君
黄昏がやってくる。
じきに、夕暮れだった。
「ところで、騎士さま?」
浜へと続く樹海の道を、〝白の民〟としての記憶を掘り返しながら進んでいくアインベルを先頭に、不思議な縁に呼ばれた七人組は歩を拾う。
アインベルのすぐ後ろ——というよりはほとんど隣に目の良いイリス——彼女の手にはヴィアの手綱が握られている——が付き、その後ろに〝ポロロッカ〟の四人組が、時折その位置を入れ替わりながら歩いていた。しんがりはレースラインである。
塩の港〈ルオトゥルオ〉を出たのち、そのようにして海へとその歩みを刻んでいた一行は、夕暮れと共に沈んでいきそうな気持ちを振り払おうとするかのように、他愛のない話をくり返しながら、樹海の道に足跡を付けていた。
「何かな、ハンターくん?」
「アインベルとは一体何処で出会ったんだ?」
「……へえ、気になる?」
「気になるねえ、とっても」
にやりとその口角を上げて言い切ったクイに、レースラインもその唇をどこか意地の悪そうに上げると、先頭を歩くアインベルをちらと見やって、自身の人差し指を口元へと当てた。
「街中でね、声をかけられたんだよ。彼に、ね」
「へええ? なるほどねえ? 〝ベル坊〟も中々隅に置けないってわけだ」
何か含みのあるレースラインの物言いに、半ばからかうようにしてその目を細めたクイの方を、いちばん前のアインベルが、怒りと羞恥が混ざり合った表情でばっと振り返った。
「——仕事に決まってるだろ!」
「おっと……照れなくてもいいんだぞ、アインベル」
「照れてない!」
「これはこれは……悲しいね、アインベルくん。私にはきみを突き動かすための魅力が全くないようだ……まあ、当たり前と言えば当たり前だけれどね……」
「そ——そういうことでもないってば!……あーもう二人とも! わざとやってるだろ!」
そう声を張り上げたアインベルに、レースラインとクイは顔を見合わせ、それから声を上げて笑った。そんな二人を視界に映して、少年もまたどこか仕方のなさそうな表情を浮かべて、ふっと洩らすように微笑む。
今、此処に在る二人は、片や〝かわたれの時代〟、沈む王国から音もなく逃亡した暗殺者たちの末裔。片や同じ時代、武器の代わりに楽器を持ち、命をかき鳴らしては散っていった兵士たちの末裔である。
そんな二人が今、同じ時間、同じ場所に立って笑い合っていた。アインベルにはそれが、嬉しいような、それでいて哀しいような心地がする。一歩、足を進めた。小さく鈴の音が鳴る。それは、アインベルの心で鳴る問いかけと、同じ音色をしていたかもしれない。
「なんでだろう……」
ふと、アインベルが呟く。すぐ後ろを歩くイリスがその赤い目を彼へと向け、それにつられるようにして全員の視線が少年へと向いた。
「……僕は〝牧歌の間〟でのことがあるまで、魔獣になったわけでもない人と人が争い合うなんて、考えたこともなかった。でも、ほんとうに、僕らは争い合っていたんだろ? なんでだろう。僕ら、こうやって笑い合えるのに、どうして……殺し、合わなくちゃいけなかったんだろう」
「……アインベル」
「僕は、嫌だよ。そんなのは嫌だって、そう思う」
言いながら、アインベルはその視線を自身が歩く、ほとんど獣道とも言える林道へと落とした。
白の民が、塩を乗せた荷台を運ぶためのその道には、しかし古く固まった轍しか見当たらない。ところどころから雑草が顔を出しているそれに、この道が長い間使われていないことが、アインベルには嫌でも分かった。
思わず顔を背ければ、イリスが手綱を引くヴィアと目が合った気がした。感情の読めない、静かな目。それでもこうして一緒にいられる。誰とだって、こんな風にいられたら。魔獣とだって、争い合いたくなどないのだ。自分は誰かの死を、真っ正面から見届けたことはない。けれどもきっと、誰かが死ぬのは、黄昏に呑まれながら死んでいくのは、きっととても、とても悲しいことなのだ。そう、たそがれ……
「——それでいい」
樹海の木々をゆったりと揺らす、湿気を含んだ風と共に、思わず背筋も伸びてしまいそうな凜とした声が響いて、アインベルは思わず振り返った。
勿忘草と目が合う。レースラインは、自身の顔の辺りまで頭を下げた樹の枝葉に触れていたその左手を離すと、少年に向けて沈黙で頷いたようだった。
「未来を選ぶのは過去の人間ではなく、きみ自身、そして私たち自身だ。きみがそう思うのなら、その通りにするといい。きみのことは、きみが選べ。きみにしか、選べないのだから」
言うと、レースラインはその視線でアインベルに歩を進めるよう促した。アインベルがまた歩き出すと、彼女は深い森の中、微かに零れる木漏れ日を見つめながら、自分自身に確かめるように言葉を紡いでいく。
「——人は二つの〝イシ〟から成ると、私の祖父は言っていた。一つは、魂のかたちをつくる石。もう一つは、その石の内側へと宿る意志。この二つが揃って初めて、人の魂は成るのだと」
「ああ、昔からよく云われてるやつね。あたしも聞いたことあるわよ」
「きみたちは、その牧歌の間という前時代遺跡で、かの戦争の追体験をしたと言う。しかも、皆が皆、別の人間に成って……」
「いえ、私は獣だったわ」
ふと、イリスが返したその答えに、その場にいた者たちがびっくりしたような顔をして彼女の方を見た。イリスは、首元に巻いた虹色に揺らめく薄布を軽く指先で触ると、少しだけ悲しげに頷く。
「あまりよく、憶えていないのだけれど……たぶん狼か、何かだった。突き動かされるような熱があったわ。後ろ肢をやられてろくに動けないのに、けれど、それでも動かなければいけないという意志があった。食べ物を探していたの。自分のものではない食べ物を。……きっと、子どもがいたのね」
「……それで?」
「分からない。ただ、歩きながら空を見て、なんだか……ずっと朝だなって、そう思った。気が付くと牧歌の間で、私はもう、私だった」
そう言ってかぶりを振ったイリスに、後ろのクイが半ば自嘲するようなかたちで言葉を発した。
「同じく牧歌の間に戻って、だけど反面、俺は俺をすぐに取り戻せなかった。バグパイプのクイをどっかにほっぽって、俺の目は未だにかわたれの血を見ながら、目の前にいるのが誰かも分からず、アインベルに……」
「クイ、僕のことはもういいから」
「ああ、だがな……」
「……ま、無理もないだろう。私とて……いや」
レースラインは歩を進めてそう言いながら、前を行く二人をちらりと見やった。彼女の右腕が空中で軍刀の柄を握りかけ、思い留まる。一日の終わりを謳おうとしている太陽の光が、枝葉の間を縫ってレースラインの右腕まで下りてきた。
「——私たちは、私たち以外の何者でもない。きみたちが牧歌の間を介して成った者たちは——かわたれの彼らは、きみたちと、そのイシのかたちが同じだけだったのだろう。魂が同じかたちをしていただけだ。彼らと、きみたちは違う。〝彼女〟と、私は違う。全くの、別人だ」
彼女の右のしろがねが、一瞬、刃のようにちかりと光る。夕暮れの光を受けて尚、それを弾き返すレースラインの右腕が、ぐっと宙で何かを握ったようだった。無機質な音。けれども彼女は、自身の意志を以って、再び剣を取ることを選んだのだった。
「私は、私だ。他の誰でもない。すべては私の真、すべては私の意志だ」
彼女は自身の左手を、自身の心臓に当てる。それは、ほとんど誓いにも等しかった。
「今度こそ——もう、誰のせいにもできはしない」
そこでは誰もが皆、自分自身の胸に確かめるようにして、己の息を潜めていた。
けれども息を潜めるのは、人の通らなくなったこの林道を行く彼らばかりで、風に吹かれれば枝葉はさざめき、歩を進めれば、そこで踏みしだいた雑草が悲鳴を上げている。七人分の足音。時折、甲冑を着込んだ騎士が立てるような金属音を響かせる、レースラインの銀色の義手。アインベルに呼応するように鳴る鈴の杖。
そのどれもがいつも通りに声を上げ、そのすべてを聴きながら、レースラインはおのが誓いを前に、今一度、宙で掴んだ剣を握り直した。
「あ……」
少年の呟きと共に、ふと、樹海の中へと強く風が吹いた。湿った森の風ではない、乾いた風。色も褪せてしまいそうなその風に、イリスがはっとしてアインベルの方を見やった。
けれどもアインベルは表情を変えずに歩を進め、ただ真っ直ぐに前を見据えている。そんな少年の姿に、イリスはむしろ、香りの変わったこの風が、ひどく自分の目にだけ沁みるように感じた。
「——いや、流石、騎士さまは言うことが違うねえ」
つと、無表情に歩を進めていたジンが、皮肉っぽく笑ってレースラインの方を振り向いた。
アインベルの表情が変わらなくとも、それすらが見えなくとも、此処にいる誰もが気付いている。少年が呼吸の仕方を変え、纏う空気を変えたことを、誰もが。
レースラインの方を見たジンの眉間には、少しばかり苦しげな皺が寄っていた。これが、この荒削りな男の心遣いなのだろう。思うと微かに笑みがこみ上げてきて、レースラインはジンより数段は意地の悪そうな顔でその口元を歪めた。
「……そう、伊達に長年騎士をやってないだろう? でも、まあ、きみたちだって長いことハンターをしているのだから、せっかくだし聞かせてくれないかな。有るだろう、ハンターが言うとまた違って聞こえる言葉の一つや二つくらい?」
「そりゃあそうだ。んじゃ——レースライン殿は、かつての海が白くなかったことをご存じで?」
「もちろん、それくらいはね。かつての海では水が充ち満ちて、今の水郷の何百倍、下手をすると何千倍も広い水の園だったと云う。そしてそこには、無数の生命もまた充ち満ちていた。海は、今と同じように果ても見えないほどに広く、深く、そして青かったそうだね」
「ご名答。流石騎士さま、まるで優等生の模範解答さながらっつうわけだ。じゃ、海がどうやって生まれたのかは知ってるか?」
にやりと口角を上げてやり取りをするレースラインに、ジンもまた面白げにその目を細めると、無意識に指先でくるりと弧を描いた。そんな彼の様子を見ていたアインベルとイリスが、ほとんど同時に声を上げる。
「竜」
「もう少し踏み込めよ、問題児」
そう言われたイリスがその赤い目をジンから外し、自身の爪先が目指す方へと向いた。彼女の瞳が、熱を宿してちかりと煌めく。
「——かわたれの時代より遙か昔、人間すらも生まれていなかった時代。海は白くもなく青くもなく、ただ、陸だった。竜はその時代に生まれ、生き、そして空が降らせた星によって骨となった。海はそんな彼らが——死する寸前の竜たちが流した涙によって生まれたと云われている」
樹海の中を吹き抜けていく潮風が、イリスの首巻をひらりと揺らした。蛋白石のように色を変えるその薄布が、一瞬だけ淡い青に色付いたようだった。
「それがきっと、地上の竜が発した最期の言葉だったのね。その涙が。そうして竜たちが遺した海から、私たち人間は生まれたと、そうとも云われているわ」
「——と、いうわけだ、騎士さま。こういう昔語りもハンターが言うと、ま、中々に浪漫だろ」
「浪漫? むしろ残酷に聞こえるけれど」
「そりゃ、あんたが海が青い理由を知らないからじゃあないか?」
ふと響いたクイの声に、レースラインの視線がそちらを向く。彼は、他の三人と違わず今日も持ち運んでいる、自身の楽器が入った革鞄をひょいと担ぎ直すと、視線だけをレースラインに向け、形の良いその口元を悪戯っぽく歪めた。
「海が青いのはな、空に恋をしているからだ。ほら、好きな人とずっと一緒にいると、その人の仕草が自分にもうつるって言うだろう? それと同じで、かつての海も、空の色と同じように移ろっていたはずだ。そう、つまり、海から生まれたと云う我々は、彼らの恋の賜物というわけですよ、騎士さま?」
「どうも話が読めないな。そもそも、竜の涙が空に恋をする理由がどこにある?」
「おおっと、思ったより察しが悪いな。じゃあ、生まれながら多くの竜には有って、人にはないものが何か、あんたには分かるか?」
瞬間、前方から強い風が吹き抜けて、彼女の白い髪と赤いマントを大きく翻らせた。レースラインははっとしたように自身の背を振り返り、それからクイの方を見る。それを答えと受け取ったクイは小さく息を洩らして笑い、それから頷いた。
「——そう、翼。彼らは飛べたのさ、レン。そんな、星が落ちて燃え盛る地上にいた竜たちは、俺たちと違って翼をもつ彼らは、一体そこでどうしただろうな?」
言って、クイはその指先で木々に覆われている空を示した。
「やっぱり、飛んだだろうよ、空に向かって。太陽に近付き過ぎれば、どちらにせよ燃え尽きると、そう分かっていたとしても」
「……なんだ、結局残酷じゃないか」
「そう、その通り。浪漫と残酷は紙一重、或いは表裏一体ってことだな」
悪びれもせずにそう言い放ったクイに、レースラインは呆れたように肩をすくめると、吐き出すように笑ってかぶりを振った。声は、茨の棘を感じさせるほどに静かだった。
「——は、どうりで水面というのは眩しいわけだ。私なら、見ていられないな」
「水面ってのは、子どもの澄んだ目によく似てるからな。見るのが痛いほどの光を宿し、煌めき、小さなことで揺らいで移ろい、それでいてこっちの姿を真っ直ぐ暴く。そうだろう?」
言い当てられて、レースラインは一瞬だけ心底驚いたような顔をすると、しかしその表情をすぐに整えてクイの方を見た。彼の瞳がすっと細められ、焦げ茶のそれはもうほとんど黒に見える。この目を自分は知っていた。いいや、かつて自分も同じ目をしていたことがあるのだ。それは、弓を射る者の目だった。
「きみ……」
「ああ、当たりか。見くびるなよ。俺たちはこれで、腐ってもハンターなんでね」
「つまり?」
「逃げることもあるってことだ。ほんとうにまずいと思ったら、俺たちはアインベルを連れて逃げる。あんたが残るって言っても、だ」
クイの言葉にレースラインは息を吐くと、左の指先で微かに軍刀の鞘へと触れた。
「……当たり前だ。むしろ、私を盾にするくらいの気持ちでいろ。元々、そのために私はいるのだから。私はこれで、腐っても〝世回り〟の騎士だよ」
「あんた、な……」
「騎士と話すのは調子が狂うか? 私も狂う。きみたちとの会話は目が回るようだ」
「こっちだって、あんたと話すのは背筋が伸びるから大助かりだよ。ま、同時に肩も凝るんだがな」
「なるほど。惚れないようにね」
「残念だ、婚約者がいる」
「それは結構。末永くお幸せに」
「いやはや、もったいないお言葉をありがとうございます」
そうして顔を見合わせると、二人はほとんど同時に溜め息を吐いた。いつもだったら、こういったやり取りを聞くとアインベルは笑ってくれるはずなのだが、待ってみてもその柔らかな笑い声は聞こえてこなかった。
どちらからともなく視線をアインベルの方へ向ける。けれども二人の目は、アインベルの前に広がる、途方もない白の色に奪われた。
——視界が、拓けている。
浜だった。海が、〈白き海〉が目の前に見えていた。いつの間にか、樹海を抜けていたのだ。
浜を、海を、かつての故郷を、アインベルは視界に映す。そうして言葉少なだった少年が、完全に言葉を失うのを、彼の後ろにいた者たちは誰もが目にし、皆が皆、一瞬だけその足を止めた。けれどもアインベルの足だけは止まらずに、何かに呼ばれ、突き動かされるようにして一歩、また一歩と赤茶けた砂浜を進んでいく。
がらんとした浜に、人が暮らしている様子や、また、暮らしていた痕跡も見受けられなかった。そう、白の民は、状況によってその拠点を他の浜へと移すことがたびたびある。
——けれども、ほんとうに此処が、こんなに乾いた場所が、アインベルの故郷なのだろうか。
ポロロッカたちは、そう各々顔を見合わせた。かつて人がいた痕跡と言えば、樹海の林道に残されている、古ぼけた轍ばかり。此処を故郷と呼ぶには、あまりに寂しすぎる。あまりに、悲しいのだ。
ふと、手綱を引いているヴィアが、或る一点の方角を見つめて動かなくなったのにイリスは気が付き、彼女はヴィアのその黒い目を覗き込むようにして見やった。
「どうしたの、ヴィア」
もちろん、返事はない。イリスはその鮮紅の目を、ヴィアが見つめている場所と同じ方角へと向けた。樹海に遮られて、視界には深い緑の木々しか映らない。夕暮れの陽も、同じくこの森をそのほとんどが越えられず、時折枝葉を黄金の色に輝かせているばかりだった。
「あっちに何が在るの?」
言いながら、イリスは何か別の光を感じて空を仰いだ。
「月……」
青色から橙、橙から赤、赤から紫へとゆっくり色付き、移ろっていく黄昏の空に、白く月が浮かんでいた。その月が、淡くも確かな光を、導くようにこちらへと投げかけている。そのおぼろげな光の道は、ヴィアが視線を向けている方角と同じ場所に向かって伸びていた。
イリスは目でその光を追うと、はっとした様子で瞳の紅を見開き、樹海を越え、街道も越え、村里や街をも越えて、その先に見出したものを思わず口に出した。
「世界樹……?」
その言葉に、ヴィアの真っ黒な瞳がイリスの方を向いた。或いは、それが肯定だったのかもしれない。イリスの肌が、理由も分からないまま粟立った。心臓が強く鳴る。その熱で血が沸騰するようだった。
何かが変わる。何かが変わってしまう気配がした。それは、世界樹の立つ陸で。ともすると、この涸れた海でも。此処は浜。今自分たちが立っているのは、陸と海の間。狭間の場所。まるで昼と夜の間、太陽と月を連れる、その黄昏のようだった。
自分たちは、黄昏に立っている。
今、立っている。
生まれたときから、ずっと、黄昏と立っている。
ふと、そんな当たり前が胸をよぎって、イリスはヴィアの方を見た。ヴィアはいつも通り静かにそこに佇んで、考えの読めない瞳で真っ直ぐにこちらを見つめている。イリスは握っていた手綱を離して、両の手のひらでヴィアの顔を包み込み、そうして微笑んだ。
「ヴィア、どちらへ往く?」
そう問えば、ヴィアはその鼻先をイリスの方へ向けた。声のない瞳。けれども確かに心が宿るその瞳に、イリスはふっと口元を緩めると、浜の終点、海への入り口で呆然と佇んでいるアインベルの背中を見やった。その視線に応じるように、ヴィアもまたイリスが向いた方へとその躯を向けて、彼女の隣まで自身の歩を進めていた。
「連れてくのか? 馬は、海には不向きって聞くけど……」
並んで立つイリスとヴィアに、今までずっと口を噤んでいたリトが、どこか掠れた声で言葉を発した。イリスは彼の方を振り向くと、もう決めたと言うように小さく頷く。
「だいじょうぶ、ただの馬じゃない。ベラから借りたアニマのヴィアだもの。きっと、何処までだって奔って往けるわ。何より、私が一緒に来てほしいの。ヴィアは、私の〝道〟だから」
「……うん、そうだな」
「リト、静かね。なんだか、弦が切れてしまったみたい」
「ああ……」
言って、リトは微かに眉根を寄せると、ぼんやりと浜辺に立つアインベルへと視線を向けた。緑がかった穏やかな茶の瞳には、いつものような明るく、人懐っこい光は浮かんでいない。アインベルを見つめるその表情は、どこか悲しく、苦しげだった。此処から見る少年の背は、あまりに小さい。
「樹海に入ってから、上手く、言葉が出なくて、さ……なんか、見えないけど、ベル坊の顔が強張っていくのが、でも、見えて……」
「……リト」
「俺はさ、笑っててほしいんだよ、あいつに。ほんと、得意なんだぞ、俺。ベル坊を笑わせるの、ほんとに……でも、そのための言葉が、今は全然、何も、出てこない……」
イリスの方を見て、苦しそうに笑ったリトに、彼女はぐっと唇を引き結ぶ。それからきつく右の手のひらを握ると、その拳を開いて、ほとんど掴み掛かるようにして、イリスはリトの髪を掻き回した。
「みんな、同じ!」
「はっ?」
「アインベルだって、きっといつも、リトに笑ってほしいって思ってる。私だってそう。みんな、そうよ。みんながいつも笑っていてくれたらって思う。だけど、そんなのは無理でしょう。だから、無理して笑わなくていい。無理して、笑わせようとしなくていい。無理して笑うのは、苦しいわ。リトが苦しいと、アインベルも苦しい。アインベルが苦しいと、きっとリトも苦しいでしょう。私も、みんなも。ほら、私だってこんなに、言葉が出ない……!」
茶色い癖っ毛が更にぼさぼさになってしまった頭を押さえて、リトが目を白黒させながらイリスの顔を見た。
痛みを堪えるようにして歪められた彼女の目尻から、火の粉にも似た涙が零れ落ちるかのように錯覚して、リトは少しだけ右の手を動かす。けれども、そこから先へとその指先が向かうことはなかった。
「……笑えないなら、泣けばいい」
「じゃあ……泣けないなら?」
「歌えばいいわ」
「歌えば?」
「そう。泣けないなら、歌えばいい」
大真面目にそう言ってのけたイリスに、リトが半ば吹き出すようにして笑った。手首を口元に当てて笑いを堪える、彼の視界の隅に、立ち尽くすアインベルへ一体どう声をかければいいのかと、少年の近くを行ったり来たりしているハルの姿が映った。
リトの顔から笑みがするりと抜け落ちて、彼がハルへとよく向けている、見慣れた呆れ顔がそこに姿を現す。ハルを引き止めようと、リトの爪先が彼女の方へと向いたその瞬間、息もつかせぬ速さでイリスの手のひらがリトの腕を強く掴んだ。
「イリス?」
「——アインベルは、自分の心から、もう目を背けないわ」
「え?」
「あなたはどうするの、リト」
「何を……」
「あなたは私を選べるの?」
その言葉に、痛みを感じるほどにきつく握られた腕に、布越しでも炎を感じる手のひらに、それでもリトの言葉が凍った。今、イリスの血を巡るのは、呆れにも怒りにも似た火だった。リトがイリスから視線を外す。おそらくは、それがすべての答えだった。
「……あなたは、いつまで逃げ続けるの?」
「だって、俺は……」
「私を逃げ道にしないで。私は、そんなにぬるい女じゃない」
「なんで今、そんなこと言うんだよ……?」
「呆れ返ったのが今だから。だってあなた、ハンターでしょう。ハンターには、弓を射るさだめが有るのよ。弓を射るということはね、リト。獲物を定めるということでもある」
それだけ言うと、イリスは小さく溜め息を吐いて、リトの腕から呆気なくその手を離した。そうして無表情に目を細めた彼女は、しかしほんの少しだけ、息を洩らして笑ったようだった。
「私の弟の方が男前。——ほら、彼はもう決めた」
言って、イリスはその視線をアインベルの方へ向ける。
アインベルは海へと向けていた身体を、くるりと仲間たちの方へ振り向かせると、笑った。
「此処が僕の故郷だよ。此処が、僕のすべて、だった……!」
今にも泣き出しそうな、くしゃくしゃの顔で、そう彼は微笑んだ。
そうしてアインベルは、遙かな海へと自身の身体を向けて、振り返らずに言葉を発する。静かな黄昏に吹く、乾いた風に乗って、アインベルの声は震えながらも確かに届いた。
「——だいじょうぶ、進めるよ。僕は、憶えてる」
✴
太陽は沈んだ。
アインベルは、白い大地の上で、塩の上に刻んだ召喚陣——自身で改良した〝呼び声なき眼〟を見下ろす。鈴の杖、その石突で描いたその陣は、間違いなく今までで最高の出来だった。けれども彼の輝く目に、反面、自分の目が色褪せていくのを少年は感じる。
一度、その歩を進めてしまえば、思うよりも容易くこの足は動いた。
紫から青、青から黒へと染まりゆく空の下で、気を抜けば笑い出しそうな膝を、それよりも早く少年は動かし、かつて自分が家族と別たれた場所まで、その身体を連れて行った。そうしてなんとか身体に付いてきた心は今、眼下の召喚陣にすべて注いだ。
「そっか……」
——母の名を刻み、母の名を呼んで動かした召喚陣に、けれども母は喚ばれなかった。
それは、父も同じだった。
静かだった。いつの間にか、風は止んでいた。母も父も喚ばれないのに、それを目にした自分の心もまた、驚くほどに動かない。
召喚術を行う間、少しだけ距離を取ってほしいと願い出たアインベルを、遠くから見守る六人分の視線に、少年はそっと息を吐く。
ふと、天上の月を見上げた。淡い月光は自分を乗り越えて、何処か遠くを目指して走っている。何かを導くような月の光を、今は長杖となっているアインベルの杖が受け、その身に淡く光の輪郭を纏っていた。
アインベルは小さく息を吸い込むと、そこからほとんど呼吸をするのを忘れて、呼び声なき眼に自身の妹の名を刻み込んだ。少しだけ、風が吹く。
色が抜けたような水色の髪が、ふと自分の視界に映り込んだ。その自身の髪色に妹の面影を見出したアインベルは、今になって心臓が自分を叩き付けはじめるのを感じた。
立ち上がり、杖の石突で名を刻んでいた自分の身体に、しかし力が入らない。
アインベルは、途中まで妹の名を刻んだ召喚陣の前にへたりと座り込み、それでももう一度立ち上がろうと、杖を支えにするようにその手のひらに力を込めた。けれども汗で滑って上手く杖を掴めない。それを自覚すると共にアインベルの顔に汗が噴き出し、彼は熱い息を吐いた。
——あと一文字。
そう、あと一文字なのだ。
アインベルは、今自分の身体に力が入らない理由も、汗が噴き出しては目の前が揺らいでいる理由も、心臓が痛いほど鳴り、喉からは声のない息ばかりが洩れる理由も、あと一文字が、あとたった一文字が描けない理由も、すべて分かっていた。
怖い。
怖い、真実を知るのが。
ずっと心のどこかで縋ってきた、この希望を失うことになるかもしれないのが、動けないほどに怖かった。ほんとうの死が、本物の孤独が、こんなにも。
怖い。
だが、それでも。
「……会いたい……」
それでも。
「お兄ちゃんは、おまえを探しに、此処まで帰ってきたよ」
それでも。
「やっと、此処まで……」
アインベルは深く呼吸をして、左手で強く、折れてしまいそうなほど強く、鈴の杖を掴んだ。それから、両膝を突いている自身の身体を無理やり前のめりに動かすと、半ば這うような格好で、途中まで刻まれている妹の名前のところまで、その指先を連れて行った。痛みを感じなくなるほど、唇を噛み締める。泣いていない。これは血の味だった。
真白の海に爪を立て、アインベルはまるで塩を掘るように、その指で最後の一文字を描ききった。
少年はふらりと立ち上がり、塩まみれの手や腕、服を払うのも、また額を伝う汗を拭うのを忘れて、ほとんど無意識に、召喚陣に刻んだその名前を呼んだ。あの日から忘れたことなどない、その名を。この世にたった一人の、たいせつな妹の名を。ほんとうに、小さな声で。
ふと、その声に呼応するように、召喚陣の上に淡い光が浮かび上がった。
「え……」
見憶えのある光。
突如目の前に浮かんだ召喚光を視界に映し、その存在を自覚したアインベルの瞳が、みるみる内に見開かれていく。少年のどこか靄のかかった思考が目を覚ますと同時に、彼の心臓は先ほどのとは別の理由で強く鳴りはじめた。
思わず杖から手を離し、それが地面に倒れて鈴の音を響き渡らせても、今のアインベルの耳には最早届くはずもなかった。
淡い光に向かって、アインベルは震える両手を差し伸べる。渇いて張り付いた喉から溢れるのは、嗄れた声ばかりだった。
「ア、イ——」
そうして掴もうとした両手を何かがすり抜けるのと、地面にぽとりと虚ろな音を立てて何かが落ちたのは、ほとんど同時だった。
「あ……」
——靴。
靴だった。
小さな、片方だけの靴だった。
それを目にしたアインベルが、小さく泣き声のような笑い声を上げて崩れ落ちたのと、召喚光を目にした六人が彼の元へと駆け寄ったのも、またほとんど同時だった。
「——〝アイリス〟……」
そう呟きながら、アインベルは自身が喚び出した小さな靴——あの日、〝渦潮〟に遭った日、妹が履いていたその小さな靴を、握り締めるようにしてぎゅっと胸に押し当てた。あまりに小さい。抱き締めるには、あまりに小さな靴だった。
「アイリス……アイリス、アイリス、アイリス……!」
絞り出すような声でそう繰り返すアインベルに、彼の元へ駆け寄ったその誰もが、自身の呼吸を失った。
けれども倒れた鈴の杖と、アインベルがくずおれたことによって乱れた陣を目にしたハルは、他の者より早くその正気を取り戻すと、がり、と塩の大地を爪で掻いている少年に向かって、悲しいほど明るく声をかけた。
「ねえ、アインベル。だいじょうぶだって。これ、失敗だったのよ。もう一度やれば、きっと、絶対——」
「やめろ」
アインベルの背に向かって伸ばされたハルの指先を、しかしその手で制したのは、この場できっと誰よりも静かな表情をしているリトだった。
「——それが分からないほど、アインベルはがきじゃない」
「でも……!」
「やめろ。分かるだろ」
「分から、ないわよ、こんなの……!」
その顔を痛みに歪ませ、今にも涙が零れそうなハルの目を、リトの目が真っ直ぐ捉えた。月の光を受けて、鋭い光を宿したその目に、ハルは言葉を失う。リトは彼女の手を掴んでいる自分の手に、ぐっと無意識に力を込めた。
「泣くな」
そう言ったリトの歯が、ぎり、と鳴る。
「ベル坊が泣いてないのに、俺たちが泣けるわけないだろ」
言われて視線をアインベルへとやったハルの目に、少年が顔を上げ、立ち尽くすイリスの方へ向かって、笑い顔とも泣き顔とも取れない表情で、涸れた喉から言葉を絞り出しているのが映った。
「……僕の名前はアインベル・ゼィン。名の意味は、瞳と鐘。妹の名前はアイリス。アイリス・ゼィン。意味は、虹彩。光を受け取り、色を放つ目。これで、もう……分かっただろ、ねえさん……」
「アインベル……」
「……僕……僕は、ねえさんにアイリスを重ねて、だからねえさんに近付いて、そうやってねえさんを使って、ずっと、ずっと……ずっと、自分の寂しさを埋めようとしてただけなんだ……!」
アインベルは、震える両手で握り締めているアイリスの靴を、きつく額へと押し当てた。
「レンさんにだって、そうだ。レンさんの髪が、母さんや父さんや、里のみんなとそっくりだったから、僕は……! 僕は、そうやって、いつも……いつも、いつも、僕は……!」
苦しげなその言葉に、レースラインは何も言わなかった。その横でイリスはアインベルの隣まで歩いていくと、彼のそばに両膝を突いて、涙も出ない弟の上半身をそっと支えて起こさせる。
そのとき、陣の上にアインベルが立てた爪痕がイリスの目に映った。こんなにも痛い傷が在るだろうか。まるで、心臓に爪を立てられたようだ。血の代わりに、喉の奥で涙の味がした。
「ばかね、アインベル……」
そう微笑めば、アインベルの擦り切れてしまったような表情の中に在る、その褪せた緑色と目が合った。ふわりと、虹の首巻が、星月の光に揺らめきながら舞う。イリスは、ぎゅっとアインベルを優しく抱き締めた。
「誰だってそうよ」
「え……?」
「きっと、誰だってそう……」
「……ね、えさん、僕は……」
「だいじょうぶ」
ふふ、と小さく笑って、イリスはアインベルを更に強く抱き締めた。アインベルはその張り付いた喉に、はくり、と何かを飲み込むと、唇を噛み締めて、震えて止まらない両腕を彼女の背へと回した。
少年の緑色をした瞳が、水面のように揺らぎ、夜の光を受けて煌めく。アインベルはその両手でイリスの背をぎゅっと掴むと、額を彼女の肩へと押し当てた。
「……おばか、さんね……」
「……あ……あ、ああ……あああ……!」
血と一緒に絞り出すような、その小さな慟哭に、イリスは少しだけ空を見上げながら、弟の背を優しく撫でた。
そうして小刻みに両肩を震わせていたアインベルは、ふと、痛みを堪えるようにして天を仰ぐと、姉の背から両腕を離して、地面の塩をきつく握った。
「僕は……!」
そうして彼は無理やりに立ち上がると、驚いてこちらを見上げているイリスの横を、怒りに身を任せるようにして通り過ぎた。歯を立てた唇から血が滴り落ちて、白の海に赤い点をつくる。
彼は、日が昇る方へ向かって握り締めた塩を投げ、憎しみを隠すことなく吼えた。
「僕は! 僕は、僕は……! 僕は、おまえなんか、大っ嫌いだ……! 僕は、母さんや父さんやアイリスに、さよならも、ありがとうだって言ってないんだぞ……! 僕は……!」
そう叫んでは力なくへたり込んだアインベルの目に、けれども月の導きに照らされて、一粒の光がきらりと輝いて見えた。
「……これ……?」
少年の心が嘆きに暮れるより早く、その身を起こした術師のアインベルが、投げた塩に紛れて目の前に落ちた一粒の硝子玉を拾い上げる。アインベルの様子が明らかに変わったのを見て取ったイリスが、手綱も引かずにヴィアを連れて、彼の横に片膝を突いた。
アインベルは、拾い上げた硝子玉を夜空の光に透かす。その瞬間、アインベルと、それを覗き込んでいたイリスの呼吸がひゅっと鳴った。
「シーグラス……」
「アインベル、これは……」
「術式だ……このシーグラス、術式が彫られてる……!」
言って、アインベルはその両手ですぐ近くの塩を掘り、幾つかのシーグラスを探し当てた。それからそれを再び光にかざすと、どのシーグラスにも、一つひとつ違う魔術紋や陣、或いは召喚陣が彫られているのが目に映った。
アインベルの全身に、身の毛もよだつような悪寒が走った。目の前で紫電が弾ける。
——幼い頃、自分がただの硝子玉だと思っていたこれは、一体なんだ?
紛れもない。今まで術師として生きていた自分のすべてが告げている。これが、これこそが、渦潮の、前時代の〝兵器〟を動かすための術式——いや、兵器の正体だった。
アインベルの瞼の裏に、塩に紛れて、東の海をびっしりと埋め尽くすシーグラスが浮かんだ。無数の塩に隠された、無数の兵器。無数の。無数の。無数の。無数の。
彼は喉元までせり上がってきたものを抑えるために、口元に手を当て、真っ青な顔をしてうずくまった。
自分の元へと駆け寄ってきたポロロッカたちに向かって、アインベルは手を伸ばす。そうして誰の腕を掴んだのかも分からずに、彼は喘ぐように訴えた。
「だめだ……此処は、だめだ……!」
涙によるものなのか、熱によるものなのか、血眼になって訴える少年のその表情に、ポロロッカたちは、少年が見ているものが何かも分からずに、しかし得体の知れない恐怖に駆られた。
「——立て、アインベル」
しかしそんな中、恐怖すら裂くような、まるで揺るがない声が夜の海に響き渡り、そこにいる者たちの鼓膜を震わせた。
「おい、レン、何もこんなときにそんなこと……」
「立て」
クイの制止も無視して、果ての見えない東をただじっと見据えていたレースラインは、アインベルの方に振り向いてそう告げた。その有無を言わさない静かな響きに、アインベルは顔を上げ、レースラインの方を向く。
目が合うと、彼女は自身が拾い上げ、手にしていたアインベルの長い鈴の杖を、少年に手に押し付けた。
「きみは、戦わずに済むならそれがいちばんだと、そう言ったな」
「レンさん……」
「その通りだ」
レースラインは頷くと、しかし言葉に反して帯びた軍刀を抜き、その切っ先を日の昇る方角へと突き付けた。
「だが——人には、戦わねばならないときが、それでも確かに在る。私は、それが今だ」
東の方角を睨むようにして見やるレースラインの横顔を目に映して、アインベルは手渡された鈴の杖をぎゅっと握り締めた。そんな少年の耳に、彼にとって特別血が震える音が聞こえてきて、アインベルははっとしたように、レースラインが見据えている方向へと自身も視線を向けた。
「逃げるか、戦うかは、きみに任せる。きみが決めろ、アインベル。きみが、選べ」
ごう、と叩き付けるような強風が吹いた。レースラインの髪が黒い夜に浮かび上がる。
彼女は赤いマントを翻し、刃を持った銀の右腕を閃かせて、襲い来る塩の風を斬り裂いた。アインベルの喉が、過剰な呼吸に鳴っている。レースラインは吼えた。
「立て! すべてはそこからだ!——まだ終わりじゃない!」
喉元に迫る刃のようなその声に、アインベルは荒い呼吸を連れたまま、塩を掻き、両手で杖に縋るようにして、震える膝でそれでもなんとか立ち上がった。
遠くから、水が唸るような音がする。その吠え声が地面を伝って、海の白が震えた。しかしアインベルは、振り返らずに逃げろと云う、白き民の旧い教えに逆らって、真正面から逆巻きはじめた風を見据えた。
そんな少年の様子を横目で見やったレースラインは、ふっと小さく微笑み、迫る塩の嵐をその刃で斬り拓いた。
「私はもう、過去の残骸によって、たいせつなものを失う者を生み出させはしない。二度と」
強い向かい風から、こちらを何処かへ引きずり込むような力の有るものに変化した風は、周囲の塩を巻き上げて、確かに鉤爪のような姿をとってアインベルの前に迫った。しかしレースラインはその白く巨大な風を手首のところから斬り捨てると、その刃を閃かせ、遠くに立ち上った渦潮へと向けた。
「この刃は、私の覚悟だ」
レースラインは横目でアインベルを見、その答えを知っているかのように笑った。
「アインベル、きみはどうする? きみの仲間は、きっときみに付いてくるぞ」
アインベルは、大きく息を吸うと、両手に掴んだ杖の石突を強く、この白い大地に叩き付けた。
高く、広く、大きく、鈴の音が海に響き渡る。彼は強い風に吹き付けられながらも、その目を開いて、真っ直ぐに渦潮を見据えた。
「——往こう。もう何も、失くさないために」
レースラインは頷いて、一歩斬り進み、顔だけ振り返って口角を上げた。
「私は贔屓をするたちだからね。今、私はきみの剣となろう」
「なら、僕はあんたの杖だ」
そう言葉を交わせば、背後で抗議の声が上がった。
「おいおい、俺たちハンターを忘れるなよ。必要なら、俺たちは真実をおのが目で見抜き、この馬鹿みたいな暴風をすり抜けながら、それより熱く滾る、海嘯のような音楽だって奏でてみせましょうとも。いいか、そんなのは楽勝、楽勝だ!」
リュートを背に担ぎ、剣を片手に振り回して、風によって生まれた塩の塊を大雑把に砕きながら、リトは笑った。それは、彼の奏でる奔放なリュートの旋律にも似ていたかもしれない。
素早く、と言うよりは忙しなく双剣で風を裂くハルのそれは、目の前の渦潮にも負けない、竜巻のようなハーモニカ。短槍を自由自在に操るジンは、彼が鳴らすジャンベのように、一定の、しかし段々と速くなっていくあの調子で塩を砕く。
彼らの取りこぼしを拾うように、クイはいちばん後ろで、手にした拳銃から火を噴かせている。彼のバグパイプは、時折このようにして熱くなるものだ。
ふと、アインベルの肩にイリスの手が置かれ、隣にヴィアを引き連れた彼女は、彼に向かってそっと微笑んだ。アインベルは唸る風に抗うように杖を高く掲げると、それを強く地面に叩き付け、鈴の音を大きく響き渡らせた。
「——もちろん、誰のことも忘れてないよ。お願いだ。一緒に来てくれ、みんな」
イリスはふっと微笑むようにして頷き、ポロロッカたちはいつかのように大声で、応と答えを返した。レースラインはアインベルの前に立つと、塩の鉤爪が襲い来る海の中、彼の往くための道を斬り拓き、そうして振り返って笑った。
「きみの言葉を聴かせてやれ」
それから拓けた視界には、真っ白な竜が立ち上っていた。
「探せ。——見付けろ、失せ物探し!」
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