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逃がした火の粉は甘かった

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 時計店〈トキツゲウサギ〉は、本日定休日である。困ったように笑っている青年――丹は休日の時計店で、先日と似たようなかたちでカウンター越しに母と対峙していた。休日に時計店を訪ねてきた丹は母に、この間のお返しと言わんばかりに――いわゆる、〝恋ばな〟をさせられているのだった。何とか話題を逸らせないかと、丹は自分の目の前に置かれている珈琲を指差した。
「母さん……俺、ブラックはあんまり……なんだけど」
「ええ? 何それ、格好悪いわね、丹」
「……格好悪くても何でもいいから砂糖とミルクをくれると有り難いな」
「はいはい……」
 呆れる母から砂糖とミルクを受け取って、それらをたっぷり入れてかき混ぜた甘い珈琲に丹は口を付けた。それにしても、カウンター越しの母のどこかじとっとした視線が気になった。丹は苦笑して母の方を見れば、彼女はそれを待ってたと言わんばかりに口を開いた。
「……で、その一目惚れした子とはどうなったのよ」
「うげ、この話題まだ続くのかよ……」
「当たり前でしょ、何言ってんの」
「……えーっと、だから、普通にだめだったって。失恋したんだよ、けっこう前に」
「はあ? 普通にだめで、失恋?」
「繰り返し言わないでくれ、母さん……」
 自分の息子が失恋したと聞いて、一瞬、世界の終わりを見たような表情を母はその顔に浮かべたが、すぐに長い溜め息を吐くと、とんとんと人差し指でカウンターを叩いた。
「……見る目ないわねぇ」
「うん?」
「見る目ないわね、その子。その子を好きになったあんたも」
「いや……ただ単に俺がだめだっただけだよ。こちとら勝手に好きになって勝手に失恋してんだ。……っていうか、人が好きになった人のことをあんまり悪く言うのはやめてくれよな、母さん」
「あら、生意気……」
「それで結構」
 どこか意地悪い表情で笑う丹を一瞥すると、母は自分のコーヒーカップを手に取って、砂糖もミルクも入っていない珈琲をぐいっと一気に飲み干した。それから丹の頭を軽く叩いて、満足げに笑って言った。
「――あんた、格好良くなったわね」
「え……」
「格好良くなったわね、丹。ブラックコーヒーが飲めないところは格好悪いけど」
「ああ、まぁ……そこは頑張ってみるよ……」


20160825
シリーズ:『手のひらのかがり火』〈燐寸箱〉

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