そのひと匙でこころ満たすもの
「びっくりしました」
思わずもそう口にすると、ニケ・ヘイダルは机の上に乗っているグラスから水をあおって自身の目の前に頬杖をついて座っている青年に視線をやった。
「……俺もびっくりしたよ。お前、今までよくあんな不味いもん喰ってて平気だったな。俺だったらどうにかなってる」
「た――確かにあれを美味しいと思ったことはないでありますが……でも自分の故郷ではああいった味のものしか出回っていませんでした。だから自分もこういう味のものしか知らず、これしか焼けなくて……えっと、エナガさん、無理そうなら残してください」
ニケはそう言うと、エナガの前に置かれた皿を困ったように見つめた。その皿の上に乗っているのはニケの焼いた――というより固く焼きしめた――ビスケットである。それはニケが旅をしている間いつも持ち歩いている保存食だった。固く、ほとんど味のないそれはエナガの言うように美味と言えるものではない。エナガはそれを一瞥すると、溜め息混じりだが微かに笑って一枚口に放り込んだ。
「や……全部喰うよ。せっかく焼いてくれたんだし。だからお前もそれ、全部喰えよな」
「それは言われなくても、でありますよ。こっちのは美味しいですし」
ニケは笑いながら目の前の皿に乗っているビスケットをエナガと同じように口へ放り込む。こちらはニケのビスケットを食べたエナガがその味を嘆きながら、ニケのビスケットの焼き方とほとんど同じ手順を踏んで焼いた〝ニケのビスケット・改良版〟である。手順も材料も自分のときと大して変わらなかった、とニケは思うのだが、それでも今頬張っているエナガが焼いたビスケットは何故か自分のものよりも格段に美味しくなっているのであった。変わったところと言えば彼は生地に蜂蜜を入れていたような気がするが、それだけでここまで美味しくなるものなのだろうか。ニケが問うと、エナガは軽く唸った。
「まぁ……こういうのには〝こつ〟があるんだよ。このビスケットは、ほら、お前ら旅人の生きる知恵……ってやつだろ。でも、知恵だけじゃ足りないときもある……たぶんな。たまには必要だろ、経験上のヒラメキ――みたいなもの」
「〝こつ〟……」
エナガの言葉を聞いたニケは、何を思ったのか小さく笑い出す。エナガは怪訝な顔をしてニケを見た。
「おい、何笑ってんだよ」
「いえ、すみません――ただ、〝こつ〟と聞いて思い出すことがありまして……」
――ニケ・ヘイダルが行商の旅に出てから一か月ほど経ったある日、ニケは新しく訪れた街で運んできた商品を広げ、露店を出していた。
道中、訪れた街の店々に卸す商品以外でラクダの背に積んでいるのは、どれもニケが露店で売るための品物であり、今まさに彼はラクダが運んでくれたそれらを広げてその良さを分かってもらおうと奮闘しているところである。
ヘイダル家では自分が露店を出す場合、そこで売るものは特に定まってはいない。それどころか〝己の好きなものを万人へ満足に売れてこそ、一人前の商人である〟とさえ云われている。なのでニケはその教えに従い、自分が美しいと思う、自分の好きなものを仕入れ露店に並べてみせた。ちなみに、ニケの並べた商品とは……
「――がらくた!」
「……これ、鳴らないけど……何に使えるの?」
ニケの露店に並んでいた、弦を弾いてみても音の鳴らない琴を二人の客がしげしげと眺めている。木の丸椅子に腰かけていたニケが問われると立ち上がり、片方の客が手にしている琴の弦が張られている面を手のひらで示した。
「ええ、そちらは古い品物なので確かに音は鳴りません。ですが、その琴には綺麗な――あ、いえ、美しい花の絵が彫られておりまして……その琴は音楽こそ奏でられませんが、それでも心に響くものがあると自分は思います。その琴で昔、どんな音色が奏でられていたのだろうと想像すると……まるでその楽の音が聴こえてくるようです。……それほどにその琴は美しい品物なのであります」
二人の客は顔を見合わせると、目の前で品物の良さを懸命に伝えようとしている少年をちらっと一瞥し、間もなく吹き出して笑った。そんな二人に困惑するニケに客はまたも視線をやると、今度は手にしていた品物の琴をニケの方へ向けて放り投げた。慌ててニケが琴を受け止める。
「って、言っても……鳴らないんじゃあねぇ、楽器なのに」
「わっ――わ……お、お客さん!」
「んじゃまあ、頑張ってね、〝がらくた売りさん〟!」
そう言い残すと二人の客は足早に街の奥へ消えていった。ニケはそれよりも放り投げられた琴に傷が付いたりはしていないだろうかと、琴をいろいろな角度から確認する。特に傷も付いていないことが分かると、ニケは溜め息を吐いて丸椅子に座り直した。一息ついたと思えば今度は二人が去った方角をちらちらと振り返りながら、こちらへやってくる青年が一人。そして露店の前に彼が辿り着くと同時に、ニケも再び丸椅子から立ち上がった。
「いらっしゃいませ、であります!」
そう言って新たにやってきた客を見上げれば、ニケの瞳に映るのは夜のように深い黒の髪と瞳、そして太陽の光に焦がされた肌の色だった。砂漠出身の自分よりも幾分か浅黒く見える。彼が暑いところを日差し避けの布も巻かずに旅をしてきたのか、それとも砂漠よりも太陽が近い場所で生まれ育ったのか、真実はニケには分からなかったが、もしかしたら両方なのかもしれない、とニケは結論付けた。
(太陽に焦がされて、髪も瞳もこんなに黒くなったのかもしれない……)
そうしてぼんやり目の前の青年を眺めていると、夜色の彼は軽い溜め息を吐いて先の二人が去っていった方角を指で示して呟いた。
「商人と楽器を馬鹿にしやがって……何が音の鳴らない楽器はがらくた、だ。それこそ馬鹿げてる。……それにやつら、鳴らし方を知らないだけなんだ」
ニケはこの青年が先ほどのやり取りを見ていたことに驚いて目を瞬かせた。
「えっ……と、あなたは」
「ん? 僕は……通りすがりだけど君の客だよ、さっきのとは違ってね。ねえ、その琴、弾いてみてもいいかい?」
ニケにそう聞きながら、しかし返答を待たずに青年は露店に並べ直された〝音の鳴らない〟琴を持ち上げた。
「はい、もちろんです……でもあの、古いものなので音はほんとうに……」
困ったように笑うニケを見て、青年は深い夜の瞳を細めて笑った。その表情に好きなものを目の前にした少年の顔を見たニケは、小さく微笑んで首を横に振り、青年に琴を弾くように促した。そして何となく、この人は旅人なのだと悟る。旅人なのだろう、少なくとも今は。そしてその旅する心は、何だか自分の心と随分近いような気がするとニケは感じた。
「こういうもの、たぶん何にでもだけどね、〝こつ〟ってのがあるんだ」
「〝こつ〟……?」
「ああ。――じゃあ、この琴……ちょっとだけ借りるね」
そう言って彼が細やかな手つきで弦を爪弾くと、高い音が一つ宙に浮かび、余韻を残しては穏やかに消えていった。驚いたニケは砂漠を宿したその瞳を見開き、思わず身を乗り出して青年が奏でる音色に聴き入った。夜の色をその髪と瞳に宿した彼が楽の音を奏で、低く心地好い声で見知らぬ歌を歌いはじめると、眩しい太陽の光すらもやさしい昼の星の光として彼が響かせる音楽の周りを舞い踊る。そうして数節の短い歌を歌い終わると、彼の周りでは拍手がわき起こり、ニケも同様に拍手を贈った。青年は照れ臭そうに頬を掻くと、琴を手にしたままニケの方へ向き直る。
「弾かせてくれてありがとう。……この琴、頂いてもいいかな。いくらだい?」
「あ……いえ、お代はいいです。素敵なものを、聴かせて頂きましたので」
「それは……嬉しいけど、だめだな。今のは試し弾きだし、これの対価にはならない。価値あるものにはきちんとそれに値するものを差し出したいんだ。――いくら?」
「……ありがとうございます。では――」
ニケが値を告げて、青年がそれを支払うと、青年は満足したように頷いて笑みを浮かべた。その顔がまるっきり悪戯に成功した少年だったものだから、ニケもつられて顔に笑みを浮かべる。
「お客さん、歌うたいさんでありますね。お名前は……?」
「名前は……そうだな、今は迷ってるところ。だから、好きに呼んでくれ。……じゃあ僕、もう行くよ。良い琴をありがとう、今度また会えたらそのときは……ちゃんと一曲、あんたに贈るよ。この琴で練習して、さ」
「それは……ははっ、楽しみだなぁ! またお会いしましょう、必ず!」
「じゃ、またな、だ。頑張れよ、〝たからもの売りさん〟!」
……エナガが淹れた紅茶――エナガは茶類にはあまり明るくないらしく味が薄い――を啜りながら、ニケは空になった皿を眺めて息を吐いた。
「ごちそうさまでした」
向かいで同じように紅茶を口に付けながら、エナガが思い出したように呟く。
「そういえば、さっき思い出し笑いしてたのは結局何だったんだよ」
「ああ――聞きたい、ですか?」
「……別に」
「ビスケットのおかわりを焼いてくれたら、話してあげないこともないでありますが」
「生意気な……」
言いつつも立ち上がり、台所へ向かっていったエナガの背をニケが追いかける。それからどこか歌うような口調でエナガに声をかけた。
「紅茶は自分が淹れるでありますよ。たぶんこっちは、自分の方が美味くできます」
「へえ、言うじゃねえか」
「――自分はこれの〝こつ〟を知っていますから!」
「……生意気な!」
20160813
シリーズ:『仔犬日記』〈砂漠の獅子〉
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