剣、杖
「——レンさん?」
澄んだ水を湛えた川が中心に流れる、小さな町の中で、少年は視界の中で翻った赤と、太陽の光を浴びて輝く白のその色に、思わず自身の足を止めた。
「ん?」
突然背後からかかった声に、赤と白を纏うその人もまた、自身の足を止める。
「——ああ、アインベルくん!」
振り返ったその人は、アインベルの顔を見て一瞬だけ驚いたような表情をしたが、しかしすぐその顔に柔らかな微笑みを浮かべると、軽く左手を上げて少年の目と自分の瞳をかち合わせる。
アインベルもまた、自身の片手を軽く上げて笑った。少年の笑みに共鳴するかのように、鈴の杖もしゃんと音を立てて笑っている。
久しぶりに見た彼女——レースラインが連れる空気は変わらず涼やかで、彼女の周りはどこか心地好い静けさに包まれていた。隣には様々な色の混じった白い毛並みをもつ葦毛が、夕暮れ前の陽光を受けては、そのたてがみを黄金に輝かせている。
アインベルはそれを自覚すると、十数歩分離れた位置にいるレースラインの処まで、半ば急ぎ足で歩いていった。
きっちりと三つ編みに結ばれた、少年の金色交じりの淡い水色もまた、レースラインの葦毛と同じように陽光に照らされて、白っぽい金に輝いている。少年の耳には、そばを流れる川のせせらぎが、心地好く響いていた。
「レンさん!」
「やあ、久しぶり——かな?」
「うん、久しぶり。こんな処で会うなんて、奇遇、だ、ね……?」
レースラインの前に立ち、にこにこと人懐っこい笑みを浮かべながらそう発していたアインベルの視線が、つと、或る部分を一点に見つめ、そこから動かなくなった。
と、言うよりは、動かせなくなったと言った方が正しかったかもしれない。
「……レ——レンさん……その、手、は……」
——レースラインの右腕は、銀色だった。
葦毛の手綱を握っている右手が、やはり太陽の光に照らされて、銀と言うよりもまばゆい閃光のような白に煌めいている。
ふと、アインベルの見開かれた柔らかな緑の目、そこから送られる視線を受けて、レースラインの右の指に、ぐ、と力が込められるのが見えた。いいや、聴こえていた。少年には、その銀の指が強く手綱を握ったときに発せられた、微かな音が聴こえていたのだった。それは、歩く騎士の甲冑が立てる音と、なんら変わりはないものである。
「ああ、これか」
言うと、レースラインは、あっちの方を向いている葦毛の鼻先がアインベルへと向かい合うよう、手綱を握ったその右手で馬首を返す。それから手綱を右手から左手に持ち替えると、銀色をした手のひらをゆるりと振った。
「ちょっと、仕事でへまをしてしまってね。……ま、命が有るだけ、まだ大分ましなのだけれど」
「へまって……だって、レンさん……それじゃあ、騎士は……」
先ほどまで楽しげだったその顔に、今は驚きと悲しみばかりを浮かべて、少年は紡ぐべき言葉が見付からず、ただじっとレースラインの方を見つめた。
レースラインは、本来のそれとほとんど変わらずに動かすことのできる銀色の腕——その肘をゆっくりと動かし、指も同じようにゆっくりと、開いたり閉じたりを繰り返す。彼女はアインベルの褪せた緑の瞳から視線を外し、自身の右腕を見やった。
今、この國で一般的に〝義手〟と呼ばれるものは、その欠損した見目を補うばかりの、木製の腕である。ただ、帯革を用いて身体に取り付けることができるだけで、身体の一部として機能させることはまるでできない、人形の腕であった。
けれども、レースラインが今自身の腕として扱っているこの義手は、そんな現状を打開すべく宮廷錬金術師と宮廷魔術師、工房都市の高名な鍛冶師、技師、医師が、互いが互いへ無茶な仕事や理解が困難な自論を提示し、互いが互いを血眼にさせ、眉間に深い皺を寄せさせながら創り上げた、〈ソリスオルトス〉上で最も早く未来を走る、最新型の義手である。
錬金術師がまず基本となる素材を創り、鍛冶師がそれを鍛え、それから大まかな義手の原形を整える。その後に技師は細かな調整と、自分自身の趣味で腕のところどころに、翼を模した透かし彫りの装飾を入れた。
魔術師はその工程をすべて通った義手に、自身の魔術——主に、義手自体に己は神経の通う腕だと錯覚させる術と、多少の傷は受け付けないよう、人目にはほとんど見えず、触れる感触もない薄い結界を、腕の周りに張る術を掛ける。人の目に映ったとしても、その結界はぼうっと淡く光る、白い光沢の膜程度にしか見えないだろう。医師はその腕をもつことになる人間の経過観察という役割がある。
そう——この義手は、國で最高位の術師や技術者が寄り集まって創り上げた腕だ、信頼はできる。
そしてそれは、確かに動いた。
確かに、動く。
けれどもこの腕と言ったら、その見た目はまるで、皮と肉を失って剥き出しになった銀色の骨か、或いは針金がより集まって腕の形を成しているようだった。
陽光を受けてまばゆく輝くそのしろがねは、いずれにしても鋭く、人を遠ざける威圧感が在る。それはさながら、レースラインがかつての腕でその柄を握り、紅水晶を散らしては白く閃いた、〝レン〟の軍刀のように。
人のように、獣のように、血が通っているわけでもない。また植物のように、水が通っているわけでもない。そして、魔獣の抱える紅水晶ですら、この腕には宿っていない。それを支えるべき肉は皮は、もうここには存在しないのだ。
それでも、動く。
動いて、何かを握ることが、掴むことができるのだ。
ふと、レースラインがただ右腕を動かすのを見ていたアインベルが、少しだけ不安げな表情で、その視線を彼女の瞳へと向ける。
「……レンさんはこれから、どう——何処へ、往くの?」
「そうだね、まあ、吟遊詩人にでもなって各地を巡ろうかなと思っているけれど」
「え? ぎ、吟遊詩人?」
レースラインの言葉をまともに受け取って、その丸い瞳をぱちぱちと瞬かせたアインベルに、このそれなりにあくどいところがある騎士は、少年の方を見ながら少しばかり笑い声を上げた。
「はは! まさか、流石に冗談だよ。私、騎士を辞めたわけじゃないんだ。それに、私はどちらかと言ったら、謳うよりは謳われる側の人間だろう?」
そう言ってにっこり微笑んだレースラインに、少年は呆れと安心が半分ずつに入り混じった表情を浮かべた後、ちょっとだけ不機嫌な顔で、溜め息を吐いて頷いた。
それからアインベルは少しだけ寂しそうな光を、その穏やかな緑の瞳に宿しては、レースラインの方を見て微笑む。しかしそこから発せられた声はどこか、黄昏の響きを帯びているように聴こえた。
「——じゃあ、レンさんはまた、剣を握るんだね」
「ああ、握るよ。そう決めたんだ」
「そっか……」
息を洩らすようにそう呟いたアインベルから、レースラインは銀色の手のひらへと視線を移すと、その上で反射している太陽の光を見つめた。
「人は、きっと嗤うのだろうね。そうまでして騎士にしがみ付きたいか、そうまでして、魔獣を斬りたいのか、と」
どこか諦めたように笑いを零したレースラインは、しかしその瞳を鋭くして、自身の手の中に在る陽光を、音が鳴るほどきつく握り締めた。
「——だが、私が剣を取るのは、もう呪いのためではない。そして、祖父の遺言のためでも」
「え?」
「私のたいせつなものを守るため。そうして、己の真を貫くため。そのために、私は剣を取る」
そう言って、彼女は降り注ぐ陽光に視線をやる。それから葦毛の手綱を引き、町を流れる川に沿って歩き出したレースラインの爪先は、奇しくも〝アウディオ孤児院〟——アインベルの住む教会の在る方角へ向かっていた。
「……たぶん、私は憎んでいたんだよ、魔獣のことを。私のたいせつな人たちをすべて殺し、私のたいせつなものをすべて燃やした、魔獣——そのすべての存在を。それがきっと、私……私や祖父が、呪いなんて馬鹿げたものに囚われた原因の一つだった」
レースラインは小さく息を洩らし、自身の隣を流れる川を見やった。馬を引いて進む彼女の、その半歩後ろを歩くアインベルには、水の煌めきを見つめるレースラインの表情はよく見えない。
——ただ、声は笑っている。
けれども、その微かな笑い声はどこか、暮れる大地に吹く静かな風のようで、少年は自身の胸が何故だろう、きんと締め付けられるのを感じていた。
「でも、違う。私が、憎むべきなのは……」
つと、レースラインが足を止め、アインベルは彼女の隣に並んだ。
視線を左腰へと落とし、自身が帯びる黒鞘の軍刀を見つめるレースラインの横顔は、はらりと美しく垂れる白の長髪によって、やはりよくは見えない。石畳の上に連れる自身の影を、ざり、と彼女が踏み締めるその音が、少年の耳に強く届いた。
「私がほんとうに憎むべきは、この争いだ。——この、争いだった」
その声は鋭く、また、影を灼く青い炎の色をしていた。過去の自分を蔑み、罵るようにそう吐き捨てたレースラインの言葉に、アインベルはどこか、深い悲しみが自分の肺の辺りまでこみ上げてくるのを感じる。
「ねえ、レンさん……」
言いかけて、アインベルは自分たちの隣を通り過ぎていく、町の人々が投げかけるその視線のかたちに気が付いて、はたとしたようにレースラインの方を見やった。
「何かな?」
アインベルの呼びかけに応じて、少年の方へ薄く微笑みながら振り向いた彼女は、しかし少年が自分へ向けて寄越す不安げなまなざしに、ふ、とその笑みを音もなく消し去った。それから笑うでもなくその目を細めると、レースラインは前を向き、騎士らしい姿勢の美しさで、再びその歩を拾いはじめる。
こつ、と古ぼけた石畳を、彼女の戦いによって擦り減らされた靴底が、小さく音を鳴らして叩いているのが聴こえた。レースラインが歩くたび、彼女が纏うマントの上で、光を反射する真白が微かに揺れ動いている。
彼女は、隠すことをしなかった。その赤の影に、骨も肉も皮も、血すら失った自身の右腕を隠すことを、彼女は許さない。
彼女の銀腕は、常に明るみに出て、世界に散らばる光にその姿を暴かれていた。
「何を隠す必要がある? 私は女だが、その前に、レースライン・ゼーローゼだ。女が騎士なんじゃない。〝私〟が、騎士なんだ。そして私は世回りの騎士として魔獣と戦い、その結果、右腕を失くして義手となった。それだけだ。それがなんだ、それの何がおかしい? 彼らだって、目が悪くなれば眼鏡を掛けるだろうに」
彼女のそばを過ぎゆく者たちは、その銀色の骨のような義手に驚いてはその目を見開き、それでいてレースラインが視線を向けると、どこかばつの悪そうな表情をして顔を背ける。
それはまるで、自分たちによっては善くないと思われるものを好奇心で視界に入れ、しかし神の罰を恐れたために、何も見なかったふりをして過ぎ去っていく、厭に熱心な教徒のようであった。
「……私が」
「え?」
「——今、私があの視線に怯え、自分の腕を隠して歩いたとするならば、これから先にこの義手が一般化されたとき、これを身に付けた者たちもまた、そのように歩かなければならなくなるかもしれない。……そのように、生きねばならなくなるかもしれない。私が今浴びている視線と同じものを浴び、血の通わないまがい物であると、自分自身の身体を隠して、ひっそりと」
そう言って、レースラインはアインベルの方を振り向くと、ふふ、と小さく声に出して微笑んだ。
「そんな馬鹿げたことがあってたまるか。そうじゃない、アインベルくん?」
山に咲く小さな花の水色と、潮風を浴びて褪せた森の緑色が、かちりと音が鳴ったように合わさる。
アインベルはレースラインの目を見つめると、ほんの小さく頷いた。けれど少年は、レースラインに向かって頷きはすれども、どこか意地っ張りな自分が、心の中で微かにその首をもたげたのを、ほとんど無意識に感じ取っていた。
「……うん、そうだよね。そうだよ。でも……」
彼はレースラインの右側で半歩ほど彼女より前に出ると、歩きながら、こちらへ視線をやっている者の方へと自身の顔を向ける。
アインベルはその顔につくり笑いを浮かべるでも、怒りの表情を露わにするでもなく、ただ真っ直ぐに相手を見つめた。唐突に、しかも震えのないまなざしを少年から向けられた相手は、どこか慌てたように早足に過ぎ去っていく。
そうだ。彼女の言うことが正しいとしても、それはしかし、この人があんな視線を浴びていい理由には、決してならない。
アインベルが今しがた去った相手へと視線を向けていたのは、ごくごく短い時間であり、おそらくレースラインはアインベルが誰かを見つめていたことも、その視線の色にも気が付かなかっただろう。きっと、陽光の溢れる石畳のその日向でも見やっていたように、彼女の瞳には映っていたはずだ。
少年はレースラインへと視線を戻すと、どんな風に吹かれても震えず、そして決して消え入ることのない、彼女の青いかがり火に憧れの気持ちを宿して、どこか困ったようにちょっとだけ笑った。
「やっぱり、レンさんはすごいな……」
「ふふ、まあね。自分で言うのもなんだが、私は中々に優秀な騎士の一人だもの」
「歌に謳われる方の?」
「そうさ、歌に謳われる方の」
二人は声を上げて笑い合うと、それから町を流れる川に沿って、その歩みを味わうように町の外へと抜けていった。
町を出ても尚、川は彼らの隣を穏やかに流れ続け、柔らかなせせらぎの音を二人の耳へと伝えている。澄んだ水の中には、時折小さな魚の影も見えた。
歩いている道がこつこつと音を立てる石畳から、いつの間にか低く緑の入り混じる土の道となっても、傍らを流れるさらさらとした川の音だけは、どれだけ歩いても変わらない。それはまるで、時間までもがゆっくりと流れているようだった。
「あ……ねえ、レンさん。あれ——あれが、僕の家だよ」
「え?」
段々と暮れゆく太陽が、柔らかく投げかけている黄色みがかった白の光。
その光を受けて、まばゆく煌めく川の水面を眺めていたレースラインは、アインベルの声にその顔を彼の方へと向ける。それから、少年が柔らかく笑って指差している方向へと、どこか導かれるように自身の視線を向けて、彼女ははたとその動きを止めた。
「……え……」
アインベルが指を差し、レースラインが視線を向けたその先には、赤い煉瓦の教会が一つ、白い塀と低木に囲まれて、緑の草原の中、その小高い丘の上に建っていた。
教会の正面入り口へと緩やかに続く、世界樹教徒の白ローブと比喩するにはあまりに古ぼけ、ところどころが欠けている石造りの階段は、しかしその一段いちだんで、小さな鉢に植えられた様々な花が、来る者のことも、去る者のことも、等しくその彩りを以って讃えてくれている。
「レンさん! 今日、みんないるんだよ! みんな、だ! ねえ、レンさんも一緒にごはんを食べよう? マリーナの作るシチュー、ほんとにすっごく美味しいんだ!」
レースラインの元から駆け出して、教会の扉へと続く石段の一段目に片足を掛けたアインベルは、そこから声を上げ、彼女に向かってそう言った。
レースラインは何か軽い眩暈のようなものを覚え、少年が家と呼んだ赤い煉瓦の教会を、少年から随分離れた処から、一歩も足を動かせないままでただ見上げた。
その教会の窓から真っ直ぐに落ちてくる光を追うと、それは教会の建つ丘をぐるりと囲う、白い塀の一角へと降り注いでいる。見やれば、その塀の一角には、何か小さな看板のようなものが填め込まれていた。何が書いてあるかは、此処からでは見えない。
しかし、見えなくとも、一体何が書かれているのか、今のレースラインには厭というほど分かった。
——〝孤児院〟。
……孤児院と、そう書かれているのだ。
「レンさん?」
中々動こうとしないレースラインを心配して、少年が階段の処から、彼女の元へと再び駆け戻ってきた。レースラインは、アインベルの褪せた色をした緑のまなざしを見ていることができなくなって、思わずその視線を彼から外す。
「きみは……」
「え?」
「きみは、ほんとに強い、な……」
レースラインは、視界に映るこの教会を、アインベルが家と呼んだ意味を解らないわけではなかった。むしろ、解るから——解るからこそ、彼女は彼から視線を逸らしたのだ。
——なんで、戦わなきゃいけないんだろう……
ふと、目の前にいるアインベルからではなく、自分の中から、いつか聞いた彼の言葉が聴こえてきた。それが呼び水となったかのように、少年がレースラインに向かって発した言葉の数々が、彼女の身体中に鐘のように響き渡る。
——僕は優しくなんか……ただ、怖いだけですよ。争い合うのを見るのが、怖いだけだ。
——黄昏って、なんなんだろう。
誰も、みんなみんな黄昏のせいだって言うけど……でも、だったら……その黄昏って一体、なんなんだろう。
何が悪くて、僕らは……黄昏は、なんのために……
……僕は、なんのためにあそこで生まれて……なんのために、今、此処にいるんだろう……
ふと、アインベルに問いかける、いつかの自分の声も甦った。
——そうだ——ところで、アインベルくんはどうして召喚師に?
この問いに、彼は視線を燃える枝に向けたまま、確かめるようにゆっくりと、ほんとうにゆっくりと言葉を紡いでいた。
——……それが——そうしないと、生きていけないような気がしたから……かも、しれない。
その言葉のほんとうの意味を、彼女は今になって知ったのだ。
ああ、これは。これはこんなにも、ああ、これはなんて哀しい響きをしていたのか。呪いに怯えたまま祖父の言葉に縛られ、だというのにその記憶が失せていくことを最も恐れた自分。孤独を何より嫌ったために、人を遠ざけるような皮肉や冗談をくり返していた自分。魔獣を憎み、祖父の呪詛を免罪符に、ただ彼らを殺し、殺し、殺した自分。
独りが怖いと、その孤独を掲げたかったのは、ああ、自分ばかりではなかったというのに! 彼はそんな自分の目の前で、独り、その心臓を抱えていたのだ。彼はずっと、自分のたそがれと戦っていた。街で、森で、たった独りで!
ほとんど愕然としてその場に立ち尽くす、そんな彼女の視界の端に、教会の塀に取り付けられている、魔獣除けの角灯が映った。角灯の中には、何を燃やすこともないが、しかし絶えず燃え続ける、赤々い炎が揺れている。
ああ、彼の家族は一体何に奪われた? 火か、水か、雷か、岩か、草か、花か、病か。よくよく目を凝らせば、教会へと向かう階段の一段いちだんに飾られている花は、それもまた、魔獣除けのためなのだろうか、彼らが嫌う種類の花ばかりで彩られている。襟巻薊、明日葉、木立瑠璃草、百合車、雛菊……
——魔獣、か?
彼の家族を殺し、彼のたいせつなものを奪ったのは、魔獣なのか?
心の中で起き上がり、その目を閃かせた何かが、川のせせらぎも葉擦れも、葦毛の尻尾が揺れるのも、少年が呼吸をするその音も、自身の心音さえも遠く消し去って、ただ独り、耳の中で唸り声を上げていた。
ふと、レースラインを取巻くうるさいほどの静寂の中で、アインベルがレースラインから離れた処、未だ生命の息づく音がする方向へと、何かを聴き取ってその顔を向ける。レースラインも自身の勿忘草に、熱く感じるほどに冷たい光を宿すと、少年の視線が向かった方へとその色をやった。
「あ、ヴィア……」
アインベルの呟きはレースラインの耳に聴こえてはいたが、しかし、おそらく届いてはいなかった。
彼らが視線を向けた先には、二人が歩くその傍らの川——そこに流れる水がやってくる場所、小さな泉が在った。幾つもの枝分かれした小川が、最終的に集まって小さな泉と化しているその水溜まりは、一度そこに留まったのち、今度は一つの川としてこちらの方へと流れてきている。
その泉のほとりに、木と木の間から、一頭の馬が静かに姿を現していた。
それは、黒い馬だった。二人が連れる影よりも暗く、いずれ訪れる闇夜よりも更に昏い、まるですべてを呑み込むような色をその毛並みに湛える、黒い馬。
泉の水を飲むその鼻先が、水面の透明な反射を受けて、少しばかり青く光っていた。それはまるで、夜に染まる夕暮れに降りる、青い帳のようでもある。
水辺に息づく木々たちの、その更に上から降り注ぐ陽光の木洩れ日が、馬の黒いたてがみを柔らかく照らす。そしてその淡く煌めく光沢は、どこか夜のはじめに浮かぶ、淡い月の光にも似ていた。
ふと、馬が水面から鼻先を上げ、短く歌った。
鋭く吹かれた草笛の音にも、或いは奔るように吹く風の音にも聴こえるその鳴き声に、そちらへ顔だけ向けていたレースラインの身体が、音もなくゆっくりと動かされる。
黒いたそがれの色を躰に宿した、その馬の方から流れてきた風が、しかしレースラインの静寂に呑まれて、彼女の目の前で地面へと落ちた。彼女の纏う赤も、その上で光る白も、どちらもまるで動いてはいなかった。
——動いているのは、彼女の両腕だけだった。
魔の風を喰った馬、〝アニマ〟。
左腕が手綱を離れ、反射的に動く。
魔獣。
今、鞘に触れた。
魔獣。
親指は鍔へ。
魔獣の瞳が、こちらを見ていた。
右の指先がぴく、と動いた。
魔獣。
右腕に力が込められる。
もの言わぬ黒い瞳。
込めた力は、この腕を動かすためか、動かさないためか。
魔獣。
奪う獣。
魔獣。
奪った獣。
魔獣。
奪われた獣。
ふと、視界の端で、アインベルの目が見開かれたのが見えた。
彼はひゅっと息を吸い込んで、こちらへ向けて指先を少しだけ浮かせる。けれども彼はすぐにその手のひらを下ろすと、唇を引き結んで、じっとこっちの方を見つめるばかりに止まった。何故? 止めればいいものを。それではまるで、信じているとそう言うかのようだ。馬鹿々々しい! 人にも獣にも成りきれない、そんな狂者を信じて何になる! そうだ、わたしは結局……
——隊長、約束、ですよ。
ふと、耳の中で、ミシオンの声が木霊した。それに続くように、彼女の瞳の奥で、カイメンが柔らかく微笑む。
——零ではありませんよ、隊長。
レースラインの瞳が揺れた。彼女は自分の目を覚まさせるかのように、ぎり、と音が鳴るほどきつく、自身の唇をその歯で噛み締めた。
それから睨むようにして魔獣——アニマのヴィアを見やると、その黒い瞳の動じなさに左手で軍刀の鞘に爪を立て、今にも剣の握りへと届きそうな右の手は浮かせたまま、ゆっくりと深呼吸をした。
ほとんど伏せられたその白い睫毛は、何かに耐えるように微かばかり震えている。眉間に深く皺を刻んだまま、呼吸というよりは音もなく喘ぐようにして息を吐き出した彼女は、緩やかにその右腕を下ろしていった。
「——ああ!」
しかし彼女は、下ろしたはず右腕を今度は素早く持ち上げ、左手は鞘に触れたまま、右の手のひらでその握りを掴み、ほとんど風を斬るようにしてその軍刀を引き抜いた。
「くそ……!」
それから、彼女は目の前の地面を力のままに一度斬り裂くと、しかし半ばくずおれるようにして、自身の影にその刃を突き立てる。地面に突き刺さった軍刀の前に両膝を突いたレースラインの、その白い髪が、赤いマントと共に浮かび上がった。
「ふざけるな……!」
「……レンさん」
「ふざけるな、私は魔獣に情が湧いたわけじゃない。情など湧くものか、情など……! これは、私のたいせつなものを守るため。それだけのためだ。意味もなくやつらと戦い、その結果いたずらに仲間の命を散らすことなど、もう二度と在ってはならない。そんなことが在ってたまるか……!」
どこか自分へ投げつけるようにそう言うレースラインは、右の手のひらをきつく握り、目の前に突き立つ刃の刀身を強く殴った。金属と金属がぶつかり、剣戟のような音が響く。それから目の前に落ちる自身の影をも殴ったレースラインの銀の手は、しかしあまりに強く握られすぎたために、微か金属の軋む音が鳴っていた。
「……そして私は……私は、過去の因果に囚われて、それに甘んじていた自分を赦してはならないんだよ、決して。ああ、そうだ。赦す、ものか……! 赦すことなど……!」
刃を前に、地面を睨み付けるレースラインへ、アインベルもその両膝をゆっくりと突いた。
先ほどレースラインの中に少年の言葉が甦ったのと同じように、アインベルの中にもまた、森の中で語られた彼女の言葉が甦っていたのだった。
「……レンさん、僕だって同じだよ」
そう微笑んで、アインベルは鈴の杖を、レースラインが突き立てた軍刀の刃にそっと当てる。しゃん、と柔らかな音が二人の間に響き渡った。
——どうして赦すことができる? たいせつな者を殺されて、たいせつなものを奪われて、どうしてそれを、赦すことができるだろう?
「僕は、自分の家族や大事なものをすべて奪ったやつが憎い。それを守ることができなかった弱い自分のことも、同じくらい憎い。分からないけど、今となってはもっと、自分の方が憎いかもしれない。憎いよ。僕だって、憎い。僕だって、おんなじだ」
泣き出しそうな顔で無理やり微笑んで、アインベルは地面の上できつく握られた、レースラインのその銀色の手を取った。
「ねえ、でも……ほんとに、痛かっただろ……」
その言葉は、一体何に対してのものだっただろう。
そんな震える少年の声に、レースラインは伏せていた睫毛ばかりを上げて、少年が優しく両手で包んでいる、自身のしろがねを見やった。陽光を受ける睫毛の反射が幾つかの丸い円となり、視界の中に滲んだ形で映り込んでいる。その光る円をつくり出していたのは、果たして白い睫毛の反射ばかりだっただろうか。
レースラインは少年の手のひらから視線を外すと、その顔を半ば俯かせたまま流れる川の方へと向けた。
葦毛の馬、ゼロは彼女からその鼻先を背け、流れゆく澄んだ水で自身の喉を潤していた。それはこちらの気持ちを知らずしてか、それとも、知っていたからその目をレースラインから背けたのか。
「……どう、かな……」
レースラインは滲んだ声で少しだけ笑うと、水の上を踊る光を見つめたまま、どこか零れるように言葉を紡いだ。
「……でも、今は痛い。アインベルくん、きみ、ちょっと強く握りすぎじゃないかな……」
「うん、そうだよね、ごめん……」
「痛い、な……いや……怖いのかも、しれない」
呟くと、レースラインは顔を上げて、その表情を歪めた。それは、あちこちがあべこべの、下手くそなつくり笑いだった。
「私はもう、〝黒の子ども〟のレンになることはできない。祖父の声も聴こえなくなった。いや、あれは元々私の声だった。私の中にいたみんなは、みんな……これで、死んでいく……そう、消えてしまうだろう。違う。元々もう、みんな死んでしまっているんだ。だから、あの日からほんとは……はじめから、もう……みんな、消えて……」
言いながら、レースラインは、は、と洩らすようにして息を吐き出し、少しだけ俯いた。
アインベルはレースラインの、血の通わない銀の手のひらを両手で包みながら、何故だろう、彼女の心音がこちらまで流れ込んでくるのを感じていた。
レースラインの言葉を紡ぐその声は、いつもと変わらず涼やかな音をもっていたが、しかしどこか消え入りそうに震えている。その静けさが、耳を裂くように痛かった。
アインベルは、その声の奥に、すべてを灼く火に怯える少女の姿を見た気がして、義手を包む両手に、ほんの少しばかり力を込めた。
「……消えないよ」
脈もないのに、レースラインの心音が聴こえてくるようだった。
そして、たぶん少年は、もっと近くに行きたかった。燃え盛る炎の中で、鋭い棘をもつ茨にその身を包まれている、小さな少女の元へ。だって、その鼓動が聴こえたのだ。生きている音が、聴こえたのだ。
アインベルは少女へと手を伸ばすように、自身の額をレースラインの手のひらに当て、祈るように、ねがうように、彼女へと言葉を紡いでいく。
「消えない。だいじょうぶだよ、レンさん。僕も、憶えてるから」
「え……?」
「——だから、そのために話してよ。みんなと過ごして楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、泣いたり、笑ったりしたこと……レンさんの、想い出を。ね、有るだろ? たくさん、有るだろ? 在るだろう、みんな、レンさんの中に。だからこんなに痛いんだ、こんなに……」
ぽたり、とレースラインの影の中に落ちた光が、土の中に染み込んでいった。
それを目にした彼らは、しかし二人とも俯いて地面を見つめたまま、緩やかな心音ばかりが鳴る道の真ん中で、どちらからともなく掠れた笑い声を上げる。
「なんで、きみが泣くのかな……」
「……いや、今のはレンさんのだろ」
「ばかを言うな、騎士は泣かない」
「……何があっても泣かない人なんて、きっといないよ」
「そうだね。そんなやつは、信用ができない……」
銀の腕にぼたぼたと落ちる水滴を見やりながら、二人はほとんど同時にその顔を上げた。
言う通り、レースラインは涙を流してはいなかった。彼女の顔を見たアインベルは、彼女の腕へと止め処なく零れる涙が、しかし自分のものであるということを自覚して、慌ててその両目を腕で乱暴に拭う。
まだ、心音が聴こえていた。
少女がこちらへ手を伸ばすその姿が見えていた。
その音が聴こえ、その姿が見える限り、少年の涙は止まることを知らず、彼女のしろがねの上に透明な雨を降らせ続ける。レースラインの頬には、透明な筋が微かに光っていた。
——きっと、少年の心の瞳は、失せ物探しの瞳だった。
彼の姉であるイリスのその瞳が、相手の真実を見抜く狩人の瞳だとするならば、アインベルの心に在る瞳もまた、相手の鼓動に寄り添う、そんな失せ物探しの瞳だった。
アインベルが視線を上げると、少女の瞳とその目が合った。いいや、少女と思ったその人は、淡い水色の瞳をした、唯一人のレースラインだった。
目が合うと、彼女の瞳の奥に在る青い薔薇が、地を這う炎を受け入れたのが見えた。その火は薔薇を傷付け、しかし守り続けてもいた茨をも包み、その身をすべて燃え上がらせる。
少年は手を伸ばした。裂けるように熱かった。凍るように痛かった。けれどもただ、必死だった。
火の粉が舞う灰の中で、何かを掴む感触がする。少年はそれを思い切り自分の方へと引っ張ると、一歩、また一歩と、頼りなく動かされる足音が聴こえてきて、彼は自分の手のひらに力を込めた。掴んだ手のひらは、ひどく温かかった。
「ああ、見付けた!」
灰の中から引っ張り出した少女へと、彼は掴んだ手のひらをぎゅっと握ってそう叫ぶと、失くしものを見付けた子どものようにその顔へ満面の笑みを浮かべた。そんな少年に、真っ黒な髪をした少女はものも言わず、しかし柔らかく微笑むと自分の心臓に左手を当てる。
少年は瞬きをした。少女の姿はもう見えなかった。
彼ははっとして、少女の手を掴んでいた自身の右の手のひらを見やると、その上には花びらにも似た、心の渦すらも強さと美しさに変える、小さな青の縞瑪瑙が載っていた。
少年は少女の立っていた処にその縞瑪瑙を埋め、いつの間にか自身の手の中に有った鈴の杖で、その土の上を叩く。新たな朝を告げる鐘の音よりも、遥かに優しいその音色が、少年の周りに響き渡った。
少年が再び瞬きをすると、少女の立っていたその場所に、今度は青い色が揺れていた。
それは、炎に包まれても尚、輝き続ける青い薔薇。
孤独と戦い続けた彼女の茨は、彼女自身を縛り、そうして傷付けながらも、その最期の瞬間まで彼女の心を守り続けたのだ。
すべて、消えてしまうことなどなかった。
——消えることなどなかったのだ!
「……私だけ話すのは、不公平じゃない?」
ふと、レースラインがアインベルの方を見て、そう笑う。
その淡い瞳の奥に、強く輝く青い薔薇を見た気がして、アインベルはまた一粒、その柔らかな緑の瞳から涙を零した。
「きみにも、たくさん想い出が有るだろう? まさかきみ、聞くだけ聞いて、自分は話さないつもり?」
「そ、そんなことないってば。僕も話すよ。忘れたくないことが、たくさんあるんだ」
「そうそう、それが公平というものだ。騎士は常に、公平でなくてはね。ま、私は贔屓をするたちなのだけれど」
「はは、いけないんだ」
「うん、いいね、やっと笑った。そろそろ泣き止んでくれないと、いい加減、私の右腕が錆びてしまうかもしれないからね」
レースラインはそう言って、半ばからかうように微笑むと、地面に突き立てた軍刀を支えにして立ち上がった。
アインベルも彼女に続くようにして、鈴の杖で土を突き、その勢いで立ち上がる。そんな少年の方を、レースラインの勿忘草色が見やった。
「アインベルくんは、戦いをどう思う?」
「戦い?」
「たとえば、人と魔獣がくり返す、この戦いのことを」
その問いにアインベルが、その優しげな丸い瞳を、しかし真っ直ぐにレースラインへと向けた。
「戦わないで済むなら戦わない方がいい。そう思うよ。それは、ずっと変わらない」
「……うん、そうだね。では、どうやったらこの戦いを止められると思う? どうすれば、人と魔獣は争わずに済む?」
「……それ、は……分からない……分からないけど、もしかすると——黄昏、かも、しれない」
アインベルの答えに、レースラインは未だ地面に突き立つ軍刀の握りを、右の手のひらでぐっと強く掴んだ。
「ならば、黄昏は? 黄昏はどうやったら止められる? たそがれは一体、何処から来るんだ?」
「……それなら……」
言って、アインベルはレースラインの左胸を指差した後に、自身の左胸にその手のひらをやった。
「——ここ。たぶん、いつもここに在る。分かる、だろ」
レースラインはほんの少しだけ頷くと、自身の心の臓に、左手の細い指先で触れた。
「……ここに在るそれに、心を呑み込むまでの力を与えるのは、きっといつも、受け入れがたい孤独だ。この世界では今、こんなにも多くの命がそんな孤独に嘆き、心をたそがれに呑まれ、魔獣と化している。なあ、これはおかしくないか。何故こんなにも多くの命が、こんなにも理不尽に殺され、たそがれに呑まれる? 一体何が悪かった? いちばん最初に孤独をばら撒いたのは、一体なんだったと思う?」
アインベルは、微かにその首を振る。夕焼けに染まりはじめた空の下、レースラインの瞳は、日の昇りくる方を睨むように見据えていた。
「——それはきっと、誰かの望みだったのだろう。家族を幸せにしたい、自分の命を守りたい、安寧を保ちたい、富が欲しい、勝ちたい……」
「でも……それって……悪いこと、なのかな」
「いいや。だが、理不尽に誰かの心や命を糧とする、そんな行きすぎた望みなど……そんなものは、人の心が生む呪いと同じだ」
ふと、夕暮れを告げる風が、二人の間をひゅうっと駆け抜けた。
橙色に降り注ぐ陽光が、翻る彼女の白色を、淡く輝かせるように照らしている。飛び立つための翼をもたない彼女の背で、その歩みを確かなものにする赤のマントが、黄昏の風を受けては、荒野を往く者の羽として広がっていた。
「——私は、〝兵器〟の根絶をする」
言うと、レースラインは軍刀を地面から引き抜いて、その切っ先を朝が始まる方角へと向けた。
「……兵器?」
「行きすぎた望みの成れの果てだよ。人が、ただ人を殺すためだけにつくった道具、或いは術のことだ。自我を失った魔獣でもない、心を失った人でもない、自我も心もある人間が、確かな意志をもってつくり出した、人を殺すための道具。……そしてきっと、この軍刀も、そんな兵器の中の一つだ」
「……そんな……それは——この世界に、たくさん在るのか……?」
「在る。掘れば掘るほど出てくるようだよ、今まで葬り去られていた歴史の中から。最近では陛下の意向によって、墓石の下に隠されていた、そういうものたちが無慈悲にも暴かれているみたいだけれど。……いや、無慈悲だったのは、一体どちらなのだろうね」
レースラインの言葉に、アインベルは彼女が切っ先を向けている方角を一度見てから、しかしすぐに彼女へと視線を戻して、小さく頷いては未だ赤い目で微笑んだ。
「……レンさんなら、やってのけちゃうかもな。だって、あんたは歌に謳われる方なんだから」
「違う。私は〝やる〟んだよ、アインベルくん。歌に謳われるっていうのは、そういうことだ」
「レースライン・ゼーローゼという、騎士として?」
「そう、レースライン・ゼーローゼという、騎士として。それに——〝彼ら〟にもついて来てもらうぞ、私は。だって彼らは、何処までもついてくると、生意気にもそう豪語したんだ。果てまでも、とね! 騎士がそんなに易々と、己の言葉を翻すわけにはいかないだろう?」
彼女は何かを想い出すように、少しだけ楽しげな笑い声を上げると、東に向けていたその刃の光を一度、自分の影の中へと下ろした。
「私は、騎士だ」
確かめるようにそう発して、レースラインは、ゆっくりと自分の前に軍刀を持ち上げる。それからその刃の鏡の中に何かを見出すようにして、自身の右腕にも似た銀の光をじっと見つめた。
「——きっと、何故そうなったのかが重要なんじゃない。何故、そう在るのか。たぶん、それがたいせつなことなんだ」
「何故、そう在るのか、か……」
「ああ、きっと」
呟くと、レースラインは血の通う左手と、血の通わない右手、その両方で軍刀を握り、顔の前で掲げる。そうして天に向けたその剣の切っ先が、沈む太陽の光と、淡く現れた月の光によって一瞬、闇をも切り裂く短い閃光をつくり出していた。
彼女の二つの手は、彼女の強い意志を以って、きつくきつく軍刀を握り締めている。
「けれど……これから私が振るう剣は、殺しに殺しを重ねたこの刃は、誰かを——たいせつなものを守りゆくことができるだろうか」
その言葉に、アインベルはふっと微笑んだ。
「……守ってたよ」
少年の声と共に、鈴の音が響く。
「——守ってたよ。今までだって、ずっと」
レースラインが目を向ければ、アインベルの顔には呆れと寂しさと哀しさが一緒くたに入り混じったような笑みが、しかしあまりに優しく浮かんでいた。それはまるで、胸の空洞に湯を注がれるようだった。温かく、それでいて少しだけ沁みるから、じわりと痛い。
「……そう、か」
「そうだよ。レンさんの仲間だって、きっとそう言うだろ。というか、怒るかも。僕だったら、たぶん怒る」
「そうかな……いや、そうかもな……」
小さく笑って頷くと、レースラインは掲げていた軍刀を元の黒い鞘へと納めて、はあっと叩き付けるような溜め息を吐いた。
それから微笑んでかぶりを振ると、軽く伸びをして、彼女はその足を一歩前へと踏み出す。靴が土の上を行く音が鳴り、彼女の白と赤が、その歩みに呼応するかのように揺れ動いた。
「——歩かなければ。いや、歩きたい。そういえば、私は生まれてこのかた、自分が生きているこの世界のことを、まともに見たことがなかったからね」
「レンさんはこれから、何処に往きたい?」
「そうだね、どうしようかな。何処にでも往きたいから、何処でもいいのだけれど……あ、そうだ、アインベルくん。きみ、何処か行きたい処はないの? あるなら、一緒に行こう。生憎こんな腕になってしまったけど、これでもきみ一人くらいは、十二分に守ってみせるよ」
その申し出に、アインベルの瞳が見開かれた。
彼は眉間に皺を寄せると、鈴の杖を持つ片手を、折れてしまいそうなほどにきつく握った。橙の光に染まる緑の上、レースラインが薄く微笑みながらこちらを真っ直ぐに見やっている。
その中で逃げ場を探して、少年の瞳は一度だけ揺れ動いた。けれども、そんなものが存在しないことを自覚すると、彼は顔を上げ、そうしてレースラインの瞳をしっかりと見返した。
「……わがままを、言ってもいい?」
「私は贔屓をするたちだよ、アインベルくん」
「……それじゃあ、連れて行ってほしい処がある。お願いだ、僕を……」
アインベルは、先ほどまでレースラインが刃を向けていた方角を見やると、彼もまた、日が昇るその方向を指差し、それから叫んだ。
「——海へ!」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?