ベゼル
窓から差し込む月の光が、壁掛けの照明によって存在を淡くされている。
スタラーニイ・カイメンは騎士の詰め所を小走りで駆け、通路を進み、角を曲がった。
夕餉を終えた同隊の者や別隊の者にすれ違いざま、お疲れ、や、顔くらいちゃんと拭けよ、と笑いながら声をかけられたが、こちらは喉が張り付いてろくに返事もできない。ただこくこくと頷けば、急げ、と自分と反対方向に通り過ぎていく誰かに背中を思い切り叩かれた。急いでいる!
歩を素早く進めながら、自身の頤からぽたりと水滴が落ちる。それが汗なのか水なのかも分からない。今しがた泥と汗にまみれた顔や手ばかりを表の水道で洗ってきたところだが、ろくに水を拭わずにこちらに来てしまった。ああ、この胃だけはからからに絞れているというのに。
そう、だからこそ、この少年騎士は急いでいるのだ。
——だって、食堂が閉まったら困る!
こう腹の虫がやかましく鳴り響いていては、眠れるものも眠れなくなってしまう。
カイメンは両開きの木扉が未だ開放され、そこから橙色の明かりが洩れているのを目にすると、ほとんどその中に飛び込むようにして、終業ぎりぎりの食堂へと滑り込んだ。
「おお。やっとおいでなすったか、副隊殿」
「——ジーフリート老……⁉」
こちらへ向かって飛んできた朗らかなしわがれ声に、カイメンは焦り気味だったその両足をきゅっと止める。急停止の反動で、少年の顔からまたぽたりと水が滴り落ちた。瞬きながら、カイメンは声の主へと視線を向ける。
「老、こんな時間に何故こちらに? お住まいは城下町では……」
「ともかく、顔くらいはきちんと拭くものですぞ、カイメン殿」
言って、ジーフリートと呼ばれた大柄な老人は、カイメンへと手拭いを差し出した。まるであらかじめ用意してあったかのように卓の上に置かれていたそれを、カイメンは小走りで駆け寄って受け取ると、礼の意味を込めてジーフリートへと軽く頭を下げる。
そんなカイメンを見て、ジーフリートは小さく笑って片手を振った。
「いやはや、今宵の星は綺麗ですからね。隊長殿の酌でもさせて頂こうと思ったのですが、これまたあっさり振られてしまいましてな」
「な、なるほど……?」
「それで、誰もまだカイメン殿の姿を見ていないと言うものですから、食堂に半刻ほどの猶予を頂いたというわけです」
にい、と笑って、ジーフリートは厨房の方を振り返る。
そうしてみれば、料理の受け取り口として機能しているカウンター奥の厨房から、片手に大皿を持っている中年の女性がひょっこり顔を出した。彼女は空いている方の手を振りながら、カイメンに向かって片目を瞑る。
「カイメンちゃぁん、お疲れさまあ。今日はカイメンちゃんがいちばん最後の大取りだぁね。唐揚げたくさん揚げちゃったけど、これくらいなら食べれるでしょお? ミシオンちゃんにも入るものねぇ」
「はっ、はい。もちろんです、食べられます」
大皿の上にこんもり盛られた唐揚げの山を見て、カイメンは思わず姿勢を正した。唐揚げ。育ち盛りの子どもにとってそれは、無垢なる魅力の塊である。
少年は厨房の主と、その彼女に統べられた空間に居心地良さげに座っている老人へと交互に視線を向け、そうしてぺこりとお辞儀をした。
「ありがとうございます、サリアさん。ジーフリート老も、感謝致します」
「腹が減っては戦はできませぬ故」
「老は座ってお酒飲んでただけでしょぉ? カイメンちゃんのために料理をしたのは、あ、た、し!」
「サリア殿もとうとう、細かいことがやたらと気になる年頃になって参りましたなあ」
「口の悪いじじいよねえ、ほんと! 老、魔獣の唐揚げでも食べてんの?」
目を細め、嫌味な色を悪戯に声へと宿してそう発しながら、騎士の詰め所の西最奥に位置する食堂の主を務めるサリアは、カイメンが立っている近くに在る卓の上に大盛りの唐揚げをどんと置いた。その席には、ジーフリートも座っている。
続いてサリアは唐揚げ大皿の隣に、それよりはまだ控えめな、しかし大盛りではある野菜炒めを配置すると、更に丼の白米、そして三つ葉と卵の吸い物をその手前に置く。
それから彼女は、自身のふくよかな身体を更にすっぽり覆っている割烹着を脱ぎながら、食堂の入り口扉へ向かっておもむろに歩を進め、その途中で一度カイメンの方を振り返っては何かを投げて寄越した。
「洗い物と戸締まりはよろしくねぇ、カイメンちゃん。明日もどうせいちばん早いんでしょ? ついでに食堂も開けといてえ。鍵は朝ごはんの時に返してちょうだぁい」
カイメンはそんなサリアと今しがた自分が受け止めた鍵を交互に見比べると、彼女に向かってこくこくと頷いた。そうしてひらりと手を振って去っていくサリアに、少年はまたぺこりとお辞儀をする。これは、実家の鍛冶屋で励んでいた頃の癖であった。
「それにしても、精が出ますな。毎日食堂の閉まるぎりぎりまで自主練とは……いやはや、今日は少し過ぎてしまいましたが」
「そうでしょうか? しかし、自分はまだ未熟者ですから……」
「カイメン殿には野望はお有りですかな? ミシオン殿のように」
「ミュオン?……」
席については、いただきます、ときっちり夕餉の挨拶をした後、この食堂では突き匙の代わりによく並べられる箸を用いて、揚げたての唐揚げと湯気の立つ白米をかき込んでいたカイメンは、一旦その手を止めてジーフリートの方を見た。
沸かした湯のような肉汁と格闘しながら咀嚼をくり返し、それをなんとか飲み込む。そうして彼は軽く息を洩らした。
「自分はミュオンのように、〝鷹の羽〟を目指しているわけではありません。王室騎士では守れないものを、私は守りたいのです」
「して、たとえばそれは?」
「……老こそ、出世欲をお持ちではないのですか? 何度も騎士への昇格を断っていると聞きましたが」
訊けば、ジーフリートは軽い地鳴りのような声で、がはは、と笑った。上手く逃げましたな、と。
「わたしにとって、出世は意味をもたないのですよ。それよか、途方もなく美人な隊長殿の部下で在る方が、遙かに意味がありますな」
「そ、そうですか」
「面食いなものでしてね」
——老兵ジーフリート。
〈ソリスオルトス王國騎士団〉に騎士ではなく志願兵として籍を置き、現在はカイメンが副隊長を務めている全土警備隊〝世回り〟の、その第十三番小隊の志願兵たちを一挙に纏める兵長の役を担っているのが、隊長であるレースラインはもちろん、騎士長よりも、また國王陛下よりも年上——御年六十五である、このジーフリートだった。
「それに、鉄槌を振り回す騎士など嫌でしょう?」
彼は二十五の頃より騎士団に身を置いているが、けれども彼自身、騎士になりたいと声を上げたことは一度足りとてないという。
一般的に騎士団の正騎士入団試験に落第した騎士志望が、次回の試験まで己を鍛える——或いは、何か功績を上げてあわよくばを狙って――志願兵となるものだが、しかしジーフリートは野望戴く若かりし頃にも騎士の試験は受けず、ただ志願兵として、この騎士団に入団した。自身の得物である、巨大な鉄槌を背に負って。
灰色の短髪に、嗜み程度の口髭。皺や新しいもの古いものが入り混じっている傷痕がそこここに刻まれては、しかしひどく日に焼けているためにあまり目立たないその顔の中で、ただ青みがかった緑の双眸ばかりはこちらの目にやたらと留まる。
その色は彼の生きてきた星霜が刻まれ、緩やかに色褪せては穏やかに濁ってすらいたが、しかし黒ずんだ瞳孔の奥の更に底では、緑に燃え弾ける隕石の欠片が時折その光をこちらにも放っていた。
「王室騎士では守れないもの。たとえば、誰か——同じ戦場に立つ者の背中、ですかな」
ふと発せられたその言葉に、野菜炒めと白米をもぐもぐやっていたカイメンは、思わずそれを一気に飲み込む。
「ほんとうに守りたいものを守れなかったとき、人の時計は一度止まってしまいますからなあ。己がねじを巻くのか、人がねじを巻くのか、そんないつ動くともしれない時計が」
カイメンは目線ばかりをジーフリートに向けながら、水差しを引き寄せて硝子杯に中身を注ぐ。それから詰まりそうな喉に水を流し込むと、呼吸に混ぜて息を吐いた。
「……先ほどミシオン殿も、配給時間より少し遅れて食堂にやって来られましてね。カイメン殿はまだ自主練中だろうということを告げると、夕餉を一気にかき込んで出て行ってしまわれましたよ」
「ミュオンが? ということは……」
「何処かでまだ鍛錬をなさっているのでしょう。望みが有る者は強い。多少の欲はお持ちで在られた方がよろしいですぞ。うかうかしていると、置いてゆかれてしまいます。まあ、貴殿は騎士ですから、わたしほど落ちぶれることはないかと存じますがな」
「老、落ちぶれるだなんて、そんなことは——」
言いかけて、ジーフリートと目が合った。明かりの灯った食堂の中で、老兵の瞳は微かに黒が広がって見える。星が墜ち、大地を焦がした、その柔らかに音のない黒だった。
ジーフリートの瞳が有無を言わせない。カイメンはその目を見つめ、それからゆるりと視線を逸らすと、ふっと洩らすように微笑んだ。
「……自分のこの思いも、欲の一つですよ」
「そうでしょうなあ、分かりますとも」
「ジーフリート老……もしかすると、自分をからかっていますか?」
「まさか。全く」
柔らかく青緑の目を細めてそう言いながら、ジーフリートは卓上の——おそらくサリアにねだったのだろう——麦酒瓶を自分のそばへ引き寄せると、栓抜きで王冠を引っぺがし、己の前に置かれている木杯の中へと黄金色を注ぎ込む。その色に、老兵の左手薬指がちかりと煌めいた。
「瓶から直接飲むのは、自分は人間をやめたのだと宣言するようなものですからな」
麦酒を注ぐジーフリートの手元をじっと見ていたからだろうか、彼は顔を上げると、そのようなことを言って朗らかに笑った。
「昔、妻がそんな風に言っておりましてね。今宵はまだ、人間でいますとも」
言いながら、ジーフリートは明かり取りの窓を見やった。灯る光に打ち消される月明かりが、ほんの僅か壁際に落ちている。
カイメンはそんな老兵の横顔を、手元の吸い物を啜りながら眺めやった。舌の上に汁と共に流れ込んできた卵が、噛むより先にほどけて甘い。少年はそれを飲み込み、しかしその瞬間、手中の器に唇を付けたまま、はたと自身の動きを止めた。
それは、横から見たジーフリートの瞳が、青ざめた月よりも更に底冷えした、しかし鮮やかな緑に染まったように見えたからである。
幾多の星霜を過ごした代償として己を褪せさせる老いとは、このように簡単に身から剥がせるものなのか。
カイメンの向かいの席で、じっと明かり取りの方を見やっているジーフリートの目は、けれどもどこか遠くに在る。月より先、夜より先、朝と昼よりも先を見ているような彼の目は、或いは未来ではなく過去を見ているのかもしれなかった。
今やそれは若い瞳。凍えるような炎の目。まるでそこで時間を止めたかのようだ。カイメンは器を卓に下ろし、ジーフリートの横顔から覗く瞳を真っ直ぐに見つめる。鮮やかな青緑。紅と橙を真っ向から否定し得る色。
「……ジーフリート老は何故、騎士にならないのですか?」
ふと気が付けば、少年はそのようなことを老兵に問うていた。
「さて……」
そう呟いて、ジーフリートは視線を明かり取り窓から外す。それからカイメンの方に顔を向けると、平常よりもゆっくりと一つ瞬いた。
「妻を愛しているからでしょうか。魔獣を憎んでいるからでしょうか。それとも、守りたいものがないからかもしれませんな」
ひどく穏やかな声色で、まるで今日の献立でも告げるかのようにそう言ったジーフリートの瞳にはもう底冷えする光はなく、カイメンと向き合うそれは、確かに褪せた帳を下ろしていた。
「……では、老は何故……」
カイメンは言いかけて、あまりに不躾な質問の連続だとその口を閉じる。そんな少年の様子を眺めながら、ジーフリートは大皿に盛られた唐揚げたちの一つをひょいと掴み取り、自身の口へと放り込んだ。
「なんのために戦うのか、ですかな?」
唐揚げを噛み噛み、それを麦酒で流し込んではジーフリートはそう笑った。カイメンははっとして彼の方を見やると、どこか叱られた仔犬のようにこくりと頷く。
「復讐のため、でしょうねえ」
そう答える声の気軽さに、カイメンは鉄槌で心臓を叩き潰されるような衝撃を一瞬覚えた。
穏やかに微笑みながら、挨拶をするときとなんら変わらない朗らかなしわがれ声でそう発せられるジーフリートの返答に、少年はしかし、途方もない年月のくり返しを感じる。
——四十年だ。
彼は騎士団に志願兵として入団したのは二十五のときだったと、以前本人から聞いたことがある。そう、四十年だ。ジーフリートはその四十年間、くり返してきたのだろう。辟易するほどに、この問いに対する答えを。
そしておそらく、彼の発した答えに対して新たに浮かび上がる問いにも、ジーフリートは答え続けてきたのだ。
「老……」
洩らすようにカイメンがそう発すれば、その声色からジーフリートは少年の問いを掬い上げ、そうしてそれを目の前に吊して微笑む。
「何に対する復讐なのでしょうなあ。もう、わたしにも分からんのですよ」
ジーフリートの手が、再び唐揚げを取り上げた。彼はそれを今度は麦酒なしでもぐもぐやると、流石サリア殿の唐揚げ、いつ食べても美味ですなあ、と破顔しながら発した口と同じところ、同じ声色でしみじみするように言葉を繋いでいく。
「妻を殺した魔獣に、それともそれらを生む黄昏に、でしょうかねえ」
ジーフリートの瞳が、あの鮮やかな青緑に一瞬塗れる。
「或いは、自分にか」
穏やかなものであるにもかかわらず、どこか無感情に冷えきって聞こえる老兵の声に、カイメンは隠すこともできずにその眉根を寄せた。
「……老は……ジーフリート老は、怖くないのですか」
「怖いとは?」
「——自分の……心が」
問いに対する問い、そして少年騎士の発したその答えに、ジーフリートの片眉が興味ありげについと上がった。今ばかりは空腹を忘れたカイメンは、若い光を宿す焦げ茶色の瞳でジーフリートの褪せがちな青緑を見つめ、己の心の臓をぎゅっと掴む。
「ここが——心が壊れたとき、人は魔獣になると聞きます。それは恐ろしいことだ。なのに、老の言い方はまるで、自ら心を砕きにいっているかのようです」
「おやおや……はっきりと言いますな、副隊殿」
「だって、今日のジーフリート老は少し変だ。あなたにとって辛い話をしているのに、どうして笑っているのです? お酒には酔わないたちでしょう、老……」
「心配してくださっているのですかな、ありがとう。けれど、わたしはだいじょうぶなのですよ」
カイメンが瞳だけで首を傾げる。ジーフリートは麦酒を一口飲み下すと、少年の方を見てその目を柔らかく細めた。そうして親指で自らの心の臓をとんとんと示す。
「もう死んでいますから。壊れるも何もありはしません」
己の底からそう信じて疑わないようなその声色に、カイメンは少しばかり自身の肌が粟立つのを感じた。
そうして瞬きもできないままジーフリートを見つめていれば、彼はふっと洩らすように笑んで、少年の目の前で手持ち無沙汰になっている料理たちを指し示す。冷めてしまいますぞ。その言葉が、声をなくしていたカイメンの思考を緩やかに地面へと下ろした。
「心が死ぬということは、頭も死ぬということ。たとえ死んだ心が壊れていたとしても、内側がみんな死んでいるのです、壊れてしまったということを認識できる頭もない。わたしはもうずっと長いこと、空っぽのままでいるのですよ」
カイメンは指し示されるままに野菜炒めを口に運び、しかしそれを味わうための意識はどこか遠くへやったまま、ジーフリートの穏やかなしわがれ声を聞いた。
「わが〝ジーフリート〟には、過去も未来もない。ジーフリートは、遠い日の感情を注いだばかりのつまらない器です」
ジーフリート。少年はその名前を心の中でくり返した。ジーフリート……
「あの日に爆ぜた一瞬の感情に、ずっと身体を付き合わせているのですよ、わたしは」
——老兵ジーフリートは掴めない。
ジーフリートは四十年間という長い時間、この騎士団に身を置いているにもかかわらず、騎士たちにとっても、また兵士たちにとっても、あまりに謎が多すぎた。
こうして目の前にいて、その腕を掴んだと思っても、自身が掴んでいたのは全くの空虚。ジーフリートと話していると、そういったことが驚きすら覚えなくなるほどに多い。しかし、まるで亡霊のようだというわけでもなかった。そう、どちらかと言うと……
カイメンはジーフリートから視線を外し、自身の前に置かれている硝子杯の水面を見やった。天井の照明がそこに映し出されて、きらきらと輝いている。
「——〝ジーフリート〟とは、星座でしたね」
少年は顔を上げ、ジーフリートに向かってそのように問うた。そう、亡霊ではない。星のようなのだ。水面に映り、掴めないままに揺らぐ、夜の星。
カイメンの問いに、ジーフリートは麦酒をあおりながら頷いた。
「半分だけ竜の血を引いた神の子。血のために竜にもなれず、また神にもなりきれずに、そのどちらをも恨んだ。竜と神の血を引いた彼は、一度たかが外れればもう止まることができないほどの強大な力を身に宿し、その力を以ってしてまずは神たちに戦いを挑んだと云う。そんな子どもの恨みによる破壊衝動ばかりで引き起こされた戦いは、この夜空のてっぺんで行われ——その戦いによって砕けた星たちが地上に墜ち、神よりも先に竜の一族を滅ぼした……とされますな」
言いながら、ジーフリートはその顔をまた明かり取り窓の方へと向けた。
老兵ジーフリートは掴めないが、しかし、彼を知る者ならば誰でも知っているだろう事実が、二つ——たったの二つだけ在る。
一つは、ジーフリートの妻は、彼が騎士団に兵士を志願し入隊する前に、魔獣に殺されて亡くなっているということ。
そしてもう一つは、この老兵がその身に纏い、そう名乗る〝ジーフリート〟という名は、彼の真の名ではないということだった。
「神を傷付けられるのはただ一つ、神のみ。ジーフリートはその点、力は強かったが未だ心も頭も幼く、更には半分が竜であるために、神々にはほとんど傷を付けることもできず、ただ一方的に深手を負った。そして、死よりもむごい罰をその身に科せられた」
ジーフリートは窓の方を向きながら、視線ばかりでカイメンの方を見る。
「天に磔にされたのです。されているのです、今尚。自身が恨んでやまない神々の座で、神の手足、竜の角に尻尾、片方は神、片方は竜のそれを象っている折れた翼、首までも玉座の背に縛り付けられ、一度己が滅ぼした地上を——その上に転がる焼けた竜の亡骸が朽ち、骨となった今でも、そこから見下ろしている。目を逸らすことも赦されず、半分は神であるために死することも赦されず、これまでも、これからも永遠に」
カイメンは語るジーフリートの目を見た。こちらを見やるその瞳は、あの鮮烈な色には塗れていない。
「——まあ、星座神話ではそのように謳われていますな。ジーフリートの星座は或る地方では神竜座、また或る地方では竜神座と呼ばれておりますが、わたしの生まれた地方ではただ単に〝磔子の座〟と呼ばれていましたね。いや、酷い呼び名だ、ほんとうに」
老兵は月光の洩れる明かり取りから完全に視線を外し、その顔をカイメンに向けては、朗々とした声でがはは、と笑った。
それから彼が二つ三つ唐揚げを口に放り込むのを目にして、カイメンは思い出したように自身の食事を再開する。これ以上冷めてしまっては、せっかく自分のために夕食を用意してくれていたサリアに失礼だろう。
「カイメン殿」
サリアが腕を振るった料理の三分の二ほどをカイメンが平らげるまで、少年騎士と老兵の間に会話はなかった。野菜炒めと吸い物、そして白米はすべて平らげ、残るはやっと皿の底が見えてきた唐揚げばかりである。
白米を先に食べ終えてしまったのは痛手だったかもしれないと思案していたカイメンは、ふと投げかけられたジーフリートの声に、己の視線を上げることで返事をした。
「その玉座には誰が座っていると思いますかな?」
微笑みながらそう問うジーフリートに、カイメンはそれが何に対する質問なのかを一拍置いたのちに理解した。磔子の座。〝ジーフリート〟をその背に縛り付けている玉座の話か。
そこからカイメンはまた一拍を使い、そうしてジーフリートの目を見つめ返した。
「……誰も。だってそれは、ジーフリートの玉座でしょう」
「お若いのに博識でいらっしゃいますな、結構、結構。その通り、彼が磔にされているのは、彼自身のために用意されていた玉座です。本来ならば彼は地上の最高位と天上の最高位、その両方の血を受け継ぐ者として、竜をはじめとした、すべての獣の導き手になるはずだった。彼はそれを知りませんでしたがな」
「彼は、別の道を選んだ」
「その道しか選べなかったのですよ」
ジーフリートの言葉にふと、カイメンの瞳で淡く疑問が浮かんだ。何故なのだろう……
「感情というものは時に頭よりも、そして心よりも速い。彼は、それを巧く手なずけられるほど大人ではなかった」
何故。
「ですから人も、魔獣となるのでしょう」
何故、この人は……
「——ジーフリート老は、どうしてそう名乗るのですか?」
その問いかけは、少年にとってもほとんど無意識で発されたものだった。
——そう、何故その名前なのだろう。
ジーフリートは真実の名前どころか、自身の家名すらも名乗らない。彼のほんとうの名前は、カイメンはもちろん、ジーフリート自身が所属する隊を率いるレースライン、そして騎士団の頂点に立つ騎士長トゥールムすらも知らず、最早この國にはジーフリートの真を知る者は誰一人として存在しないのではないかとも囁かれている。
彼は、騎士団の志願兵に名乗りを上げたとき既に〝ジーフリート〟であった。
だが、それならば、とカイメンは思う。だが、それならば、自分とて同じだ。自分とて、騎士として名乗りを上げたときには既に、スタラーニイ・カイメンだった。これは己の真の名ではない。その点においては、自分もジーフリートと同じ。
しかし……
自分は、今よりずっと幼かった頃、一度だけ母に問うたことがある。もし、自分が、この身体ではない身体に生まれていたら、どのような名を付けたのか、と。そうすれば母は答えたものだ。〝どんな姿でもあなたはあなただから、名前も同じような響きのものがいいわ〟、と。
だから、自分は、今は亡き母の心を想像し、このスタラーニイという名を身に纏っている。もし、自分が今の身体ではなく、正しくこの心を受け止められる——男の身体だったなら、と。
自身の真の名が、亡き母から戴いた愛すべき冠だとすれば、このスタラーニイという名は、往くべき処まで往くための足枷だ。女の身体は軽すぎる。これくらいの重りがなければ、すぐにでも風に飛ばされてしまうだろう。言い換えるならば、これはわたしの望みだった。
しかし、ジーフリートは?
磔子の座、〝ジーフリート〟は、星座神話を知る者にとって、あまり聞こえがいいと言える名ではない。あれは結局のところ、無知な子どもが愚かしく力を振るい、己の憎き相手ごと、自分をも滅ぼしてしまったという噺である。
けれども、ただ一笑に付すようなものでもない。嗤えはしない。自分にだって、彼の気持ちは少しくらいなら分かるのだ。その身体に生まれていなければ、彼は……
だが、しかし、ジーフリートがそう名乗る理由は?
名とはおそらく、望みである。他者から名付けられたものも、自らが名付けたものも、そこには多かれ少なかれ、その者の望みが宿されているはずだった。
だとするならば、〝ジーフリート〟という名もまた、こちらのジーフリートの望みだったのだろうか。それが望みとすれば、彼は——
「今日のわたしがおかしいと感じるならば、それは、今宵の月が妻の殺された日によく似ているからでしょうな」
その言葉にカイメンは顔を上げる。ジーフリートはカイメンの質問には答えず、ゆるりとかぶりを振った。
少年の思考を断ち切るように、穏やかと言えば穏やか、冷たいと言えば冷たく聞こえる、はっきりとした——無味な声色で、老兵は言葉を継いでいく。
「何が死んでも、あの日のことばかりはよく憶えていますとも。ああ……あれは、ひどく月の青白い夜だった……」
ジーフリートの言葉を聞きながら、しかしカイメンは自分の問いかけが、故意によるものなのか無意識によるものなのか、真正面から躱されたことに気付いていた。魔獣。黄昏。復讐。死。無理に問うべきではないのだろう。
だが、少年はこの老兵の向かっている先がどうも光の中ではないような気がして、その行く末を想った。そうして彼は、子どもの愚直にも見える純粋さを以ってして、ジーフリートに再び問いかける。
「老、——黄昏が過ぎれば、魔獣はこの世界からいなくなると思いますか?」
「うん? いやあ、どうでしょうなあ。こればかりは、そのときになってみないと分からないもののような気が致しますが」
「この世から黄昏も魔獣もいなくなったら、老はどうされるのです?」
「……さて、それは」
口髭に軽く触れ、そう呟きながらジーフリートは席を立つ。
古くなった照明の明かりが一瞬だけ揺らぎ、洩れる月光の存在が一回り強くなった。カイメンはジーフリートの動きに合わせて顔を上げ、その視線を彼の顔へと持っていく。
「要らんでしょうな、もう」
零すようにそう発するジーフリートがあまりに安らかに笑うものだから、少年はそこから先を問うことができなかった。何が、とは。
立ち上がると、カイメンの頭三つ分も四つ分も上背のあるジーフリートは、その大きな手のひらで卓に載った瓶を取り上げ、そうしてそこに残っていた麦酒をすべて飲み干した。瓶に直接、口を付けて。
それからふと、ジーフリートは思い出したようにカイメンの丸い目を見た。
「カイメン殿、ミシオン殿は少し焦っておられますぞ」
「……え?」
「互いのすべてが生きている内は、相手のことをよく見ておくことです。いざというとき、引き止められるでしょう。まあ、体験談として、焼き付けすぎは勧めませんがな。己の周りすら見えなくなってしまいますから」
言いながら、ジーフリートの目がちらりと自身の指環を見た。
左手、薬指。飾り気のない銀色のそれは、しかしその唯一の装飾である小さな受け座にすら、宝石が填め込まれていなかった。或いは、いつか何処かで欠けてしまったのか。
もうずっと外していないのだろう、ジーフリートの指は左手薬指だけが細く、骨の歪んだそこからはこれからずっと——未来永劫、その指環が外れることはないような気が、この少年にはした。
ジーフリートが指環を見やっていたのは一瞬だった。彼は指環から視線を外し、そして今度はそれをカイメンに向け、
「ただ、覚悟もしておくべきかと。貴殿とて、死にたくはないでしょう?」
そう言いながら、己の心臓を親指でとん、と示した。老兵の緑は弧を描かず、ただその口元だけが笑っている。
けれどもカイメンはその言葉には返事をせず、席を立っては歩み去ろうとする老兵の背へ代わりに一つ、小さな問いを投げかけた。
「——ジーフリート老、何処へ?」
少年の問いに、彼は扉の前で立ち止まり、顔の半分だけで振り向いた。
「何、ただの散歩ですよ。男というものは、夜出歩くのが好きなものですから」
そう言って笑ったジーフリートの瞳が、鮮やかな青緑色に塗れていた。それはまさしく、夕暮れの反対側に立つ色。
「戸締まりは抜かりなく、副隊殿。それでは、また明日」
歩み去っていく彼の左手薬指が、食堂から洩れる照明か、通路の灯りか、それとも窓向こう月にか、光に照っては白く閃いていた。その中でカイメンは、ジーフリートのもう片方の手のひらがつと、見えない鉄槌の柄を握る瞬間を目にし、息を吸っては瞼を下ろす。
それから冷めてしまった残りの唐揚げに、ゆっくりと箸を付けはじめたカイメンは、心の中だけで夜空を見上げていた。
そのいちばん高い処——自身の玉座に磔にされた、孤独な子どもの虚ろな笑みを想いながら。
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