声
〈オルカ〉の町までアインベルと一緒に行くと申し出たリトに、キトは背負っていた盾を地面に置いて、左の手のひらで右の拳を包んでこうべを垂れる、まもりびと特有の敬礼をした。
「お心遣いに感謝する。不始末な仕事ばかりで申し訳ないが、どうかアインベルを無事に送り届けてやってほしい」
キトの形式ばった物言いに、不慣れなリトはよしてくれと軽く手を振りながら苦笑した。下げた頭の上から降ってきた声にキトは顔を上げると、自分の前に、リトと共に立っているアインベルの方を見てちょっとだけその黄金の瞳を細める。
「最後まで無責任ですまなかったな、アインベル」
「そんな……だって僕、お金も払ってないのに」
「送り届けると言い出したのは俺たちだ。お前から取れるわけがないだろう」
「じ、じゃあ!」
リトの隣に並んでいたアインベルはそう声を発すると、一歩前に出て、キトの前で自身の持つ鈴の杖をしゃんしゃんと鳴らした。
「仕事じゃないよ、えっと……そうだ、友だち!——友だちとの、散歩だ!」
そう声を上げるアインベルに、キトの後ろに立っているメグは笑い声を上げた。キトもふっと息を洩らすようにして笑うと、それから彼は、アインベルの淡い水色をした癖っ毛をくしゃりと撫でる。
そうしてキトは、一度軽く咳払いをすると、先ほどのアインベルの言葉を受けて、別れの言葉を言い直した。
「……せっかくだったのに、悪かった。急用ができたから、もう行かないと」
「ううん、いいよ。僕たちのたいせつなものを守ってくれ、ガーディアン・キト」
アインベルは一つ息を置いて、それから柔らかく微笑んだ。
「僕は、キトさんを信じてる」
「——承知」
言って、キトは先ほどリトへと向けてしたように、左手で右の拳を守るようにして包む、まもりびとの敬礼をした。そうして、背後のメグを振り返る。
「……それじゃあ、そろそろ行こう、メラグラーナ。というか、何もお前までついてくる必要はないんだが……」
「何よう、道中、あんたが寂しくならないように話し相手をしてあげようって思ってるのに」
「べつにいい……」
「かっ、かわいくない……!」
キトはやれやれと溜め息を吐きながら、アインベルとリトに背を向けた。緩く手が振られる。アインベルは少しだけ名残惜しそうな顔、しかし暖かな笑みを浮かべた顔で、今ゆっくりと自分たちの元から去っていく二人の姿を見送った。
ふと、その二人が思い出したように足を止め、アインベルの方を振り返る。
「——キトでいい」
「えっ?」
「あたしも、メグでいいよ!」
「え……え? キトさん、メグさん……?」
少しばかり離れた位置で困惑するアインベルに、メグが笑い声を上げた。
「——さん付け、もういらないってこと!」
「あ……!」
その言葉に、はっとして動きを止めたアインベルは、しかしすぐに溢れんばかりの笑顔になると、その鈴の杖を持った片手を彼らに向かって大きく振った。
「ありがとう、キト、メグ! またね!」
「……ああ。また」
「またねー!」
そうして去っていく二人の背中を見やりながら、アインベルは未だ嬉しそうにその表情を綻ばせていた。そんなアインベルを横目で見ながら、リトは両腕を頭の後ろに回して、ひゅうっと歌うような口笛を吹いた。
「あーあ! そうやってお前は誰彼構わず色目を使って、結局は全員自分のものにしちまうよなあ、ベル坊?」
「……僕がいつ色目を使ったんだよ。いつ、誰に!」
「ははん、わざわざ名前を挙げさせるとは、中々いいご趣味をしてるじゃねえの。いいか、よおく聞けよ。まず俺——」
「もういい」
からかうような調子で少年を突っつくリトに、アインベルはぴしゃりと言い放つと、キトとメグが歩いていった方角に向けていた身体を、くるりと〈オルカ〉へ続く方角へと戻す。
少年をからかって楽しんでいた、この陽気で人懐っこい青年は、弦楽器入れをその背に負って、つれないなあとぶつくさ言いながら、しかしアインベルの向いた方へと自分も踵を返した。
「はあ……けど、お前に会えて安心したよ、アインベル」
「え、なんで? 何かあったの?」
訊くと、それを待っていたと言わんばかりにリトが大きく息を吸い込んだ。アインベルは心の中で、微妙に嫌な予感を覚えていた。
「——いやな、それが——それが、会えないんだよ、誰にも! いやギルのおやっさんには会えたけど! ギルの酒場に、誰もいねえんだよ! ハルもいない、ジンもいない、クイもいない、ルドラもいない、イ——イリスもいない! もちろんお前もいない! なんでだよ!? みんな俺を置いて何処に行ってんだよって話だ! 仲間外れか! 全員抜け駆けか! 最悪だ! もう俺は暇——いや、手持ち無沙汰——や、つまり、友だち想いの俺は、寂しさと心配でこの心を痛めてたってことだよ! 言わば愛だ! なのにやつらは——なあ、酷い話だろ? どう思う、ベル坊!」
「みんな忙しいんじゃないかな……」
必死の形相で詰め寄るリトに、半ば投げやりにそう答えて、アインベルは〈オルカ〉へと向けて歩を進めはじめた。リトがこんな風なのはいつものことである。
アインベルは隣でまだ何かを熱弁しているリトの表情よりも、彼の背負う楽器入れの方へとちらりと視線を向ける。その中に在るものが気になっていることは気になっているのだが、しかしどう切り出せばいいものだろうか、この少年は計り兼ねていた。
「——イリスのよく乗ってる、〝アニマ〟って馬の魔獣がいるだろ?」
気が付くと、リトの口からは別の話題が流れ出していた。これもまた、いつものことである。
リトもそうだが、〈オルカ〉のハンター四人組は、その声が途切れることがほとんどないのだ。トレジャーハンターとしての彼らの狩りも、奏者としての彼らの音楽も、また然り。
静の声を聴くのを厭う彼らが唯一、その声を聴くときはと言ったら、それは演奏が始まる直前に訪れる空気——ぴんと張り詰められ、きつく絞られた弓弦のようになった、その一瞬ばかりであろう。
彼らが訪れると、場はその明るさに乗っ取られ、確かに賑わう。しかし彼らは、慣れない者には少々——かなり、やかましい存在だ。また、慣れないのに、彼らの張り上げるその声に身を流されると、半ば酔狂のようになってしまう者がいるのもまた問題であった。
たった四人の集団だが、しかし彼らは飲み、奏で、歌い、話し、笑い、笑い、笑い飛ばす。
——そう、目立つ。
とにかく、目立つのだ。
それは、彼らの根っこが総じて目立ちたがりだという点も、大きく関わっているかもしれない。
鮮やかな橙の髪と魔獣の紅水晶のような瞳をもち、奇抜で鋭利な美貌を備えたイリスもまた、その見た目から、主に悪い意味で目立ちはするが、あの四人が同じ場にいれば彼らの比ではない。彼らの恐ろしく通る声の前では、イリスの浮き立つ容姿もさして問題ではなくなる。耳が彼らの声を拾えば、その目は彼らの方へと向かざるを得ないからだ。
いい意味でも、悪い意味でも、誰が考えたのだろう〝ポロロッカ〟という呼び名は、彼らにぴったりなのだった。
ポロロッカの四人は一部の者に愛され、大半の者には一時だけならば歓迎され、そして、残りの者には疎まれる。今は、〝たそがれの時代〟だ。暮れゆく空に音楽と笑いを求める者も在れば、静かな時を求める者も在るだろう。
いつ何時も彼らのもつ、よく通る声の如くに、底抜けに明るく見える彼らである。彼ら四人組は、自分たちを嫌う者のことなど、見る目がない、いいや聴く耳がない云々などと言って、自分たちの言葉の激流の中へと一蹴してしまう程度にはたくましい。
そのポロロッカの筆頭と言っても差し支えないリトの隣を、今まさに歩いているアインベルもまた、彼らを愛する一部の人間であり、たくましく生きる彼らのことを、あまり口には出さないがほとんど尊敬してすらいた。
アインベルは、リトの横顔へと視線を向けて、小さく頷いた。
「ねえさんが乗ってるアニマって言うと、ヴィアのことだね」
「そう、物凄く速いやつ。早駆けなんか目じゃないな」
「ヴィアがどうかしたの?」
「いや、俺もさ、何度か挑戦したんだよ。魔獣貸しからアニマを借りて。でもやっぱ、ほら、相手は魔獣だろ? ちょっとおっかなくてさあ……それが相手にも伝わるんだろうな、もう何回も何回も振り落とされそうになって。仕舞いにゃ川の中へポイだったよ。な、お前、アニマには乗ったことあるんだろ? どうすりゃ上手くいくんだ?」
アインベルは少しばかり視線を空へと向けると、ちょっとだけ唸って、またその顔をリトの方へと向ける。
「僕はねえさんと一緒に乗っただけだから、なんとも言えないけど……やっぱり、信じることなんじゃないかな」
「恐れないってことか?」
「友だちだって、信じること……だと、思う」
「つまり、あれか。気長にやれってことだな……」
「でも僕、リトならだいじょうぶって思うけど」
さも当然のことのようにそう言い放ったアインベルに、リトが疑問のまなざしを向けた。
「なんでだよ?」
「だってリト……お人好しだし」
リトがますます分からないという顔をしたので、アインベルは思わずくすりと笑いを洩らす。それに呼応するかのように、彼の右手に有る鈴の杖が微かに音を鳴らした。
——ポロロッカたちと話していると、不思議な気分になる。
或いは、彼らの声を聴いていると、そう感じるのかもしれなかった。
四人とも皆、高さも響きも耳への馴染み方も、色も違った声をしているのに、彼らの声を聴いていると少年は、いつも奥底に隠している荒っぽい自分や激しやすい自分、悪態をつく自分や——乾ききって、冷えた表情をしている自分が暴かれて、引き上げられるような錯覚に陥るのだ。それは、時に心地好さを、時に耐えがたいほどの嫌悪を、かわるがわる連れてくる。
その様子は、自分の中の何かが、彼らの声と共鳴して、自分も鳴り響こうと打ち震えているかのようだった。
結局、アインベルの言わんとすることがよく理解できなかったリトは、軽くかぶりを振ると、はあっと大げさな溜め息を吐いた。
「ベル坊は魔獣、怖くないのか?」
「うん……どうだろう、人が連れてる魔獣は怖くないけどな。ねえさんもよくヴィアに乗ってるし、フローレ——あ、友だちなんだけど——も、魔獣遣いだから」
「ああ、周りの影響もあるわけか。まあ、好きな人の好きなもんは好きになるって、よく言うしな」
「うん、それに近いと思うよ」
ふと、沈黙が流れた。
ざり、と街道を靴裏が擦る音ばかりが、十数歩の間、二人の間には響く。
リトが急に押し黙るなんて珍しいな、と、アインベルが怪訝なまなざしを彼に向けると、彼もまた困ったような笑い顔をアインベルの方へと向けていた。
「ま、まあ……よく考えれば、俺とお前は、こ——恋、敵……? みたいなやつ? なんだよ、な……?」
「——はぁっ?」
自分の口からとんでもなくおかしな声が出たので、アインベルはそれを発した本人であるにもかかわらず、自分自身でいちばん驚いていた。
おそらく今まで歩んできた人生の中で、最も素っ頓狂な声を上げたのが、間違いない、今だった。それを自覚したアインベルは唇を引き結ぼうと努力する。けれども、せり上がってくるものを抑えることができず、半ば開いた唇から、今度は零れ落ちるように小さく声が洩れ出ていった。
「は……?」
「え?」
「は……」
「おい、アインベル?」
「そう、見えるのか……?」
くしゃり、とアインベルの顔が歪んで、泣き出しそうな笑みがそこに浮かんだ。それは、どこまでも自嘲的な笑顔に、リトには見える。
「……そう、見えるのか」
「だって、お前……」
「だって、何……?」
「だ、だって、お前、名前を——名前を、呼ばないから……俺は、だから……」
「……ああ……そうだね」
アインベルの一瞬止まった足が、ふらりと再び歩を拾いはじめる。
「おまえ、他のきょうだいのことは名前で呼ぶのに、イリスにだけは〝ねえさん〟、だろ。だから、お前にとってイリスは、特別の中でも特別な人間なのかと……」
「そうだよ、特別だ」
「ねえさんって呼ぶのは、なんていうか、名前で呼ぶのがこっぱずかしいのかなって、俺は……」
「恥ずかしい? まさか。イリスって名前は、ねえさんにとっての宝ものだ。それを呼ぶのが恥ずかしいわけないだろ」
今度は自分の喉からひどく冷えた声が流れ出てきて、少年は内心また驚いていた。けれども、心の奥底ではリトの言葉に何かが呼応して、鳴り響いている。底から上ってくる自分の言葉は、止めようとしても喉から声となって溢れ出して、止まってくれそうもなかった。
「恋、とかさ……そういうんじゃないんだよ、そんな……そんな、綺麗な言葉で片付けられるものじゃないんだ」
「お、おい、ベル坊、悪かっ——」
「何を謝ってるんだよ、リト。あんたは何も悪いこと言っちゃいないだろ。僕が勝手に怒ってるだけだ……!」
「ああもう落ち着けって! お前らしくないぞ、そんなの!」
「そうだよ、僕らしくないだろ! あんたたちと話してると、時々すごく腹が立つんだ。自分に死ぬほど、腹が立つんだよ! 自分の汚さが、嫌ってほどよく見えるんだ! 汚いんだ、そうだ、そうなんだ、僕は〝あの日〟からずっと、あの日から、あの日から——でも、こんなの、僕だけが知ってればいいんだ! そうすれば、誰も——誰も傷付けたくないから——違う、自分が傷付きたくないから、僕は……!」
「落ち着け! 言ってることがめちゃくちゃだぞ、お前!」
声を荒げて、リトがアインベルの両肩を揺さぶった。焦点も合わず、濁った緑に燃えていた少年の瞳、その色が沈んでどこか虚ろになる。
しばらくして、ぼんやりしたアインベルの瞳が、光を灯さないままでリトの方を向いた。
「……リト……」
「ああ、おい、だいじょうぶか?」
「ごめん、酷いこと言った……」
「いい、いい。流石に俺が無神経だった」
「あの……」
アインベルの睫毛が震えて、諦めたように視線を地面に落とした。
「呼べない、理由が在る……」
「名前?」
「うん。今は言えない……ずっと、言えないかもしれない、誰にも」
「俺は無神経だからあえて訊くけど、なんで言えない?」
アインベルは渇いた笑い声を上げた。
「怖い、のかな……」
「……まあ、言いたくても言えないこととか、そもそも言いたくないこととかが、人にゃあそれぞれ在るもんな。ああ……でも、とにかく、分かった」
「はは……リトに何が分かるんだよ……?」
「お前がそれで、めちゃくちゃ苦しんでるってことくらいは、俺にも分かる。だってお前、分かり易いしな」
「……リトほどじゃ、ないと思うけど」
少年は、自分の両肩に載っているリトの手をほどくように促すと、それから眉間に皺を寄せて、何かを振り払うようにかぶりを振った。それから目的地の方角へ向けて数歩だけ進むと、不安げにアインベルの少し後ろをついて来ているリトを振り返って、ほんの少しだけ微笑んだ。
「……ねえさんが、自分の名前を大事に想ってることは、ずっと前から分かってるんだ。一緒に暮らした、家族だから」
じくり、と心臓より少し下の辺りから、緩やかに痛みが上ってきた。
アインベル・ゼィンにとって、イリス・アウディオは、自分が〝あの日〟以降に引き取られて身を寄せることとなった〝アウディオ孤児院〟で、共に長い年月を共にしてきた、かけがえのない家族の一人、たいせつな義理の姉である。
「……だから……さ……」
アインベルは、母が自分の名前を呼ぶのが好きだった。
父が、自分の名前を呼ぶのが好きだった。
妹が、舌ったらずの声で、自分の名前を呼ぶのが好きだった。
だから少年は、義母のことも、きょうだいたちのことも年下年上問わず、孤児院の家族のことをほとんどの場合、名前で呼んでいた。
しかし、他のきょうだいたちへと呼びかけるときとは違って、滅多なことでイリスの名前を呼ぶことはせず、普段は彼女のことを、ねえさん、と呼んでいる。
——少年にとって、彼女をイリス、と名前で呼ぶことは、しかし途方もない勇気を要するのだった。
それは皆、少年にとってイリスが特別な人だからだと思っているが、しかしそれは違った。いいや違わない。特別である。だが、その特別は、アインベル以外が考える特別とは、おそらく別のものであった。
「だから……だからこそ、こんな気持ちで……」
少年は、心の奥底で想う。
これは、恋と呼ぶには辛く、憧れと呼ぶには痛く、夢と呼ぶには虚しく、愛と呼ぶにはあまりにも、狡い。
或いは、更に深いところで、少年は想う。
自分が抱えるこの心は、レースラインがずっと自分の胸に秘め、そして戦う理由になっているそれに、限りなく近いものなのかもしれない、と。
レースラインは自分のことを周りに〝レン〟と呼ばせ、そうすることによって自らと前時代のレンが混ざり合い、彼女は今にも、死したレンにその心を乗っ取られそうにも見える。
そう、混じってしまうのだ。
割り切れないまま、同じ名を呼ぶと、混じってしまう。
それでもその名に、その存在に縋るのは、亡くした者を、失くしたくないためだ。
失くしたくない、それだけなのだ。
少年は、苦しげで、痛々しい、歪んだ笑顔をリトへと向けた。
「こんな気持ちで、呼べるわけないだろ……?」
その表情を見、声色を聞いたリトは、アインベルの隣まで駆け寄って、少年の頭をくしゃくしゃと掻き回した。それから急に静かな表情になったリトは、少年に向けて短く言う。
「もういい、十分だ。行こう」
「リト、僕は……」
「お前が言いたくないなら言わなくていい。だけど、助けが必要なら必要って言え」
それだけ言うと、リトはアインベルの顔を覗き込み、にっと歯を見せて笑った。
「急に暴れ出すなんて、がきも魔獣みたいなもんだな、大概! 分かるぜ、俺も小さい頃はそれはそれは繊細な子どもで——って、そうか、魔獣ってのはけっこう繊細なんだな? そりゃそうか、黄昏た獣なんだもんなあ。おいベル坊、俺は真理を掴めてきたぞ。つまり、相手を信じる心をもって丁寧に接すれば、相手もおのずと心を開いてくれるってことだ! よし、いける。俺の心はいつでも開いてるぜ、アインベル、アニマ! のんびりゆっくり友情を築いていこうじゃねえか!」
両手を広げ、がらんとした街道で声を張り上げるリトに、アインベルは横目で視線を送ると、どこか哀しげに睫毛を伏せて、ふっと息を零すようにして微笑んだ。
「リトは、大人だな……」
「ん? なんだ、今更気付いたか。そりゃ、ベル坊よりは大人だよ。お前よりは長く生きてるんだし」
「見た目は十七くらいに見えるのに」
「あのな、俺は二十三だっての! このくそがき! 悪態がつけるなら上等だ、はは!」
笑い声を上げるリトをぼんやり眺めながら、アインベルは、先ほど自分が何故あんなにも激昂したのかが分からずに、心の中でひたすら困惑していた。
リトに何か酷いことを言ったのは覚えているが、しかし自分が何を口走ったのかまでは、昂った感情の奔流に呑まれていたために思い出すことができない。
まるで、自分の中に自分の姿をした獣が棲んでいるようで、少年はそのたそがれの姿に怯えた。
——そう、これは恐怖だ。
リトたちポロロッカと話しているときに、ふとしたことで引き上げられる獣のような自分。それは、彼らの声に自分の中に在るものが共鳴し、そのために引き上げられているのではない。
——〝共鳴しているという事実〟が怖いから、引き上げられるのだ。
何かが、今まで自分が見ないふりを、知らないままでいいと目を逸らしていたことが、無遠慮に視界に入ってこようとするのが怖いから、獣のような自分が身体を駆け抜け、自分の言葉として飛び出していくのだ。
それを自覚したアインベルは、再び歩を進めはじめたリトの腕にその手を伸ばして、彼の人の好さそうな優しい色合いの茶色を見上げる。
「ほんとに、ごめん。こんなの、ただの八つ当たりなのに……」
「まーだ言ってら。べつにいいっての。八つ当たりなんてハルので慣れてるし、それに何より、俺は器がでかいからな! 酷かったんだぜえ、お前くらいんときのハル。凶暴も凶暴、ありゃあ間違いなくがき大将だったね。それに比べりゃ、ベル坊のちょっとした八つ当たりなんてかわいいもんだっつうの」
自分の首の後ろに両手を回して、思い返すようにうんうんと頷きながら笑うリトに、アインベルは幼い頃の彼らを心の中で想像してちょっとだけ笑い、それから人懐っこい笑顔を浮かべているリトの方を見て、またその目を細めた。
「お、やっと笑ったな」
「……リトが笑ってると、つられるんだよ」
「なるほど。つまり俺は笑顔の伝道師ってわけだ。でもなあ、天下の伝道師だって、お前が笑ってないとそんなに上手くは笑えないんだぞ」
肩をすくめ、困ったような笑みを湛えるリトの瞳を、アインベルは自身の瞳に映す。それから少年は、自分たちが今進んでいる方向の先を見やって、呆れたように長く息を吐いた。そしてそれは、ほとんど溜め息に近かった。
「リトって、ほんとにばかだよね」
「おっ——お前な……人がせっかく心配してやってるってのに……」
脱力したようにアインベルを振り返ったリトの目に、泣き出しそうな笑みを抱えて、くしゃりと顔を歪ませている少年の表情が、先ほどとはまた違う色をした痛みを伴って入り込んできた。
「……ごめん……ありがとう、リト……」
「あ、ああ……」
「……リトも最初は、ねえさんのこと——ねえさんの真っ赤な目が、怖かったんだろ?」
再び歩き出したアインベルが、まだ小さな点ほどにしか見えてきていない〈オルカ〉の町を見つめながら、不意にそう問うた。自分の斜め前をゆったり歩いていたリトが、やはり虚を突かれたような表情をして、またもアインベルを振り返る。
「あ、うん、まあ……それなりに、な? で、でも他のハンター連中よりは怖がってなかったと思うし、俺らの中でもいちばん最初にイリスに声をかけたのは俺だし、大体怖いって言っても俺はどっちかっていうと、おっかないくらい美人だなって思ってたっていうか、だから……うん……」
口だけでなく両の手のひらも忙しなく動かしながら、慌てたようにしどろもどろそう言うリトに、アインベルもこくりと小さく頷いた。
「僕もそうだよ」
「あっ——え? 何が?」
「僕も、孤児院で初めてねえさんを見たときは、他のきょうだいがみんなそう思ったみたいに、ねえさんのことを怖いと思った。すべてを見抜くような、鋭くて真っ赤なねえさんの目が、あの頃の自分には、この世のものとは思えなくて……」
息を吐いて、歩を進めながら、アインベルはどこか寂しげに微笑んだ。
「——だけど、そんな僕がなんで、これから先、この人と一緒にいようって思ったか……この人を自分の特別な家族だと思ったか、リトには分かる?」
「え……」
「言っとくけど、同情とか、一目惚れとか、そういうのじゃないからな」
困惑しているリトが何か言葉を発する前に、アインベルは軽くかぶりを振って、ゆっくりになっていた自身の歩みを、いつも自分が歩いているその速さに戻した。
古ぼけた街道を叩く四つの足音と、ぬるい風が吹き過ぎていく、そのどこか乾いた香りを感じながら、アインベルは自分の心臓が、どくどくと熱く脈を打っているのを自覚した。そうしてそれを静めるように少年は空を見上げ、雲の掛かった昼間の空をその瞳に映しながら、大きく息を吸ったり吐いたりする。
それから、杖を持たない左手を拳にすると、しかしそれをまた開き、そして開いた手のひらをもう一度拳の形に握り直した。
「——リュート」
「だから、俺はリトだっていつも言ってるだろ」
「リュート、見せて」
「は? あ、ああ、なんだ、そっちか……」
どことなく気落ちした様子で、リトは背負いの楽器入れから、アインベルの言葉通りに自身の愛用しているリュートを取り出した。
そうしてリトがそれをアインベルに差し出すと、少年はそれを両手で受け取って、声もなく唇を微かに開く。しかし、開かれたそこから何か言葉が零れ落ちることはなく、アインベルの浮かべている表情も、驚愕とも、笑顔とも、絶望とも、どれにも当てはまりそうで、どれとも言いがたいものだった。
「やっぱり、そうか……」
「なんだよ、どうかしたのか?」
「なんで……どうしてこれが、此処に在るんだ……?」
アインベルは、リトのリュートを凝視して、擦り切れてほとんど音になっていない声でそう呟いた。リトはその言葉の意味を計り兼ねて、眉根を寄せては小首を傾げる。
「なんでって、そりゃ、俺のだし……」
リトの言葉にアインベルは力なくかぶりを振ると、その震える指先で、リュートの中心に透かし彫りにされているロゼッタを指し示した。
「これ——」
「ああ、これ。俺たちの町で楽器屋を営んでる職人がする、古くからの習慣でな。生まれてきた自分の子どもに持たせる楽器に、この紋様を刻むんだよ」
「じゃあ、それがなんで……」
困惑し、言葉が詰まって出てこないアインベルをよそに、リトはすらすらと自分のリュートに刻まれたロゼッタについて語りはじめる。
「——そうそう、俺が今日〈オルカ〉に戻ろうと思ったのも、こいつのおかげなんだぜ。あいつらが気付いてるかは知らねえけど、こいつを前にして、あいつらの名前を声にすると、こいつ、ちょっとだけ光るんだよな。そうすると、ハルの名前ならハル、ジンの名前ならジン、クイの名前ならクイって具合に、あいつらの声が周りの音と一緒に、なんとなーく聴こえてくるんだ。それで俺もなんとなーく、周りの音から推測して、あいつらのいる場所が分かる。俺にゃよく分からんけど、〈オルカ〉に伝わる昔の技術とかがあるのかもな。
……で、なんとなーく、今日はハルとクイが〈オルカ〉にいる気したから、こうして向かってたってわけだ」
身振り手振りを交えてアインベルにそう説明するリトは、何かを思い出したように一瞬動きを止め、しかしすぐに息を吐くと、少年に向かって人差し指を軽く振った。
「そういや、町の近くに、このロゼッタと同じ紋様が床に彫られてる、ちっちゃな遺跡があるぞ」
「い、遺跡……?」
「そう。狭いし暗いし、その紋様と台座以外、他に何が在るわけでもないんだけど、なんとなく気になって、俺も昔はよく忍び込んでた。一応、前時代の魔術かなんかで障壁が張られてるっぽいんだけど、それでもこのリュート——に、刻まれたこの紋様が鍵として機能するらしかったからな。それで、遺跡の中に在る台座には、何か棒か杖みたいなのを置ける窪みみたいのが——」
「——ま、待ってくれ!」
濁流の如くに自分に覆い被さってくるリトの言葉を、アインベルが声を荒げて制止した。
「待って。待って、くれよ……そんな、いっぺんに、急に……」
「え、悪い、早口だったか?」
「違う、そうじゃなくて……」
アインベルは、両手で抱えているリュートのロゼッタに、ふっと視線を落とした。
「……怖いん、だ」
そのロゼッタの紋様は、紛れもなく、〈白き海〉で生活を営んでいたアインベル・ゼィンの——ゼィン一家が暮らす、折り畳み式の小さな天幕にいつも飾られていた、あの綴織に織られた紋様とまったく同じものだった。
それは、言葉を一つ、失くしてしまった瞳の紋様。
それは、いにしえの召喚師の、忘れものかもしれない言葉。
——それは、あの日、まだ幼かった少年が、最後に縋った神さまだった。
少年は苦しげに眉間に皺を寄せると、持っていたリュートをリトへと返し、リュートを抱えていたときもその左手に有った鈴の杖を、ぎゅっときつく握り締めた。同じように右手の拳にも力が込められ、その内側には爪が突き立っている。
アインベルは、握り締めた杖を心臓の上に持ってくると、寒さに耐えるときに吐き出すそれのような、小さく震える息をほんの少しだけ唇から洩らし、そうしてリトの茶色い瞳を見上げた。
吐き出した息に対して少年の心臓は、しかし破れんばかりに強く脈打っている。
「……怖いんだ。今まで分からないから、分からなかったから目を逸らして——目を逸らしたままでいることができたものが、今になって、なんの、なんの前触れもなく、急に……自分の目の前に広がって、その中心に在るものに呼ばれて、僕は、抗うこともできずに足を進めてるみたいで……」
自分の心臓を掴むようにして、喘ぎあえぎそう言葉を紡いでいくアインベルに、リトはリュートを両手で受け取った体制のまま、ううむ、と軽く唸った。
「——まあ、さ」
リトのよく通る声が、自分より少し上の位置から降ってきて、アインベルは伏せていた睫毛を思わず彼の方へと押し上げた。
「進んだ先が崖だったら、崖でなくても、なんかやばそうだと思ったら、やっぱりやめだって引き返せばいいんじゃねえの? 危ないか、危なくないかも分からないような状況にお前がなったら、そんときは俺たちがちゃんと教えてやるよ。たとえば……
——〝おーいベル坊! こっちに落とし物をしたやつがいるってよ!〟
……って具合にな。こう言えば、お前はお人好しだから自分のことはうっちゃって、とりあえずこっちに引き返してくるだろ? そうなったらもう、俺たちの作戦勝ちってわけだ。……後のことは、それからまた考えりゃあいい」
そうして一度言葉を切ると、リトは両手で持っていたリュートを片手に移して、それからもう片方の手のひらで、アインベルの頭をがしがしと今日の中で最も荒っぽく撫でまわした。
「お前だって、今までそうやっていろんな人を助けてきたんだろ? だから、だいじょうぶだ、安心しろ!」
「……うん、ありがとう」
「不安なら、お兄さんが抱き締めてやってもいいぜ。俺の心は開いてるからな。声を上げて泣いたっていいぞ、ベル坊!」
「……僕も一応、男の子だからな、そう簡単には——っていうか、ベル坊って呼ぶのやめてくれっていつも言ってるだろ、リュート」
「やめてほしかったらそのリュートって言うのをやめるんだな、ベル坊」
どこか嬉しげにそう返したリトと目が合うと、アインベルは思わずぷっと吹き出した。
アインベルの自然な笑い声に、リトもつられて笑い出し、しかし一度笑い出すと、変なところに入って大げさな笑いが長続きしまいがちなリトは、しばらくの間、例によって自分の笑い声に対して、自分の声を上げて笑っていた。
それからややあって、ようやくリトの笑いが収まったところで、アインベルは彼の持つリュートに視線を向けた。
「ねえ、今でもすぐに、みんなの声って聴けるものなの?」
「ん? ああ、たぶん。ちょっと試してみるか?」
そう答えると、リトはリュートを片手に持ったまま、その中心に彫られたロゼッタに向けて、ハルとクイの名前を口にした。
そうしてみると、リュートのロゼッタは淡く白色に発光しはじめ、何処からともなく昼間の蛍のような光が、リュートのロゼッタに向かって集束していく。その白い光にこれでもかというほど見覚えのあるアインベルは、驚愕と共に静かな納得が、自分の胸の中にすとんと降りてくるのを感じていた。
「召喚光……。やっぱりこれは、召喚陣だったのか……」
惚けたようにその光を見やっていたアインベルの前で、気が付けば光は弾けていた。召喚光に慣れているはずのアインベルは、しかしその光に腕で顔を隠し、ぎゅっと目を瞑った。
それからしばらくして、ちかちかする視界を少年はおそるおそる開くと、けれども召喚陣の上には、何の姿も喚び出されてはいなかった。
その様子におや、と首を傾げたアインベルは、しかし生来良いその耳で、自分たちの周りに流れる静かな空気が、何か波のようなものに震わされはじめているのを、無意識に聴き取っていた。
——ねえ、クイ。あんたちょぉっと、演奏が下手になったんじゃなくて?
——おっと、そうかい。俺はてっきり、ハルのハーモニカが、奏者の乱暴な吹きっぷりに辟易して、ついにへそを曲げたのかと思ったんだが。
——言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ。
——音が外れてる。合わせにくい。俺のことを考えてない自分勝手な演奏だった。
——な、なぁんですってぇ!? もうちょっと言葉を選んで言いなさいよ、あんたは!
——おお、凄いな。ハル、お前こそが矛盾の体現者だ。……
リュートのロゼッタ、その召喚陣から聴こえてきた微かな二人の話し声に、アインベルはその老竹色の丸い瞳を、更に丸く見開いた。
「き、聴こえる……」
「なんだ、ベル坊にも聴こえるのか。俺たちだけの特別な力かと思ったんだけどなあ」
「……ねえ、リト」
「ん?」
少しだけ難しい表情でリトのことを呼んだアインベルは、しかし彼の方を向いて何かを決意したような光を、その瞳に抱いた。リトもまたその光を見て取り、アインベルの方を向き直っては、その顔から笑みを仕舞って少年の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「リト。……向こうに着いたら、みんなに話すよ」
「ああ、聴こう」
「——話すよ。僕が何処で生まれて、何処から此処までやって来たのか。どうして、此処にいるのかを」
「……ああ」
リトはアインベルの言葉に頷くと、遠くに見える〈オルカ〉を目指して、街道の上を歩きはじめた。アインベルも、その少しだけ後ろをつくようにして歩を拾い、動くことによって、震える自身の心臓や、詰まりそうになる呼吸をなだらかなものにしようと努力した。
つと、リトが足を止める。
アインベルは、急に止まったリトの背中に軽く額をぶつけると、困惑と非難をまぜこぜにしたまなざしをリトへと向けた。
けれども、そんな視線を受けようがリトは気にも留めず、少年の方を振り返っては、自分の穏やかな茶色の瞳を輝かせ、白い歯を見せてにっと笑ってみせる。
「さっき、なんで自分がイリスと一緒にいようと思ったか分かるかって、お前は訊いたよな」
「え? ああ、うん」
「分かる!」
「は?」
そう言って、大きく息を吸い込んだ青年の口から出てきたのはやはり、この乾いた世界によく通る、快活で大きな声だった。
「——運命を、感じたからだ!」
ひゅうっと、街道に風が吹いた。
「……あのさ、それって……」
リトの言葉にアインベルは肩をすくめて、さながら今しがた街道に吹いた風のように、半ばぬるいまなざしでリトを見やりながら、溜め息混じりの声を発した。
「僕じゃなくて、リトの場合、だろ!」
——それから〈オルカ〉の町に着いた二人は、ハルとクイの二人に再会した。
しかしハルの口から、イリスが相棒のヴィアに乗って、自分の拠点へと一度戻ってしまったことを訊くと、道中リトとあんな会話した手前、内心少しばかりほっとしているアインベルに対して、リトが唸り声を上げながら、勢いよく膝から崩れ落ちたのは、言わずもがな、いつも通りのことであった。
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