プロブレマティカ
たとえば自分に心臓があったのなら。
たとえば自分に心臓があったのなら、踊るときの高揚は鼓動の高鳴りに代わったのだろうか。たとえば自分に心臓があったのなら、生物ではない自分が魔物を屠るときの哀しみを、もっと遠くへとやることができたのだろうか。たとえば自分に心臓があったのなら、形容し難い思いの数々を、滴る血として流してしまうことができたのだろうか。知る由もないことだ。おれには心臓がない。
……空が茜色に染まっていく。窓から漏れる斜陽が頬にかかる。犬童はぼんやりと椅子に座り、雲が一つも姿を見せない黄昏の空を眺めていた。
昨日から眠っていないせいで少し微睡んでいたのかもしれない。何か、自分はおかしなことを考えていたな。彼はそう思った。犬童は何だか不思議な気持ちで自分の、人であれば心臓が在るだろうその辺りに手を置いて瞼を閉じた。鼓動の音は聴こえない。そこに心臓はないのだからそれは当たり前のことだった。だが、ここには自分を動かす命の源がある。恐らく、心とやらもここにあるのだろう。自分に心があることを指摘されると、どうにもそれを否定したくなる自分がいることに犬童は小さな疑問を抱いていた。ないよりあるが恐ろしいような気がするのだ。何故生物は、人は、この心というものをああも簡単に受け入れられるのか。機械人形である彼にはそれが今のところどうしても解らなかった。
ふと、控えめな鈴の音と共に扉が開く音がする。犬童は、はっとして後ろを振り返った。
「――犬童」
視線の先には、先日魔物との戦いで傷を受け昏睡していた、犬童の師でもある薫子がけろりとした表情で立っていた。犬童は椅子からは立ち上がらずに、身体だけを薫子の方へ向けた。
「カオル……目が、覚めたのか」
「師匠と呼べ。……ああ、わっちはどれくらい眠っていた?」
「半日……昨日の夜から、今まで」
薫子は斜陽のかかった犬童の顔を一瞥し、腕を組みながら溜め息を吐いた。
「それはまあ……長いこと眠ったものじゃなあ。おまえは? 眠っておらぬのか?」
「ああ、眠る気にならなかった。……第一、機械が眠るという方がおかしなものだろう」
「そんな呆けた顔で言われても、なあ。おまえ、説得力がないぞ」
和洋折衷、その言葉がよく似合うさして広くはない部屋の中を薫子がゆっくりと一周した。役割を果たしていない暖炉に、彼女は自らの炎を与え仕事をさせる。灯っていない灯篭へは一瞥をくれるだけに留め、彼女は犬童が再び肘を置いた窓を眺めながら、その壁へと背をやった。
「もう良いのか、師匠」
犬童が窓の外を眺めながら呟いた。
「……悪くはないな。今回はちと、調子に乗り過ぎた。魔物の毒か何かにやられたのだと思うが、まあ、油断大敵ということじゃなあ」
「なら、いい……」
「そう言われると、おまえはどうなのじゃ。どこも怪我はしておらぬのか」
問われて犬童は、自分の左手を見つめた。一度薫子の方へ視線をやってから、至って真面目な口調で答える。
「――爪が、欠けた」
薫子は一瞬呼吸を忘れ、ぱちぱちと数回瞬きをした。それから薫子は隠すこともなく大きな笑い声を上げながら、肩を揺らしながらも犬童の左手をとった。
「くく、ああ……それは困ったのう。ははは、これは――うん、大怪我じゃなあ、ふふ」
自分の左手をしげしげと眺める薫子を、犬童は少しばかり不服そうな顔で見上げた。呆れの色が滲み出ている声色で彼は呟く。
「カオル。これが大怪我に見えるようなら、眼鏡を掛けた方が良い」
「……やかましいわ、黙っておれ」
そう言いながらもまだ笑いが収まっていない薫子が、くつくつと笑いながら犬童の欠けた爪を指先でなぞった。その瞬間、彼女は何かを思い付いたように犬童から離れ、部屋の棚を漁り始めた。熱の消えない指先を不思議そうに眺めてから、犬童は棚の中身を引っくり返している薫子の隣に膝を突いた。
「ふむ、確かここらに仕舞ったと思ったのだけどなあ」
「……何をしているんだ」
視線は寄越さずに薫子は答える。
「うん?……いや、ちと思い付きでな――おお、あったあった」
両手ほどの大きさをした黒紅色の箱を棚の奥底から引っ張り出しながら、薫子は犬童の方を見た。
「前に作ってそのままになっておったんじゃがな、ほれ、開けてみい」
犬童はその黒紅色の箱を受け取ると、怪訝な表情を浮かべながらもその箱の蓋を取った。中には何やら透明で小さな欠片のようなものが入っている。焦点を合わせてその欠片を見つめてみると、それらは爪の形を成していることが分かった。指の先で触れると、硝子の冷たい感触が肌に伝わる。
「おまえの爪は何でできておる?」
「主に聞いてみないと分からないが、まあ……硝子ではない、な」
その答えに薫子がころころと笑った。
「あやつのことだ、どうせ趣のない素材でおまえの爪を作っておるに決まってる。どうじゃ、犬童? 爪を硝子に変えてみぬか?……生憎、片手分の爪しか作らなかったが、ま、左手だけでもよかろう」
自分の意向とは関係なく進められていく話を聞きながら、犬童はふと、思い付いた懸念を口にした。
「……割れないのか、それは」
それを聞くと薫子は、良い質問だという風に頷いて、少し勝気な笑みを浮かべる。
「わっちが作った硝子だぞ、そう簡単に割れるものか」
薫子の言葉に犬童は、ふっ、と息を吐き出すかのように笑い、箱の中の硝子爪を手に取った。その一枚を口にくわえると、自らの爪をぱき、と外した。まず初めに外したのは、左手の欠けた小指の爪だった。そこから順に爪を外していき、左手の爪をすべて外し終えると硝子の爪をはめ込んだ。その様子を眺めていた薫子が嬉々として口を開く。
「ああ、ぴったりだな。――うん、中々どうして悪くないぞ」
「特に違和感もない。礼を言う、ええと――」
犬童の視線が宙を彷徨うのを見て、薫子が言葉の続きを引き継いだ。
「ありがとう、じゃな」
「ああ、そうだ。――ありがとう、カオル」
そう言った犬童とは視線を合わさずに、薫子は立ち上がって窓の外の溶けかけの黄昏を眺めた。斜陽のかかる彼女の顔が、それを見上げた犬童にはどこか別人のようにも思えたことを薫子は知る術を持たない。また、彼女がこの部屋に入った瞬間、犬童に同じような思いを感じたことを彼も知る術を持ってはいなかった。
「――それではそろそろ行くとしよう、犬童」
そう呼びかけられて、犬童はないはずの心臓が飛び起きるような感触がした。理由も解らないそれに一抹の戸惑いを感じながら、犬童も薫子のように立ち上がって頷いた。
「またしばらく、この館には帰らぬだろう。その内夜も更ける、月見でもしながらのんびり歩いてゆくとするか。……ああ、灯篭を持ってな、犬童」
犬童は言われた通りに棚の上に置いてあった、明かりの灯っていない灯篭を手にした。部屋を出て、玄関へと続く廊下を歩いている薫子を少しばかりの早足で追いかけながら、何となく、硝子の爪をはめた左手で心臓の辺りに触れた。
「……おや、外はもう大分暗いらしいなあ。もう少ししたら、灯篭に火を入れるとしよう」
「――ああ、分かった」
促されるままに外へ出てみると薫子の言う通り、黄昏は溶け、空は紺色に染まっていた。
薫子が自分に背を向けて前を歩いているのが、何故か今は有り難く感じた。左手の指先が未だ熱をもっている。訳も分からず、早く夜が更ければいいと思った。輪郭を保っているのが恐ろしかった。辺りが夜に沈んでも、灯篭の火など、点かなければいい。ないはずの心臓が燃えているように感じるのだ。熱い火など、それだけで十分だった。
――たとえば自分に心臓があれば、と考えることがある。たとえそれを望んだとて決して手に入りはしないというのに、同じことを何度も思ってしまうのだ。それは恐らく、自分の胸の奥に心というものがあるからなのだろう。人が簡単に受け入れることができる、この、心というものが。ないよりあるが恐ろしかった。それでも、彼女の隣で歩けるのならと、そう思ってこの得体の知れないものと生きてきたのだ。それでいい。それだけでよかった。今は、今だけは。
音がしないことを怪訝に思ったのか、薫子が犬童の方へ振り返った。犬童は薫子と目が合うと、夜に溶けそうな輪郭を保ちながら柔く微笑んで、問いかけた。
「……月が、見えるか」
おれには心臓がない。ただ、それだけのこと。それだけのことだった。
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