ラナー
真っ赤なポストのてっぺんで、白い鳥が一羽休んでいる。
そのさまをぼんやりと見つめながら、ゆっくり瞬きをし、それから手の中の封筒を視界に映した。背もたれのない木製の長椅子には、自分以外誰も座る者がおらず、そして、そんな己の足元の周りでは、ポストの上に乗っかっているのと同じ鳥たちが何かをせがむよう、とんとんと短く跳ねている。
うまれ火の月、二十日。海に隣接する港町までもう少しというところに存在するこの旅人用の小屋は、特に先客も見当たらず、行商人がやってくる様子もなかった。今日の日も、もうじき暮れる。低い空に薄く並ぶ雲が、風も少なにゆっくりと流れていた。
つま先の方へと視線を落とす。近くに集まる鳥たちを眺めながら、自分の唇がいつしか無意識に、この鳥はなんていう名前なのですか、と紡がなくなったことに気が付いて、時の流れを音もないままに自覚した。もう、自分で調べることができるようになったから。そのやり方を覚えたから。あれはなんですか、これはなんですか、一人きりで口にしたところで答えは返ってこない。旅に出た、あの日から。鳥は跳ね、時折首を傾げる仕草をしていた。人は、この鳥のことをシラユキモドクと呼んでいる。
そんなシラユキモドクたちを尻目に、ベンチに腰掛けたまま、荷袋の中身をがさがさと漁る。そうしてそこから透明な袋を引っ張り出すと、その中に三つ収まっている丸い堅焼きパンの内一つを取り出して、それにがぶりとかじり付いた。パンをもぐもぐやりながら、口を付けていない方の側面を少し千切る。それから幾つか千切ったその欠片をぽいぽいと鳥の集っている方へと投げてみれば、瞬間彼らは一斉にパンが落ちたところへと跳ねたり羽ばたいたりしながら向かっていった。そんな鳥たちを視界に映しながら、自分もまたパンをもう一口食べる。出遅れたシラユキモドクにもパンの欠片をひとかけ放って、長椅子に沿って続いている黒土の街道をなんとはなしに見やった。
そうしてみれば、何処か遠くの方から車輪の音が聞こえてきた気がして、反射的にそちらを振り返る——振り返ろうとした。
けれども、不意にふわりと柔らかい風が肌を撫で、それは鳥たちが突っついているパンを転がし、膝の上に乗っている無防備な一通の手紙を宙に舞い上げた。反射的に伸ばした手は、手紙の縁にすら届ききらずに空気を掻く。腰を上げたが、しかし自分の足は何故かそれを追いかけるのを一瞬躊躇い、見えない小石に引っ掛かった。空を切り取る小さな長方形の白がひらひら風に流されていくのを見送ることもせずに視線を逸らして、パンを追いかける鳥たちを立ち上がったままに眺めた。
「——おい、あんた! 何やってんだよ!」
ぼんやりとした背中側から、声が一つ飛んでくる。その言葉に思わず振り返れば、そこでは一人の少年が飛んでいく手紙を追いかけるために脚を動かしていた。
「こんなの、まだ追い付くってば!」
毒づくようにそう言いながら、少年はまた脚を走らせる。正しくは、滑らせていた。少年の靴底には、何やら小さな車輪が幾つか取り付けられており——先ほど聞こえていた音の正体は、どうもそれらしかった——彼は黒土に細い轍を残しながら、道の上を滑走している。そうして瞬く間に少年は白い長方形を捕まえてしまうと、鳥が旋回するみたいにくるりと足元に弧を描いて、こちらの方に向かってきた。
「……ほら!」
そうして少年はその白い封筒をずい、とこちらの鼻先へ押し付けるように差し出すと、片眉を吊り上げてはややむっつりと唇を引き結ぶ。
「あ。ありがとう、ございます」
「それ、早く封しなよ。預かるからさ」
「預かる?」
「うん。おれ、配達員だから。手紙の」
言われてようやく、目の前の少年の姿をしっかりと視界に映せた気がした。少年は、後ろを短く刈り上げた青っぽい黒髪を、両こめかみに掛かる部分だけは長く伸ばしており、それはどこか鳥の羽にも見えた。瞳は髪よりも深い黒で、ただその目はよく光を吸い込み、反射させている。深緑にポストと同じ赤いラインの入っているキャスケットと、長袖の上着にハーフパンツを身に着けている彼は、見るからに重たそうな革の鞄を肩から斜めに引っ提げていた。
「その……封は、できないんです」
急かすよう突き付けられた手紙を受け取っておずおずとそう発すれば、眼前の少年は不可思議なものを見る目をして、目深に被った帽子の下でその眉間に皺を刻んだらしかった。
「はあ? なんでだよ」
「えっと……それ、中身も封筒も白紙なものでして」
「……ふうん」
こちらの返した言葉にさして興味もなさそうに少年は息で返事をすると、ベンチの前に立っている自分の横をすり抜けて、真っ赤なポストの方へと靴裏の車輪を転がした。そうして彼は円筒状のポストの下部に取り付けられている扉の鍵穴に、上着の隠しから紐付きの鍵を取り出して差し込む。それから手首を捻ってかちりと錠を鳴らし、扉を開いてその向こうから大きな麻袋を取り出してみせた。こちらからでは袋の中身は見えないが、少年の少し疲れた息遣いは聞こえてきていた。
「それさ。出すなら、ちゃんと差出人名は書いておいてよ。忘れる人、けっこう多いから」
「そう、ですね。ただ……僕の名前で、相手に通じるかどうか……」
「そんなのは知らないけど。でも、差出人名ってのは、どっちかっつーとおれたち配達員のためにあるだろ。それがないと万が一届けられなかったときに、戻せないからな」
少年はひらりと手を振って、視線だけでこちらの手元に戻ってきた封筒のことを示した。そうして麻袋の中に入っている手紙の一通一通を、ぽいぽいと手際よく自身の鞄の中へと収めていきながら、
「ま、名前なんて書かなくても、案外誰からの手紙かは分かるもんじゃないの。相手さまにはさあ」
そのように呟いて、麻袋を再びポストの中へと戻した。彼は先ほどよりも膨らんだ鞄を軽く叩くと、ポストの扉をぱたんと閉じ、鍵をしっかりと掛ける。傾きはじめた陽の光が、少年の薄い頬と角のないポストの輪郭を照らしていた。雨風に晒され、細かな傷が付いて尚、人の目に付くその赤い円筒よりも、少年のまだ幼く見える横顔の方が疲れて見えるのは自分の気のせいだろうか。彼は腰に下げている水入れの中身で喉を潤しながら、ちらりとこちらを振り向いた。
「あんた、旅人?」
「あ、はい。そうです」
「自分の決まった住所はあんの?」
「……な、ない……かな」
「じゃあ、宛先の住所を間違えるなよ。届けも戻せもしない手紙は、忘れ物箱行きだからね」
つい、と片方の口角だけを緩く上げた少年の言葉が、真実なのか冗談なのかは分からなかった。彼は被っている帽子の位置を調整し、自分がやってきた道とは反対側の方を少しだけ眺める。少年は脚を動かして、土の上を滑った。次の集荷へと向かうのだろう、けれどもそのさまにはたとして、思わず滑り出す前の彼へと声をかけた。
「……僕はマイロウドと言います。君の名前を訊いてもいいかな」
「ラナー」
「ラナー。じつは、これとは別に、もう一つ手紙があって」
なんとなく気怠げに振り返り、それでも名乗り返してくれた少年にそう告げれば、ラナーと名乗った彼はさっと片手をこちらに差し出した。じっと自分の方を見ている相手に慌てて荷袋の中を漁り、その中に収まっていた一通の手紙を引っ掴んで、手渡す。手紙を受け取った少年はそれをすぐに鞄に押し込もうとしたが、しかしふと何かに気付いた様子で、手紙の表と裏を交互にしげしげと眺めては眉根を寄せて首を傾げた。
「消印が押されてる。宛名不完全でもない。きっちり配達済みの手紙っぽいけど、なんであんたが?」
「配達先のポストの前に落ちていて……住人の方には渡そうとしたんですけど、その」
「イチゼロゼロ、ハチゴーキュウ。この住所にタイムさんって言うと……タイム博士?」
「はい。家に、一人のカラクリ時計が」
宛先を見やって、事もなげにそう言い当ててみせたラナーにこくりと頷いた。あの美しい庭を手入れしながら、毎日主人の目覚めを待つ少年のことを想い出して、上手く笑えずに封蝋の方へと視線を彷徨わせる。彼は今日も、主人が起きてくるのを変わらず待っているのだろう。きっと、明日も。ラナーは手の中で手紙をひっくり返して、怪訝な表情でこちらを見た。
「変だな。タイム博士は、随分前に亡くなってるはずだろ」
「亡くなった方に手紙を書くのは、おかしなことですか?」
「そうじゃないよ。どうせ、ポストが満杯になってはみ出してたんだろ、この手紙。受け取り拒否だよ。しかも、亡くなった方宛ての手紙をご家族に届けるときは、対面がルール。だから、ポストの中に入れるなんてことは有り得ないんだ。それを関係のない人間に拾わせることもな」
ラナーは目を細めて、半ば苛立ったように自身の手首を片手の指先でとんとんと叩いた。それから、溜め息に似た呼吸。彼は受け取った手紙を鞄の中へと丁寧に仕舞い込んで、こちらに軽く頭を下げた。そんなラナーの長く伸ばしている両こめかみの髪が、さらりと揺れる。
「……誰か、仕事のできねえやつが手を抜いてたみたいだな。迷惑をかけた。その手紙はこっちで処理しておくよ」
「いえ、迷惑なんて……でも、これ、どうするんですか?」
「ああ、燃やす」
「燃やす……」
燃やす。ラナーの返事を頭の中でも復唱する。亡くなった人宛ての、届かない無数の手紙が火にくべられているところを想像すると、なんだか木枯らしに吹かれたような気分になった。何かが燃えるあのにおいを嗅ぐと、何故だろう、秋が終わる気配を想い出す。或いは夕暮れ。ラナーは腕を組み、おうむ返しをした自分の方を見ながら少し息を吐いた。
「一応、タイム博士のとこにはおれが行って確認を取ってくるけど。この手紙だけ受け取り拒否をするのか、それとも金輪際、タイム博士宛てのすべての手紙を拒否するのか、身内の方にな。それから手紙を燃やしちまって、おれたちの仕事はおしまいさ」
「じゃあ……この手紙は、灰になってしまうんですね。ここに書かれた言葉も、想いも……」
「違うね、煙にするのさ」
こちらの言葉に、ラナーは当然という身軽さでそう発した。煙? 当たり前と言えば当たり前だが、その返事に首を傾げる。そんな自分の動作を目にした少年は、つと自身がやってきた方角を見やった。それでもそれは何処か遠くを見るまなざしであり、まるで目には見えない煙が立ち上るさまを視界に映しているかのようだった。
「煙にでもしなくちゃ、亡くなった方の元には届けられないだろ。人は死んだら、煙になるんだから」
少年の声から、燃える火に昇る煙の香りがした。
それは、一年のはじまりの月に発するには、少し乾いた声だった。今日の風はゆっくりと、また冬中の冷たさを誇ってはいたが、木々はこれを受けて新たな装いの準備をするのだろう。この道の中で、ラナーの声だけが末から吹く静けさを宿していた。
「……どっかで聞いた話だけど、言葉をもつものたちは燃やすとみんな黒い煙になるんだと。だから、黒い煙になるものたちは、燃えてもまた会えるんだってさ」
「また会える?……それは何処で、なんだろう」
「さあね。煙は上に昇るから、上の方かもな」
その問いかけに、当然答えを持たないラナーは、ゆっくりと瞬きをした後に欠伸を噛み殺していた。いつの間にか遠巻きになったシラユキモドクたちは、しかし未だ飛び立つ気配もなく、辺りをとんとんと飛び跳ねている。高いところへ飛んでいける鳥たちならば、上へ上へと昇っていってしまった人々へも手紙を届けられるかもしれないと、詮もなく思った。
「ラナーはその話、信じているんです?」
「どうかな。煙になったことがないから分からないね」
ラナーはぶっきらぼうにそう発すると、車輪付きの靴で地面を蹴る素振りをした。少年の睫毛が伏せられる。そうしてしまえば、目深に被った帽子の影と相まって、こちらからはラナーの黒目に反射する光を捉えることができなくなった。暮れの光ばかりが、彼の睫毛の先へ水滴みたいな光を浮かべている。いま少年は、自分の鞄を見つめていた。
「ただ……さよならってのは悲しいもんだよ。ほんとうの別れを経験したことがある人たちは、そう思ってないとやってられないのさ」
「ほんとうの別れ……」
「うん。自分が生きてる内は、その相手に会うことができないってことだよ。生きている間は、永遠に」
ラナーの視線がこちらを向く。先ほどよりも平坦に涼しげな声色でそう言った少年の睫毛が上を向き、黄みがかった日差しはその瞳の中に再び光を映し出した。手に持っていた白封筒を、なんとはなしに陽にかざす。白紙の中身は、太陽によってつくり出される影ばかりをこちらに教えていた。
「……それでも、手紙を書くんですね、みんな」
「だから、手紙を書くんじゃない? 相手に届くかも分からない言葉を声にしても、なんだか虚しいだけだろ。でも、文字を書いて、ポストに出す。そうすると、なんとなく届くような気がするでしょ、どんなとこにだって」
言って、ラナーは土の上を滑り出した。そうして、彼は視界の端に溜まっていたシラユキモドクたちのすぐ近くをぐるりと一周回り、それに驚いて鳥たちが慌てて飛び去っていくさまを眺めては、からかいの声でくつくつと笑いを洩らしたようだった。土の上にはラナーの残した、多少歪な円の轍が残されている。なんとなく鳥たちが不憫に思えて、その後を視線で追えば、逃げ出したシラユキモドクたちは、小屋の上に整列してこちらの様子を窺っていた。
「ラナー自身も、よく手紙を書くんです?」
「いや、ぜんぜん。おれは会いたい人には自分の脚で会いに行く。もう会えない人は、しょうがないさ。手紙を書いたって、おれは虚しい。おれ自身が、配達員だからね」
「それは……なんだか不思議ですね。ラナーは郵便屋さんなのに、手紙があんまり好きじゃなさそうだ」
「ははっ、あんたはちょっとむかつくな。子どもみたいだ、マイロウド」
皮肉めいたとすら言いがたい、枯れた笑い声を立てて、ラナーは地面に落ちている鳥たちの食べ残し——自分が投げたパンくずを眺めた。少年はそれからすぐに目を離すと、土の上で旋回をして、またこちらの方へと戻ってくる。そんなラナーの表情は先ほどと変わりなく、怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなさそうだった。
「そんななんでもかんでもに、素敵な理由があるわけないだろ。自分の仕事に誇りややりがいを感じてるやつなんて、そう多くはないんだよ。おれの仕事は鞄は重いわ、仕分けはめんどいわ、脚は痛いわ、道端の小石にまで気を配らなきゃだわで毎日毎日家を出る前から帰りたいね」
彼は自身の肩を軽く揉んで、こちらに聞こえるように溜め息を吐く。言葉は淡々とぶっきらぼうに発された。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、どこか。どこか、どうでもよさげだった。何が、かは分からない。
「じゃあ……なりたくて、なったわけじゃあない?」
「当たり前。おれみたいながき雇ってくれんのは、こういう仕事しかなかったってだけ」
光に照らなければ、少年の黒目は暗いままだった。いま黄昏の光ばかりが容赦なくラナーの輪郭を浮かび上がらせ、瞳を刺している。彼はまた、水を一口飲んでいた。少年は、疲れている。仕事にだろうか、自分と話すことにだろうか、それ以外の何かにだろうか、或いは、すべてにか。光に暴かれる少年の顔は、疲れていた。
「ラナーは、なりたいものとかあるんですか?」
「この流れで訊くか? フツー……」
それでも言葉が口を突く。彼の言う通り、自分は子どもみたいに質問をくり返す。ラナーはその唇をへの字に歪めると、少し遠くを見、空を見、そうしてパンくずの転がっている場所を眺め、睫毛を伏せた。息を吸う音が聞こえる。ひどく静かな音だった。
「……おれ以外の何か」
「え?」
「いや。みんなと同じだよ」
さあ、と風が吹いた。小屋の屋根に留まっていた鳥たちが、まるで唐突に行き先を思い出したみたいに一斉に飛び立っていく。遠くへ遠くへと空の中で雲の足跡となっていく鳥たちの軌跡を、隣の少年も今はぼんやりと眺めていた。空を見ているラナーの黒い睫毛が、金色の光に濡れる。彼は少しだけ、地面の上を滑った。まなざしが、何かを追いかけているようだった。
「……ラナーは誰か、会いたい人がいる?」
「それはあんたの方だろ、マイロウド」
「そうかな……」
「そうさ。あんまり人と自分を重ねるもんじゃないよ」
ラナーはこちらを振り向き、なんだか仕方なさそうな表情で笑った。まったく一言だけで言いくるめられてしまった自分自身に苦笑しながら、ラナーの言葉に小さく唸る。そんなこちらの様子を見て気をよくしたのかもしれない、少年は土に跡を残しながら再び自分の前まで戻ってくると、それから多少勝ち気な表情で自身の片手を差し出してゆるゆると振った。
「それで結局……あんた自身の手紙は出さない?」
「ん? え、だって、白紙ですよ」
「べつに白紙でもいいじゃん。悩みすぎてなんにも書けなかったってことくらいは伝わるよ」
「それは……」
その言葉を受けて、少しだけ悩む。悩む、ふりをした。少年はこちらの手元にある白い手紙をじっと見つめて、返事を待っている。宛先の住所など分からない。手紙だって、元より書くふりだ。出せるならば旅などしない。言葉にできるのなら。ちゃんと言葉にできるのならば、はじめからそうだったのなら、旅になど。ラナーに向かって曖昧に笑う。手紙は、彼の手には乗らなかった。
「……いえ、だいじょうぶ。出さないよ」
「そう。仕事が減った、助かるね」
「でも、ラナーには出そうかな」
「仕事が増えるからやめてくれ」
冗談めかしてそう言えば、ラナーは肩をすくめて呆れたみたいにかぶりを振る。それからこちらの目を見ると——視線がちゃんと合ったのは、これが初めてだったかもしれない——何も乗っていない片手を柔く振って、自身の目を微かに細めた。斜陽が眩しかったのかもしれない。彼は出す気のない手紙を見て、小さく笑んだ。
「手紙を出すってさ、その人に会いに行くのと大して変わらないのかもな。気持ち的には」
「え? でも、きみはさっき……」
「あんたを見てたら急にそう思ったんだよ、マイロウド。その手紙、随分重たそうだ」
ラナーはくるりと踵を返して、地面の上を滑走する。途中、落ちていた小石を靴底の車輪部分で横殴りに蹴っ飛ばすと、彼はこちらをちらと振り返り、自身の瞳に悪戯っぽいような皮肉っぽいような光を映した。
「だからさ、会えなくなったら、もっと重くなっちゃうな。お気の毒さま!」
その言葉に、おそらく自分の眉間には皺が寄ったことだろう。けれどもどうしてか小気味よく響くラナーの声に、呻き声にも似た笑いを洩らせば、彼は鳥をからかったときと同じ声色で笑ってみせた。息を吸う。不安定な靴を履きこなす、或いは乗りこなしている少年の背は小さい。逆光で青黒く切り取られるラナーの影が、その色の重さのまましたたかに見えた。
「ラナー、この仕事、好きですか?」
「はあ? 大っ嫌いさ。むかつく客もいることだしな」
ラナーは黄昏に焼けた道を滑っていく。まるで鳥が飛んでいるようだった。彼は片脚だけで土に轍を付けながら、滑走したままでこちらを振り返った。
「ただ、そんなむかつく客より速く風を切るのは、まあまあ気分がいいかな」
少年は笑い声を立てずに、けれども子どもらしい速さで笑みを口元に乗せていた。こちらを向いたまま後ろ向きに走るラナーは、それでも揺らぐことなく、わざと道の上に曲線を残している。そうして旅人の小屋から付かず離れずの距離を走っていた彼は、一度ポストのところまで戻ってくると、自身がきちんと扉の鍵を掛けたことを確かめ、つま先を土の上でとんとんと叩いた。
「その靴、格好良いですね」
「まあね。でも、あんたには履けないよ。ぼうっとしてるからすぐ転ぶ」
「そ、そうかな」
「そうさ」
ラナーは呟き、口角だけを上げて再びこちらの目を見る。そうして彼は自分が未だ手に持ったままだった、何処にも届かないであろう白紙の手紙をぱっと取り上げると、こちらが制止の言葉をかけるよりも早く、次の目的地に向かって走り出してしまった。思わず土を蹴り、少年の背に手を伸ばしたが、自分の手は夕暮れに切り取られた彼の影を掴むだけだった。風と太陽が、ラナーより遅れて過ぎ去っていく。
それから遠ざかる控えめな車輪の音に、少年が最後に発した言葉ばかりが耳の中を反響していた。
「だから精々、ゆっくり歩いてきなよ。せっかく旅人なんだからさ」
消えることなく残された少年の轍は、真っ直ぐに伸びやかだった。何処までも、真っ直ぐに。
そして、自分にはそれが、ひどく自由に見えた。
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