少しだけ歌を歌った。常磐樹の街での、流行り歌を。
——そうだ。
これは、恋の歌だった。
恋の歌、だったのだ。
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