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ひなたの天球

 目次

 遠くで大きな炎が燃えている。そう錯覚してもおかしくはないくらい、今日の夕陽は赤々と輝いている。
 丹はぼんやりと、街が見渡せるこの丘の上で、燃える夕陽を眺めていた。肌に生温い風が纏わり付く。彼は肩に下げたショルダーバッグから小さな球体を取り出して、夕陽に翳した。透明な半円形の中で煌々と炎が舞う、スノードームに似たそれはまさしく彼がつくったものだったが、さすがに夕陽の炎には敵わないらしい。彼は苦い笑みを零した。
 自然の炎を、光を、自分の作品に宿らせられたらどんなに良いだろう。丹は幾度となくそう思ってきたが、それは恐らく、自分が成そうとするには出過ぎたことなのだろうとも思った。
 自分に与えられたのは、小さな火の形を変える力だ。自然の炎を、太陽の炎を掴みたいだなんて、とんでもない。それでも彼の心に小さなランタン職人が住んでいる限り、自分の身の丈で仕事をしろと思えば思うほど、太陽の炎を、あの赤色に彼は手を伸ばしたくなる。あの夕陽に限りなく近い赤の炎を。自らの手の内にあるこの半円形、その中で燃える篝火にも満たないこの炎は夕陽には程遠かった。
「おにいちゃん、夕陽を見ているの?」
 不意に投げ掛けられた柔い声に、丹は肩を震わせた。驚きで速くなる鼓動を隠すこともできずに、彼は声のした方を振り返る。振り返った視線の先には、まだ幼い少女が立っていた。彼女の鳥の子色の髪が、斜陽に照らされて金糸のように輝いている。丹は、ひとつ咳払いをしてから口を開いた。
「――そうだよ。今日の夕陽は、すごいよなあ……お嬢ちゃんもそう思わないかい」
「そう? ちょっと、眩しすぎるよ」
 そう鬱陶しそうに目を細めた少女に、丹は小さな驚きを感じたが、もう一度夕陽を眺めてみると、確かに瞳に一瞬閃光が走るような痛みを感じて、心の中で少女に頷いた。
「……お嬢ちゃん、迷子か?」
「レディにむかって迷子はないでしょ、おにいちゃん。迷子じゃないのよ、あのねえ、迷子なのはおかあさん。わたしがね、おかあさんを待ってるの」
 少女は得意げにそう言うと、丘のベンチに腰を掛けた。少女の白い靴が地面につかずに空中で揺れている。丹は何となく、夕陽が眩しすぎると言ったこの少女の隣に腰を掛けた。
「お嬢ちゃん、名前は」
「あのね、わたし、ミモザって名前になりたかったの。だからおにいちゃん、わたしのことね、ミモザ姫って呼んでいいよ」
 嬉しそうにそう話す少女に、丹は堪え切れずに、ふっ、と笑みを漏らした。もし、自分に妹がいたらこんな気分なのだろうか。丹は少女の頭をくしゃりと撫でてから、彼女に向かってお辞儀をした。
「では、ミモザ姫。ミモザ姫の母君はどのような方なのですか?」
 それを聞くと、ミモザと呼んで、そう言った少女は腹を抱えて笑った。彼女の金糸が呼応するように揺れている。丹も慣れないことをする自分が何だか可笑しくなって、少し熱くなった頬を隠すように空を仰いで笑った。
「わたくしのおかあさまは、とってもきれいなのよ。あの夕陽よりね、きれいなのよ。――わたしの目はおとうさんに似てるから、茶色いけど、おかあさんの目はね、空みたいに青くて、きれい。髪の毛はわたしと同じ色をしてる。だから、この髪の毛はわたしのじまんなの」
 きらきらと瞳を輝かせて母のことを語る少女の姿は、夕陽よりも輝いて見えた。そんな風に思う自分に丹は少しばかり驚いたが、反面、心にひとつ明かりが灯ったような気持ちにもなった。
 ――こういう顔だ、と思った。おれは、自分のランタンを手にした人をこういう顔にさせたいのだ、と。きらきらと瞳を輝かせて、喜んでほしいのだ。ランタンの火が、いや、煌々と燃える夕陽すら霞んで見える、この表情を人々に浮かべてほしいのだ。
「わたしはおかあさんがだいすき。おにいちゃんは何か、だいすきなものってある?」
 ミモザに問われて、ふと思考が現実に引き戻される心地がした。すぐ思考が宙に浮くのは丹の悪い癖だった。
「――好きなもの……火? いや、ランタンを、つくること? ああ、いや、えっと――多分、人の笑顔を見ること、が好き、なんだと思う、俺」
 普段は絶対に口には出さないであろうことが口をついて出たのは、相手が小さな少女だったからだろうか。言ってしまってから、何故だかひどく恥ずかしくなった。心臓の奥から喉にかけて、何か熱い、溶岩のようなものが込み上げてくるような気分だった。
「おにいちゃん、ランタンをつくる人? 手に持ってるそれも、そう?」
 ミモザが丹の持っている半円形の球体を指差した。
「ああ――うん、そうだよ。これはさっき完成した、ランプドームっていって……ミモザ、スノードームって知ってるかい」
「知ってるよ。おにいちゃんのそれもスノードームみたいな形だね」
「スノードームは雪が降るだろ? でも、これはな――ほら、振ってみろよ」
 丹からランプドームと名付けられたそれを受け取ると、ミモザは両手でそれを控えめに振ってみせた。ミモザがランプドームを覗き込んでみると、上下に舞わされた火の粉がランプドームの中心に立っている木に向かって集まり始めた。火の粉にしては丸みを帯びた形をしているそれらは、よく見ると蛍の放つあの柔らかな光に似ている。木の周りをふわふわと漂う蛍火たちに、ミモザは瞳を輝かせて笑った。
「すごい! おにいちゃん、天才?」
 真っ直ぐなその感想に、丹は気恥ずかしくなって痒くもない頬を掻いたが、同時に心の中でまたひとつ、またひとつと明かりが灯っていくような気持ちを覚えた。
「それも綺麗なもんだろ? 夕陽の前では敵わないけどな」
 彼がそう言うと、少女は心底不思議そうな表情を浮かべて呟いた。
「夕陽? なんで? わたしは夕陽よりこっちの方がすきだよ。おかあさんとおとうさんと、ぬいぐるみのオリーブと、ホットケーキとチョコレート、あと色々と、おにいちゃんの次に、この宝物がだいすきよ」
 ミモザのその言葉に、自身の右手が震えていることを丹は感じた。苦しくなる喉と、ツンとする鼻腔を何とか隠し、裏返りそうになる声を必死で抑え付けながら彼は言葉を紡いだ。
「――それ、やるよ」
「え? いいの? どうして?」
 ランプドームを眺めていたミモザは、丹の言葉に彼の方を仰ぎ見た。丹は紫に変わっていく空を眺めながら、いよいよミモザのお母さんを探しに行かないとまずい頃だな、そんな風に思っていたが、前方から金糸の髪を揺らして歩いてくる女性を視界に捉えると、立ち上がってミモザの方へ向き直って異国の騎士がするようなお辞儀をしてみせた。
「ミモザ姫がいい子だからですよ」
「……それ、レディへのくどき文句としてはぜんぜんだめよ、おにいちゃん」
 そう言われると丹は苦い笑みを零しながら肩をすくめた。
「やれやれ、厳しいな」
「――ありがとう、おにいちゃん。これ、宝物だよ」
 丹はミモザの頭を乱暴に撫でて、女性が歩いてくる方向とは逆の、丘のふもとへと続く階段を降りていった。彼の背に、幼い少女の柔い声が飛んでくる。
「おにいちゃんも、いい子だよ!」
 その言葉に丹は、格好をつけて片手を挙げてみせたが、彼の表情は春の陽射しよりも柔らかく、今にも嬉しさで溶けてしまいそうだった。彼は今にも走り出したい気持ちを何とか堪えて、右手で小さく拳を振った。
 気が付くと夕陽は溶けて、空は青と紫を湛えている。丹は少し冷たくなった風を肺に吸い込んだが、不思議と、それを寒いとは思わなかった。些細なことで落ち込んだり、こんな風に浮かれたりする自分はきっと、傍から見ればひどく馬鹿な子どもに見えるだろう。でも、今日はそれでも良いと思った。だって、心臓に灯ったこの火がこんなに暖かく燃えているのだから。


20151228 
シリーズ:『手のひらのかがり火

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