クロック
少しだけ欠けたステンドグラスから、様々な色に彩られた光が落ちてくる。
それを閉じた瞼の向こう側で感じながらそっと薄目を開ければ、床に薄く広がっている光が視界に移った。大理石の床上に落ちている光たちは、ステンドグラスがもつ七つの色を纏いながらも、しかし自身は未だ夜の白んだ青い色をしているようである。入り込んできているのは、月明かりか星の淡い光なのだろう。肌寒さから指先を擦り合わせた。夜明け前。まだ白くはならない息を吐く。
石造りの硬い長椅子から起き上がり、しんと静まり返っている神殿跡の空気を感じる。まだどこかぼやけたままの視界が、目の前に落ちている淡い光ばかりを拾い、耳はと言えば未だ何か遠い場所へと行っていた。
睡魔と覚醒の狭間を漂いながら、しかし重い腰を浮かせて立ち上がる。どちらかと言えば天秤は睡眠欲の方へと傾いていたが、もう一度眠りに落ちるにはこの場所の椅子は少々硬く、そして、体温を吸わないそれはひやりと冷たかった。
しばらく長椅子の上に横たわったまま、ややあってひどく緩慢な動きで立ち上がったところで、一歩を踏み出そうと足を動かす。けれどもそこでぐらりと視界が歪み、身体が勝手にふらついた。その拍子に前に並んでいた長椅子の背に思いきり膝をぶつけて、鈍いのか鋭いのかも最早よく分からない痛みを抱えながら床の上にうずくまる。なんて日だ。一日のはじまりに浮かべるものにしては、あまりにしかめ過ぎた表情をおそらく自分は顔に浮かべながら、合わせた両手を額に当てて息を吐く。
それから数呼吸後、滲んだ視界でなんとか荷袋を引き寄せられるまでに身体が回復すると、袋から革水筒を取り出して、まだ少し震える手でその口を捻った。たぶん眩暈がしたのは、ろくに水も飲まずに眠り、またろくに水も飲まずに動こうとしたからだろう。少し涼しくなったからといって、自分はもう油断をしはじめたらしい。
頬を叩く。ぱち、とぬるい音が立つ。
しっかりしなければ。叱ってくれる人はもう、自分のそばにはいないのだから。
中身がすっかり空になってしまわない程度に水を飲み下す。寒さと痛みに水を飲んだことも相まって、先ほどまで天秤の上で鉛のような重さで存在を示していた睡魔が、いつの間にか空気に溶けては秤の上から姿を消してしまった。
そうしてじんじんとした膝の痛みが段々と引いていくのにつれて、この神殿内の静まり返った寒さを思い出す。少しだけ両手を擦り合わせて、そこへ小さく息を吐いた。大理石の床にうずくまり、奇しくもどこか祈りのような体勢で顔を上げれば、欠けたステンドグラスの前に女神を象った石膏像が祀られているのが目に映る。
それを自覚して、ふと思う。
自分は、神さまを信じているのだろうか?
❇
昼下がり。何処までも続いていくような青い空に、真綿のように白い雲が浮かび、こんにちの気候はどちらかと言うと多少暑いくらいだった。
緑の大陸の中心地である街に至る道は未だ半ばほどだったが、しかし、伸びる道の向こうの方に幾つもの建物が密集し、高い塔や城らしき建築物の姿も見えるので、おそらく今日の夕方か、遅くても夜が更けるころまでには中央都市の内側に入ることができるように思える。
旅人が多いと言われる緑の大陸はその性質上、国の至るところに旅人が寝泊まりするための小屋があり、それを踏まえた上で旅を進めれば、野宿になることはそう何度もない——と、以前道を尋ねた旅人が言っていたが、しかしてそれはどうも自分には当てはまらないらしかった。おそらく、計画性がほとんどないに等しいからだろう。
行き交いの旅人の話とは違い、野宿とそれ以外なら若干野宿の方が多いというような自分の旅である。昨日は神殿跡に置かれていた石の長椅子に寝そべって眠ったために、身体のそこここが痛かった。今日、中央の街にあるだろう宿屋に泊まることができれば嬉しい限りだ。寝台の上で、柔らかい毛布に包まれて眠りたい。これは、旅人としては贅沢な願いごとだろうか。
遠く前方に見える街並みを見つめる。中央にはどんな店があって、どんなお土産や食べ物が売っているのだろう。どんな家が建ち並び、どんな人々が住んでいるのだろう。何か中央特有の建物や料理、流行りの服装などがあるのだろうか。
そんな想像に胸を膨らませながら陽に輝く石畳を進んでいけば、ふと、ぽつんと一軒、視界の端の方に家が建っているのが映って、自身の歩を少しだけ緩める。その家が、なんとなく気になったからだった。そうしてじっと家を見つめている内に自身の歩みは更に緩み、いつの間にかすっかり止まってしまった。
一軒家は、街道に沿う低木を越えた更に向こうに建っている。家の周りを木柵に広く囲われ、その内側の庭では様々な植物が自由に息づいていた。ただ、それは手入れがされていないというわけではなく、自然に生え広がっているように見えても乱雑には見えないよう、むしろきちんと整えられているようだった。家の大きさは旅人用の小屋と大差ないほどの小ささで、木柵と繋がり、開かれたままの門もまた木製で小ぶりの素朴なものだった。
おそらくだが、あの一軒家こそ先日ビリーブが留守かもしれない、と零していたものなのだろう。視線を街道の方へと戻し、再び歩を進めようとしたところで、何か白いものがはらりとその家の前で舞い、地面に落ちるのが目に入った。
なんだろう? つま先を石畳の道から一軒家の方へと向けて、沿う低木の間を縫う。家の方へと少し近付いてみれば、目に留まるのは錆びた銀色の郵便受け。そのすぐ下に落ちてしまっているのが、先ほど視界に映った白いものの正体だろう。一通の手紙。さら、と少しだけ風が吹いた。手紙が風に攫われてしまってはかなわないと、小走りに門の前まで近付いてその手紙を拾い上げる。
「……花」
ふと、そう口を突いて洩れたのは、その手紙の封蝋が美しい花の形を刻んでいたからだった。不思議な花の刻印。見たことのない種類のようだ。花びらは全部で十枚、その内側に存在する副花冠は丸く円を描き、めしべらしき部分は三本に分裂している。めしべの周りに見えるのは、おしべと葯だろうか。おそらく五本あるそれは、副冠と似たように円の形に並んでいた。
引いて見ると、まるで時計のようだ。花びらは装飾、副花冠は円板、おしべと葯は文字盤、めしべは長針、短針、そして短針。面白いな。なんて言う名前の花なのだろう。
そこまで考えて、自分の口がなんとなく弧を描いていることに気付いてはたとする。いつまでも人の手紙を眺めているのはなんというか、少しばかり、〝どうかしている〟ような気がした。封蝋から意識を背けるために手紙をひっくり返し、そそくさと郵便受けの前まで歩みを進めた。
けれども、そこでおやと首を捻る。
郵便受けの中に、上手く手紙が差し込めないのだ。投函口の向こうに手紙が入っていかない。差し入れようとすると押し戻されるような感触が手に伝わってくる上、あまり無理やりに入れようとすれば、きっとこの手紙は折れ曲がってしまうだろう。ほんの少しの間だけ郵便受けの前で悩んで、それから仕方なしにちらりと投函口の方を覗き込む。そうして目に映った光景に思わずぎょっとした。
だって、真っ白だったのだ。銀色の郵便受けの中は、白い封筒の手紙でびっちりと埋まっていた。息もできないほど、隙間なく。
投函口の方から顔を上げて、古びた一軒家の飾り気のない扉の方を見やる。それから手元の白い封筒をもう一度裏返し、時計のような花が刻まれた封蝋を視界に映す。
手紙は——手紙は、たいせつなものだ。きっと手紙は、誰かの心の生き写しにも等しい。だから、自分は未だに一通も書くことができていないのだ。そうだ。文字にもならない、インクの水溜まりを作ることだけがいやに上手くなっていくばかりで。自分の気持ちを誰かのために綴るには、たぶん、大変な勇気が必要だ。けれど、それでも綴ったのだろう、この手紙の主は。この家に住む誰かへと向けて。ああ、すごいなあ。すごいよ。息を吐く。つま先を家の玄関へと向けた。
「……えっと」
思えば、誰かの家を訪ねるのは、これが初めてな気がする。今までは精々旅人用の小屋に立ち入るとき、他に使っている人がいないかどうかを確かめるために扉を叩くことがあった程度だ。少しだけ緊張しながら、きょろりと辺りを見回す。扉にはノッカーも、また呼び鈴も付いていないようだった。息を吸う。意を決して、扉を手の甲で三回叩いた。
「すみま——」
「やっと起きたのですか!」
わずかな希望をもって誰かいないかと声をかけようとしたところ、自分の言葉を覆うようにしてがちゃりと勢いよく扉が開かれた。その音と木の扉の鋭い動きに驚いて一歩下がれば、目の前には顔に満面の笑みを浮かべた少年が立っている。正直なところ、九割方留守と踏んで扉を叩いたものだから、心臓が口から飛び出てしまいそうだった。思わず、手紙を持たない方の手でどくどく鳴る心の臓辺りを抑えれば、ふと目の前の少年と目が合った。
「すみません」
そうして少年はこちらの顔を見ると、そのように呟いてぺこりと頭を下げた。
「——ご主人かと思って」
顔を上げた少年は、先ほど浮かべていたものとは全く別の色をしている笑みを目元と口元だけに湛える。それはまるで、床にすとんと落ちてしまった今しがたの笑みを、なんとか拾い上げて形づくったような笑顔だった。
「その、こちらこそ急にすみませんでした。ただ、手紙を——と思って」
「手紙……ですか。あなたもご主人に手紙を?」
「ああ、いえ、僕がというわけでは——」
「ではどなたかから頼まれたのですね。けれど、ご主人はお休み中なので、手紙を読むことはできません」
自分の差し出した手紙を目にした少年は、少しだけその目に暗さを宿してどこかぶっきらぼうにそう発した。彼は今度こそ、指の間から零れ落ちた笑顔を拾うことをしなかったのだ。それから少年は一度手紙の方を見やったが、封蝋に刻まれている花の姿を目に映すと、無表情に顔を背ける。そんな少年の何かそっけない態度もそうだが、それよりも先に違和感を覚えたのは、彼の口から発せられたその声だった。
少年の声質は柔らかく耳に優しいが、しかしどことなく無機質にも聞こえる。感情は控えめに、まるで一人で常に和声を響かせているような様子だった。古びた天鵞絨の生地が擦れるような色と、長らく油の差されていない歯車が少し疲れながら回り続けるような色が、彼の声からは聞こえる気がするのだ。明らかに肉声とは異なって聞こえるのにもかかわらず、少年の発するものは何故だろう、ひどく人間らしいものとしてこちらの耳の中に木霊した。
「……僕はマイロウド、と言います。あの……ご主人、と言うのは?」
少年の前に手紙を差し出すのを一旦取りやめて、そう問う。それを聞いた少年は、ゆっくりと瞬きを一度してから小首を傾げた。
「ご主人は……ご主人ですが。この家の主で、時計職人。そして、ボクを造った発明家です」
「つ——造った?」
「その手紙を書いた方に、何もお聞きしていない? 見れば分かると思いますが、ボクは人じゃあないですよ。ご主人が設計し発明した、正真正銘の機械じかけ。カラクリ時計です」
手袋をはめているその指先で、彼は自分の持っている手紙をゆるりと指し示した。少年の言葉に、むしろこちらの頭の歯車が混乱で軋む音がする。機械じかけ。カラクリ時計? 造りものだなんて、そんなまさか。彼はまるで、人のように見えるというのに。だって、先ほどまであんなに真っ直ぐな笑顔を浮かべていたのだ。つくり笑いだって、彼は描けた。けれども、この一風変わった声質。心の中に何かが落ちていくのを感じながら、手紙の差出人名を示している彼の指先を見やった。
少年は、腕時計付きの勿忘草色をした手袋を身につけている。そして手袋と同じ色をした貫頭衣を彼は纏い、後頭部もまた、勿忘草色の舟型帽で覆われていた。その帽子の正面には小さな時計盤が埋め込まれ、音も小さく時を刻んでいたが、しかしそれよりもより目を惹くのは、帽子のてっぺんでゆっくりと回り続けているねじ巻きだった。更に、貫頭衣の裾から覗いた少年の腕。それは自分のものとはまるで異なり、球体状に形が成っていた。その肌の色は少し白いが、人体で特に熱が集まる部分——指先や耳元、そして頬などにはあらかじめ朱が差してあるのか、彼が見せる態度に比べて健康的に見える。瞳は霞色をしているが、そこに生物特有の水気はなく、さながら硝子玉のようだった。その目が暗い光を宿しているのは、光の照り返しが鈍いせいなのだろうか、それとも。
「皆さんはよく縮めてカラクリと呼びますけど、違いますよ。ボクにだってちゃんと、ご主人から付けてもらった名前があるんですから。——〝はじめまして。ボクは、カラクリ時計のクロックです〟」
ほらね、と、こちらの目を見上げるようにしてそう発した彼は、少しだけ得意げに口元を緩める。その拍子に短く切り揃えられた淡香色の前髪が揺れ、それと同時に、彼が身につけている砂時計の形をした耳飾りも砂を落としながら柔く揺れた。
「とにかく……マイロウドさま、そのお手紙は受け取れません。ご主人のプライバシーに反します」
「プラ……? ええと、受け取るだけもだめなんですか?」
「だめです。ボクの仕事はご主人の身の回りのお世話をすること。ご主人だけの、です。ご主人と他の誰かの仲を取り持つことはしません。ご主人から頼まれない限りは」
「でも、あの……郵便受けの中、もういっぱいいっぱいですよ。お休み中と言ってましたけど、ご主人さん、何処かへ長い間ご旅行にでも行かれているんですか?」
そう問えば、クロックと名乗った少年は少しだけ口を開いた後、浮かんだ何かを呑み込むようにしてまたその口を閉ざした。それからクロックは自分から視線を逸らすと、家の奥へ目を向けるようにして振り返る。そのわずかな沈黙に、かち、かち、かち、と時計が規則正しく時を刻む音が聞こえてきた。
「眠っておられるのですよ」
「眠って……?」
「はい。生き物は、眠るものでしょう?」
言いながら、クロックは玄関の外へと出て、開けたときとは違って今度は静かにその木の扉を閉める。ぎい、と古びた扉が軋むような音がして、それがどうしてか、クロックのもつ声のそれと重なって聞こえた。自分の横を通り抜け、茶色い革の長靴で植物がそれぞれ満足げに息づいている庭の方へと向かっていく少年は、その途中でちらりとこちらの方を振り返った。
「お手紙は受け取れません。その花の封蝋は、すべてご主人宛のものなので」
くるりと、彼の頭のねじ巻きが回る。その言葉に思い至って、再び歩き出そうとした彼の背を思わず呼び止めた。
「この花——なんて名前なんですか?」
「知りません。誰も彼も、ご主人に手紙を出すときにその封蝋を使いますけど」
「あれ……ご主人が好きな花ではないんです?」
「違う。ご主人が好きな花は、センニチコウだ」
「センニチコウ……」
聞いたことのない花の名に、ついおうむ返しをする。クロックはそんな自分の顔を見ると、きっとそれは彼特有のものなのだろう、ゆっくりとした瞬きをし、そうして指先を近くの植え込みへと向けた。そこには様々な花が咲き誇っているようだったが、一体どれがセンニチコウなのだろう。クロックの指を追うようにして彼の近くまで小走りした。
「これがセンニチコウです。夏から秋の間、長く花を咲かせ続ける。ご主人が好きなのはこの花。そんな封蝋の花なんかじゃあない」
こちらに分かり易いように少し屈んで、花に指先で触れながらクロックはそう言った。表情は動かさず、声色もまた柔らかく重なるようなそれのままで、けれども彼の目はどこか辟易したような影を滲ませているように見える。そんなクロックの示した植え込みの中で、彼の指が撫でる親指ほどの花がくすぐったそうに少しだけ揺れていた。草丈に対して小さなその花は、なんとなく木苺も連想させる姿をしている。しかし色の種類は木苺に比べて幅が広いようで、そこここに紅、赤、桃、紫、白といった花が咲き乱れていた。
「この庭の手入れは、クロックがしているんですか?」
「そうです。ご主人に頼まれていますから。水やりの時間管理は完ぺきですよ、ボクは時計なので」
「ああ——だから、この庭はすごく綺麗なんですね」
誇らしげにそう言う少年に同意して頷く。確かにこの庭は一見植物がそれぞれが自由奔放に根を生やしているように見えるが、じつのところ手入れが行き届いていて美しい姿をしている。なんでも大雑把に植物を配置しているわけでは決してないのだ。庭師ではないから細かいところまでは分からないが、おそらく何か規則性もあるのだろう。植え込まれている花の色や兼ね合いも、何処を向いても飽きのこないようなかたちを取っているようである。思わず笑みの零れるような、素敵な庭だった。
「あ、そうだ……クロックは、なんの花が好きなんです?」
「はい?」
センニチコウの前でクロックと同じように身を屈めて、植物で満たされた庭にくるりと視線を巡らせてからそう訊くと、少年は少しだけ眉根を寄せるようにしてこちらを見た。彼の帽子の長針が、かち、と一歩先へと動く。
「……だから、ボクは時計ですよ。機械に好きも嫌いもあるわけないじゃあないですか」
「え?……でも、クロック、この花が好きじゃあないでしょう?」
言いながら、未だ片手に持ち続けている手紙を少年へと示す。クロックは、今日何度目か差し出された封蝋の花を見やり、それを見つめたまま口を閉ざした。押し黙ってしまうと、草花が緩い風に揺れる音に混じって、クロックから小さく秒針が時を刻む音、そして頭上のねじ巻きがゼンマイを回す、ぎ、という音が微かに聞こえてくる。彼は触れていたセンニチコウから、そっとその指を離した。
「興味がないだけですよ。ご主人から聞いたこともないですし」
クロックは屈めていた膝を伸ばし、背筋を真っ直ぐに再びすたすたと歩き出してしまった。ついて行っていいものだろうかと思いながらも、ひとまず後ろを追いかけてみる。そのことについては特に何も言われないまま、クロックは植物が陽の光に煌めく庭を進んでいった。
「——クロック、あの、何処へ?」
「ハーブを少し。お嫌いですか?」
「え? いえ、好きです」
「なら良かった。お手紙は受け取れませんけど、お茶くらいなら出せるので。お客人をあまりぞんざいに扱うと、後でご主人に怒られてしまう」
そう発してクロックは庭をぐるりと回り、家の裏手までやって来ると、その一角に在る煉瓦で囲まれたハーブ畑の前で腰を落とした。こちらも隣で同じようにしゃがめば、きんと澄んだハーブの香りが鼻だけではなく目元も刺激して、思わず一つだけくしゃみをする。そんな自分の方を見て、クロックが小さく、人間は大変ですね、と呟いた。
「ご主人はあなたのようにハーブでくしゃみをすることはありませんが、代わりに朝がとても弱いのです」
「朝が?」
「そう。ボクはご主人の身の回りのお世話をしますが、その中でも最もたいせつなのは、目覚ましとしての仕事をすること。ボクは時計ですからね」
クロックは摘み取ったハーブを近くに置かれていた籠の中へと入れて、微笑みながら立ち上がった。衣擦れや足音に混じって、きちり、というあまり聞き慣れない、少しだけ乾いたような音が鳴った。秒針の音でも、ねじ巻きの音でもない。おそらくそれは、クロックの間接が鳴った音だった。
「ご主人は、ほんとうに朝が弱いのです」
クロックの柔らかな和声が、静かな庭に優しく響く。掠れるような音色をもつ楽器にも聞こえるその声は、やはり人の発する声には聞こえない。
「——ご主人が此処で眠るようになって、今日で千五百十三日です」
けれども、ひどく人の言葉だと思った。
クロックがつま先を向かわせたのは、おそらくこの家の庭でいっとう大きな樹の下だった。そこには今まで通ってきた道とは比べ物にならないほどにたくさんの草花たちが咲き誇り、空からやって来る光を吸い込んでは輝いている。低木や花が秋の風にさわさわと揺れ、絵本にでも載っているような美しい色彩で煌めいた。囁くようにそよぐ秋咲チューリップが地面に架かる虹のように色を放ち、ケイトウもまたその後ろで鮮やかな火を宿している。辺りにこんもりと密生しているカルーナが桃と黄に美しく、敷き詰めるようにして咲くツルバラは此処に在るどの白よりも映える白をもっていた。
他にも無数に在る、まだ名前の分からない草花も夢のように植え込まれ、庭をここまで整えるには、此処に植えられた植物たちの数よりもずっとたくさんの時間と労力がかかったことだろうと思える。この樹の前にやって来るまでの道のりだけでも相当な美しさを誇る庭であるというのに、何故人目に付かない家の裏手ばかりにここまで手をかけなければいけないのか。きっとその理由は、誰にでも分かるようでいて、しかし誰もほんとうには分からないものだった。悲しいような、また切ないような気持ちで——だから思わず、小さく笑みを浮かべることしかできないほどに。
「ボクが何度呼びかけても、ご主人は起きてこない」
樹の前でこちらを振り返り、わざわざ落っことした笑みを拾い上げて顔を歪めるクロックは、確かに機械かもしれないが、それでもそこに心の存在が強く有ると感じずにはいられなかった。きっとそれは、彼の頭のねじ巻きよりも、時計の秒針よりも、球体の間接よりもよく聞こえる音で。
——クロックの背後には、センニチコウに囲まれて、小さな灰色の墓石が一つ建っていた。
「……クロック」
墓石の前にしゃがみ込み、膝の間で両手を組み合わせた少年は、さながら祈りの姿をしているように映る。クロックはこちらを見上げ、目線だけで疑問を訴えた。大樹の枝葉、その隙間から降りてくる昼間の光に、彼の硝子玉がその奥に見える色と反してつるりと輝いている。
「どうして人間は、年を取ると土の中で眠るようになるのです? 土の中では、時計の音も聞こえず、花の色だって見えないでしょうに」
クロックの純粋な問いに、何も答えることができなかった。言葉が出ない。何を言ったらいいのか分からなかった。それに、何を言うべきか分かっていたとしても、きっと自分は何も言うことはできないだろう。息を吸う。言葉の代わりにもならないだろうと思われたが、それでも彼の隣にしゃがみ込んだ。
「ボクには分からないですが、きっと此処は今、むせ返るほどに植物のにおいがするでしょう? ボクの声で起きないのなら、別の方法で起こそうと思って。ボクは時計ですけど、ただの時計ではないので。声で起こすだけしか能がないわけじゃあないのです」
今、自分はどんな顔をしているのだろう。上手く笑えて、上手く頷いていられるのならいいのだが。此処には、優しい香りしかない。泣き出したいほど、優しい香りしか。
「……マイロウドさまって、なんというか、笑うのが下手ですね」
「うん、……僕も今、それを考えてた」
「神さまだからですか?」
「え?」
「違うのですか?」
クロックの突飛な発言に、思わず身を引いてしまった。少年の顔を見てぱちぱちと瞬きをくり返せば、彼は彼らしいあのゆっくりとした瞬きを一度だけこちらに見せる。
「やっぱり、違うのですね。少し思っただけです。なんだか、似ていたので」
「似て……? 絵本か何かに描かれていたものに、ですか?」
「違いますよ。これに、です」
「これ?」
クロックは、片方の手のひらを上に向けた。もちろん、そこには何も乗っていない。ただ枝葉の間から洩れている陽光が、彼の手に日溜まりをつくっているくらいだった。さらりと風が吹く。少年は空いているもう片方の指先で、これも、と言いながら宙を撫で、それからこちらを見て小首を傾げた。
「——光と風。神さまの一部、でしょう?」
機械じかけの少年の言葉に、辺りの光と風の気配を強く感じさせられた。光は植物たちに与えているものと同じものを墓石にも変わりなく注ぎ、風もまた、その灰色の表面をさらりと滑って何処かへと消えていく。神さまについての話はこれまでも幾人かから聞いてきたものだったが、クロックの発した神さまという言葉は、今までのどれよりも近く、そして遠い。クロックは両手を元の位置へと戻し、こちらの顔を覗き込むようにした。
「……クロックは、神さまってなんだと思いますか?」
夜明け前に見た、ステンドグラス。その下に在った女神像のことを想い出して、答えなどないように思える問いを彼へと投げかけた。クロックは未だこちらの目を見たまま、その身に光と風を受けている。
「光や風の持ち主が誰かってこと、ですか? 知らないです。ご主人にも、聞いたことはないですから」
そう言って、クロックは緩やかに瞼を閉じた。瞬きではないらしい。彼のねじ巻きが、またひとりでに回った。
「でも、人にとって、手の届かないものなのでしょうね。だって、人はそういうもののことを、神さまと呼ぶでしょう?」
「手の……届かないもの、か」
「そう、だから皆さん、間違っているのです」
クロックの言葉に首を傾げる。彼は視線をこちらから外し、無表情に墓石の方へと顔を向けた。
「皆さん、ボクにとっての神さまはご主人だと、口を揃えてそう言うのです」
「クロックがそのご主人さんに造られたから、ってことですか」
「ボクはご主人の手で生み出されて、ご主人と一緒に暮らしている。そんなご主人の、どこが神さまですか? ボクとご主人の繋がりが、人や生き物にとっての親と何が違うのか……ボクには分からない。分からないのは、ボクが機械だからだろうけど、でも——だったら、分からなくていい。ボクは、ご主人を神さまだとは思えないままで」
「……クロックは、神さまが嫌い?」
ふと、口を突いて出てしまった問いに、クロックが少しだけ怒ったような色を目に浮かべてこちらを振り向いた。
「言ったでしょう、機械に好きも嫌いもあるわけないって」
けれども、それはすぐに、誤って鉢植えをひっくり返してしまった子どものような表情に変わる。クロックの今浮かべている表情はまるで、そこに無理やりに笑みを貼り付けたかのようだ。頬に差された朱の色が、かえって痛々しげにこちらには映った。
「好きも嫌いも、ないですけど……でも〝いや〟なんですよ。ボクは、ご主人が神さまになってしまうのはいやだ」
囁くようなクロックの声に混じって、彼の時計が動く音が聞こえる。長針だろうか、短針だろうか。空を見上げなくても、太陽が未だ高い位置に在ることは分かる。片手に有る手紙の封蝋に少しだけ触れて、睫毛の影が落ちるクロックの瞳を見やった。
「……クロック、その」
「なんです? お手紙なら受け取れませんよ」
「そうじゃなくて、えっと……」
クロックが不思議そうにこちらを見た。立ち上がって、息を吸う。庭に広がる優しい花たちの香りが肺の中に満ちて、やっぱり少しだけ、心臓が震えるような心地がした。クロックもまた立ち上がり、彼のねじ巻きは変わらずくるりと回転をくり返している。少年の目を見て、ほんのちょっと笑った。上手くできているかは分からないけれど。
「——明日まで、此処にいてもいいですか?」
自分が発した問いかけに、クロックは小さく驚きに近い声を洩らした。それから彼は頭上のねじ巻きへと片手をやり、困惑したようにそっと瞬きをする。
「ご主人もずっとこんな調子ですから、べつに構わないと思いますけど……寝るところ、ボクの部屋しかないですよ。何故かご主人、ボクに寝台を用意しているんですよね。時計は眠らないので、そこで良ければ使ってください」
「……ありがとう」
「けれど、何故? ご主人に手紙以外で用事があるわけでもないでしょう?」
「たぶん、寂しいのかもしれない、と思って」
その言葉に、クロックは眉を寄せた。
「だから、ボクは機械だって——」
「違う」
「え?」
「違うよ。クロックじゃなくて、僕が」
なんとか笑みをかき集めてそう言えば、はた、と少年は口を閉ざした。それから彼は無言のまま、ハーブの入った籠を地面の上から取り上げて、その中身をどこか遠い目でじっと見下ろす。光は庭全体に降り注ぎ、風はすべてを撫でていった。時もまた等しく刻まれ、少年のねじ巻きはあやまたず回り続ける。クロックは顔を上げ、その霞色の瞳でこちらを見た。
「人間は——大変、ですね」
そう発して微笑んだ少年の目は、どうしてなのだろう、水気がないのにあまりにも泣き出しそうな色を湛えているように見えた。その表情に今度はこちらが言葉を失っていれば、クロックは自身の勿忘草色の貫頭衣を翻し、家の勝手口の方へとすたすたと歩いていってしまう。はっとそれに気が付くと、慌てて地面を蹴ってはその背を追った。
光が降る。風が吹く。花が香る。時は刻まれる。
光が降った。風が吹いた。花が香った。時は刻まれた。
それでも。
——自分はただ、次の夜明けまで彼と共にいて、彼が彼の愛する者に千五百十四日目の朝を告げるのを、声も発せずに隣で聴いていた。
「朝ですよ、お寝坊さん……」
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