合奏(後)
それは、小さな蛇だった。
それでも、その姿を目にしたとき、アインベルの唇から微かに声を伴って零れたのは、このような言葉だった。ああ、やはり、という納得と嘆息が、アインベルの中で緩やかに渦を巻く。
——此処は底。
朝の底、昼の底、夕の底、夜の底。大地の底、海の底、底の底、空にとっての空。此処は、すべてのはじまりの場所。すべてに名前が与えられた場所。此処はかつて、はじめの命が始まった場所。
力を借るために人々の言葉が集うこの場所で、かわたれの術師たちは己の言葉によって、のべつの竜を刺し征し、その〝借りものの力〟を欲しいままにしていたのだ。今を生きる自分たちの声すらも細く、微かにしか届かないほどに、強く竜を縛って。遙か遠い、かわたれの時代から今の今まで、永遠にも続く時間の中を。
「おまえが喚んだのか、僕のことを……?」
紅水晶の塊の手前で膝を突き、アインベルは小さな蛇に向かってそう問いかけた。おのが言葉以外のすべてを許さない沈黙が、少年の上にのし掛かり、おそらく言葉は声になっていなかった。
異常な数の赤い光が、手のひらほどの大きさしかない竜に、矢となって向かっている。それに突き刺されて身動きの取れないのべつの竜は、しかし虚ろな瞳の中に微か、火花を爆ぜさせていた。
ああ、そうだ、言葉は届くのだ。これまでだって、彼に言葉は届き、彼はその言葉を世界のものへと届けてくれていたのだろう。彼がかわたれの頃より縛られて、かわたれの頃よりも、強大な力をもたずとも。それが言葉であるなら、言葉は届く。だって彼は、のべつの竜、ウロヴォロス。彼は、この世に息づくものたちへ名を与えた者。すべての言葉をその身に宿す者なのだ。
彼は生きている。自分たちは何度、術を遣った? 彼は生きている。自分たちは何度、彼に言葉を届け、彼に言葉を届けてもらった? 彼は生きている。今、生きている。ならば、
「今度は僕の番だ」
それだけは確かに声にして、アインベルはそう言った。
けれども、立ち上がろうとした膝に力が入らない。まるで渦潮の強い風に、上から押さえ付けられているようだった。それと同じくしてポロロッカたちの楽の音も、もうほとんど聴こえないほどにか細いものとなっていた。
鈴も鳴らない赤い夜の前で、ぎり、ときつく奥歯を噛んだとき、しかしアインベルの耳に、地を叩く靴の音が響いてきた。こつり、こつり。その音はさながらこう言うようだった。聴こえるだろう。聴こえているだろう。顔を上げろ。顔を上げて、こちらを見ろ!
その靴音につられるようにしてアインベルが顔を上げると、夜に浮かぶ紅水晶の背後で、ひゅっと白い光が閃いた。ねめつける無数の視線に重たい沈黙の中で、しかし彼女の纏う空気だけが涼しげで、静かだった。
「レンさん……」
アインベルがそう名を呼べば、レースラインは義手でぐっと軍刀を握り直して、悪戯っぽく笑む。
「随分遅かったね。なるほど、私が取りというわけだ」
よく通る声で朗とそう発してから、彼女は目を細め、その視線を、苦しげな表情で半ば寄る辺もなさそうに演奏を続けるポロロッカたちへと向けた。
「きみたちはもっと楽しげに奏でるものだと思ったのだけれど、いや、私の思い違いだったかな。やれやれ、大きいのは声だけということか」
四人組へと向けてわざとらしくそう言ってから、レースラインは左手を上げる。そして彼女は、かわたれの術師の描いた言葉、その思い、そのねがい、その呪い、その視線、その沈黙のすべてが集まる紅水晶のような光の槍に向かって、自身の左手を伸ばした。
けれども、そうして彼女の左手が触れた紅水晶は灼け付くような熱さをもち、レースラインは反射的にその手を引っ込めた。燃える。まだらの火傷痕が残る右半身に、彼女は再び灼けるような痛みを感じた気がして、その熱を吐き出すかのようにふっと息を洩らした。
しかし、彼女は笑む。レースラインは熱にびりびりと痛む左手を見やり、それを一度握り締めてから、義手の方に有る軍刀をそちらに持ち直し、
「……今、初めて義手でよかったと思ったよ。これも、私の身体だからな」
と、言って、銀色の右手で紅水晶に触れた。
レースラインの義手に与えられた、たそがれの術師たちの言葉でつくられる膜が、かわたれの術師たちの言葉に触れ、彼女の右腕を守るためにばちばちと火花を上げる。レースラインは痕を残すかのように、きつく紅水晶へと爪を立てた。
「——音楽を聴くには、静かな心が必要だ。いい加減、お行儀が悪いぞ……!」
こちらの内側でも外側でも重く、またやかましく鳴り響く沈黙へと向かい、レースラインはそう叱咤すると、更に強く紅水晶に爪を立てる。
この世界から今、静寂を借ろうとしている彼女の髪がぶわりと浮き上がり、赤い夜の中で白く光って見えた。剣と剣がぶつかり合うが如くに火花を散らせる自身の右腕と、巨大な紅水晶を尻目に、レースラインはその勿忘草色の瞳でポロロッカたちを鋭く見た。
「貴様らの音楽はそんなものか? それが貴様らの音楽か!」
レースラインの目の中で、松明の炎が青く燃える。それはどこか、青い薔薇が凜と地を踏み締めているようであり、アインベルはそれにつられるようにして、両脚の力がおぼつかなくとも確かに立ち上がった。
「聴かせてみろ、おまえたちの音楽を!」
レースラインの背で、夜明けの色を宿したマントが、彼女の白と共に赤く、赤く浮かび上がる。彼女に爪を立てられている紅水晶の色が、微かに沈んだようだった。レースラインは更に吼えた。
「——〝おまえたちの意志はどこにある〟!」
彼女がまるで騎士の頂に立つ者のようにそう叫ぶと同時に、頭上でかしましく輝く赤色が、ふっとその光を静めた。レースラインの周りに流れる、心地の良い静けさが辺りに広がり、上から押さえ付けられていたような感覚や、じっとりとねめつけられていたような感覚が各々の中で薄れていく。
息苦しさから解放されると共に、ポロロッカたちが、それぞれ微かにその唇を開いた。はじめにそこから零れた声はほんとうに小さなものだったが、レースラインが世界から借りた穏やかな静けさの元、それはそこにいる誰もの耳に入り込む。
「しゃらくせえ……」
「こんなつまんねえ曲、奏ってられるかよ」
「死ぬ覚悟で相手を説得しようってのがさ、そもそもださいのよ。そんな音楽、響くわけないじゃない」
「誇りのために、命は捨てられないな。だって死んだら何もできない」
「笑えないのはだめだ。音楽も宝も術だって、人の笑顔のために在るんだからな」
「音楽が剣や銃に勝てるかって、勝てるわけねえだろ、たかが音楽なんだから。死ぬくらいなら逃げりゃいいんだよ、なんでそんなことも分からなくなっちまってたのかね」
「逃げて、逃げて、逃げまくって、相手を高い処から見下ろしながら奏ってやればいいのよ。音楽が剣や銃に勝てないように、剣や銃も、音楽には勝てないんだから」
「音楽に勝てるのはやっぱ、音楽だけだからな。叫べばいいのさ、俺たちを倒したきゃ、お前らも奏ってみろ!……ってな。それでだめだったら、また追いかけっこだ。相手が奏る気になるまでな」
「ま、俺らは折れないもんな」
「しかもしつこい」
「更にうるさい」
「言うだけなら簡単よねえ」
「何事もな。あーあ、こんな世界、宝探しでもしてないとやってらんねえよ」
「こんなとこにいたら、宝探しすらできねえけどな」
「——じゃ、ひとつ奏りますか」
「笑えるやつ?」
「そりゃあもちろん。酷すぎて海も水を吐くようなやつを」
「〝奏術師〟の名にかけて、な」
「いつ奏術師になったのよ」
「今ですが」
「どうせ三日で飽きるっての」
「そもそも響きが堅いよな。ハンターのポロロッカども、って方がしっくりくる。不名誉ながら」
「じゃ、ポロロッカの名にかけて!」
「あんたそれ、ただ言いたいだけじゃないの?」
「ま、そうだろうな、リトのことだし」
「どういう意味だよ!」
「そのままの意味ですが」
「あーあーはいはい。さて……じゃ、ぶっ飛ばしていきますか」
「つまんねえもんを?」
「つまんねえもんを」
「いいねえ、それじゃあ」
「——粉々に!」
四つの拳が一斉に上がる。段々と声量が上がり、最後には大音声でそう叫んだポロロッカたちは、一つ呼吸を置くと、各々の楽器を構え直した。
鐘を鳴らせよ!
強く轟いたその一音に、アインベルは自分の心臓に直接、彼らの言葉がおくられるような感触を覚えた。右手に持つ杖を、少年はぎゅっと握り締めると、ちらりとイリスの方を見る。イリスはそんなアインベルにそっと微笑み、空いている方の手のひらを取った。
イリスの瞳が暗闇の中で、宝石よりも鮮やかに輝いた。彼女の手のひらから送られる熱がアインベルの血管を巡り、イリスと同じように、彼の睫毛の間からも虹色の火の粉が舞う。
イリスの唇が弧を描いて、瞳は真っ直ぐにアインベルを見つめた。アインベルもまたイリスの方を見つめ返し、その目で頷く。ポロロッカたちが奏でる音楽の波によって、風もないのに微かに揺らされた鈴からも、七色の火の粉が零れるようだった。
音は奏でられる。水面を跳ねる飛び魚が、波を立てる大雨が、笑い声を上げて飛び交う小鳥が、突如吹き荒れはじめた強風に、しかし自ら乗っかった。湖の水を巻き上げて立ち上るその風は竜巻とも渦潮とも呼びがたい。天高く上り、身体を得ては声高に己の想いを歌い上げるそれは、海の水と共に姿を消してしまった鯱か、それとも。
つと、イリスがポロロッカたちの方を振り向き、その右手を頭の上に掲げた。彼女の鮮やかな紅が全員の目を捉え、そこから自身の火の粉を分け与える。イリスの口角が悪戯っぽく上がるのと共に、ポロロッカたちの口角もまた、意地が悪そうに吊り上がった。
——鯱か、それとも。
それとも、竜か。
イリスがその手のひらを振りかざすと同時に、ポロロッカたちの奏でる楽の音が、更に強く、更に大きく轟いた。イリスはその手をほとんど振り回すようにして指揮をする。彼女は演奏に合わせて、その靴底で調子を刻み、ついには踊るようにしてポロロッカたちの中へと飛び込んでいった。
彼女の首巻が蛋白石のように揺らめき、ひらりと蝶の羽のように舞った。赤い瞳がちかりと煌めき、弧を描く。それを見たポロロッカたちはもう、此処が何処で、自分たちが何に立ち向かっているのか、そんなことはどうでもよくなってしまった。そんな小さなことは、忘れてしまったのだ。
ただ今、此処に在るだけだ。此処に在って、鳴らしたい楽の音を鳴らすだけだ。心を音に乗せて、奏でるだけだ。今、歌を。さあ、歌を。心の底から叫ぶように!
イリスの足が奔る馬の蹄のように地を叩き、彼女の手が虹を架けるように空を踊った。それにつられて、ポロロッカたちも楽器を手に、半ば踊るように奏ではじめる。その演奏は蝶ではない、ましてや蜂でもなかった。それはさながら、水面の上を奔る馬を追う、鯱の群れだった。
そして、その内に彼らの演奏は強く水面を蹴り、奔り出す。何処をか? それは紛れもなく、空をだった。
——そう、彼らは翼を得たのだ。
雨が強く水面を叩く。湖の水が溢れ出て、まるで海にしばしば立ったという巨大な波が起こっても、その海嘯が細い川をも呑み込んでも、雨は止まない。その水に包まれた飛び魚たちは一匹の巨大な鯱と化し、その背には確かに空を打つ双翼が備わっている。小鳥たちは今、自らその鯱を包む水の中へと飛び込み、空を翔けようと羽ばたく彼の足となった。高く空へと続く風が吹き荒れる。彼はその風に乗り、天高く雄叫びを上げた。それはまるで、海鳴りのような声だった。
いつしか彼らが追っていた馬も翼を得、空を駆け出していた。その瞳、蹄、翼、たてがみまでが、炎のように燃えている。それを追う、翼と足をもつ鯱のなんと不格好なことか。ばたばたと翼を動かし、無理やりに空を蹴って飛ぶ、打つ雨の膜によってなんとか竜のようなものの姿を保っている彼——彼らの、なんと無様で不格好なこと。
それでも、彼らは笑っていた。だって彼らの楽の音は、彼らの心の音は、そのために在るのだから。
どこまでも自由な燃える天馬の指揮に、心の音が形づくった鯱の竜はまた一つ空を打ち、宙を蹴って、銀色の手のひらがつくり出したまっさらな静寂に一つ、また一つと色を付けていった。今鳴ったのは竜の雄叫びか、雷鳴か、それとも海鳴りか。
此処が何処であるかも忘れ、どんどん激しさを増し、海嘯のようになっていくポロロッカたちとイリスの楽の音に、アインベルは目を瞑って、彼らの言葉に耳を澄ませた。
鐘を鳴らせよ わが友よ
聴こえるだろう この心音
瞳を開けろ わが友よ
見付けるべきは 生きる今
わが血で燃えぬ この空は
熱く燃えるは この鼓動
わが血で染まらぬ この大地
それを染めるは 我ら歌
アインベルは小さく呼吸をくり返し、自身の心音を感じながら、ゆっくりとその瞼を開ける。ポロロッカたちとイリスの楽の音は、疲れも知らずに強く、強く、奏でられ続ける。
鐘を鳴らせよ かわたれに
聴け歌 響け この心音
瞳を開けろ たそがれに
喚べ今 掴む 我ら明日
目を開けたアインベルは、その手のひらにイリスの熱を宿しながら、音楽を奏で続ける彼らにそっと背を向け、紅水晶から重たい沈黙を奪い、聴くための静寂を保っているレースラインの方へと自身の視線を向けた。
目が合う。
ただ、それだけだった。
アインベルは音の竜を背に、鈴の杖を両手を使い、身体の真ん中でぎゅっと握り締める。そして彼はその杖の石突をゆっくりと地面に着けると、少しだけ睫毛を伏せ、そっと息を吐き、また吸った。
少年の潮風に吹かれ、色の抜け落ちた淡い水色の髪が、下から風に吹かれるように、緩やかに浮かび上がっていく。その指の間、睫毛の間から、イリスが残した虹の火の粉が零れ落ち、闇の中で、さながら昏い底の底を色付けるかのように無数に舞った。
アインベルの睫毛が上がる。
その瞳は煌めきも、輝きもしていない。ただ、今までその目に映してきたものを記憶に宿し、今、目の前に在るものを映すばかりの瞳がそこには在った。
渦潮にたいせつなものを奪われたその目の緑は褪せ、たそがれの色を知っている。頭上に燃える赤い光に、彼はかわたれの燃える空、その血の色を見た。目の前に浮かぶ紅水晶には、黄昏の魔獣を見出し、また、それらと戦う者たち、そして共に生きる者たちを見る。
今を生きる瞳が、遠いかわたれのつくり出した紅水晶を見据えた。
その愚かしいまでに今を信じ、明日を見たいとねがう少年の指先が、自分を此処まで導いた鈴の杖を強く掴む。そして、その音を高く響かせ、アインベルは走り出した。
赤く光る、描かれた言葉の槍に貫かれたのべつの竜を、アインベルの握る杖の石突がぐるりと囲う。暗闇の中に描かれたそれは、描いたところから火の粉を上げ、さながら夕暮れの太陽のように赤く光り輝いた。
そしてアインベルは、鈴の杖と同じく、自分を此処まで連れてきた〝呼び声なき眼〟を、かわたれの召喚師が、彼は誰が描いたその陣を、言葉を、今を生きる自身の意志を以って、光る円の中に描きはじめる。
それは、彼が喚びたかった彼女を喚び出すためではない。自分が喚びたかった家族を喚び出すためでもない。
ただ、今を喚ぶために。
此処に奏でられ、自分が信じ、生きていく今を喚び出すために。
我は瞳。今を見る目。
我は鐘。今を鳴らす音。
我は見付ける。今を見付ける。
我は見付かる。今に見付かる。
我は知らせる。過去に今を。
我は知られる。過去に今を。
我は瞳。今を生きる目。
我は鐘。今を喚ぶ音。
我は此処に在り。
彼らと共に。
黄昏と共に。
我は此処に在り。
今、此処に在り。
すべてよ。
今を生きる、すべてのものよ。
その鼓動よ。その心音よ。
わが呼び声に応えて歌え。
アインベルが世界の底に描いた召喚陣は、彼が描いた端から柔らかな光を纏って燃え上がり、赤い槍の突き立つのべつの竜を優しく包み込んだ。翼も足もない竜は、しかしその言葉の光を瞳に宿して、鎌首を微かにもたげたようだった。
少年の背後で、天馬と竜を纏った楽の音は途切れることなく続いている。
アインベルの描いた直後の言葉は赤色の火の粉を散らして光っていたが、段々と橙色へと変化し、今では黄みがかった白を纏って、淡くも確かに輝いていた。それは黄昏の太陽から注がれる、今日を生き、明日へと向かう者へと与えられる陽の光。アインベルは、大きく息を吸い込み、杖を掲げた。
「——〝今よ、此処へ至れ〟!」
そう発すると同時に、アインベルはその石突で、自身の描いた召喚陣を思い切り叩いた。
鈴の音が響き渡る。淡い光が段々とその強さを増し、のべつの竜を紅水晶に触れているレースラインごと包み込んだ。アインベルはその白い光を真っ直ぐに見据え、一歩踏み出すと、そっと片手を伸ばした。
そして、その指先は光に届く。
瞬間光が弾け、暗闇の世界を真っ白な色で染め上げた。それでもアインベルは目を閉じず、背後で奏でられる楽の音もまた、止むことを知らない。襲い来る光の波に、頭上で微か光っていた赤い言葉はもう、その色を呑まれてしまった。
ぴし、と何かが砕ける音がする。見れば、巨大な紅水晶の内側にひびが入っていくところだった。アインベルが反射的に顔を上げると、レースラインの青い炎が燃える瞳と目が合った。彼女は嘆息したのか笑んだのか、小さくその唇から息を洩らすと、銀の手のひらを紅水晶からそっと離す。
「アインベル——聴こえたよ、きみの言葉」
その呟きにアインベルは小さく頷く。レースラインは軍刀を右手に持ち替えていた。
「ねえ、レンさん。明日は来るね」
「ああ。来るさ、何があっても。そしてそれが、今を生きるということなんだろう」
「人が戦争をしてても——もし、黄昏が終わったとしても、きっと……」
「来るよ、明日は。この世界は残酷なんだ。けれど、それでも、私は見たいと思うよ。そこに立っていたいと思う」
ふっと微笑んだレースラインに、アインベルも小さく笑むと、彼は両手で杖を握り締めた。
「守りたいものがあるんだね、レンさん」
「私はレースライン・ゼーローゼ、騎士だからね。きみこそ、守りたいものがあるようだ。アインベル・ゼィン——アインベル・ゼィン・アウディオ、失せ物探しの召喚師」
「そう。僕が守りたいと思ったもの、全部だ」
「ああ、無謀だね。それにわがまま」
「分かってる」
「だが——そうだね、それくらいの方が私好みだ」
からかうようにそう言ったレースラインへ向けて、アインベルは困ったように肩をすくめると、それから苦笑して、白い光の残照の中で静かに佇む、ひび割れた紅水晶を見やった。
レースラインの銀の右腕が音を立てて、強く軍刀を握る。腰を低く剣を構えた彼女は、視線は紅水晶にやり、しかしその心だけはアインベルに向けたまま、覚悟を決めたように唇を開いた。
「そろそろ往こうか」
「うん、往こう。きっと僕らまた、一緒に生きていけるよ」
「きっとだなんて思っていないくせに」
レースラインの声が、微かに笑った。
「絶対に、だろう?」
「そうさ、絶対に」
頷くと、アインベルもまた両手で杖を構えた。それから彼は、のべつの竜の、辺りに満ちた白い光を映した双眸を見やると、自身の褪せた緑の瞳をそっと細め、彼自身聞こえるか聞こえないかくらいの声で、しかし確かに言葉を発した。
「——生きよう、一緒に」
そしてアインベルは鈴の杖を高く掲げると、巨大な紅水晶に向かってそれを思い切り打ち下ろした。それと同時に、レースラインの軍刀の刃が紅水晶に向かい、鋭い一閃を放つ。瞬間鳴り響く鈴の音に、斬り砕かれる、かわたれの言葉たちの残響。それはほとんど、遠く耳に残る、夜明けの鐘の音だった。
杖と剣に打ち砕かれた眼前の紅水晶が、空の言葉たちが、細かな破片となって白い光の中を無数に舞う。
それを目にしたポロロッカとイリスたちは、そこでやっと演奏を止め、アインベルとレースラインの方へとその視線を向けた。それから彼らは、二人の目が今向かっている方へと自分たちの視線を動かすと、そこでのべつの竜が確かに頭を持ち上げ、その小さな口が開かれるのを目にした。
その瞬間、心臓が強く殴られたような衝撃を覚える。
そこにいる誰もがその感触を心の臓に覚え、彼らは反射的に自分の胸を押さえた。どくどくと激しく鳴る鼓動に、肌が粟立ち、瞳孔が開かれる。ぶわりと浮かび上がる髪に、焦点の合わない目を全員が瞑り、上り来る何かを抑えるように、自身の心臓の上を強く握り締めた。
世界のあちこちから集められた、何か途方もない力が、のべつの竜を通して自分たちの足下から上ってくる感触を誰もが感じ、その圧倒的な力に震え出した誰かの喉から、声が一つだけ零れ落ちる。
それが呼び水となったかのように、そこに在る誰もがその喉から声を絞り出した。その打ちに彼らの声は段々と大きさを増し、一つの巨大な雄叫びと化していく。ああ。ああ。ああ!
流れ込む強大な力を前に、ただ己を、自分自身を保つためだけに命すべてで発せられるその声は、最早意味をもたなかった。それでもきっと、それが、それこそが、のべつの竜の咆哮でもあった。すべての言葉をもち、けれどもおそらく声をもたない彼の、精一杯の咆哮だったのだ。
アインベルは息を吸う。
今、すべてが聴こえるようだった。
轟く光の音、星が弾け大地が沈む音、追いかけた小さな蝶々の羽音、いつかの夜が赤く燃える音、鳴り響く鈍い鐘の音、愛しい者の最期の声の音、己が泣き叫ぶ声の音、壊れる日常の音、崩れる家の音、倒れる誰かの音、水と命が涸れる音、それから——
この世界で命が息づく音、そしてまた、共に在った何かが去っていく音。
心を千切るような彼らの雄叫びに、彼ら自身、自分たちの中に流れ込んでくる力が世界中へと伝播していくのを感じた。瞑った視界が、黒ではなく、再び白に包まれるのをアインベルは感じ、少年はゆっくりと目を開ける。
——夜明け前の海。
静かな夜明け前の海に、アインベルたちは立っていた。
海上を吹き荒れていた渦潮の風は止み、心地よい静寂が流れる海には、ただ月明かりが淡く光を差し伸べているばかりだった。
呆然と立ち尽くすアインベルの耳に、ふと、風の吹く音が流れてくる。それと同時に、まばゆい光を背中に感じて反射的に振り返れば、樹海を越えた先の先、遠く、遙か天上で輝くものが視界に映って、少年はその目を見開く。
そして、それは砕け散り、四方へと飛び散った。
地の底、海の底で、のべつの竜と共にそのすべてを聴いていたアインベルは、そっと息を吐き、今この世界から去ろうとしているその大樹の——誰そ彼の呼び名を、零すように呼んだ。きっと、自身の借りものの力が伝播していた仲間たちも、自分と同じようにその唇を動かしただろう。
その内に自分の心臓にも突き刺さるのだろう、世界中に飛び散った紅水晶の軌跡を眺めながら、アインベルはつと、近くでイリスが小さく息を洩らしたのを聴き取った。
「黄昏が、終わる……」
再び風が吹く音がした。
「終わるのね……」
また、風が吹く音がする。もう一度、もう一度。世界樹の在った方向へとそれは吹き、その音はさながら、これから眠る者へと歌う子守歌のようだった。風も吹いていないのに、風の音が聴こえるとは——
アインベルははっとする。それと同時に、イリスが塩の大地を蹴った音がした。
「ヴィア!」
必死の声で名前を呼び、ヴィアの鳴き声がする方へと駆け出したイリスを追って、ポロロッカたちもまた走っていく。
けれども、きっと誰もが分かっていた。この世界の黄昏と共に生まれた魔獣は、この世界の黄昏の中でしか生きていけないことを。明日は共に、在れないことを。ああ、なんて日だ。だが、それでも夜は明ける。どんなに今日が悲しくても、どんなに明日が怖くても、この世界の夜は明けていく。やさしく、眩しく、残酷に、日は暮れ、この夜は明ける。
地平線の果てから、太陽の前に、ほんの少しだけ光が顔を覗かせていた。
その光に照らされて、雨が一粒、ぽたりと顔に落ちた感触をアインベルは覚え、その目をそっと空へと向ける。そうして彼は雨を感じた目尻を静かに拭うと、また前を向き、一歩進んだ。
ヴィアを目指すイリスの背を追う前に、アインベルは巨大な輪を描いて佇む、いにしえの竜の骨の元まで歩いていった。
鈴の音が鳴る。遠い雷鳴にも似た潮騒が、耳の奥で響いていた。靴の裏に、砕け散ったシーグラスの破片を感じる。レースラインの静かな瞳が、後ろから自分の背を見ていた。
彼は、先ほどまで渦潮の竜が立ち上っていたその中心ではなく、近くで突き立つ一本の骨の元へと歩を進めると、その内側に填め込まれている、巨大な竜核を見上げた。
「……どうして?」
アインベルのその問いかけに、竜核は何も言わなかった。
言葉はない。
もう、渦潮は動かなかった。
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