リピート
ふと目が覚めて、宿の外へと歩を進めた。
しんと静まり返った大通りを抜け、朝に近い深夜の街を特に当て処もなく歩く。夜と朝のあわい。常磐樹の街には、浅く霧が漂っていた。
家々は未だ眠りに落ちており、星月と外灯ばかりが道を照らしている。風も吹かず、些細な音は霧が吸い込んでしまうこの夜は、世界から音が消えたかのように静かだった。静寂ばかりが存在を増し、むしろ気持ちが落ち着かない。静けさがうるさいとは、ひどい矛盾もあったものである。それとも、喧しいのは自分の心なのか。心がうるさくなるというのは、なるほど、こういうことなのか?
息を吐く。それと同時に、物音が聞こえた気がして耳を澄ませた。しんと静まりかえった街中だからこそ、霧が覆い隠せない大きさの音はよく響く。音は近く、けれどももう少し先から聞こえてきていた。中央広場の方だろうか。そちらへとつま先を向ける。そうして歩を拾うにつれ、しゅうう、と何かが抜けるような音と、ばさばさ、がさり、がたん等々、様々な音が人の足音と共に耳に入り込んできた。
夜の帳に覆われ眠る街で、響く音を追って自身の足を進めるのは、なんだか霧を掻き分けてと言うよりは、自ら誘いに乗って霧の中へと入り込んでいくような気分だった。それに一つの恐怖も覚えないのは、ひとえに霧の森での不思議な邂逅があったためだろう。想い出し、目を細める。そうしてみれば、霧の向こうに淡く人影が見えてきた。
広場では、数人の男女が鮮やかな色彩の衣装を身に纏い、何か巨大な布の塊を大きな馬車の荷台部分へと詰め込んでいた。忙しなく立つ物音の中に、自分の靴音がそっと混ざる。そうしてみれば、広場に幾つか止まっている馬車の中から視線を感じた。そちらを向く。目が合ったのは、眠たげとも気怠げとも言える虎とだった。檻に入れられ、荷台に乗せられている動物たちが人よりもこちらの存在に気が付いたようである。
次いで自分のことに気付いた、その場にいる誰よりも豪奢な服装をしている壮年の男性が、ちらりと無表情にこちらを見た後、茶色い布を動物たちの入った檻へと隠すように掛ける。そんな男性の近くでは、ブリキのバケツの上に腰掛けた青年が、細長く鋭利な針で地面に散らばる風船たちを素早く割っていた。その膝の上には、何か鞭のようなものが乗っている。色違いの衣装を着ている似た顔つきの少女三人が——似たというより、ほとんど同じに見えるため、三つ子なのだろう——三角形の布を幾つも連ねた長い紐を踊るように回収し、馬車の荷台に詰め込む。その様子をただ眺め、立ち尽くす自分を気にする者は特にいないようだった。
ややあって、広場に在るものでいちばん大きい馬車に、件の壮年男性に続いて、おそらくこの場で最も華やかに存在を放っているだろう女性が乗り込んでいく。かかとの高い赤い靴を履きこなし、目の覚めるような孔雀色の衣装を身に纏った彼女は、しかし馬車の踏み台の途中で立ち止まり、ふと背後を振り返った。そうしてバラのような美しさをもつ花のかんばせを、彼女はほんの少しだけ歪ませる。何かに、誰かに向けられたものなのだろうか。惜しむような、戸惑うような、それでいて少し涙を堪えるような表情だった。
先に馬車の中へと乗り込んでいた男性が、女性に向けて何事かを呟く。それは、きっと彼女の名前だと思われた。女性はその場で少しだけ瞼を閉じ、そうして次に目を開けたときには先ほどとは打って変わって凜とした表情で広場に背を向け、馬車の中へと乗り込んでいった。それから間髪を入れずに男性が馬車の窓掛けを引く。最後に見えた彼の無表情も、その前に座る彼女のまなざしも、どこか——何かを諦めたような色を滲ませていたように思えた。
つと、御者が鞭を振るう音が響いて、一つの馬車ががらがらと音を立てて走り出す。それに続くようにして広場に待機していた複数の馬車もまた同じように車輪を回し、広場から去っていこうとする。馬の蹄や車輪の回転する音が騒がしいような、しかし小気味良いような気もして、去りゆく彼らをぼうと眺めていれば、視界の端にひらりと舞う何かが映った。
「……えっ?」
そんな風に思わず困惑が口を突いて出たのは、目の前に顔を真っ白に塗った男性がくるくると音も立てずに踊りながら現れたからである。派手な衣装に、奇抜な化粧。にっこり笑う形に引かれた真っ赤な口紅と、鼻のある場所に飾られたこれまた真っ赤な球体、それに加えて頬には更に笑みを強調させるような模様がやはり赤い色で描かれていた。明らかに、今まさに広場を後にしているあの集団の一員だった。思わず、まだ走り出していない最後の馬車と目の前の彼を交互に見やる。
「あ、あの、置いていかれちゃいますよ」
そう言ってみても、相手はにこにこ笑んで——いや、笑っているように見えるだけなのか——白い手袋をはめた人差し指をゆるゆると振るばかりだった。それから彼は身体で円を一度描くと、元に戻ったのちに両腕をぴんと伸ばして、その片方を小刻みに動かして見せる。かち、かち、かち。時計? 少しだけ首を傾げれば、彼は両手を勢いよく、けれどもやはり音は立てずに合わせて、にっこり笑いながらどこかすまなそうな動きをした。
「ええっと……」
正直、どう反応していいかあまりよく分からなかった。すると、突然彼はこちらの両手を指し示してくる。なんだろう。素直に彼の前に自分の両手を差し出せば、そこにそっと置かれたのは雫型をした瓶が一つ。
「ちょっと、えっ?」
いつの間に、そもそもどこから出てきたのか、手の上に乗せられた瓶を見て、困り果てながら相手の方を見れば、彼はゆったりと片手で弧を描きながらお辞儀をし、一歩二歩と後ろへ下がっていく。それより更に後ろで馬車が動き出す音がし、そこで彼はくるりと踵を返してすたこらとそちらの方へと走り出した。途中で躓き、転びかけながらそれを誤魔化すように自分の方へとひらりと手を振る。
そんな彼が馬車に乗り込み、その馬車が走り出すのを呆然と見送っていれば、いつの間にか広場はがらんどうの静寂に包まれていた。まるで最初から霧しかなかったかのように、去っていった彼らの痕跡は一つもない。ブリキ缶に座っていた青年が、針でぱすぱすと割っていた風船の欠片すら気配も残っていなかった。
まるですべてが幻想だったかのようだが、しかし手の上の雫瓶ばかりが彼らの存在を証明している。だけれど、これは一体? 中に何か透明な液体が入っているようだが、飲み物なのだろうか。そういえば、飲み口のようなものがある。そこに鼻を近付けて少しだけにおいを嗅いでみたが、どうも無臭のようだった。
「——毒なんか入ってないよ」
ふと、囁くような声が聞こえてきて、はっと瓶から顔を上げる。声がしたと思われる方に視線を向けてみれば、夜の色を吸い込んだ淡い霧の中、広場の石段に備えられている柵の上に一人の少女が腰掛けていた。
「きみにも会いたい人がいたのかな? でも、それならだめだよ、時間は守らなくちゃ」
誰だろうと少女の方へと歩を進めてみれば、彼女は柵の上からこちらに向かって微笑みながらそう発する。どこかあどけなさが残った、柔らかく丸みのある声のかたち。少女の座る柵の前に立つと、彼女はそこからふわりと降り立つ。とん、と淡い音と共に、少女の身に纏うたっぷりとした丈のスカートや、フリルの肩掛けが宙にそっと舞った。
「こんばんは。喩えるならぼくは書けない作曲家、歌えない歌うたい——すなわち道化と申します」
そう発しながらスカートの裾をほんの少し持ち上げて、少女は膝を緩く折るばかりの優雅な挨拶をする。
「道化……?」
「そう、道化。さっきまで此処にいた、あの一座の道化師だよ。ほら、きみにその瓶を渡したやつ、彼も道化師だったろう? それと同じ……いや、似たようなものさ」
その言葉に首を傾げれば、少女は顔に笑みを浮かべたまま、しかしちょっとだけおどけるように肩をすくめてみせた。
「彼は人を笑わせる方で、ぼくは泣かせる方だから」
笑わせる方で、泣かせる方。舌の上だけで少女の言葉を転がしてみれば、彼女はそれを見て取ったように、道化師にもいろいろ種類があるのさ、と目を細めた。その表情に、なんだか彼女の笑みには音がないようだ、と感じた。そういえば、先ほどの曰く道化師らしい彼も、動くときに一切音は立てなかった。道化師とは、そういうものなのだろうか。分からないまま、少女に向かって曖昧に頷く。
「そう——なんですね。道化師……初めてお会いしました」
「……ふうん? サーカス、見たことないんだ?」
「サーカス。サーカス……はい、それも」
「へえ。じゃあ、残念だったね」
少女は眉尻を下げて、息を吐くように乾いた笑いを洩らした。ご覧の通り、今日はもう店じまいだから、と。そんな彼女の言葉になんとなく、先ほどまでその〝サーカス〟がいた辺りを振り返る。そうしてすぐに少女の方へと視線を戻せば、彼女は未だその顔に笑みを浮かべたまま、自身の頭に乗っている桃色のつば無し帽子を整えていた。帽子には、金色の五線譜と音符の装飾のようなものがある。その帽子の右側だけに付いている幅広のレースを触りながら、少女の目がこちらを見た。月の光が、彼女の姿を白く照らしている。
「——サーカスって、どんなものなんですか?」
訊けば、少女は先ほどより乾いたような、それでいて湿っているような、どちらにも聞こえる笑い声を短く上げた。少女の目は緑みを帯びた茶色をしていたが、けれどもその瞳には鈍い光を放つ黄金色が、星月に暴かれるようにして底冷えしている。何色と明確に言い表すのは難しい、今しがたの笑い声みたいに不思議な色だった。
「すべて一夜の夢だよ。ろくなものではないさ」
どこか自嘲的にも聞こえる声色で呟き、それでも彼女は笑みを絶やさない。それから少女は浅くかぶりを振り、こちらを見上げるようにそうっと首を傾げた。夜の色と霧の間に交ざる、彼女の緑色をした結び目の大きく長い三つ編みが揺れる。
「きみは……遅刻をしてしまったぼくらのお客さんかと思っていたけど、どうやらそういうわけでもないみたいだね。夜はよく眠れるのかい?」
「あ……はい、最近は」
「最近は、ね。夢は見る?」
「夢は、そうですね、ほとんど——全くと言っても」
「そう。それはよかった」
何か唐突にも思える少女の問いかけに答えれば、彼女は優しげに目を細めて頷き、そうしてこちらの手の上に在る雫型の瓶を見やる。その瞬間、柔く弧を描いていた少女の目が、今度は睫毛を伏せるばかりの笑みのかたちに変わった。
「それ、うちの一座では定番の飲み物なんだよね。開演前にお客さんたちへ配るんだ」
言いながら、少女のその細い指先が雫瓶をとん、と叩く。
「ねえ、ちょっと飲んでみてよ。どんな味がするのか教えて。ほんとに危ないものは入ってないからさ」
そう促されて、ひんやりとした雫瓶をじっと見る。少女の笑みには相変わらず音がなかったが、それでも彼女の言葉に嘘はないように思えて、おそるおそるその飲み口から瓶の中身を舌の上から喉の奥へと流し込んだ。まだ冷たいそれは特に引っかかりもなくするりと身体の中に落ちていき、つい半分ほど飲んだところで瓶から口を離した。
「お味はいかが?」
「甘い……ような、でも少ししょっぱい?……気がします」
「じゃあさ、その中身、なんだと思う?」
「ええと、砂糖水に……塩、かな」
「正解! ふふ、ははは、普通そうだよね」
楽しげに笑い声を上げて、少女はぱちぱちとこちらに向かって拍手をした。夜霧の中で彼女の白い両手が打ち鳴らされ、その音はどこか虚ろに広場の中に響く。弧を描く少女の瞳が、やたら静かに底光りしていた。
「知ってるかい? 悲しくって悲しくって、もう悲しすぎてどうしようもないときの涙の味」
少女は笑う。それがどういう笑顔だったのか、自分には分からなかった。
「——甘いんだってさ」
くすくすか、或いはくつくつか、少女は片手を口元に当ててひっそりと笑みを洩らす。それからふわふわと羽根が踊るように石段を降りていくと、その白い指先を見えない観客に差し伸べたようだった。けれども、その顔に浮かんでいたのは差し伸べると言うよりはもう少し同情するような、それでいて挑発的な笑みだったかもしれない。
そうして広場の中心まで辿り着いた彼女は、足を交差させてスカートの裾を持ち上げ、はじめに自分にしたのと同じお辞儀をしてみせる。
「〝さあ! いよいよ本日のメインイベント!〟」
誰かの真似をするようにそう声を張った少女を追って、こちらも広場の真ん中まで再び戻った。彼女がすう、と息を吸っている。
「〝今宵の幸福なお客さまは誰なのか!〟」
今や霧すら少女のための舞台装置のように見えた。彼女は顔を隠すように頭を下げ、軽く腰を折る体勢のまま、身じろぎ一つしてみせない。ほんとうに呼吸をしているのかさえ疑ってしまうほどだった。また彼女が息を吸う音が聞こえたが、しかしそれは彼女から発せられているように聞こえない。自分と話していたときとはまるで違うのだ、息の仕方も、声の発し方も、おそらく。
「〝叶わぬ夢をもう一度、あなたへ!〟」
少女は顔を上げる。
「——〝リピート!〟」
そして長い緑色の睫毛を、今初めて目を開けるかのように上に向け、その両腕を大きく広げた。彼女の周りだけ霧が晴れたのか、或いは月明かりが差したのか、それともそう見えるだけなのか、今ばかりは少女の姿がひどくはっきりと目に映る。やはり、少女は笑っていた。今度はその表情がよく見える。絵に描いたような、完璧な笑顔だった。それは、仮面を被っているような錯覚さえ感じるような。
「……ああ……そういえば、名乗ってすらいなかったね。ぼくはリピート、自己紹介は前置きの通り。きみは?」
ふう、と息を吐いた少女は、そう言いながら自然な体勢に戻って片手を緩くひらりと振った。リピートと名乗った彼女の質問を受け、ほとんど反射的にマイロウド、と答えれば、彼女は目や口元に淡く笑みを湛えたまま小さく頷いたようだった。
「ねえマイロウド、普通はさ、壊れたオルゴールの音色なんて聴きたくもないよね?」
くるりとその場で一回転をして、リピートはこてんと首を傾げながらそう問うた。彼女の問いかけはなんだか謎かけみたいで、すぐに答えを発することができない。リピートはこちらの答えを待たないまま、その手のひらの上で一端を閉じた細長い硝子の管を転がした。いつの間に、と思うと同時に硝子管の表面が月光にきらりと瞬く。
「ぼくは〝変装〟の大得意な一族の生まれでね」
「変装?」
「そう、変装。詳しくは知らないけど、先祖が〝そういう〟魔法を使っていたみたいでね。でも、ぼくにとってはずうっと昔の魔法の残り香に過ぎないよ。ふふ、まあ、見る人によってはもっと特別なものかもしれないけれど」
声色に反して冷えた笑みで睫毛を伏せながら、リピートはその硝子管を指と指の間で器用に行ったり来たりさせた。彼女の硝子管に対する扱いはまるでどうでもいいと言ったような様子だが、しかしその管の表面にはひどく精巧で美しい、繊細に見える装飾が施されている。それは、自分の知らない花を象っているようだった。
「スノードロップだよ」
じっと硝子管を見つめていたのが彼女にも分かったのだろう。少しだけ和らいだリピートの声が、そのように鼓膜を揺らした。視線を上げる。少女の睫毛の間から、鈍い金の色が洩れていた。
「……マイロウド。ぼくはね、〝その人〟のことを強く想った人の涙を飲むと、心以外はすっかり〝その人〟に成ることができるんだ」
「その人に、成る? ということは、ええと……」
「でも、一度だけさ」
リピートの突飛に聞こえる発言に、心と頭が首を傾げるのを感じた。彼女の言葉が自分の中に落ちてくるのを待たずに、リピートは弧を描いた自身の口元に片手の人差し指をそっと当てる。
「一度きり。ぼくが変装を解けば——ぼくに硝子管を通して自分の涙を与えた人はもう、ぼくが成った人のことを上手く想い出せなくなってしまう」
ゆったりとした長い三つ編みを揺らして、リピートは可笑しそうに目を細める。それから彼女は両手の指先と指先を合わせて、更にその笑みを深めた。両手? そこで何か違和感を覚えて、瞬きをする。そういえば、あの硝子管は何処へ消えたのだろう?
「泣けるほど愛しい人、なのにね」
リピートの言葉が夜の広場に響く。それとほぼ同時に、彼女の背後でぱりん、と物が割れる音が木霊した。その正体はきっと、リピートの手からいつの間にか消えていた硝子の管だろう。宙に投げて、受け止めるのに失敗したのか? 思わず、彼女の足元まで散らばっている破片に手を伸ばそうとした。
「触らないで。それは……」
危ないから、とリピートはそう呟いて、こちらの手を制止する。彼女の顔を覗き込めば、その瞳は先ほどまでと少し違う色をしていた。なんだろう、どこかで見たような目だ。瞬く。そう、ああ、そうだ、似ているのか。馬車に乗る途中、振り返った彼女の……
「マイロウド、きみは……きみ、泣くほど会いたい人はいるかい?」
「……分からない」
「じゃあ、泣いたことはある? 心の在り処が分かるほど、泣いたことはあるかい?」
かぶりを振る。なんとなく、自分の髪が重く感じた。
「忘れてしまったんです。泣いたことがあるかどうかも、その泣き方も。少なくとも、今の僕は——僕は、泣いたことがない」
そう話せば、リピートはその顔に笑顔を浮かべたまま少しだけ動きを止めたようだった。それから彼女はゆるりと頭を振ると、自身のこめかみ近くの前髪を指先で触りながら、はあ、とどこか呆れたように息を吐く。
「どうしてぼくのところにやって来るのは、こういう難しい人たちばかりなんだろうな」
「僕は……難しいですか?」
「そりゃあね、泣き方を忘れてしまった人がそんなにたくさんいてたまるかって話だよ。まあ、少なくはないかもしれないけどさ」
言いながら、リピートは足元の硝子片へと視線を落とした。
「人は生きていく内に、大事なものをいろいろと失ったり、或いは欠いてしまったりするから。たとえば感情っていうのは、はじめからもって生まれるものではないだろう?」
誰かから与えられて手にするものだよ、とリピートは発して、硝子の欠片から顔を上げた。目が合う。その表情は相変わらず読みにくい。
「手に入れたのに、また失ってしまうんですか?」
「だからこそだよ、たぶんね。自分のもののように思えて、ほんとうは何も自分のものじゃないんだ。だってぼくら、何も自分の思い通りにはならないじゃあないか、なんにも」
リピートは口角を上げ、ふふふ、と小さく笑った。その笑い声が先ほどまでとは違うものに聞こえたのは、おそらく彼女の目が弧を描いていなかったからだろう。リピートはその場で片足を軸にしてくるりと回ると、広がるフリルと一緒にその目を笑顔に追い付かせた。
「あの、リピート」
「何かな?」
「リピートは、その、リピートに……自分に戻ることはできるんですか?」
「いやだな、ぼくはいつでもぼくのままだよ」
ぱき、と彼女の下で硝子が割れる音がした。
「分かってるよ、聞きたいのは成った変装がちゃんと解けるかってことだろう? だいじょうぶ、解くのはすっごく簡単だから。当たり前でしょ? 成るのだって簡単なんだから」
リピートは両手を後ろに回して、こちらの顔を覗き込むようにした。そんな彼女は、楽しげに映るのにそれでいてつまらなそうで、笑っているのにもかかわらず無表情にも思える顔で目を細めている。
「まあ、ぼくにはもう無理なんだけどね。解けない。ほんとに簡単なことなんだけど、でもぼくには無理なんだ」
「それは……どういう?」
「あはは!」
彼女は笑った。その手は胸と喉の間を押さえており、それから少しだけ吐いた息はなんだか、走った後に吐くような呼吸のかたちをしているように思えた。
「——心から笑えばいいのさ。含んだ涙の味も忘れるくらいね!」
思わず、未だ手の中に有る雫型の瓶へと視線を落とした。リピートの笑い声には色彩がなく、その笑顔には光どころか影もない。視界に映すことのできない絵の具で塗りたくったような笑みを、彼女は自分自身で分かったまま浮かべ続けているのか。彼女は笑えないのだろうか、笑いたくないのだろうか、それとも。
それとも——かつての自分と同じように、笑い方を忘れてしまった?
「マイロウド。きみは不思議で変わっていて、それでやっぱり難しい人だと思うけど——でも案外、顔には出るたちみたいだ」
「えっ……な、何か出てます?」
「なんで、って描いてあるよ。道化師の化粧より分かり易くね」
片手の人差し指を緩く振って、彼女はそう言った。そうしてぱちりと左目を瞑り、右の瞳だけでこちらを見やる。
「……そんなの、秘密に決まってるだろ?」
言って、リピートは空を仰ぐ。降り注ぐ月明かりが眩しそうに目を細めると、その両手を背後に回し、一歩二歩と、こちらを向いたまま後ろへと下がっていく。彼女が足を動かすたびに、ぱきぱきと硝子が砕ける音がした。
「ぼくは結局ぼくなのさ、どんな顔や声になったとしても。その姿がどれだけ誰かのたいせつな〝誰か〟に似ていたとしても。……似ているだけだ、その人には成れない。絶対に、その人自身には成れはしない。分かっているんだよ、ぼくも——たぶん、誰もがみんなね。それでも夢が見たいのさ。いや……夢に、したいのかもしれない」
囁くようにやさしい声でそう言って、リピートは広場に置かれている花壇の前で足を止めた。けれども彼女の身体は以前こちらの方を向いたままであり、その目が花を捉えることはない。代わりにリピートは、ひどく静かな動きで花壇の囲い煉瓦の上へと自身の腰を下ろした。
「大抵の夢は、目が覚めると同時に忘れ去られる。幸せな夢も、恐ろしい夢もね。でも、感触は……夢を見たという感触だけは、こびり付いて中々消えない」
リピートは自身の指先をじっと眺めていた。その表情にはなんの飾りも見当たらない。そんな彼女を追って花壇の前まで辿り着けば、リピートはこちらを見上げて自嘲っぽい笑いを口の端から洩らした。
「分かると思うけどさ、ぼく、今さっき一座を辞めてきたんだよね」
彼女の細い指が、そっと花壇の中に植えられている名も知らない花を撫でた。それは少なくともコーデリアや、先ほど彼女が教えてくれたスノードロップではない。そうしてこちらへと再び視線を戻したリピートは、けれども自分の顔を見るなり、はは、と顔を歪めるようにして笑った。
「……だって、もう解けないからね。それに、あそこに来る客はどうしたって悲しすぎる」
リピートの困ったように下げられた眉に、思わず自分の顔を触る。
「……僕、また顔に何か出てましたか」
「うん。……とりあえず、突っ立ってないで隣座れば?」
「こんなことを言うべきか、よく分からないのですが……」
「言えよ。ここまで来たんだからさあ」
隣に腰を下ろした自分に少しだけぶっきらぼうにそう言い放って、彼女——リピートは煉瓦の上で脚を組む。それからその膝の上で頬杖をついて、目線だけをこちらにやるようにした。
「サーカスの皆さん、心配……そう、でしたよ」
「うん、まあ、そうだろうね。でもどうしようもないから」
「どうしようも……」
「そうだよ。みんな、そういう顔してただろ? ぼくも含めてさ」
答えられなかった。ただ、目を想い出していた。何かを諦めたような、あの……
「……ぼくは、確かに人よりもずっと多くの服が着られる。でも、それだけさ。舞台の上にいたのも、此処にいるのもぼくでしかない。……ぼくでしかないんだ」
リピートは呼吸をするのと同時にふっとその目尻と口元を和らげた。
「ぼくはずっと、人の後悔で買った服を着て、それを売り物にしていた。でも……鏡を見て気が付いたよ。今までずっと気が付かないふりをしていただけなのかもしれないけど、それでも」
リピートは頬杖をやめ、両足も地面に下ろして、今度はその膝の上で両手を組み合わせた。
「——こんなに虚しいことはない、なあ……」
そう言うリピートの視線は、地面に散らばっている光を見ている。おそらく、夜明けにはもう少し時間がかかりそうだった。
「ぼくは彼らの涙の味を憶えていないけどね、でも、彼らの目の中に映った〝誰か〟の顔は憶えているよ。みんな……みんな、憶えている」
呟くリピートの声が繊細な響きを宿して足元に落ちていく。それは地面に当たって砕ける前に夜霧の中に溶け消え、その言葉を聞いたという感触ばかりが耳から肺までを支配するようだった。リピートは、前を向いたまま少しだけ目を閉じている。
「忘れてしまうのに、それでもその人に会いたいなんて、まるで道化のやることだ。結局のところ似たもの同士だったってわけさ、ぼくと観客たちは」
リピートは蹲るようにして、自分の身体を自分自身の両腕で抱き締めた。
「……会いたいんだ、こんなに」
声がほんの少しだけ震えていた。笑っているのだろうか、それとも、これは。
「ぼくも会いたいよ、〝きみ〟に……」
雫瓶を置いて、立ち上がる。
歩を進めて、光がばらばらと散らばっているところまで進んでいけば、背後ではっとして顔を上げるリピートの気配を感じた。けれどもなんとなくまだ振り返る気になれなくて、足元に落ちている硝子の欠片を一つ拾い上げ、月明かりを反射するそれをじっと眺める。少しだけ硝子片を手の中で動かせば、あ、と思うのと同時に指を切った。振り返る。リピートの座っている花壇はそこまで離れていないため、怪訝な顔をしているリピートの顔が目に映った。
「なんだよ、その顔は……」
「えっと……僕、どんな顔をしてます?」
「変な顔。道化師のなりたてみたいなね。やめてくれないかな、笑っちゃいそうだから」
その言葉に、思わず息を吐くように笑ってかぶりを振った。
「どう……すればいいのか分からなくて」
「知らないよ。笑うか泣くかくらい自分で決めてよね」
「そういう顔、してましたか?」
「言っただろ、道化師のなりたてみたいな顔って」
はああ、とリピートが今までで一等大きな溜め息を吐いて立ち上がったのが見える。それからこちらに向かって歩きはじめたリピートは、しかしその途中で何かに気が付き、笑みも失して眉間に皺を寄せ、ずかずかと音が聞こえてくるような歩幅で自分の目の前までやって来た。
「ばかだな……!」
そう言ってこちらの片腕をぱしりと掴んだリピートは、笑いたいような泣きたいような表情で、それに近い響きをもつ言葉を発した。
「痛いときは、ちゃんと言葉で痛いって言うんだよ。怪我を、しているんだから……」
リピートに向かってそっと頷けば、それを合図にしたようにぱたりと赤い血が地面に染みをつくった。
おそらく——
おそらく、朝が来ればきっと霧は晴れるだろう。地面に散らばった硝子の欠片も、片付けられて何処かへ消える。自分たちも、互いに別れを告げるだろう。それを惜しむ自分はきっと、いつものように再会の言葉を願うように結ぶはずだ。そうして何もかもが目に見えなくなる。すべてが夢だったかのように、交わした言葉の感触だけが肺の奥へ溜まっていく。
けれども、たぶん、今落ちた血の跡は。
目を閉じて、すぐに開ける。呼吸をして、相手の目を見た。怪我をした指と、他のいろんなところが痛む。夢ではない、何もかも。会いたい人に、会えないことも。たとえ忘れてしまうとしても、もう会えない人にもう一度だけ会いたいと願うことも。涙が溢れて止まらないほど、その人に会いたいと希うことも。姿を変えてしまったことも。それを虚しいと思ったことも。辞めたことも。笑えないことも。泣けないことも。怪我をして、血が出たことも。それが痛むことも。出会ったことも。話したことも。別れることも。目も、口も、声も、呼吸も、言葉も。夜も、霧も、朝も。何もかも、夢ではない。何もかも、何もかも、すべて。
「リピート」
「うん、そうだね。分かるよ。分かってるから」
「痛い……ですか?」
そう問えば、リピートはやはりその顔に笑みを浮かべた。
「血は、出てないけどね」
夢ではない。分かっている。けれども、風がなくてよかった。此処に残されたもののすべてが、今はまだこの目に映るから。
——夜明けと共に、街を出よう。
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