止め処ある魔物
「アル! お前また貯蔵庫の麦酒樽を空にしたな!」
「あちゃあ……もうばれちまったか」
「あれはこの前盗ってきたばかりのやつだろう! どうしてお前は我慢というものができないんだ!」
「だって麦酒の我慢ならジークがしてくれるだろ……っておい、冗談だって! なあ!」
飛空艇の一室で怒号が響く。
アベル・メリアスのことを〝アル〟と呼び、今まさに彼を叱咤しているのはジーク・ブレッカーというアベルとほとんど年のほどは変わらないだろう男である。彼は空賊団〈ムートン・ヴォルゲ〉――通称〈羊雲〉の操縦担当で、主に飛空艇の操縦を担当しているが、アベル曰く、
「ジークは〈羊雲〉の次男坊。長男はもちろん頭領の俺な」
とのことらしい。
今、この状況だけを見ればどちらが頭領なのか分かったものではないが、この光景は〈ムートン・ヴォルゲ〉では日常茶飯事らしく、他の団員たちは呆れた笑いを零しながら各々の仕事を行っていた。
空賊団〈ムートン・ヴォルゲ〉は〝心盗んでも命盗むな〟が信条の空賊団で、人を殺さず大きな盗みはあまりしない、羊を数えては眠る夜の街を静かに掻き乱す集団である。
アベルとジークは空賊団結成時からの長い付き合いで、互いが互いに篤い信頼を置いているが、彼らの出会いはお世辞にも良い出会い方とは言えず、ほとんど転がるようにして二人は出会った。
――ジーク・ブレッカーはその夜、影に隠れるようにして歩を拾っていた。
氷雪の城下町〈ラピスラズリ〉、そこへ降り積もった雪に素足をなぶられ続け、彼の足はいよいよ痛みすらも感じなくなっていた。凍傷で足の指を切り落とす羽目になるかもしれないという当初の懸念はすっかり頭から抜け落ちて、彼はただひたすらに夜の街をふらつく足取りで進むばかり。ぼんやりと目線を通りへ向けると、遠くで夜の光が街を照らしているのが見えた。街へ命じられた品物を買いに行くため、彼は霞む目をこすって更に歩を進める。
買い物のために身体に着けられていた重りを外され、鎖のみが取り付けられた足枷と手に持ったランタンが、鉛のように重く感じる。彼は或る富豪の奴隷の一人だった。
この間まで蝶よ花よと愛でられていた――今とどちらがましかと問われれば無論今だが――この身体は新しい奴隷が富豪に届けられてからというもの、ろくな食事も与えられず重労働ばかりさせられてぼろ雑巾の如くにやつれていた。着々と歩を拾うジークの瞳にゆらりと炎が立ち上る。
今回の仕事が体の良い厄介払いということに彼は未だ気付いていなかった。彼はほんとうにこの身体で歩き、ほんとうに仕事をこなして、ほんとうに生きて戻るつもりだった。そう、必ず生きて。
彼の無意識下に在る強い生への欲求ばかりは常に炎を立ち上がらせていたが、しかし、このまま何処かへ逃げてしまおう――そういう風に考える力は今の彼には残されていなかった。いや、考えるだけ力の無駄だと感じていたのかもしれない。
自分も、家族も、物心ついたときからもう奴隷だったのだ。今更逃げ出したところで行く当てもない。さっさと用事を済ませて屋敷へ戻る。それだけが、まるで耳鳴りのように彼の頭を支配していた。
ふと、彼の耳が誰かの足音を拾った。頭の耳鳴りが一旦止む。これは……誰かが駆けてくる?
彼は大通り横の小路の前で立ち止まり、こちらの方へ駆けてくる者の正体を見極めようとした。聴いたところ、かなり急いだ足取りのように思える。
何だ。何かから逃げているのだろうか? 分からないが、相手が暴漢だった場合、こちらとしては逃げなくてはならない。だが、彼にはもう逃げる元気など残っておらず、逃げたところで何かに躓き転ぶのが関の山だった。
視線を隣にやると、彼の瞳が小路を捉える。ひとまず彼は、そこに身を潜めることにした。
――アベル・メリアスはその夜、ただひたすらに走っていた。
メリアス家は〈ラピスラズリ〉の上流階級、いわゆる貴族の家柄であった。
今日までは。今日、メリアス家は正式に破産した。
メリアス家長男であるアベルは三日前、家、土地含むすべての財産が押収されること、更に、自分たちは何処かへ移住しなくてはならなくなるだろうという話を父親から聞いた。
原因は、父の貿易用飛空艇の事故だったらしい。幸運なことに乗組員は全員無事だったが、その対価はメリアス家にのみ不運なかたちで要求された。乱気流に呑まれたメリアスの貿易艇三隻は互いにぶつかり合っては傷付け合い、メリアス家の命とも言える積み荷たちは皆真下に在った海へと放り出されて沈み、見えなくなってしまったという。その積み荷の賠償と乗組員を危険に晒した慰藉料は、飛空艇の持ち主であり今回の貿易路の持ち主であるメリアス家に誰の陰謀か無慈悲にも叩き付けられたのだった。
ぼんやりとだが事の顛末を理解したアベルは、別段表情を変えることなく窓の外の青色を一瞥しては、分かった、とだけ呟いた。
それから半日、彼は自室で空を見ていた。
あの人に渡すつもりだった緑柱石の指輪もどうやら押収されるらしい。初恋のあの人はアベルの許嫁だった。しかし、こうなってしまったものはどうこう言っても仕方がない、彼は喉の奥から溢れそうになった熱さを手の甲に爪を立てることで、肺の方へ押し戻した。
アベルは何となく誰かの気配を感じ、肩を揺らす。反射的に身体を扉の方に向けると、そこには彼の母親が立っていた。
「――アベル」
「……母さま?」
「もう、そうやって呼んでもらう必要もないのね。こんなときよ、どうか楽にしてちょうだい、アベル。……泣いていた?」
「いや……。どうしたんだ、母さん。――もしかして、逃げたい?」
冗談交じりにそう口にしたことを、彼はすぐに後悔した。呼吸するように吐き出してしまったその言葉は、紛れもなく彼の本心だった。
彼の母は分かっている、とでも言いたげな目でアベルを見つめた。彼は誤魔化すように、また窓の外の空を眺める。
「――これを、アベル」
しゃら、と音を立てて彼女が何かを差し出す。羽の生えた羊の装飾がついているその錆びた金色を彼は受け取り、怪訝な表情を浮かべた。
「……鍵?」
「郊外にお父さんの倉庫があるでしょう。場所は分かるわね? あの中にあるもの、しばらくは持っていかれないと思うの」
「ああ、そういえば俺は中を見たことがなかったよ。何が入ってるんだ? 母さんのたいせつなものか?」
そう聞くと彼の母は少し切なそうな表情をして、目を瞑った。
「夢の跡よ、私とお父さんにとっては……。私たち、ずっと空を飛んでみたかった。小さい頃からずっと、いつか二人で世界を巡ろうって夢見ていたの。けれど、叶わなかったわ。……あの中に入っているのは私たちが若かった頃、お金を貯めて買った旧型の飛空艇よ」
アベルの目が一瞬見開かれる。しかし、まだ話の輪郭が上手く見えてこない彼は母が紡ぐ次の言葉を待った。
「私たちにとっては夢の跡でも、あなたにとっては違うわね? アベル、あなたはいつだって空を見上げていたわ。まるで、若い頃の自分を見ているようよ。……ねえ、ここまで聞いたら飛ぶでしょう? あなたが走れば届く距離に、羽は在るのよ!」
アベルの喉の奥が、先ほどのものとはまた違った熱さに煮えた。母は一体何を言っている? 何を……
「……一緒に?」
やっとのことで彼がそう言葉を紡ぐと、母はあどけない少女のように笑った後、いつもの優しい母親の表情に戻った。
「私は嫌よ。……年を取って高いところが怖くなってしまったの」
「え?」
「そろそろ長男の遅い反抗期がくる頃かしらって思ったのよ。そうね、男の子はいつか旅立つもの。他の子に比べてみてもあなたには随分窮屈な思いをさせて……苦労したわね、アベル。あなた、堅っ苦しい正装が大嫌いだったんでしょう? 母さま、父さまって呼び方も? お母さんには分かっていてよ」
やっとのことで話の輪郭を掴んだアベルは、慌てたように声を上げた。
「待ってくれ、俺は……俺は、家族を置いてなんて行けねえよ、母さん! 独りで空に?――訳分かんねえ、何でそんなこと言うんだよ!」
「そうそう、その少し乱暴な話し方! その方が似合ってるわよ、アベル。……だいじょうぶ、暮らしていく当てはあるし。それにね、今までぐうたらしてた次男と三男にもそろそろ苦労というものを覚えさせなくちゃ。今、あなたは独りって言ったわね? そうよ、独りよ。それが嫌なら仲間をつくることね。今まで……あなたに友だちらしい友だちもつくらせてあげられなかったもの。だから――だから、お願い。アベル、夢を叶えて」
そう言って愛おしげに目を細めて笑う母に、彼は全身が熱くなっていくのを感じた。
それとは裏腹に頭の中は冷え切って、お前のやろうとしていることは間違っている、と彼を激しく責め立てたが、彼はどうにも自分の羽を取りに行かなければならない気がして仕方がなかった。今すぐ走り出したい。ああ、おれが走れば届く距離に、羽が在るのか!
彼があの、最もアベル・メリアスらしいと言える、自身の悪賢さを瞳にちらつかせた挑戦的な笑みを浮かべたのは、おそらくだがこのときが最初だった。
「この親不孝者! 二度と帰って来るんじゃないわよ!」
乱暴に扉を開けて、飛び出して行ったアベルの背中を母の声が追いかける。その声はどこか楽しそうな色をしていた。熱くなった目頭を隠すことは、彼にはもうできそうもなかった。
――小路で身を潜めるジークの横に、あの足音が近付いてくる。
どうやら足音は大通りを突っ切って行こうとしているらしい。ジークは息を殺して、足音が自身の横を走り去るのを待った。
ふと、顔を上げると大通りの方で光がちらつくのが見えた。彼は息を呑む。回らない頭でも分かる。今のあの光は、誰かを探していた。
ジークは心の中で問答した。あの光の持ち主が探しているのが、今迫ってきている足音だとしたら? 駆けている者の正体は罪人か、逃げ出した奴隷。そう考えるのが妥当だ。前者だったら? 早く捕まって罪を償うべきだろう。後者だったら? この足音が、逃げ出してきた奴隷のものだったとしたら? 奴隷だったら? 奴隷だったら。奴隷だったら!
ジークは全身に血液が駆け巡るのを感じ、ほとんど無意識で小路を横切ろうとした足音を自身と同じところへ引きずり込んだ。
「――うわ!」
突然腕を取られ、狭いところへ引きずり込まれた哀れなこの青年は、素っ頓狂な声を上げて目を白黒させた。ジークは相手のそんな様子に構うこともなくただ淡々と言葉をかさついた唇から発した。何か言うそのたびに肺の辺りが痛むような気がする。
「……お前は向こうへ行こうとしていたろう。見えないか? 何か光が――おそらく誰かが、誰かを探している」
誰かを助けよう、そんなことを思う感情がまだ自分の心に残っていたことにジークは少し驚いたが、それでも彼は夜の風よりも冷淡な声で、しかし発する言葉はどこか稚拙な様子を含ませて目の前の青年にそう告げた。
「ああ……ほんとうだ。参ったな、道を変えるか」
「お前は一体――いや――貴族、か? 罪人の貴族なのか?」
そう言われて、ようやく青年は通りに目を向けるのを止め、こちらの方へ視線を移した。視線をやった瞬間にジークの状況を理解したらしい彼は、先ほど彼の母がやったのと同じように目を瞑って質問に答えた。
「俺が貴族か? 違う。昨日まではどうやらそうらしかったけどな、もう違うさ。俺が罪人か? そいつは難しい質問だ。罪人のなりかけ。ほぼ、罪人ってところか」
「意味が……よく解らん。罪人ならさっさと自首するべきだ。嘘吐きは泥棒の始まりとも言うらしい……」
「泥棒? そうだよ、俺はこれから泥棒になろうとしてんだ。……お前は見たところ、あまり良くない境遇に置かれてるらしいが、どうだ? 一緒に来てくれやしないか?――独りだと心細くてさ」
その言葉にジークの海のような瞳が揺れる。
彼は透き通った美しい瞳をもっていた。その瞳は、青空を映した海のような色をしている。それはさながら水宝玉の如く。彼のその透き通った海が、その奥に宿る熱い炎が、動揺で激しく揺さ振られている。その奥にちらつくのは怒りか恐怖か。一緒に来てくれやしないか? 一緒に? 何だそれは、何を言っているんだ? 考えたこともない、思い付いたこともなかった。誰かと一緒に逃げることなど……
「見ての通り、俺は奴隷だ。奴隷なんだよ。……逃げたら殺される」
「逃げなくても殺されるぜ」
ジークの海が、激情で赤潮の如くに赤く淀むのが見えた。彼は無意識にぼろの上着の内側へと手を入れ、そこから赤く光る何かを取り出し、きつく握る。
アベルはそれが何であるのか見定めようとしたが、ついには分からなかった。燃えるように赤い、ひし形をした石。それが何なのかジーク自身にも分からなかったが、彼はその石を物心ついたときから肌身離さず持ち歩いている。
恐らくこれは家族の形見なのだろう、と少し先の未来で彼は言った。
その石を強く握り締めたまま、彼は声を荒げる。
「分かっている……分かっている! そうやってみんな死んだ! 死んだよ! がきだった俺が物心ついたときにはもう、家族、みんな! 誰も……誰もいなくなった!……お前は……独りが怖いと言ったか……。俺は誰かといる方が怖いよ。普段殺している感情が表に出てくるんだ……今みたいに」
「……どうして感情を殺す?」
「分からないか?――腹が空くんだ」
それだけ言うとジークは眠るように気を失った。
ジークが目を覚ますとそこは、知らない天井だった。見慣れない無骨な壁。屋敷でないことは確かだった。天井が揺らめいて見える。自分の目が大分回っているのを感じながら、彼はゆっくりと身体を起こした。
目を覚ましたときは一瞬天国かとも思ったが、天国がこんなに殺風景な場所だとしたら、向こうに逝った者はすぐこちらに帰ってくるはずだろう。それに、軽く抓った手の甲がひりひりと痛い。どうやら自分はまだ生きているらしかった。彼は弱々しく息を吐く。
とにもかくにも、此処は屋敷の華美な内装とは天と地ほどの差がある場所だった。
「おお。起きたんだな」
「……ああ……?」
投げかけられた声に返事をしたあと、聞き覚えのないそれに彼は疑問を抱く。それから数秒置いたのちにすべてを思い出したのか、飛び退くように顔を上げた。
「此処は……!」
「あんた、倒れたんだぜ。気ィ失ったの。……ほら、水。少しでいいから飲めな」
「な――何で助けた! あのまま放っておいてくれれば、俺は死ねたのに!」
「殺されたくないくせに死にたいのか? けっこうなわがままじゃねえか、悪党向きだと思うぜ」
「お前はそれで、義賊のつもりなのか!」
義賊と呼ばれた男がこちらに振り向く。そして、笑った。
その表情にジークは愕然とする。この男は決して義賊などではない。この男、その本質は強かで狡猾なのではないか。清濁を併せ呑む男なのではないか。なるほど、とジークは思った。そういえばこいつは自分のことを元貴族だと言っていたな。自分は助けられたのではない、決して。このようにして自分はまた利用されるのか。何度も何度も。しかし、彼のその海の奥では赤い炎がまた立ち上っていた。
「義賊ねえ……そんな大層なもんじゃないさ。俺はただ、奴隷一人とこの飛空艇――ああ、ここは飛空艇の中だ――を盗んで何処か遠いところへ飛ぼうとしてる、ただのしがない空賊だ。俺はアベル・メリアス。あんた……お前は?」
軽い調子でそう告げる彼にジークは少し戸惑った後、しかし自分の名前を告げることを決めた。それが、ジーク・ブレッカーとして生まれてきた者の意地だった。番号で呼ばれるのはもう、たくさんだった。
「ジーク。お前が奴隷だったこととか、笑ったり怒ったり、泣いたりすると腹が減るってこととかさ、ひとまず全部放り出して答えろよ。なあ、ジーク! 何処へ行こう! お前は何処へ行きたい!」
アベルは心底楽しそうに笑った。ジークはそこでもまた、驚いた。
目の前で楽しそうに笑うこの男は、人並み以上の情愛も持ち合わせている!
今まさに、浮上しようとしている飛空艇が、更に彼の混乱を煽った。しかし、大きな窓の外が空の青色に近付くにつれ、彼の瞳の海は子どものように透き通っていった。
「――海へ!」
そう声を上げたジークに、アベルはたまらず笑い声を上げ、そういえばこんな風に笑うのは随分久しぶりだったことに気が付いた。
「いいぜ、行こう! 行こうぜ! きょうだい!」
「きょうだい? はは……お前みたいな兄の相手をする弟は苦労しそうだ……」
「ああ、悪くないだろ? お前、ちゃんと笑えるじゃねえか。……なあジーク、一つ頼みがあるんだが」
「頼み……?」
彼の言葉を聞いたジークが眉間に皺を寄せると、アベルは困ったように笑った。
「じつは俺、飛空艇の操縦があんまり得意じゃなくてさ。……お前がもっと元気になったら、教えるから――そのときは操縦、代わってくれるか?」
乾いた笑いと溜め息が、揺れ動く艇内で跳ね回った。
ジーク・ブレッカーがアベル・メリアスに呆れを含んで傍目には冷たくも見えるが、しかしよく見てみれば彼自身は可笑しくて堪らないという〝いつもの〟目を向けたのは、おそらくだがこのときが最初だった。
「……今すぐにでも」
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