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沸騰

 目次

「いいぞ、もっと反抗しろ、少年」
 ……それが、父の口癖だった。
 父のさながら根なし草のような行動への不満や、自分なりの意見を彼にぶつけたとき、決まって父は快活に笑い、片手を軽く振りながらこの台詞を言うのだった。
 これを言われるたびに、父に自分のことを軽く見られているような、所詮子どもの言うことだと馬鹿にされているような、すり抜けられたような、突き放されたような、かわされたような気分になることは最早否定しようもない。
 実際、自分は子どもだ。そう、子どもだ。だが、父の子どもだ。だからこそ、拾えた色がある。だからこそ、気付いた想いがある。今までずっと見落としていた、父の言葉の内側に隠れているその想い。そう、気付いた、気付けたのだった。だが、それでも――


「いいぞ、もっと反抗しろ、少年」
 久しぶりに家に帰ってきた父の目を普段よりかは鋭いまなざしで見つめながら、丹はもう何回聞いたかも分からない父の口癖を聞いた。母との間に感じていた壁がここ最近では、少しずつ薄くなってきたように感じる。それと同時に、母の口から同じ家でずっと一緒に暮らしてきた己の父の、自分が知り得ない側面についての話を聞かされるたびに、父との壁も自分たちの間には確かに在るということを丹は痛く感じるようにもなった。そしてそれが、自分が自覚していたものよりもずっと厚いものかもしれないということも。そこまで考えて丹は心の中だけで悲しいような腹が立つような思いで小さく笑った。
 〝同じ家でずっと一緒に暮らしてきた〟?……馬鹿を言うな、そうでもないだろう。むしろ、母が家を出ていってからというもの、父と一緒に過ごした時間の方が、二人別々に過ごした時間よりも短いような気さえする。それはそうだ、だってこの人は、街から街へ、国から国へと旅をして、ほとんど家に帰ってくることがないのだから。
 丹は息を吐き、父の背をそろそろ抜いてしまうだろう自分の身体を気に入りの椅子から引き剥がしては父の目の前に立った。
「親父が旅をする理由って、何なんだ」
「前に言っただろ、人生は旅だって」
「……誤魔化すなよ」
「……まあ、そうだな……おれがいない方が、母さんと話しやすいだろう?」
「――は?」
 自分が何を言って何を聞いたところで、いつだってはぐらかすように並べられていた父の詭弁も今日は通じないというような態度で丹は父を見据えたが、その父から意外にも素直に返ってきた、しかし突飛な言動に少なからず驚いた丹は父ときちんと対話するために律していた身体を少しばかり傾げると、困ったような声を上げて父の顔を見た。
「何でそういうことになるんだよ、親父」
「それに、おれがいなくてもお前、ちゃんと生きていけるようになったじゃないか」
「だから、何で――」
「それよりさ、丹。お前にお土産があるんだよ、ほら、見てくれ」
 丹は何か言いたげに、顔に浮かんだ多少の焦りと苛立ちを隠すこともできずにかぶりを振ったが、父はそんな丹はお構いなしという風に自身の、使い古しているためそろそろ限界がきている旅道具の入った背負い鞄を何やらごそごそと漁りはじめた。そこから中くらいの紙袋を取り出すと、更にその中から小さな箱のようなものを取り出し、それを丹の手のひらの上へと置いた。すると父は得意げに目を細め、丹の髪を一つ掻き回してから、楽しそうに笑って言う。
「燐寸。お前、好きなんだろ?」
「え? あ、ああ……うん……」
「やっぱりな。いっぱい買ってきたぞ、それは花の絵が描いてある箱で、こっちは月、それでこれは化石で……」
「な……何で、知ってるんだ? 俺が燐寸を好きなの……」
「見てりゃあ、分かるさ」
「……」
 紙袋から次々に燐寸を取り出しては丹の手の上に乗せていく父の、その大きな手を見つめながら、丹はやや困惑ぎみに呼吸をした。それから一瞬強く瞼を閉じると、静かに深く息を吐き出し、再びその目を開く。そして父の目を逸らさずに見つめると確かめるように、また、父に届くようにと揺れない声で真っ直ぐに問いかけた。
「――親父が旅をする理由って、何なんだ」
「……丹」
「ただ、世界を見るのが、旅が好きだからってだけじゃ、ないんだろ」
「丹、あのな――」
 自分の髪色によく似た、けれどそれよりも鮮やかな父の桃色の髪が微かに揺れ動いた。父は何かを言おうとしているのだろう口を開いたり閉じたりを繰り返していたが、丹がいつまでも瞳を逸らす気がないことを悟ると、やがて観念したように長い溜め息を吐いて自身の額に握った手のひらを持っていく。丹は軽く頷いて、父の言葉の続きを待った。
「おれ、さ……」
「うん」
「――あまり長く、生きられないんだってさ」
「……え?」
 丹が今しがた告げられた言葉を上手く飲み込むことができないままに、それでも父は声にしたことで吹っ切れたのか、先の言葉の上に更に重ねる。
「病気、らしくてな。母さんが家を出ていった後に分かった……んだ、それで、お前、その内一人で生きていかなきゃいけなくなると思ったから、おれがあまり家に帰らなければお前もそれに慣れるかと思って……おれ、子育てのこと、分からないことばかりで……あわよくば、お前と母さんがまた一緒に暮らしてくれればって、だから、そう……だからなんだ」
「親父……」
 丹は身体中に何か熱いものが駆け巡るのを感じながら、ほとんど吐き出すように呟いた。そして先ほど父からもらった、手のひらに大量に乗った燐寸箱をカウンターの上にそっと置くと、目を瞑って一度深呼吸をする。息を吐き出し、それからまた吸い込んだと同時に丹は閉じていた目を開き、息を止め、右手の手のひらに力を込めるとそれをゆっくりと持ち上げて、
「――ふざけんな!」
 ……その拳で父の頬を思い切り殴った。もとい、ぶん殴ったのだった。
 丹が生きてきた中でおそらく一番に力を込めたであろうその一撃に、彼の父は店中のいろんなものをひっくり返しながら自身も転がり、最後にはしたたかに腰を壁にぶつける羽目となった。丹はそんな父の胸ぐらを掴むとそれを強い力で引っ張って、無理やり壁際に父を立たせる。殴られたおかげで咳き込みながら、しかしそれにすら痛みを感じるのだろう、眉をひそめてほとんど声にならないような声で言葉を発した。
「ま……丹……お前、病人になんてことを……」
「病人だ? 笑わせんなよ。いいか、世界中をいつもいつもふらふらほっつき歩いてるようなやつを病人とは呼ばねえよ、俺は!」
「おい、待て……落ち着け、丹」
「うるせえ、黙ってろ! 誰が待つかよ。俺はもう待った。なあ、待っただろうが、先月だって先週だって昨日だって今日だって!」
 父が目を白黒させてこちらを見ている。痛みからか、父の目元にはうっすらと涙が浮かんでいた。しかし、それを見ても止まれない。泣きたいのはこっちだ、こっちなのだ、いつも、いつも。
 最早感情に心が追い付けなくなった今、丹にはもう、思いのすべてを吐き出しぶちまけて投げ付け、喚き散らすことしかできることはなくなってしまった。さながら火を吹くように丹は言葉を重ね、重ねる。
「ふさげんなよ、病気だってんなら医者んとこ行けよ。治そうとしろよ! 何勝手に生きること諦めてんだ? あんた、家族がいるんだぞ。そうだろ、なめてんのか? それに、子育てが分からないって、あんた、俺と向き合おうとしたかよ? してくれたかよ! 何であんたらはいつも、いつもいつも……! 子どもの俺には分からないってはぐらかして、俺の気持ちには目を背けて、ちくしょう、俺は!……俺は、あんたらの訳も分からない――くだらない! くだらない夫婦喧嘩に巻き込まれて散々なんだ、なあ、分からねえのかよ! 何で俺に分からないって、分かるんだよ! 俺は確かに子どもで、がきだ、がきだよ、けどな! 俺はあんたの子どもだ、親父の子どもで、母さんの子どもだろ! 言えよ!……言わなきゃ……言わなきゃ、何も分からないに決まってるだろ!」
「丹――」
「俺はな、親父が旅が好きで好きで旅せずにはいられないってんなら、それでもいいって思ってんだよ。親父から好きを奪う権利なんて俺にはないし、奪いたくもない。俺だってそうだ、俺だって、ランタンを造って……それで、この店をやってくことが好きだよ。けどな、親父の旅が自分や母さんや俺から目を背けるための道具でしかないって言うんなら……そんなものはやめちまえよ」
 最後は呟くようにそう言うと、丹は父の服から手を離して息を吐いた。父はそうされると共に力なく床に座り込むと桃色の髪を揺らして俯き、しばらくそのまま黙り込んだ。丹も床に座ると、その沈黙に身を委ね、父が言葉を発するのを待った。
「丹……」
「……ああ」
「言葉にするのが子どもみたいに怖かったんだよ、おれ」
「分かってる。だってあんたは、臆病者の俺の……父親だから」
「……ごめん」
「俺は、謝らないからな」
 丹がそう言えば、父はやっと顔を上げて小さく頷いた。謝らないと言いつつも、今度は丹が父の瞳から目を逸らす番だった。丹は何だかばつが悪そうに視線を彷徨わせると、心臓の辺りを軽く掴み、深く息を吸う。それから手を離し、今度はその手を膝の上で固く握って、逸らした視線を再び父の瞳へと持っていった。
「……親父が旅することをほんとうに好きだってことも、分かってる」
「……」
「燐寸……嬉しかったよ、ありがとう」
「……ああ、よかった」
 好きという気持ちが、手っ取り早い逃げ道になることを丹は誰よりも分かっているつもりだった。自分だって何度も何度も、その逃げ道の上を走ってきた。これからだって、走るだろう。ただ、それだけではない。それだけではいけないのだ。このランタンの灯を、逃げ道を照らすばかりの明かりにしては。父の旅だって、きっとそうだ。己の旅を、逃げ場を探すばかりの旅にしてはいけないのだ。それでも――丹はひとかけの勇気を血に交ぜるように、父へと言葉を紡いだ。
「……親父がいろんな景色を見に行きたいなら、行ってもいいと思う。俺だって、何があってもランタンを造り続けると思うから……。俺のたいせつなものは此処に在るけど、親父のたいせつなものが外に在るっていうなら、行くべきだと思う。たまに、帰ってきてくれれば……俺はそれでいいから」
 そう言う丹の顔に何を見たのか、彼の父は穏やかに表情を和らげると自分によく似た丹の深い辰砂と茶に近い黒の交じった髪を、その表情とは裏腹に荒っぽく掻き回した。
「なあ、丹。……おれのたいせつは、いつも此処に在ったんだ。……おれは、馬鹿だよ」
「親父?」
「医者に行くよ。治るのか、分からないけど……行かないよりは……まし、だろう。……でもおれはさ、丹……きっと治っても治らなくても、旅することはやめられないんだ」
「いい、分かってる。……謝ったら、怒るからな。どうしてもすれ違うっていうなら、また殴るよ。そのときは俺のことも殴ってくれ……今度は遠慮なく」
「……次がないように、努力する。お前のあれは、かなり効いた」

 それから医者に行くと言って店を出た父の背中を見送って、丹は肺に溜め込んでいた空気をすべて吐き出すと、笑い出して止まらない膝を支えるように机に両手をつき、額から机へと零れ落ちる汗を浅い呼吸で眺めた。それから机を背にして床に座り込むと噴き出す汗もそのままに、冷たくなったり熱くなったりする心臓の鼓動と自分の呼吸を感じる。
 父が去っていって初めて、父が自分の元にもう二度と帰ってこなくなる日が想像していたよりも早くやってくるかもしれないことを現実に感じたのだった。怖かった。当たり前だ。父の子ども、なのだから。
 丹は父が土産として自分に手渡した燐寸の一箱を手に取ると、その中の一本を箱の側面に滑らせ火を点けて、それを近くに在ったランタンの中に押し込み、そうして頼りない明かりを自身の目の前に灯した。しかしこの小さな明かりでは、自分の前で佇んでいる己の影を晴らすことはできそうもないのだった。丹は目を瞑り、近くでぼんやりと淡く揺らめいている炎を感じながら、震える片手をもう片方の手のひらで包み込んだ。
 もっと、光を……


20161006 
シリーズ:『手のひらのかがり火

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