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ひびの結び目

 目次

 靴紐を結んで、外に出る。
 生ぬるい風と朝の光を頬に感じながら、丹は寝不足で涙が滲んだ目元を軽く擦って、深く息を吸った。それから落とすように溜め息を吐き、こめかみの辺りを押さえる。朝の太陽はまばゆい光を惜しみなく放っていた。
 ――痛いような気がする。……苦しいような気がするのだった。息を吸う、それだけで。
 父の病が安静にさえしていれば日常生活に支障のないものだということは、数日前に分かっていた。安静にさえ、していれば。そうしていれば、今すぐ逝ってしまうということは有り得ないらしい。しかし、父はあのとき何て言っただろう。自分が、彼のことを殴る直前……
(あまり長く、生きれない……)
 それこそ、父の本心だったのだろう。長く、生きれない。長く生きる気が、おそらく彼にはないのだ。そう、夫である前に、父である前に、彼は旅人なのだった。それを咎める人もいるだろう、ふざけるなと殴る人もいるだろう、自分がそうだったように。それでも知っているのだ。そうだ、おれは父の子どもなのだ、だからこそ――だからこそ、痛いほどに知っている。父が、彼が、頭のてっぺんから爪先まで、心臓から血の一滴まで、肌から骨まで、そのすべてが旅人なのだということを。……おれが、父と或る意味で似た者同士なように。
 その、朝の光にそぐわない沈むばかりの考えを吹き飛ばすように、丹の近くで高い鈴の音が二回鳴った。聞き覚えのある音に顔を上げると、そこには自転車にまたがって眩しい太陽にも負けないような笑みを浮かべている自身の友人がいた。
 乾いているが緩い熱を含んだ風に吹かれて、彼の栗の色に似た茶の髪が微かに揺れている。寝起きなのか、彼の髪の毛はあちこち寝癖がひどい。彼はややつり目がちで勝気にも見えるその緑を帯びた青色の瞳を更に細めると、丹に向かって快活な笑い声を上げた。
「おはよう丹! 何つうか、あれだ、ひどい顔だな!」
「……出水……」
「おう」
 名前を呼ばれた男は待ってましたとばかりに頷き、自転車から降りてこちらへ近付き、丹の顔をじろじろと眺めた。
「夜なべしてランタン造ってた……って顔じゃあ、ねえな。悩み事か、お人好しの泣き虫さんよ」
「……まぁ、いろいろあってな」
「いや、いい! 何も言うな! 俺たちは心で通じ合う友だちってやつだろ、丹!」
「へいへい……」
 出水はどこか疲れたようにそう呟く丹の顔を再び見ると、一歩下がって腕を組み、喉の奥で絞り出すように唸った。納戸色の目を閉じたり開いたりしながら彼は何かを考えていたようだったが、しばらくすると小さく息を吐いては困ったように笑い、口の端を歪めた。
「ほんとに元気ねえな、だいじょうぶか?」
「……ああ」
「……」
「出水?」
「――あのな、丹」
 呼ばれて丹が出水の顔を見れば、彼はぼりぼりとその茶色の髪の毛を片手で引っ掻き回したと思えば深く息を吸い、頭を掻いていたその手のひらを自身の胸の辺りに持っていくと、心臓の辺りを親指で示した。それの意味がよく分からずに丹は眉をひそめる。
「此処によ、ごちゃごちゃして、もやもやしたもんが溜まったときは……何も考えずに動けばいいんだよ、俺たちは男なんだから。俺だってお前だって、頭で考えるたちじゃないだろ?――というわけで、俺さまのチャリンコをまこっちゃんに貸してやろう。俺たちは心で通じ合う友だちだからな!」
「いや、出水……貸すって言ったって、俺はこれで何処に行くんだよ」
「それはお前が考えることだろうが、丹。何処にでも行けるぞ、こいつは」
「……」
 明後日辺りに取りに来るわ、と片手を上げて出水が丹に背を向けた。それを止める気力も今は底を尽きている丹は、ぼんやりと彼のその去ろうとする背を眺めるばかり。
 しかし、そのまま帰路を辿るのかと思われた背が急にこちらを振り返る。それから緑味の青を楽しげに細め、丹の方を指差しては朝を告げる鶏よりも大きな声を上げた。そしてそれは、どこか微睡む丹の心を叩き起こすかのようでもあった。
「丹! 一個、訂正!」
「え?」
「――俺たち、友だちじゃなくて、親友、な!」


 目の前に広がる空と、その下に佇んでいる自転車を交互に眺めては息を吐いた。
 そんな風に丹はしばらくの間自転車の前に突っ立っていたが、いつの間にやら自分のそばにやってきていたらしい犬が自身の足元でこげ茶の毛並みを震わせて、こちらを見たかと思えば小生意気にも見える態度でフンと鼻を鳴らしたのを見て、彼はしゃがんでその犬の頭を撫でながら、片方の車輪を見るともなく見つめてさながら溜め息のように呟く。犬も丹の目線を追った。
「何処にでも行けるって言ったって、なあ……」
 犬に足を鼻先でつつかれ、観念したように立ち上がった丹はとりあえず自転車のハンドルを握った。その片腕に額を押し付けながら、深く息を吸う。肺の辺りが、空気とは違う何かでいっぱいになっているような心地がした。吸った空気が肺まで届かず、また空気として口から外へと出ていくような心地もする。
 体勢はそのままにちらっと犬の方を見てみれば、犬は早く漕げと言わんばかりに鼻を鳴らすばかり。丹は顔を上げ、少し笑ってから頭を左右に軽く振った。
「うん……うん、じゃ、ちょっと行くか」
 靴の紐がきちんと結ばれていることを確認すると、丹は片足に力を込めてペダルを漕ぎはじめた。
 緩やかに景色が流れてゆき、ぬるかった風が少しばかり涼しげなものへと変わっていく。あまり速さを稼がず、随分と久しぶりに乗るのだろう自転車を操る感覚を取り戻すように丹はなるたけ穏やかに車輪を転がし、犬もその横を同じような速度でついてきた。
 連なる家々を通り過ぎ、欠けた石畳に腰を浮かし、香る樹の香り、花の香りを風と共に追い越しては進む。元々そんなに狭くもない空が、町はずれへと向かっていく内に更に広くなってゆく。ひなたで昼寝をしていた猫を、自分に付き添う犬がからかう姿が横目に見えて笑いが漏れた。犬は一つ吠えるとまた自転車の横につくように走り出す。太陽の眩しさが走り出したときよりも強くなった。首筋の汗を片手で拭い、丹は立ち上がってペダルに込める力を強める。
 何処まで行けるだろう、このまま。自身の住む小さな町を背後に見送り、丹は高く、広く、そして青い空を見上げて息を吐いた。
 ――そういえば、今の今まで息をするのを忘れていたような気がする。


 町をいくつ通り越しただろう。傾きはじめた太陽を辰砂色の瞳で眺めながら、丹はハンドルに両腕を預けてそれでも車輪を転がしている。
「調子に乗った……」
 土手の上を走りながら、汗で額に張り付いてしまった前髪をかき上げて丹は呟いた。寒がりな彼の上着は珍しいことに、とうの昔に彼の腰へと移動している。暮れはじめた空に吹く風は思うよりも冷たく、しかしそれすらも今の丹には心地好いのだった。
 ちなみにその脚で一日中丹と共に走った犬は、自転車に乗っている丹よりも未だ元気に見える。丹は参ったように頭を掻いた。
「さて、どうやって帰るかな……」
 そう言いながらも答えは定まらずに自転車を漕ぎ続ける丹である。
 無論帰りもその脚で、とでも言うように犬は尻尾をぶんぶんと振って走っていく。最早犬は丹の横ではなく、前を走っていた。丹は緩やかに車輪を転がしながら、今日一日走ってきた距離を思う。そして彼は唐突に決意した。帰りは電車だ。幸い、この辺りから自分の町までは〝ど〟を付けても差し支えないほどに田舎である。自転車と犬一匹の乗車も、おそらくは大目に見てもらえるだろう。というか、見てもらえないと困る。幾ら若者と言っても自分の足はもう大分、棒になっているのだった。
 そんなことを思いつつ、ぼうっと空に流れる雲を眺めながら自転車を漕いでいると、突然身体が宙に浮くような感覚が丹を襲った。
 丹が何か声を上げる前に自転車は大袈裟な角度で地面を下り、彼は自分の身に何が起きたのかも分からずに気が付けば草の上に投げ出されていた。痛む腕で上半身を支えて微かに顔を上げてみれば、自分の近くには派手な音を立てて転がった自転車が虚しく車輪だけを回転させている。
 呻きながら辺りを見回すと、どうやら自分は土手の下の河川敷に転がったらしかった。ぼんやり走っていたせいで気付かぬ内に自分が走るべき遊歩道を外れ、間抜けにも此処へと落っこちたのだろう。見たところ自転車は無事なように思えるが、こちらはあちこちぼろぼろなのが見ようとしなくても分かった。そこかしこが痛い。
 丹は何とか身体を起こすと立ち上がると――頭に強い衝撃を受けて、再び地面に引っくり返った。
「な、何なんだ……」
 丹は、自分にとどめを刺すようなその一撃に、これはこの間病人を殴った自分への天罰のようなものだろうかと思わずにはいられなかった。自分の近くで何か声がするのを感じながら、しかし目の前で星が散らばるばかりの丹は何やら意味を成さない母音を唸るように発するばかりである。
「――ご、ごめんなさい、兄ちゃん……だいじょうぶ?」
「いや、だめかもしれない……」
「えっ」
「……嘘だよ」
 何かが直撃した額を押さえながら、めげずに丹はもう一度身体を起こした。地面の上で胡坐になって、自分の近くに転がるものを認めると、なるほど自分の頭に当たったのはサッカーボールだということを彼は理解し、謝りに来た少年――おそらくボールを蹴った張本人だろう――に、自分はだいじょうぶだと笑って片手をひらひらさせる。
 少年は安堵したように息を吐き、それを合図に丹は自分の周りの景色をその瞳に映した。
 腕も脚も、おそらく顔も泥だらけ、擦り傷だらけだろう身体ととどめの一撃を喰らった頭が呼吸をするたびに痛む。そんな彼の目に映るのは、河川敷でサッカーをする数人の少年。その奥には自分の町に流れる川とは比べて大きなそれが、赤くなりつつある橙の陽光を映して穏やかに流れていた。
 川の水面は輝き、それは或る日の火の粉に、或る日のひび割れたガラスに、或る日の光の粒に、花の色に、燐寸の炎に見える。瞼を閉じると、未だ空回る車輪の音と共に少年たちの笑い声と水の流れゆく音が耳に反響した。
「あの……兄ちゃん、そんなに痛かった?」
「え……」
 瞼を開けた丹の瞳から一粒涙が零れ落ちたのを見て、少年が心配そうに、また申し訳なさそうに問いかけた。言われて初めて自分が泣いたことに気が付いた丹は小さく笑って頭を掻く。丹が二度目に引っくり返ったときにはもう戻ってきていた犬が彼の頬に伝う涙の痕を舐めて鼻を鳴らした。
「うん、痛かった、なあ……」
「えっと、兄ちゃん……」
「……あのさ、世界一だよ」
「世界一?」
「おまえの蹴るシュート、世界一」
 少年が顔を輝かせたのを見て、丹は深く息を吸ってみる。あちこち怪我をしたおかげで呼吸をするだけで全身が痛むが、肺に溜まっていた空気じゃないものたちは大方何処かへ飛び去り、息を吸ってもそれほど苦しいとは思わなかった。
 暖かい色をした陽に照らされた輝く少年の髪を撫でると丹は立ち上がり、投げ出された自転車を役目を果たせるかたちへと起こした。いててと声を上げながら自転車を引いていこうとする丹に、少年が声をかける。
「――兄ちゃん、靴紐!」
「え?……ああ、ありがとう!」

 靴紐を結んで、再び歩き出す。
 ぼろぼろの身体で帰ってきた彼に、後日彼の親友は、昨日と違う意味でひどい顔だな、と笑いながら彼の痛む背中を無遠慮に叩いたが、それはまた別のお話。


20161015
シリーズ:『手のひらのかがり火

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