朝
風が強く、胸を撃っている。
王都〈アッキピテル〉を丸々囲う、さながら大鷹の両翼のような城壁を抜け、王都の入り口に当たるアッキピテル門を頭上に仰ぐと、その巨大な門の先には、城下町〈シュペルリング〉へと通じる赤煉瓦造りの大橋が、何人が通ろうとも、どっしりとその腰を据えている。
その大橋を渡り、また城下町も抜けて、レースラインはアッキピテル門よりは背が低く、しかしそれでも十二分に高い、〈シュペルリング〉の入り口で大きくその嘴を開ける、石造りの門の前に立った。
「……もうすぐ、朝だな」
町の入り口から、日の昇る方角を眺めてはそう呟いて、彼女は背後を振り返った。
視線を向けた先では、まだ残る夜に淡くその輪郭を浮かび上がらせている、カイメンの内に火を宿す強い茶の瞳が、少しばかり寂しげに弧を描いている。
鎖帷子に、夜明けを連れる鷹獅子の赤いタバードを纏った少年の後ろには、彼と同じく、夜も明けきらぬ内から騎士の出で立ちと化したレースラインの部下たちが、未だ明かりの灯る城下町の入り口で、人の目も、また誰の迷惑も気にせず、こんにちばかりはと整列していた。
——出立は、一人きりでと決めていた。
けれども、このソリスオルトス騎士団、〝世回り〟第十三番小隊は、騎士はもちろん、志願兵や衛生兵も含めたすべての隊員が、隊長の考えとは裏腹に、出立する彼女の後ろにこうしてずらりと並んでいる。
レースラインは、その淡い夜に浮かび上がる白い髪と、燃えるような赤いマントをなびかせて、カイメンの瞳と自分の目をかち合わせた。彼女の被る、銀色をした兜の頂で色を放つ尾羽もまた、強く吹き付ける風によって、飛び立つ鳥の羽のようにはためいている。
「……隊長の証は、おまえに預けて往こうと思っていたのだけれどね」
そう告げれば、カイメンはその瞳をほんの少しばかり細めて、ふっと洩らすように微笑んだ。その笑い方がどこか自身の師であるトゥールムに似ていて、そこでふとレースラインは、違う、と思った。
——違う。
カイメンのその表情がトゥールムと似ているのではない。自分のよくする笑い方が、トゥールムに似ているのだ。そしてそれは今、着々とこの真っ直ぐで情に篤い少年に受け継がれている。
そこまで思い至ると、レースラインはやはりほんの少しばかり目を細めてから、しかし大袈裟に声を上げて溜め息を吐いた。
「はあ! それってなんだか、すっごく嫌だな、すごく!」
「えっ? 何がですか、隊長?」
「なんでもないよ。あーあ……」
小さく笑ってかぶりを振ったレースラインに、カイメンは頭の上に分かり易く疑問符を浮かべ、小首を傾げていた。そんな彼に、レースラインは自身が被っている兜を頭から外して、カイメンの手のひらへと載せる。
「ま、それくらいは預かっておいてもらえないかな」
「……ゼーローゼ隊長」
「そんな顔をするものじゃあない。だって、そうだろう? 預けるということは、取りに戻るということだ。ただ私はね、今すごく……すごく、風を受けたい気分なんだよ」
そう言って微笑んだレースラインに応えるように、風が一際強く吹いた。
その突風に、彼女の纏う赤のタバードもマントも、真っ白な髪も闇に舞い上がる。そしてもちろん、彼女の部下たちも違わず風のその洗礼を受け、各々の髪やタバードがぶわりと宙に浮いていた。
城下町の入り口で好き勝手に舞う砂ぼこりに、めいめい顔を腕で押さえている部下たちの表情を見て、レースラインは、ふは、と少しだけ吹き出して笑う。それからちょっと首を傾げると、困ったような、それでいて悪戯っぽい表情で微笑んだ。
「——というか、たったひと月半だろう? おまえたちは大袈裟なんだよ」
「……自分たちを大袈裟にしたのは、いつも無茶ばかりをなさる隊長ですが」
「おっと……それに対しては、返す言葉も見付からないな」
先日、騎士長トゥールムから密かに命を受け、城を出ることになったレースラインは、出立の今日、夜明け前にひっそりと城門を抜ける予定だった。
城内の知人はおろか、数少ない自身の友人や十三小隊の部下、そしてカイメンにすら何も言わなかったのは、自ら別れを告げるのが怖かったからかもしれない。或いは、止められて決心が鈍るのを、自分は恐れていたのかもしれなかった。
けれども、夜中の内に起き出しては聖水でその身を清めたレースラインが、出立の準備を終えて詰め所の自室から出てみると、そこには一体いつから待っていたのか、スタラーニイ・カイメン副隊長が、扉の前に仁王立ちで待ち構えていた。彼は起床時間はまだ先であるにもかかわらず、鎖帷子に赤のタバード、尾羽が一つ飾られた兜を身に纏っている。
そうしてカイメンは、部屋の扉を開けたまま驚いて固まっているレースラインを目にすると、その顔をにっこりと歪めて、
「おはようございます、ゼーローゼ隊長。申し訳ありませんが、少々お待ちを!」
と彼女に告げ、詰め所の中を駆け出した。
やはり今日ばかりはと他人の迷惑も考えないで、大音声で第十三番小隊起床の号令を発し、隊員のいる部屋の扉を走りざまにがんがんと叩くカイメンを、レースラインは半ば放心したように眺めていた。
騎士の詰め所には百以上の部屋が存在するが、それでも騎士団には様々な隊が在り、部屋の数はとても足りない。そのため隊長の位をもつ騎士でも、王都に滞在する騎士の数が多くなれば、他の騎士と相部屋にされることなど日常茶飯事である。
レースラインは騎士団の中でも低く見られがちな世回りの、しかもたかが小隊長でありながら、性別と、えこ贔屓をするたちの彼女の、その師であるトゥールム騎士長のえこ贔屓により、いつも詰め所の角部屋を丸々一つ与えられている。
……が、当たり前なことに、そんな人間は早々他にいない。今カイメンが激しく叩いているあの扉やこの扉の向こうに、一体何人の騎士が眠っていて、そして一体何人の騎士が他の隊の騎士なのだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、ぼうっとカイメンのことを眺めていたレースラインの目に、ばん、と音を立てて不機嫌そうに部屋から出てきた部下の姿が映る。
しかしその渋面は、起床時間にはまだ遠い時間に叩き起こされたことによるものでは、どうやらないらしかった。カイメンの大声に自室から出てきた彼は、鎖帷子に赤のタバードを纏い、そして兜は片腕に抱え、副隊長と違わず騎士の出で立ちをしている。
そして、部下を叩き起こして回るカイメンの方を、彼はほとんど睨み付けるように見た。それから彼はなんだかあくどい笑みをその顔に浮かべると、そこに書かれている言葉を、すうと息を吸い込んでから、カイメンの背中に向かって声を張り上げて叫んだ。
「——起きてるのがお前だけだと思うなよ、副隊長!」
その言葉に振り返り、はは、と小さく笑って頷いたカイメンに、彼は副隊長とは逆方向へと駆け出して、彼も彼で起床の号令を吼えはじめた。
そうしてみれば、彼と同じように不機嫌な表情をした部下や、或いは少しばかり得意げな表情をした部下が、皆が皆口裏合わせでもしたように騎士の出で立ちをして、続々と自室の扉を開けて出てくる。
夜明け前の詰め所を大騒ぎでかき乱す、そんな部下の姿を見て、レースラインは自室の扉の前で蹲った。
そうして小刻みに震える肩は、おそらく笑っていたのだろう。けれども、寝惚けまなこを擦りながら出てきた他の隊の騎士に、
「——すまない、私の部下なんだ……!」
と、蹲ったまま、顔ばかりを上げてそう告げた彼女のその声は震え、勿忘草色の瞳などは、何か水面のようにも揺らいで見えた。
ややあってレースラインの前に集まった、世回り第十三番小隊の騎士たちは、廊下で蹲っている彼女を見て互いに顔を見合わせた。その中でふと、扉が開いたままになっているレースラインの部屋の方を、カイメンが見やる。
彼はその中に隊長の証であるマントの赤と、三本の尾羽が飾られた兜が置き去りにされているのを見付けて、少しだけ怒ったような表情でそれを取りに、断りもなく彼女の部屋の中へと入っていった。
そして、マントと兜を両腕に抱えて戻ったカイメンは、いつかのように彼女の両肩へとそのマントを羽織らせて、それから兜をレースラインの前へと差し出した。それを蹲ったまま受け取ったレースラインを目に映すと、彼は一歩退き、そうして彼女の前で右腕を背に、左腕を心の臓へと捧げる敬礼をする。
「——我々は、何処までも隊長に御供致します。果てまでも」
往くのを止めるどころか、なんの迷いもなくこちらの目を見てそう言い放ったカイメンに、レースラインは左手をぎこちなく動かして、その赤いマントの金具を留める。
そうして彼女は立ち上がると、何も発しないまま騎士たちに背を向け、それからしばらくの間天井を見上げていた。レースラインの部下たちにはその表情は見えない。ただ、動かない白と赤の隣で、彼女の拳がきつく握られているのだけが、彼らには見えていた。
ふと、レースラインが息を吸い込んだ音が聴こえて、十三番小隊の騎士たちは無意識にその背筋を伸ばす。それから振り返った彼女の表情は、いつものように薄く微笑んでいたが、しかしその水色の目の端はほんの少し、ほんの少しばかり光っていた。
「ばか者め。……城下町までにしろ」
それだけ言って歩き出したレースラインを追って、一行は城下町の入り口まで辿り着き、そうして今に至る。
レースラインは道にずらりと並んだ隊員たちを見渡して、それから振り返り、段々と白んでいく空を眺めた。
「——それじゃあ、しばらくの間、隊は任せたよ」
「全身全霊で務めさせて頂きます、お任せください。……それで……どのような任務で出立なさるのかは、やはりお教え頂けないのでしょうか」
「ああ、それか……」
溜め息を吐いて、レースラインは腰に差した二本の剣をちらりと見やる。それから未だ残る夜の色の中でも、ぬらりと黒く輝いて存在を示している軍刀の鞘に、その左手で触れた。
「——歩いてこい、と」
「はい?」
「自分の守るべき國が、民が、一体どのようなものなのか。それを学ぶために、この國を歩いてこい——と、そう騎士長は私に命じたよ。だからじつは、これは休暇なんだ。溜まりに溜まった数年分の有給休暇を消化してやるから、そら散歩にでも行ってこい、とのことだ。はあ、まったく、有り難い限りだね!」
口元を歪めて皮肉たっぷりにそう言ったレースラインに、カイメンを含めた隊員たちは各々顔を見合わせ、それからちょっとだけ困ったような苦笑をしていた。
「……それでは、お土産を期待してもよろしいということでしょうか?」
「おやおや、さては調子に乗ったな?……ま、そうだね。土産の一つや二つは期待していてもいい」
「それじゃあ、少ないですよ」
「何?」
その言葉に顔を上げたレースラインに、少年の真っ直ぐな視線が注がれる。カイメンの焦げ茶の瞳は穏やかな光を宿して細められ、口元などは優しげに弧を描いていた。
「隊長なら、もっとたくさんのものを持って帰ってこれるでしょう。私たちは、いろんなものを見た隊長から、いろんな話が聴きたい。一つや二つでは足りません。もっとたくさん……たくさん、話してください」
「……カイメン」
「——そうだ。隊長が戻った暁には、我々で詰め所の談話室を占拠してやりましょう。うん、そうだ。それがいい!」
「おまえは存外、悪がき、だなあ……」
そう言って小さく笑ったレースラインの右半身に、顔を出しつつある太陽が、まだ淡い朝の光を投げかけていた。風がまた強く吹き、彼女たちの纏う赤をどこか急かすように煽る。城下町の門番の手によって焚かれていた火の灯りは、同じく門番の手によってその役目を終えていた。
町のどこかで、家の窓が開く音がしている。そこから顔を出した早起きは、夜も明けきらぬ内から道の真ん中に整列している、赤色の騎士たちを見やっては少しぎょっとしていた。
けれども、窓から町を眺めた彼がその目を見開いたのは、騎士がずらりと並んでいるばかりが理由ではなかった。
——こつ、と石畳を蹴る音がする。
それと同時に、馬の蹄の音も聞こえてきた。その両方の音、足の運び方にどこか聞き憶えのあるレースラインは、ほんの少しだけ自身の口角を上げて、そこから溜め息を吐く。
彼女が息を吐くのと共に、先頭のカイメンより後ろの列が、道の真ん中で真っ二つに分かれた。すっと身を引いて道を空けた隊員たちは、しかし驚きの表情をその顔に浮かべている。
レースラインの方ばかりを見ていたカイメンは、一斉に動いた足音に驚いて背後を振り返り、そうして彼も驚いた顔をしながら、少し遅れてその身体をレースラインの前から、一歩分ほど横にずらした。
「……お見送りですか、たかが小隊長に対して? 部下想いですね、騎士長」
「まあ、私はそれなりに贔屓をするたちなのでね」
騎士の敬礼を自分に向けている部下たちに向けて、ひらりとその手のひらを振ると、トゥールムはその目を少しだけ細めて微笑む。そうしてふと、執務室ではそれを纏っている姿を目にしない、王室騎士隊〝鷹の羽〟の総隊長——ソリスオルトス騎士団の長である証のマントが、そこにいる誰もの目に映った。
赤みの黒で染め上げられ、翼を模している金の装飾で縁取られたその漆黒のマントは、朝の風を含んで光と影を発しながら波打っている。
「見送りもあるが……お前に、忘れものを届けに来た」
そう言うと、トゥールムは自身の隣で朝陽を浴びている、葦毛の馬へと視線をやった。
「……歩けと言ったのは先生では?」
「それはそうだが、それにしてもお前、徒歩で往く気だったのか? 変なところで真面目だな」
「素直と仰ってください、素直と」
「何を。真逆だろう? お前みたいなのは、不器用、と言うのだよ。レースライン」
その言葉に、レースラインは自身の師に対してわざとらしく溜め息を吐いた。
そうしてトゥールムから馬の手綱を受け取ると、その葦毛の首筋を彼女は掻く。そんなレースラインの方を見て、トゥールムは洩らすように笑い、その片眉ばかりをついと上げた。
「レン。お前、その馬に名も与えてやってはいないのだろう?」
「……故郷にいた頃は、名を与えずとも呼ばずとも、名を知らせずとも、獣と心を交わすことができましたので」
自分に対して初めて、自身の過去を言及したレースラインに、トゥールムは珍しくその目を少しだけ見開いていた。
「——零で、よかったんです。でも、名で呼ばなかったのは、いずれ来る別れ——たとえば、自分が相手を狩って、それを糧にするときに、その決意を鈍らせないようにするためだったのかもしれない。何か失くすくらいなら、はじめから何もない方がいい、と」
睫毛を伏せるようにして笑った彼女は、しかしその白を上げて、少しだけ寂しそうにトゥールムの方を見た。
「でも、いつからか逆になってしまったみたいです。もう戻らないものにしがみ付いて、そこに在ったものが何もかもなくなってしまうくらいなら、これから先はもう何も要らない、と。そうやって私は、いろんなものを失くしてきたみたいだ」
言って、彼女はその額を葦毛の鼻先へとそっと押し付けた。
首筋を掻くその左手に与えられるぬくもりに対して、彼の鼻先はひんやりと冷たく湿っている。おぼろげな朝陽に照らされる白いたてがみが、毛先の方は金の色に輝いて、その光の粒が彼の黒く濡れた瞳に落ちては煌めいていた。
レースラインは葦毛の鼻先から顔を上げ、トゥールムと隊員たちの立っている方を振り返る。
「知っていますか、先生。レンという名も、ゼロという名も、もっている意味は同じなんです。〝何もない〟……」
「いいや、違う」
「はい?」
「……私の知る限り、レンという言葉はレースライン、ゼロという言葉はゼーローゼという名前から来ている略称だ。ま、ゼロに関しては多少、お前の言うような嫌味も入っているかもしれないがね。それでもレースラインという名前は〝野に咲く薔薇〟、ゼーローゼは〝水面に浮かぶ薔薇〟という意味だろう。どうかな、何か違うか?」
「そ、れは……」
こともなげにそう言ってのけたトゥールムに、レースラインの勿忘草が透明な膜を張って、夜明けの中で柔く輝いた。
前を向けば多くが湛える瞳の光、振り向けば葦毛が浴びる金の光、東には太陽の光、西には月の光、天を仰げば未だ煌めく星の光。光の中、逃げ場はなかった。きっと、下を向けば零れてしまうだろう。
彼女は何かを堪えるように眉根を寄せながら、口元を無理やり笑みのかたちに歪めて、トゥールムの方を見た。
「……先生は……もう少し、昔の言葉の意味を学習なさった方がよろしいかと」
「ふふ、私はどうも術師がいけ好かなくてね。特に錬金術師、あのいい年をして未だに——いいや、むしろ年々酷くなってるか——風来坊のような振る舞いをする、あのじいさまが!」
「なるほど、聞かなかったことにしておきます」
そう言って今度はわざとらしくにっこりと微笑んだレースラインに、トゥールムもその金茶の瞳を細めて、小さく声を上げて笑った。
レースラインはふっと息を吐くと、再び葦毛の方を振り返り、その光に淡く煌めく黒色を、柔らかなまなざしで見つめ、それから自身の薄い唇を動かして、言った。
「——〝ゼロ〟」
その言葉に、トゥールムやカイメンをはじめとする隊員たちだけではなく、葦毛自身の睫毛もぴくりと動いたようだった。
「おまえのことは、ゼロと呼ぼう。〝何もない〟のゼロでもない、ゼーローゼのゼロでもない。〝はじまり〟のゼロ、だ。これからすべてが始まる、その〝ゼロ〟だよ」
レースラインの与えたその名に、葦毛が何を思ったのかは分からない。
自分たちと同じ言葉をもたない獣たちと、どうやって心を通わせていたのか。その方法を、自分はきっと忘れてしまった。名を与えず、呼ばず、知らせず、それでも彼らと心を交わしていた自分は、きっとあの日、すべて燃えてしまったのだ。
——それは、この命と引き換えに。
それは、生きることにしがみ付いた、この自分と引き換えに。
「私はもう、故郷へは帰らない。あの頃の自分を灰の中から取り戻すことも、きっとないだろう。でも、だから……だからこそ私は、今の私のやり方で、おまえと心を交わしたいと思う。名前を与えて、呼んで、自分の名前も知らせて……
——私の名前は、レースラインだよ、ゼロ。……ああ……こんなたいせつなことをずっと忘れていたなんて、ほんと、馬鹿みたいだな……」
そう泣き出しそうな顔で微笑んで、彼女は今までずっと動かしていなかった、右肩より下の部分を動かす。かしゃり、とどこか騎士の甲冑が動くような音がして、その場にいた全員の視線がレースラインの右腕へと向かった。
「ずっと、零が怖かったんだ。何もなくなってしまうのが、怖かった。……今も、そうだ。でも、だけど、私も零から始めてみようと思う。何もない処から、もう一度」
背筋を伸ばし、両脚に力を入れて、彼女はその右腕を昇りつつある太陽の光にかざした。
目覚めたあの日、トゥールムから与えられたこの銀色の義手は、未だ身体に馴染まず、動かすたびに鈍い痛みを伴う。本来の右腕が在った頃には感じていなかった痛みが、今になって一気に押し寄せてきたようだ。動かせば痛みを感じるというのに、何かに触れてもその感覚は自分の中に伝わってこない。
——まるであべこべだった。
在ったものが今はなく、なかったものが今は在る。
しかしレースラインは、だが、と、ぐっと逆光の中でその銀の手のひらを強く握った。
「——だが、それなら、私だ……!」
嘘、真、本音、冗談、狩り、殺し、魔獣、黄昏、狭間の時間、二つの光、半分の火傷、まだらの傷痕、黒と白——そうやって無数の矛盾の中を、あまりにも醜く、あまりにも生き汚く、人と獣の狭間を、自身のたそがれに爪を立てながら歩いてきたのだ。
それは、正しくなかったかもしれない。それは、間違っていたかもしれない。
——それでもそれが、自分だった。
そのあべこべが、すべて、自分なのだ。
血の通う左腕も、血の通わない右腕も、そのすべてが。
「ゼーローゼ隊長」
ふと、カイメンの声が響いて、レースラインは力を込めたその銀色の拳を少しだけ緩めた。
「——我々を、忘れて頂いては困ります」
「え?」
「零ではありませんよ、隊長」
ぶわり、と強く風が吹いて、レースラインの心の臓をほとんど殴るようにして撃った。
十三番小隊の隊員たちが、皆が皆互いの心を知っているかのように、右の腕を背に回しては、左の拳を自身の心の臓の上へと捧げる。耳の中で、自分の鼓動が脈打っているのをレースラインは感じたが、最早どう鳴っているのか、速いのか遅いのか、それすらもよくは分からなかった。
レースラインは背筋を正し、自身の爪先をカイメンとトゥールムを先頭に、一糸乱れずに整列している自身の仲間たちへと向ける。それから彼女は顎を引き、トゥールムの獅子目を見た後、視線だけで頷いては、カイメンの朝陽に照らされて金に輝いて見える、ひたむきな焦げ茶の瞳を見やった。
白い睫毛を上げ、真っ直ぐに彼らを見つめるレースラインの瞳は、まるで光に照る青い薔薇のような色を湛えている。
彼女は自身の鼓動に近い方の手のひらを、己の心の臓の上で強く握り、銀色の腕は背へと回した。その冷たい手のひらはしかし、彼女の青く燃え立つ意志によって、きつくきつく握られている。
「そうだね。——たいせつなことを、また忘れるところだった」
その言葉に、カイメンたち隊員は皆、満足と安心を織り交ぜたような表情で頷いた。そこには多少、呆れの色も在ったかもしれないが、レースラインには最早それすらも愛おしかった。
それはきっと自分が今まで忘れていた感情、再び燃え上がることはないだろうと思っていた燃え殻だった。少しだけ痛い。頬を引っ張るように、心を引っ張られるようだった。ああ、そうか。ずっと、痛かったのか。痛すぎて、もうずっと、分からなくなっていたのか。ああ、そうなのか。そうだった。きっと、そうだ。きっと、この痛みが在ったから、想い出すのだ。
愛した者たちのことを。
愛する者たちのことを。
ねがいも、呪いも、争いも、黄昏も、そんな運命の残酷の元はすべて、愛かもしれなかった。
たかが愛のために。
——たかが、愛だからこそ。
ふと、トゥールムがレースラインの瞳を見た。それから彼は、自身の心の臓を左手で軽くとんと叩き、彼女へ向けて小さく頷く。
「——独りですべてを為そうとするな、レースライン。お前は決して、独りではないだろう?」
そう口角を上げてにやりと笑った師に、レースラインは左腕を腰に当てて、彼女もまたどこかあくどく微笑みながら、その銀の右手をひらりと振った。
「そんなかわいい部下たちと私を引き裂くのは、他でもないトゥールム騎士長さまでいらっしゃいますが」
「……やれやれ。お前のその反抗期は、一体いつになったら治まるのだろうかな」
「まさか! 始まったばかりですよ、こんなものは。まだまだ、これから……」
レースラインは城下町の入り口の方を振り返り、金の光を振りまくゼロの手綱を引いて、その一歩を踏み出した。風が強く吹き付けて、レースラインの髪やマントを夜明けの中に翻す。
——彼女の銀の手が、真っ黒な軍刀の鞘に触れた。
そうして感じた痛みは右腕を動かしたからか、或いは、再び握ることを決意した軍刀に触れたからか。
それから彼女は、大地に降り注ぐ光の一つをその右の手のひらで掴むと、まるで己の意志を手にしたかのように、その口角をにっと上げた。掲げた右腕の色がレースラインの髪に反射し、彼女の白が淡く銀に輝いている。
目を閉じて、
再び開いた。
「そう……」
そこには、世界が在る。
レースラインは、夜明けの訪れた空と大地の間、その真ん中に流れる空気を肺一杯に吸い込み、真っ直ぐに前を向いた。
「——すべて、これからだ……!」
朝を告げる鐘が、町中に響き渡る。
そうして旅立ったレースラインが、まるで呼ばれるようにして、失せ物探しの召喚師へと再びの邂逅を果たしたのは、それから数日経ってのことだった。
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