ノンブレス 04
彼女は足にだけマニキュアを塗る。理由を問えば、自分はぶきっちょうだからと、彼女は自分の左手を指差して笑った。ぶきっちょう。不器用。不器用。左手よりは器用な、しかしそれでもぶきっちょうである彼女の右手が塗った足のマニキュアが、影の中に赤く浮かんでいた。
『ハナノカゲ』
春が青いなんてのは、大人の嘘だ。少年は心の中で呟いて、少し前を歩く少女の後ろ姿を見やった。その背で茶の髪が光に照らされ、半ば金の色に輝いている。その細い髪の毛は所々に電気を宿して、綿毛のようだ。ぼうっとしていれば彼女が振り返る。まずい、あれは雷だったか。
『はるのこどう』
たとえばきみは、温かいスープを木匙に満たして、ぼくの口へと運んでくる。たとえばきみは、花の束を両手に抱えて、柔らかな香りと共にぼくの目の前に差し出した。それに見合う言葉を、ぼくはもたない。きみのそれはどこから来る? それの名前は?
『ぼくはけもの、きみはぼくの征服者だ』
運命という言葉が好き、と幼い頃の彼女がそう口にしたのを、自分は未だに憶えている。運命。ふと小指を見る。何も見えなかった。それでいい。たとえこの指に何もなかったとしても、彼女と繋がる糸くらい、自分で結べる。おれはそのために、ここまで来たのだから。
『ロング・ジャーニー』
あなたの女になりたいのだ。あなたの嫌うヴァイオレットを全身に纏い、あなたの嫌うホワイトローズも全身に振りまいた。こちらを見たあなたの瞳に、わたしの姿はさぞ鮮烈に映ることだろう。これはまじない、これはのろい。あなたの女になりたいのだ。この呪いを浴びよ。
『呪いの尾ひれ』
微睡んだ目に映ったのは、インクで黒ずんだ指先だった。書き物ばかりですっかり悪くなった目を擦り、顔を上げる。窓から光が差していた。朝か? ひとりでに窓が開く。夜だよ! そこからひょっこり顔を出す、ガス灯を片手にした小さな隣人はそう笑った。「やあ、先生!」
『天使の灯』
この頃、心はいつも震えるようだ。一昨日の夜、友人の尻尾が動かなくなって、家の裏に父と埋めた。そうしたら、母の料理を素直に美味しいと言えなくなった。家に帰り難くて見た、夕焼けに染まる彼女の横顔が別人のそれに見える。なんでかな、少し泣けた。
『はだしで氷河をゆく子ども』
やあ兄さん、突然だがあんたにとって自由ってなんだ? うん、あの鳥? あれが自由? おれが今、こいつで撃ち落とそうとしてるあの鳥が? 嘘うそ、冗談だ。でもよ、兄さん。地を蹴る勇気のないやつにゃ、空は飛べないんだぜ。あんた、行きたい処があるんだろ? さ、もう行きな。
『ピアチェーレ』
ぼくは、生まれてこのかた忘れ物をしたことがない。それもそうだろう。ぼくの頭は完ぺきで、手は頭に従って動いているのだから、それは当たり前のことだった。宿題、筆箱、教科書、ノート、体育着、ランドセル、そんなもの、忘れる方がどうかしている。そう、ぼくの頭は完ぺきだから、下手ばかり打つきみを見ていると、どうも胃の辺りがむかむかして仕方がないのだ。ぼくの頭は完ぺきだから、ぼくの口だって、ぼくの思った通りに動く。むかつく。うざったい。そう、ぼくが思った通りに。だって、腹が立てば、そういう言葉が出るのも仕方がないだろう。きみはよく、ぼくの手を握って走り出し、そのまますっ転んだ。もちろんぼくも一緒に転ぶことになる。ごめんねと笑うきみに、胃が熱くなって、喉が痛い。握っている手も似たような感じだ。どんな言葉を吐いても、きみが泣くところを見たことがなかった。きみの頭は完ぺきじゃないから、ぼくの言っている意味が分からないのかもしれないと、そんなことを思っていた。だけれど、きみは泣いた。その泣き顔に、ぼくは自分が何を言ったのかよく思い出せなかった。胃も、喉も、手も、目だって、すべてが痛い。手を離して走り去るきみを呆然と見つめながら、自分の手が風に当てられて冷えていくのばかりを感じていた。ぼくの頭は完ぺきだから、生まれてこのかた忘れ物をしたことがない。けれども、ぼくの心は穴だらけだから、いつもたいせつなことを忘れてばかりだ。その日の帰り道は、一度も転ぶことがなかった。暮れていく橙色の空を見上げて、思う。明日は、謝れるだろうか。
『忘れ物はいつもこの手の中で』(タイトル:メッセージボックスより)
『きみのこころを冠す本』
フロム・ツイッター 20180121
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