意志
〈第六章〉
呼び声なき眼
✴
「——〝渦潮〟について〝白の民〟の間で歌われる、伝え歌のことも〈ツィーゲ〉のギルドから報告があった」
「はい」
「そして渦潮の発生地点、それをすべて結んだ海図上のこの線を、私たちは〝赤道〟と呼ぶことにした」
「なるほど」
「……おいレン、ちゃんと聞いているのか?」
執務室の腰掛けに半ば前のめりに座り、自身の両膝に両肘をついては、その手のひらを顎の下で組み合わせている騎士の長は、向かいに座って、先ほどから生返事ばかりを繰り返す教え子に、眉根を寄せて微かな渋面をつくった。
しかしレースラインはトゥールムの問いかけに、ほとんど伏せていた白い睫毛を上げ、それから緩くかぶりを振る。
「聞いていますよ、先生。簡潔に述べるとつまり、國は古びた歌を手に入れ、紙の上の線に名前を付けた。そういうことでしょう」
「……機嫌が悪いな」
「そうでしょうか。私はいつもこんな感じかと思いますが」
「お前に嫌味を言う者に対しては、な。私にまで皮肉を言うことは早々——まあ、なくもないが、もう少し面白みのある言い方をする」
「私に求めるのは、剣の腕前だけにして頂きたいものですがね」
ふっと息を洩らして笑うようにそう言ってから、レースラインは自分の目の前に広げられている海図へと視線を向けた。海の向こうに何が在るのかなど、想像するだけで今は吐き気も上ってくるようだった。
——海に踏み入れ、塩を越え、果てに辿り着き、その果てを越えたとしても、そこに在るものといったら、確かなものは一つだ。
魔獣。
魔獣、魔獣、魔獣、魔獣、魔獣魔獣魔獣魔獣!
新天地を目指すのが人ならば、また新天地に生が在るとするならば、その中の幾つかは、いずれ魔獣と化すだろう。
この世界は、黄昏ている。
この世界は、呪われている。
別の土地へ向かっても、おそらく同じことだ。
何処へ行っても人は変わらない。何処へ行っても、生は変わらない。黄昏ない命があるように、黄昏る命も、何処でだろうと必ず在るのだ。
そうして黄昏て、魔獣と化す命が在る限り、自分は永遠にこの呪われた剣を振り続けなければならない。そう、死ぬまで、永遠に。永遠に。それは、何処へ行ったとしても同じことだ。何処へ行ったとしても!
レースラインは冷たい光をその勿忘草の瞳に宿して、ちらりとトゥールムの方を見やる。
「そもそも、どうして私に海の話をするのです? 私は〝世回り〟の人間、陸の騎士です。私に海は、関係がないでしょう」
「そうかな。まあ、しかし、情報の風通しは良い方が好ましいだろう」
「國は、前時代の戦の記録を、民から隠蔽しているのに?」
「……陛下は、即位される以前から長く、戦に関する情報の開示を考えておられた」
その言葉に、レースラインは真っ直ぐに騎士団長の顔を見た。
「陛下は理想を語られます。ですから私は、陛下のことを敬愛しているのです」
「象徴としてか? だとすれば、わが弟子は剣を研ぎすぎて、自分の目が錆びついていることに気が付いていないようだな」
「先生の、仰る通りかもしれません。ただ私の軍刀は、あえて研ぐ必要がありませんが」
そう微笑んだレースラインに、トゥールムは眉間にくっきり皺を寄せながら溜め息を吐くと、彼女から視線を外して、何かを想い起こすかのように執務室の窓の方へ、その顔を向けた。
「前王が早くして御崩御なされたために、陛下の即位は、これまでの歴史の中でも稀に見るほど早いものとなった。アウロウラさまは、この世界に生を受けて二十と二年目の年に、〈ソリスオルトス〉王の冠を戴かれたのだ」
「存じ上げております」
「だが、それより以前のこの國を、お前はその目で見たことはないな。私もその頃はまだまだ子どもだったが、歴史は國によって守られるのではなく、打ち壊されていたよ。戦に関わる遺跡は叩き砕かれ、そのときの技術で応用できない過去の遺物は打ち棄てられ、燃える朝焼けの書物はまた、炎によって燃やされていた——そういう時代だったのだ」
難しい表情でそう語るトゥールムに、未だ厭にざらついた心を抱えたまま、しかしレースラインは彼の言葉に耳を傾ける。
けれども、窓の外の光も、その光を見つめるおのが師匠も、今の自分の目に映すのは難しい。レースラインはトゥールムとは逆の方向へと微かに顔を背け、光が当たらないために目に映らない埃を、見るともなく見つめていた。
「〝かわたれの時代〟の戦は、國が何百年と隠してきた重い記憶だ。開示したいからといって、おいそれとすべてを開示できるものでもない。だから陛下はまず、見える者には見えるように、その扉を開いたのだ。真実を求める者に、記憶の扉を」
「……見えるように?」
「ひいては自分の手元にも、より多くの真実の歴史が届けられるようにな。何故今、各地の遺跡や廃墟が國によって閉鎖されていないと思う? 何故今、トレジャーハンターや冒険家などという、下手を打つと損壊や窃盗といった犯罪にもなりかねない仕事が、それを行う者が、往こうと思えば何処までも遠く往けるのだと思う?」
こちらを向いてそう問うた騎士長に、レースラインは彼の方を視線をやって、しかし浅くかぶりを振った。
「——それは彼らが、自ら動ける者だからだ。いわば彼らは、玉座から動けない陛下の代わりに國を往き、真実をその手に集める、手であり、足であり、目であり、翼であるのだよ」
言いながら、トゥールムはどこか面白そうに、その指で自身の頤をさすった。
「陛下は、即位と同時に歴史の破壊という愚かな行為に終止符を打ち、國に在る歴史の跡をすべての民に開示なさった。未知を求める者は、前時代の痕跡を追って、様々な善意を、悪意を、技術を、知識を、砕かれた遺跡や朽ちた廃墟、埋もれた文書や打ち棄てられた遺物から掘り出した。陛下は、動きたい者がまず動けるように國を整え、人の感情が連鎖するのと同じように、探求心の連鎖を呼んだ——その探求心がいずれ、この世界の黄昏の解明に繋がるように」
トゥールムはにやりと意地悪く口角を上げて、ふっと洩らすように微笑んだ。
「こんにちではこの國のトレジャーハンターや冒険家も、随分数が増えたと思わないか?」
レースラインが押し黙っていると、彼はその顔から笑みを消し去り、射抜くような瞳で彼女の水色を見やった。
「近く、この國は、さながら星が墜ちるかのように揺れるだろう——陛下は本気で、この世界の黄昏を止めようとお考えになっているのだ」
その言葉に、レースラインは静かな瞳でトゥールムの目を見返した。
彼女の瞳には、微かな苛立ちを滲ませた光が淡く浮かんでいたが、それはトゥールムには苛立ちというよりは、悲しみを宿したそれに見えた。
「……己の子を使っても、ですか」
そうして唇から発せられた自身の言葉が、想像していたよりも冷たい色をして音になったために、レースラインは心の中でそんな自分の失態に嫌悪した。
レースラインの心情など知る由もないトゥールムは、それから一拍置いたのち、はっきりとした口調と声色で、彼女に問いの答えを返した。
「國を背負うということは、しかし王家のさだめだ」
「なるほど。……呪い、みたいだな」
「おっと……口が過ぎるな、聞かなかったことにしよう」
言って、騎士団長は自身の座る腰掛けに、その身体を深く沈めて深い溜め息を、笑い混じりに吐き出した。
「結局、皆、陛下の手のひらの上で転がされているに過ぎないのかもしれないな。もちろん、この私も」
目を細めるトゥールムから視線を外して、レースラインは浅く息を吐く。
騎士長が陛下の手のひらで転がされているというならば、自分は一体、誰の手の上で転がっているのだろう。かわたれのレンか、祖父か、魔獣か——
一体、誰の手のひらの上で。
机に広げられた海図を無感情に眺めやるレースラインを見て、トゥールムは困ったように浅くかぶりを振った。
「お前は剣を振るうことばかりを考える。帯刀をしていない今だって、そうだろう」
「仕事熱心とお呼びください」
「では問おう。お前の仕事とはなんだ、レン?」
すっと目を細めながらこちらにそう問うトゥールムに、レースラインは片眉だけをついと上げて、何を今更と言う風に、彼へと答えを返した。
「戦うこと。魔獣を斬り、民を護る。それがひいては、この國の黄昏と戦うことになります」
「ならばお前は、斬るべき魔獣と護るべき民、そのどちらか一つを選択しなければならないとき、一体どちらを選び取る?」
トゥールムの言葉に、レースラインの呼吸がほんの一瞬だけ詰まる。
その言葉の意味を理解したとき、彼女は自分の右手が、此処にない軍刀の柄を確かに握ったのを感じていた。
「……私は騎士、國に仕える人間です。そして世回りの騎士は、常に現実と共に在らねばなりません。ですから、選ぶとするならば——」
レースラインは一瞬だけ視線を地面に落とし、見えない軍刀を右手でぐっと握った。それから顔を上げ、トゥールムの獅子のようなその瞳を見る。彼女の白い髪が、少しばかり揺れた。
「魔獣を、斬るべきでしょう。あれは、生の嘆きを呼ぶ存在。放っておけば数が増え、そうでなくてもまた別の命を喰らう。先のことを考えるとするならば、魔獣を屠り、危険の芽を摘んでおくべきだ」
そう言い切るレースラインの声は揺るがず、いつも通りの凛とした響きをトゥールムの耳へと届けていた。その声を聴き、そして言葉を発したレースラインの表情を見て、騎士長は少しだけ息を吐き、それから小さく頷いた。
「そうか、分かった」
「先生方は、理想の実現をお考えになってください。そのために必要な仕事は、私たちがこなします。私たち世回りは、どのような場所にも赴いて、黄昏の魔獣を斬ってご覧に入れましょう」
「……私はどうも、お前の手の上でも、自分はいいように転がされているような気がしてきたよ」
「はい?」
トゥールムの唐突な言葉に、レースラインが困惑に眉根を寄せた。
「レン、お前は國に仕える、世回りの騎士だ。そして、その小隊長として魔獣を斬り、民を護り、黄昏と戦うということが、お前の言う世回りの役目。だがお前は、そんな大義名分を振りかざして、ただ自分の剣を振るい、魔獣を殺したいだけではないのかな」
そう問うトゥールムの声に、鋭さはなかった。
同じように、獅子の瞳のような金茶をした彼の目は今、ほんとうに獣のそれのように、感情の読めないものとなっている。そんなトゥールムの声を聴き、瞳を見たレースラインは、自分の肺に空気が詰まって、急に息苦しくなるような気分を味わう。
——ただ、哀しい、と思った。
或いは彼も、それは同じだったかもしれない。
トゥールムは、微かにその睫毛を伏せ、次に上げるときにはしかし、いつものどこか人の心を射抜くかのような鋭い光が、彼の獅子目の中に戻ってきていた。
「お前は、死にたいのか?」
その声色もまた、いつも通り、鋭い爪を内側に隠したものとなっていた。
レースラインはトゥールムの顔から視線を外すと、その白い睫毛を伏せて、広がる海図を見るともなく見やる。それから哀しげに眉を下げて、口元ばかりで笑っては、彼女はどこか自嘲するように、彼へと答えを返す。
「——そうかもしれません。私は、早く誰かに殺されたいのかもしれない」
ふと、今日は失敗ばかりしてしまうのだな、と、心のどこか遠いところで、自分が他人事のように嗤っているのが聞こえた。
いや、もしかするとそれは、逝く前の祖父の声だったか……
レースラインは、自分の中で今まで鳴り響いていた声のかたちが、しかし祖父のものとは言い切れなくなったことを、ふと自覚した。
——そう、あの日からずっとそうなのだ。
召喚師の少年、失せ物探しのアインベルに、何を思ったのか自分の過去を打ち明けてからというもの、ずっとそうなのだ。
今まで自分が巧くやっていたことが、煙に巻けていたことが、霧で覆い隠せていたことが、どれもその白の外へと洩れ出てしまう。今まで音もなく自分が捨ててきたものたちが、しかし今になって厭に目に映るのだ。
雑念を振り払うように首を振り、ふと顔を上げると、その視線の先にトゥールムはいなかった。怪訝に思って視線を巡らせると、騎士団長は腰掛けから立ち上がり、何を考えているのか、執務室の壁を見つめている。
トゥールムが前に立つ壁には、朝陽を持ち上げ、夜明けを呼ぶ鷹獅子の紋章が彫刻されている、燃える赤色を太陽の黄金色で縁取った盾。そしてそこに二振りの模造剣が、抜き身のまま交差している壁飾りが、騎士団の象徴としてその存在感を放っている。
その下には何振りかの真剣が横向きに壁に掛かっており、トゥールムはその内の一振りを見つめて微かに息を吐くと、それを取り上げ——
そして、抜いた。
トゥールムのその動きに、レースラインは反射的に腰掛けから立ち上がる。
——来るのか!
それを察知すると共に、鋭く薙ぎ払われた剣の切っ先をレースラインは身を屈めて逃れると、今度は下から上がってきたその刃を間一髪というところでぎりぎり身を引き、けれども執務机に背中から勢いよくぶつかって、彼女は小さく呻き声を洩らした。
執務机の上に載った書類の山がばさばさと音を立てて、自分の近くに落ちたのを感じる。
レースラインは短く舌打ちをすると、振りかざされるトゥールムの剣を床を転がり、腰掛けや執務机を盾にしてかわしながら、魔獣と戦っているときとは何か別の血が、自分の中で騒いでいるのをはっきりと自覚していた。
——紛れもない、これは怒りである。
レースラインは再び舌打ちをすると、海図の乗っている机を、剣を片手にしているトゥールムめがけて思いっきり蹴飛ばした。
それから彼女は、煮える血のままに大声で吠える。
「——気でも狂ったか、先生! 何を考えていらっしゃる!」
「人の上に立つ人間というものは、すべからく皆、多少の気は狂っているよ」
はあ、と溜め息を吐いて、疲れたようにトゥールムは抜き身の剣をその鞘に収めた。それから鋭く問うようなまなざしで、レースラインの淡い水色をした、けれども今は青い熱に燃えているその瞳を見る。
「それより、何故避ける? お前は、誰かに殺されたいのではなかったかな」
「それは……しかし、いきなり剣を向けられたら、誰だって避けようとするに決まっているでしょう!」
「或いはそうかもしれないな。だがそれが、お前の答えではないのか? 違うか、レースライン?」
「……そんなもの……!」
呟きながら、レースラインはトゥールムが剣を振り回すことによって、荒れに荒れてしまった執務室をその瞳に映した。
その部屋の様子を見て多少冷静になった彼女は、自分の中の青い怒りが鎮まっていくのと同時に、今度は別の感情が浮かび上がってくるのを感じる。或いは、これも怒りなのか。自分の師の横暴で傍若無人な行動に、浮かべたくもない笑みが、今、自分の口元を引きつらせていた。
自分の中で何かがぶちぶちと千切れていくのを自覚しながら、こんな風に感情を吐露するなどおまえらしくもない、と心の中で誰かの声がした。呪われた色の声。
けれどそれを聞いてももう、自分の開いてしまった口から言葉が飛び出すのを止めることなど、やはりできるはずもなかった。
「——先生には心底呆れました。本日はお暇させて頂きます!」
「おっと……それはそれは」
「もうしばらくは呼び出さないで頂きたい! 私には、任務がある。戦わねばならない理由がありますので!」
「その理由を私には教えてくれないのかな、レン」
「私はどうも、先生の手のひらの上で転がされているように感じますよ!」
部屋中を響き渡るレースラインの声に、トゥールムはどこか面白そうにその金茶色の瞳を細めた。
はあっと溜め息を吐き、苛立たしげな様子で、その髪の白と共に身を翻したレースラインは、出ていこうと歩を進めた執務室の扉の前で、しかしつと足を止めた。
背後から、視線で呼び止められているのが、痛いほどに伝わってくる。
多少とち狂っていようが、それなりに気が触れていようが、それでもこの師とは実の親よりも長い年月を共に過ごしてきたのだ。何か言いたいことがあるのだということくらいは分かる。
ああ、できることなら、自分が魔獣の紅に狂っている理由も、この男のせいにしてしまいたい。いや或いは、自分は彼に拾われていたときにはもう、血に狂っていたのかもしれない。だからこの騎士長としては優秀で有能な、けれどもどこか、突如身を起こす獅子のように恐ろしげな部分のある男に、自分は拾われたのかもしれなかった。
レースラインは眉間に皺を寄せたまま、顔だけでトゥールムの方を振り返る。
——この男が扉の前で呼び止めるときは、大抵いつも、好い気持ちにはならない。どうせまた彼は、こちらにとって後味の悪い問いかけを、この扉の前で課すのだろう。
今日は何を問われてももう、この腹立たしい師に対して口は利かないと心に誓いながら、レースラインはトゥールムの言葉を待った。
「そうだ、レン」
視線の先で、トゥールムが思い付いたようにそう微笑んだ。そのあまりの白々しさに、レースラインは自分の顔が引きつりそうになるのを、けれどもなんとか堪えて、こちらも普段のように薄く唇に弧を描く。
「すべては陛下の手のひらの上と、そう私は言ったが——しかし、姫殿下はご自分の意志で、この世界の黄昏に立ち向かって往かれたぞ」
トゥールムが柔らかく目を細める。その優しげな笑みの中に隠された、しかし最早隠しようもない鋭い光に、レースラインはまるで、自分の心臓が白く閃く爪に握られているような、そんな錯覚を感じた。
「——お前の意志はどこにある?……レースライン」
その問いに彼女は、言葉を発しないのではなく、言葉を発することができなかった。
✴
騎士の詰め所へと続く渡り廊下を歩きながら、レースラインは笑っていた。
「……私の意志なんてそんなもの、一つに決まっているだろう……」
くく、と喉の奥で自嘲ぎみに笑いながら、レースラインはその白い前髪を、まだらの隠れたその右腕の手のひらで、くしゃりと潰してまた笑った。
その隣を通り過ぎていく城の人間や騎士たちは、どこか怪訝なまなざしで彼女のことを見やったが、しかし誰もが自分の仕事で精一杯のため、さしてレースラインのことを気に留める者もいない。
渡り廊下は、昼間の陽光に包まれて、柔らかな白に染まっている。
そんな光に照らされて、渡り廊下の向こう——騎士の詰め所の方から走ってくる者の姿が、一つ。聞き覚えのある、生真面目さが前面に押し出されたその足音に、レースラインがふと顔を上げた。
そうして彼女の瞳に映ったのは、騎士の最軽装を身に纏い、その黒髪を前も後ろも真っ直ぐに切り揃えている子ども。通り過ぎる者の中でレースラインのことを唯一気に留める、まだ年端もいかない騎士の姿だった。
「隊長! ゼーローゼ隊長!」
そう声を上げながらこちらへ駆け寄ってくるのは、世回り十三番隊副隊長、スタラーニイ・カイメンだった。
〝彼〟はレースラインの前までやってくると、自分の心臓に右の拳を当てる騎士の敬礼をしてから、少年らしいはつらつとした笑みをその顔に浮かべる。その表情を見て、レースラインはどこか安心するように微笑んだが、しかしすぐに睫毛を伏せるようにして彼から視線を逸らした。
「お勤めご苦労様です、隊長。これからお戻りになられるのですか?」
「ああ……そうしようと思っていたところだよ」
「次の世回りは二日後になります。隊長はすぐに無理をなさるのですから、この機会にしっかり身体を休められますよう」
そんなカイメンの物怖じしない、ひどくはっきりとした物言いに、レースラインはちょっとだけ苦笑した。
「二日も休みがあるなんて、天変地異の前触れなのかな」
「なんでも、トゥールム騎士団長さまからのお達しだとかで……」
「ああ、なるほどね。先生は余計なことばかりなさるな……」
レースラインはかぶりを振り、疲れたように渡り廊下から外の庭園へと視線を向ける。彼女の前に立つカイメンは、外の光をどこか憎らしげに見つめる、レースライン・ゼーローゼの横顔を見つめていた。
「カイメン、おまえはこの二日間どうする? おまえだって若いのだから、街で丸一日遊ぶくらいは許されるだろう」
「いえ、自分は寝ます。眠れるときに眠らねば、いざというとき、満足に民を護ることができませんから」
「おまえというやつは、呆れるほどに真面目だな……」
「ゼーローゼ隊長に比べれば、大抵の者は真面目な気が致しますが」
「言うねえ……」
肩をすくめて、レースラインは笑った。
それから彼女はぼんやりと虚空を見つめ、先ほど一人きりで笑っていたときと同じかたちをした笑みを、その唇に浮かべる。そうしてレースラインはカイメンへと視線を移し、彼の焦げ茶色の瞳を、そのどこか虚ろな水色で捉えた。
「……ゼーローゼ、隊長?」
「レンと呼べ、カイメン」
「え? あ……え、でも、それは……」
「いいから。これは命令だ、スタラーニイ・カイメン」
「あ……ええと……レ、レン——隊長……?」
その響きを感じて、彼女の心の中にいる誰かが笑い声を上げた。それに同調するように、レースラインもまた喉の奥で笑う。
「レン隊長、か。〝彼女〟もまた、こういう風に呼ばれていたのかもしれないな……」
「た、隊長?」
「悪いね、カイメン。なんでもないよ」
ひらりと手のひらを振って、彼女はカイメンの横を通り過ぎようとする。
しかし彼女は少年の隣でふと足を止めると、カイメンの横顔をちらりと見やった。そして、ああ、と思う。
ああ、これでは、先生と全く同じじゃあないか、と。
「カイメン」
「は、隊長」
応えたカイメンが完全にこちらへ振り向く前に、レースラインは静かな声で、しかしはっきりと言い切った。
「——もしも私が魔獣になったときには、いいか、おまえが私のことを斬れ」
そして、その言葉に、カイメンの丸い瞳は見開かれる。
しかしレースラインは、それを自身の瞳に映しているのにもかかわらず、更にその唇から色のない言葉を紡ぎ出していった。
「おまえがいい。私のことが嫌いで嫌いで仕方のない連中が、嬉々として私のことを斬るのは、まったくもって非常に癪だからね」
彼の横でそう微笑んで見せれば、カイメンは半ば青くなった顔でレースラインの顔を見やった。その表情を見たレースラインは、しかし薄く弧を描いている口元を崩さず、いつも通りに笑みを絶やさない。
しばらくすると、固まっていたカイメンの唇からようやく、掠れた声が洩れ出てきた。
「……いつもの冗談、ですか?」
「うん、当たり前だろう? 私はそう簡単に、魔獣などにはならないよ」
そう言えば、カイメンは少しだけほっとした表情になり、けれども段々その目が三角になりはじめる。それから少年は、目の前の不真面目な隊長が発した、少しも笑えない冗談に物申そうと、鋭く息を吸い込んだ。
けれど、それを制したのは、その不真面目な隊長が去り際に発した、少しも笑えない、呟くような一言だった。
「——そう、言ってほしかったか……?」
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