見出し画像

アイアン

目次


たそがれの國Ⅲ外伝
『ごしきの金

Sword,Chivalry,Your〝Isi〟




 その瞬間は、炎さえも沈黙していた。
「——きみ、その目」
 火の粉が混じる風に吹き付けられて、目の前で白が舞った。
「その目だ」
 焦がす火をものともしない、真っ白なその髪を見つめる。目の前に在るその色は、どこか別世界のものであるかのようだった。
 しかし、その白色が振り返ったことにより、己の視線はその白い人の瞳へと向かう。
「きみ、戦えるな」
 そう言って振り返った白い人が秘めていたのは、しかし、野に咲く小さな花の色だった。勿忘草色。その淡い水色の中に、強い黒の瞳孔を備えた彼女は、こちらを見てそう言ったのだ。
 ——きみ、戦えるな、と。
 いや、しかし、ほんとうに自分へ言ったのだろうか? 火に怯え、魔獣に怯え、死に怯え、石畳の上に両膝をついている、この自分に? 辺りを見渡す。自分の目には火と、自分の後ろに隠れる祖父、そして真っ白な髪をした女の騎士しか見えない。
 大方の人間が避難の済んだ町のそこここが、炎を発する蜥蜴のような魔獣によって、赤黒い火の粉を舞わせながら燃え上がっていた。
 燃える粉が目の前を掠め、己の短く切り揃えた黒髪の先を焦がしたのを感じる。その感覚に、しかし声は上げずにむしろ潜めた。そうするべきだと感じたのだ。
「……悪いが、今日は半日休暇でね。本隊は隣町にいる。別の騎士が伝令に行ったが、援軍が到着するにはもう少し時間がかかるよ。この町には武器の整備に寄っただけなんだ、腕の良い研師がいると聞いていたからね」
 その言葉に、祖父と、また自分の肩がぴくりと動いたのを感じた。
 けれども、悪びれる様子もなくそう言い放った目の前の騎士は、近付いてきた炎の蜥蜴を、自分たちが目を瞬いたその間に斬り伏せていた。白い髪が微かに揺れる。
 まるで絵の具で染め上げられたようなその白さに気を取られ、はじめは気が付かなかったが、彼女が被る銀色の兜のてっぺんには、赤い尾羽が一つだけ、熱を孕む風に動いていた。
「町の人たちの避難は、一緒に来ていた仲間が済ませた。おそらく、残るはきみたちだけなのだが——ご老体、あなたは動けますか? 可能ならば、私があなた方を護りながら、町の外までお連れ致しますが」
 その問いに、祖父は目を見開いて、はくりと空気を飲み込んだ。言葉が声にならないようだった。祖父のその様子に、思わずかぶりを振った。
「だめです。祖父は、随分前から足を悪くしている。とても町の外まで歩くことはできません」
「ではきみ、お祖父さまを担げるか? ご老体を背負いながら魔獣と戦うのは、騎士といえども流石に酷だからね」
 事もなげにそう言った彼女の顔は静かで、焦りすら感じさせないものだったが、しかしその勿忘草色の瞳は、言葉を失うほどに鋭かった。
 自身が先ほど斬り伏せていた、かの火吹きの蜥蜴が残したのだろう、石畳を焦がす残り火の軌跡を、しかし彼女はその足でざりと踏みつけ、消し止める。遠くで炎が上がった。足下の火を見下ろしていた彼女が、顔だけで微かにこちらを振り返る。
「——すべて斬り伏せてしまえば、同じことか」
 彼女が剣——軍刀に張り付いている紅水晶をひゅっと振り払い、その刃を火の光に白く閃かせた後にそう呟いた。それはこちらを見やり、揺れない水色の静かな目で、この自分のことを品定めし終わったために他ならなかった。
 ふつ、と自分の中に何か熱いものが立ち上がるのを感じる。
 ——そう、確かに自分は、つい二月前に十になったばかりの、一見ではまだ、少年とも少女とも言い切りがたい子どもである。身体はしなやかだが、大人に比べるとあまりに脆く、柔い。未だ力は弱く、背は低く、腕は細く、手のひらは小さかった。
 ……だが、ただの足手まといか?
 ふつり、何かが煮えはじめた。同時に自分の中のどこかは冷えて、今までの十年で、祖父と共に修行を積んだ己が、そうして得てきたものを数えている。それは戦いによる研鑽ではなかったが、しかし。
 名前。家名。呼吸。感情。技術。違う。そんなものは今必要ない。今は捨てろ。熱。血。身体。そう、確かに有る。本能。衝動。獣のようなそれを飼い慣らす忍耐はどうだ? 体力。沈黙。観察眼。好機を得る判断力に、勇気は? ああ、確かに得たはずだ。これは自惚れか? ふつり、ふつり。だが、今、ここになくてはならない。そうだ、今、ここに有るぞ。役立たずか、自分は? 足りないものはなんだ? 今、足りないものは?
「——刃……」
 火が爆ぜた。
 それは自分の中で鳴った音なのか、それとも外で鳴った音なのか。分からない。では、今の言葉は? しかしそれも分からないままに顔を上げると、白い人の瞳と自分の目がかち合う。
 その身体を魔獣がつくり出した朝焼けに照らされている彼女は、けれども髪は何色にも染まらず白いままで、また、勿忘草色の瞳には閃く白刃を宿していた。静かなままの彼女の表情は、しかし目だけで笑ったようにも見える。
「やはり——その目、だな」
 そう言うと、彼女は顔を前方へと向け、すっと息を吸い込んだようだった。
 両膝を突いている石畳に、片手を押し当てる。火の熱を受けたそれは、じりじりと熱い。その上で手のひらを拳の形にしたのは、けれども地面が熱かったからではなかった。握りたい。そう、自分は何かを握りたかったのだ。
「ステラ……」
 ふと、背後から掠れた声が聞こえて、思わず首だけで振り返った。火の粉を吸い込んで嗄れたそれが、しかし祖父の声だと気付いたのは、そうして振り向いた後だった。
「わたしのことは置いていきなさい、ステラーニャ。わたしはもう、十分に生きた。きっとこれは、罪を重ねたわたしへの罰なのだろう」
「まさか……。祖父上、何を馬鹿なことを仰いますか! 祖父上は罪など……」
「いや、わたしは息子——おまえの父に先立たれ、己がもつ技術の後釜を失ったことに恐怖した。だからわたしはおまえを男とし、跡取りとし、そうしておまえの自由を奪ったのだ。これは、そのための罰なのだろう」
 祖父の言葉に、ふつふつと燃えていた何かが、ごぽりと音を立てて煮え滾ったのを確かに感じた。地面に押し当てた拳をずる、と引きずって、半身ばかりを祖父の方へと向ける。
「……その言葉こそが、私への裏切りです。今まで生きてきた私への、裏切りだ」
「だが、おまえは女——」
「いいえ、私は男だ。誰がなんと言おうと——それが他ならない祖父上であっても。……いや、そんなこと、今は問題じゃないんだ」
 思わず身を乗り出して、祖父の目を見た。
「祖父上、私は……」
 自分と同じ、ほとんど黒に見える焦げ茶の瞳は、けれども経てきた生によって自分のものよりも濁っているようだった。そうして言葉を発するときにはもう、己が生まれ育った町が燃えているのも自分は忘れていた。それよりも熱い火が、自分の中で赤く燃えている。
「——私は、あなたの罪ですか?」
 そう問えば、祖父がひゅっと息を吸い込んだのが聞こえた。口に出してから気付く。燃え盛る炎の中で鍛えられたその問いは、寸鉄が人を刺すように、短くも鋭利だったようだ。
 それでも目は逸らさない。逸らす気など、逸らしてやる気などさらさらなかった。おそらく、自分は怒っているのだろう。
「……いいや」
 だが、それを完全に自覚する前に、祖父がそう息を洩らすようにして笑ったのが、己の目の中に映った。
「おまえはわたしの誇りだよ、ステラーニャ。他の誰が、なんと言おうと」
 その言葉に、ようやく自分も己の唇に笑みを浮かべることができた。
 ごう、と炎が上がり、何処かの屋根が崩れ落ちる音が聞こえる。これは自分の内で鳴った音ではない。それを感じ取ることができる段階になって、やっと片方の手に痛みを感じた。痛みが蘇ったことにより、目の前に思わずその拳を持ち上げる。
 肌が擦り剥けるほどにきつく、眼下の地面に押し付けていた片手の拳は、熱された石畳によって軽く火傷を負っていた。拳を開く。手のひらの爪痕から、じわりと血が滲んでいた。鈍く、緩やかな痛み。物を掴めないほどではない。物を? 一体自分は何をこの手にしたいと言うのか。
 瞬間、鋭い風が吹いて、炎が次へ次へとその両手を伸ばした。火の粉が吹き付け、祖父がその熱さに腕で顔を覆う。それを見た瞬間、祖父の命が危険に晒された瞬間、自分の中に在る何か——咆哮にも似た衝動が、激しくその火を吹いたのを感じた。
 その炎に、同じく自分の中に在った、なんの変哲もない石ころがくべられる。
 微かに黒ずんだ鋼色をしたその石は、火にくべられることによってしかし赤く染まり、自分を取り巻く者たちからの言動、魔獣の理不尽な蹂躙、そして無力な己への怒りによって形作られた大鎚によって、鋭い姿へとその形を変えられていく。
 ——これを、自分は知っていた。
 今まで自分の目の前に在ったこれは、今ほんとうに、自分の一部となろうとしている。そう。そうだ、これは……
 再び風が吹く。
 その風に撃たれるようにして、白い騎士の方へと振り返った。彼女は依然こちらに近付いてくる魔獣を、軍刀と髪を白く閃かせながら、そのすべてを斬り伏せている。こちらの視線を感じたのか、振り返るまではいかなくとも、かの白い人はどうやら小さく笑ったようだった。
「……家族喧嘩は一段落ついたのかな」
「あ……すみません、見苦しいところをお見せして」
「それは構わないけれど、続きは町を出てからにしてくれると有り難いな。——どうも、あなた方はお忘れになっていることがあるようですから」
 最初の言葉は自分に向けられたものだったのだろうが、しかし最後の方は、祖父へと向けられた言葉だったのだろう。
 彼女は顔だけをこちらに向けて、祖父へと視線をやったのち、自分の方へも視線を飛ばして、それから微かに笑んだ。その額に、汗は一粒も浮かんでいない。
「私は、騎士だ。それも、魔獣を斬り、民を護る〝世回り〟の騎士。〈ソリスオルトス王國騎士団〉、世回り第十三番小隊——その副隊長、レースライン・ゼーローゼ。この程度の魔獣になど遅れは取らない。きみたちには生き残ってもらうよ。もし、嫌だと言ってもね」
 言って、彼女は前方に迫った火を斬り、視界を拓いた。
 それは、魔獣がその口から吹いた火だった。火を無理やり途切れさせられたことにより、一瞬その動きが止まった魔獣の喉元を、彼女は自身の軍刀で深く突く。そこには絶命の声もなかった。
 魔獣の腹を蹴り付けて、彼女は突き刺した軍刀を引き抜いた。火の粉に混じって、それよりも目を奪われる魔獣の紅水晶が舞う。
 地に落ちたそれが風に攫われるよりも早く、レースラインと名乗った彼女は紅水晶を踏みにじると、ほとんど呟くようにして言った。
「——そう簡単に、死ねると思うなよ」
 それは一体、誰に向けての言葉だったのだろうか。
 一旦魔獣が途絶えると、彼女は視線を自身の帯びている二本の鞘へと向け、微かに息を吐いたようだった。
 白い騎士は、自身が今手にしている軍刀がその手に抜かれるまで収められていた、黒く照る鞘へと一瞬だけ左手を持っていくと、しかしその手をすぐ近くに帯びているもう一振りの剣の鞘へと移動させた。
 ぬらりと黒光りする、なんの装飾も施されていない軍刀の鞘に、火の粉を浴びて輝く、細やかな装飾が施されている長剣の鞘が、或る種互いを引き立て合いながら彼女の左腰に収まっている。
 彼女が手に触れた長剣の鞘は、夜の底で染めたような深い青色から、燃え立つような赤へと段々に色が移り変わっており、そこにはこがね色の金属で、夜明けに、朝陽の中を飛翔する鳥を連想させる意匠が施されていた。
 ふと、彼女がこちらを振り返る。
 伏せるような白い睫毛が上がり、その中から淡い水色の瞳が覗いた。その瞬間、勿忘草の中に在る、焦げ付いた黒と目が合ったような気がした。鋭く、冷えた瞳。音も聴こえない瞳。どこかもの悲しくも感じる、静かな瞳だった。
 彼女の薄い唇が、問いのかたちに小さく動いた。
「——取るか?」
「取ります」
 意味を頭が理解する前に、心が勝手に答えを返した。
 虚を突かれたのか、一呼吸の間黙り込んだ彼女は、しかし半ば呆れたように息を吐く。
「私はきみにまだ、何を取るのかも訊いていないのだけれどね……」
 言うと、彼女は軍刀を左手に持ち替え、空いた右手で長剣の握りを掴み、空を斬る音と共にそれを引き抜いた。そうしてこちらを振り返ると、その剣の切っ先をこちらの喉元へと突き付ける。
「……そう簡単に、死ねると思うなよ」
 今度のそれは、紛うことなくこちらへと向けられた言葉だった。そして何故だろう、今はその行動にも言葉にも、恐怖も感じなければ、怒りすら湧かなかった。
 ただ、目を見ていた。彼女の目を、逸らさずに見ていた。
 その静かな目の奥に、何かが見えると思ったのかもしれない。ふと、彼女の瞳に鋭い白刃が浮かび、その中に一瞬、諦めにも似た色が滲んだような気がした。
 白い騎士は、こちらに向けた刃を上げると、その切っ先を天と自分の間——半ば自分寄りに向け、その握りを垂直よりは傾けたかたちで、こちらの目の前に差し出した。
「儀式用の剣だが、手入れはしてある。その辺の安物よりはよく切れるだろう」
 微かに震える両手でその剣を受け取ると、彼女は握りから手を離して、再びこちらに背を向けた。そうして軍刀を右手に握り直すと、視線はこちらに向けずに彼女は呟く。その声色は先ほどよりもやさしく、どこか諭すような響きが在った。
「取るか、取らないかは、きみが決めなさい。確かに今きみは、刃がなければその衝動で魔獣にも身を落としそうではある。だが、差はあっても、戦火の中で戦う術を持たない者は皆そうなるものだ。いいか、きみたちのことは私が必ず護る。魔獣が失せて、火も消えれば少しは冷静にもなるだろう。そのときに私は、もう一度きみに問おう。だから、今は……」
「いえ、その必要はありません」
「何?」
 思わず彼女に向けて片膝を突き、半ば跪くように言葉を聴いていたが、剣を手にすると同時に、火にくべられていた石ころが刃の形に打たれたのを感じて、ほとんど反射的に立ち上がる。顔を上げると、白い騎士もこちらを振り返っていた。
「——もう、取りました」
 心のそれに触れるようにして、自身が手にしている剣の刀身へと片手を滑らせると、それは研がれた瞬間の刃のように、ぎらりと白く光を放った。切っ先から研汁が石畳に落ち、熱せられたそれに音を立てて蒸発したのすら、己の目には見えたような気がする。
 手が震えたのは、剣を受け取ったときだけだった。
 子どもの自分には大きく、また重たい長剣を両手で握り締めて、彼女の目を見る。微笑むことも、頷くことも忘れていた。
 何かを紡ごうとしたのか、彼女の唇が一度開きかけて、しかし、そこから言葉が発せられることもなく再び閉じられる。こちらを見ていた彼女はすぐにまた正面を向くと、また集いはじめた魔獣の群れへと視線を飛ばしたようだった。
 振り返ると、火の熱と戦いのにおいにやられた祖父が、ほとんど気を失っているのだろう、虚ろな瞳で空を見上げていた。つられて見上げた空は、紫の布を被った深い青をしている。これが朝の色なのか、それとも夜の色なのか、それを思い出すには熱すぎる。火も、この心臓も。
 息を吐いて視線を地上に下ろせば、祖父の背に一匹の魔獣が迫っていた。
「——取れ、剣」
 背後から、声が響く。
 静かな声でそう告げた彼女の言葉に、短く息を吸い、両の手で剣を構えた。その重みを感じながら、火を吹く魔獣に向かい、進み出る。
 一歩。
 また一歩。
 
 ——それが、初めて剣を取った瞬間だった。
 護るために剣を取った瞬間。
 そしてそれが、殺すために剣を振るう、その最初の一振りだった。

20180121 
シリーズ:『たそがれの國』〈ごしきの金〉

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?