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ひな鳥を呼ぶ

目次

 夜、テントの中で一人眠っていると故郷の空を想い出すことがある。青年というにはまだ幼さが残る、黄金色の髪と砂漠の大地を思わせる瞳をもった少年は、今日も故郷の空を想っていた。
 砂漠の国からやってきた、この、ニケ・ヘイダルという少年は行商人である。彼が取り扱うのは、古いものや不思議なもの、一見すると何に使うのか分からないものばかり。つまり、興味のない者からするとただのガラクタ屋なのであった。故郷の品や、旅の途中で手に入れたものを売って旅を続けていたが、やはり売れ行きは芳しくなく、空腹で行き倒れていたところを、彼はある青年に拾われた。
 今、彼が身を置いているのは小さな村だった。自分を拾ってくれた青年が成り行きで村長をしているという、小さな村。村長――アカツキエナガという名前の青年は、ニケを、彼が行商の旅を再開するまでこの村に置いてくれると言った。食料も水も、仕舞いには家まで彼に与えようとしてくれたが、ニケはそこまでしてもらうのは悪い、自分はテントの方が落ち着くから、と言って今日までテント暮らしを続けている。
 テントは好い。故郷の天幕を彷彿とさせるからか、どこか安らげる。そう感じながらぼうっとカンテラの灯を見つめていると、外から誰かの声が聞こえた。自分を呼んでいるらしい。ニケは反射的に声を上げた。
「エナガさんでありますか?」
 そう呼び掛けると、テントの入り口から一人の青年が何やら大きな鍋を持って入ってきた。ニケがそれをぽかんと見ていれば、青年は気だるげに口を開く。
「わざわざこんなとこ来ンのは俺ぐらいだろ。……それより、ニケ、飯は喰ったのかよ」
 ニケは青年を見上げてふるふると首を振った。それを見た青年はひとつ溜め息を吐いて両手に持つ鍋をテントの床に置いた。器用に鍋の蓋に乗っていた、パンと皿の入ったバスケットも同じように床に降ろしながら、自身も胡坐をかいてニケの前に鍋を挟むかたちで座る。
「飯は俺のとこに喰いに来いって言っただろ」
「ま、毎日は流石に――エナガさんに悪いでありますよ。それに、旅をしてる間は何日か食べないってこともよくありましたし」
 顔の前で両手を振るニケをエナガは一瞥してから、ふっと息を吐くようにして笑った。
「じゃ、おまえは今も旅をしてるってわけか。こーんな小さい村ン中で」
「――う」
「旅人には命綱がねェんだろ? 頼れるモンは頼れる内に使った方がいいんじゃねえの」
 エナガの言葉を聞くと、少し俯いていたニケが、ばっと顔を上げた。
「つ、使うなんて!」
 ニケがそう言うと、エナガが面倒臭そうに溜め息を吐いて呟いた。
「……言葉の綾だっての」
 それだけ言うと、エナガは鍋の蓋に手を伸ばす。彼の手によって蓋が取り払われるのと同時に、もわもわと白い湯気が小さな部屋に立ち上った。煮えた乳の香りがニケの鼻へ通り、その柔らかな香りは彼の喉を鳴らさせた。
「――あの、これは?」
「これって……シチューだけど。喰ったことねえの?――ま、いいから喰えば」
 そう言うとエナガはシチューも盛られた器をニケに差し出した。ニケがおずおずとそれを受け取ると、エナガはバスケットの麦パンに手を伸ばし、バターを塗ってかじりつく。香ばしく焼けたパンがカリッと音を立てるのとほとんど同時に、ニケがいただきますと言って、渡されたシチューに口を付けた。よく煮えたじゃがいもが歯を立てようとするとほろ、と崩れて溶けていく。その感触と熱さが心地よかった。この煮えた乳は甘い。それでいて少しばかりスパイスが効いている。その小さな辛さたちが身体を芯から温めてくれるようだった。そのことに小さな驚きを感じながら、ニケは器の中身をあっという間に空にした。
「――おい、しい」
「そりゃあどうも」
「これ、エナガさんが?」
「ああ。パンは違うけど」
 エナガがパンを差し出す。ニケはそれを受け取りながら、ふと疑問に思ったことを口に出した。
「……作り過ぎ、では」
 それを聞くと、苦虫を噛んだような表情でエナガは唸った。
「実家にいた頃の癖で、まあ。俺は下にちいさいのが三人、上に一人、兄弟がいて……弟共が料理できないのは分かるとして、兄貴の――隣村にいるけど――料理がこれまた微妙でな。親は基本忙しかったから、俺が奴らの飯を作ってたんだよ。毎日、な! やってらんないぜ、まったく」
 捲し立てるエナガを見て、ニケが小さく笑った。エナガは眉根を寄せて彼の方を見た。
「……と、言うわりには楽しそうでありますよ。エナガさん」
「楽しいもんかよ、さっさと喰え」
「いえ、自分、結構頂きましたので。もうごちそうさま、であります」
「はあ? おまえ、二杯ぽっちでいいわけ? 育ち盛りの少年が?」
 遠慮してるんじゃないだろうな、言わずともそう顔に出ているエナガに、ニケは困ったように笑った。
「美味しかったです、とっても。でも自分、元々たくさん食べるたちじゃあないでありますから」
「……まあ、いいならいいけど」
 短く息を吐いてエナガが鍋の蓋を閉めた。結構余ったなだとか、誰んとこ持ってきゃいいんだだとか、胸の内が口から一人歩きしている彼の寝癖頭をぼんやり眺めながら、ニケはほとんど無意識に言葉を発した。
「エナガさんは眠る前に何を思うでありますか」
 エナガは怪訝な顔をしてニケを見たが、やがてにっこり笑ってニケの問いに答えた。
「住人のみんなが幸せに暮らせますように、ってな」
 その答えにニケが呆れたように笑った。
「村長として、ではなく」
 エナガは肩をすくめて、じとりとした目でニケを見た。
「……へいへい、冗談だっての。――何も考えちゃいねえよ。何、おまえは寝る前、何か考えるわけ?」
 そう問われて、戸惑った。夜眠る前に想うのは、故郷のあの、満天の星空のこと。今気が付いたが、自分はこの青年に自分の故郷のことも自身の生い立ちも、何も話してはいなかった。彼に聞かれたのは名前と年齢だけ。それ以外のことは問われなかったのだ。
 瞳が揺れていただろうか。エナガはニケの顔を一瞥すると、膝の上に頬杖をついて呟くように言った。
「別に、言いたくないなら言わなくてもいいけど」
「――あ、いえ、そういうわけじゃなくて。ただ――どうしてエナガさんは、何も、聞かないのかなあ……って」
 その問いにエナガは寝癖頭を掻きながら、ふうっと長い息を吐いた。
「相手が自分から知ってほしいと思わない程度のことなんざ、俺は知りたかねえよ」
 ふい、と顔をそらして答えたエナガのその表情を、ニケは一瞬捉えて思った。なるほど、この人は優しいのだ。彼と最初に出会ったときから思っていたことだったが、今、それは確信に変わった。ニケが笑いを零すと、エナガは不満そうな表情を浮かべて彼の方を見る。エナガのその顔が青年のものというよりは、ひどく子どもっぽいものに思えて、ニケはまた笑みを零した。
「なんだよ」
「――何でも。……自分は故郷の星を思い浮かべるのでありますよ」
 ニケの言葉にエナガが眉根を寄せた。それに促されるようにニケは言葉を続ける。
「眠る前、故郷の星を。自分の生い立ちをたくさん話すのは、その――自分の商人としての誇りに反するところがある、ので……今は話せないので、ありますが」
「別にいい。そんなに興味ないし」
「それは良かった。――自分の故郷は、星が綺麗なところなのであります。夜は寒かったですが、星を見ているとそれも忘れられるようでした。この村の星は、綺麗でしょう。だから、何というか……この村の、星の下で横になっていると……」
 その言葉の続きを、エナガが引き継いだ。
「故郷が恋しくなる?」
 単刀直入なその物言いに、ニケは意味もなく手を動かしながら照れたように笑った。
「――時々」
「遠いのか、故郷ってのは」
「多分、エナガさんが思っているより――もしかしたら、自分が思っているよりも。一度も引き返さなかったので、もう、ずいぶんと長いこと歩いてきたような気がします」
 エナガは伏せられたニケの長い睫毛に、彼のたくさんの感情を見たような気分になったが、その入り混じった感情たちはこの、まだ幼さの残る少年が背負うには重すぎる代物のように感じた。
 それを見たエナガはやれやれ、と心の中だけで溜め息を吐いた。見た目より難しそうなのを拾ったもんだ。おれもまた老けそうだな。そんな風に心臓の奥で悪態をつきながら、何となく、星が綺麗だというニケの故郷を想像した。
「いいんじゃねえの、故郷が恋しいってときがあっても」
「でも、自分は早く大人になって、一人前の商人になりたくて――」
「俺はがきだから知らねえけど、大人ってのは故郷を想わなくなるもんなのかよ」
 エナガは言いながら、テントの中心に置いてあるカンテラの灯をぼんやりと見つめた。
「その――おまえのやってる仕事ってのは、大人になれば一人前になれるわけ。そんな簡単なもんなのか」
 ニケはエナガのその言葉に、何か反論しようと口を開いたが、そうしようとしても、何故だか手のひらに熱が集まるばかりで上手く言葉を発することができなかった。
「……いえ、違います。そうですね……どうやら自分は、見誤っていたようです」
 何とかそう言ったニケの心に呼応するように、カンテラの中の火が音を立てて燃えた。エナガはニケの真っ直ぐなその瞳を見て、何となく、大人について思った。こんな子どもが、大人よりも大人に見えたのだ。それは何か、彼に覚悟があるからなのだろう。大人になるということは、きっと、何かを背負っていくということなのだ。それならこの少年は、自分よりも、ずっと大人だ。テントの入り口から入ってくる隙間風が、異様に寒く感じる。
「それにしても、星が綺麗、か。最近そんなこと、思いもしなかった」
 このまま年だけ重ねて、中途半端に、物も見えないような大人になるのは怖いな。その言葉を、エナガは口の中だけで呟いた。
「……それは多分、エナガさんが頑張っているからであります」
 思ってもいなかった返事がニケから返ってきて、エナガは少し呆けた表情をして彼の方を見た。
「頑張っていると、目の前しか見えなくなることがある、でありますよ。でも、たまには、自分が星を見るようにエナガさんも好きなことをしてみたらいい……であります」
「……ま、大人は星を見るくらいの余裕を常にもっていた方がいい、とも聞くしな」
 それを聞くと、ニケが年相応の少し悪戯な表情を浮かべた。
「でも、自分たちはまだ子ども、でありますから。余裕がないときは何か、ぱあっと好きなことをするのであります!」
「じゃ、俺も星見でもしてみるかねえ」
 ニケがぱっ、と顔を輝かせた。
「今から行きましょう!」
 エナガは明らかに面倒そうな表情を浮かべたが、少し唸った後、頷いた。
「――まあ、たまにはいいだろ」

 テントから出てみると、夜風が頬を吹き付けた。エナガにとってそれは冷たいものだったが、何故か、先ほどの隙間風よりも寒いとは思わなかった。ふと、星空の下でニケが思い出したように口を開いた。
「エナガさんは料理が上手でありますなあ。自分が女の子だったら惚れていたでありますよ」
「あ、そ。がきの、しかも男に言われてもねえ」
 ニケがからかうようにころころと笑った。
「帰ったらシチュー、もう一杯食べても?」
 エナガもニケの笑い声に少しつられながら答えを返した。
「――お好きにどうぞ!」
 二人が見上げた空は、確かにいつも見ている星空そのものだったが、何となく、それはいつもより澄んだ色をしているように見えた。
「明日も星が見えますかねえ」
「いや、明日は雨だけど」
「いやはや、夢がないでありますなあ」


20160101 
シリーズ:『仔犬日記』〈砂漠の獅子〉

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