ひかりに遠吠え
たいせつな人の写真を入れるといい、そう彼女は言った。
甲板の上で緩い熱を含んだ風を感じながら、アベル・メリアスは率いる空賊団〈ムートン・ヴォルゲ〉と共に雲の間を縫うのではなく、浮かぶ白色の彼らにはお構いなしと言うように空の上を飛空艇にて突っ切っていた。高度は高くもなく、低くもない。雲の間に隠れながら空を走るのが、いわゆる彼ら〈羊雲〉の得意技なのだった。それは今日も、例外に漏れず。
ふと、アベルの視界、その少しばかり低いところで宝石の放つ光に似たそれがちかっと瞬く。一瞬その光を怪訝に思ったアベルだったが、それがこの世界にそびえるさながら時計塔のように巨大な魔法石の塊――貴石であることを認めると、その輝きに目を細めた。
彼は甲板の手すりに頬杖をついて、速さを求めずに穏やかに流れていく景色を雲の間から眺めては、息を吐く。此処は空のてっぺんと地の底の間。そこから瞳に映るこの世界の景色はどうにもひどく美しく見えた。その輝きは時に心を昂らせ、時に心を突き刺す。それはまるで、どこか貴石の光にも似ていた。
「――でっかいもの、盗んでやりたいって思わないんですか?」
その問いかけに振り返ると、そこには空賊団〈ムートン・ヴォルゲ〉の団員……もとい、アベルがきょうだいと呼ぶ――彼は団員のことをきょうだいと呼ぶのだった――青年が立っていた。
青年は伸びをしながらアベルの隣にやってくると、そこでアベルと同じように眼下の瞬きを見た。アベルは隣の青年の顔を一瞥すると、形の良い口の端を面白そうに歪めて笑う。
「そりゃ、たまには思うさ。……でも、いらないな」
「いらない?……どうして」
「決まってる――あんまり大きすぎるもんは、船に載らねえだろ」
アベルの冗談めかした言葉に彼のきょうだいは笑い声を上げると、しかし今度は意地の悪い顔で自分の首元を手のひらで示した。それにつられるようにアベルが己の首に自分の片手を持っていく。すると、シャラ、と金属が揺れ動く音と感触が耳と手のひらに伝わり、アベルは何かを察したように隣の青年の方へ視線をやった。
「その中の人は手に入れたんですか? それとも、船に乗せられないほどに大きかったり?」
「……さあて、どうかな」
言いながら、アベルは身に着けていた鈍い金色の首飾りを外し、彼のきょうだいへと放り投げた。その首飾りの先では開閉式の装飾品が人の秘密を守るように口を閉ざしている。
青年はアベルが放り投げた首飾りを慌てたように両手で受け止めると、ほっと息を吐いて恨めしげにアベルを見やり、それから困ったように笑った。
「これ……ロケット・ペンダントってやつですよね」
「ああ、そうだぜ」
「さっきの反応を見るに、中身は想い人の写真……でしょう? 何つうか……ボスも恋とかするんですね」
「何だそりゃ、するに決まってんだろ。俺を何だと思ってるんだ、きょうだい……」
呆れたようなアベルを見た青年はその顔に悪戯小僧の笑みを浮かべると、先ほど手にしたアベルのロケット・ペンダントに指先を当ててその閉ざされた扉を大した躊躇いもなくこじ開けた。その姿にアベルは軽く笑いを漏らすと、今度はこちらが悪戯な笑みをその唇に浮かべる。
鈍く光るロケットの中を覗いた青年は一瞬目を見開いたかと思えば、最初彼に首飾りを放り投げたときよりも恨めしげな顔でアベルを見、それからそのロケット・ペンダントを顔の前に突き出して喚くように言った。
「何ですかこれ、何も入ってない……空じゃないですか!」
「俺はそこに写真が入ってるって言った覚えはないぜ、きょうだい」
「からかったんですか? ボスは人が悪いですね……まあ、俺たちにとっては或る意味褒め言葉ですけど……」
「からかった、ね。……はは、どうかな」
最後の言葉は甲板を吹き抜ける風に絡めとられたようだった。疲れたようにかぶりを振って、団員の青年はアベルの手のひらにロケット・ペンダントを置き、しかし彼はアベルの手の上で時折太陽の光を反射して光るそれをしばらく眺めていた。
アベルもそんなきょうだいにつられ、錆びても見える鈍い金の色を見つめては、貴石には到底敵わないその光が痛みとなって心臓ではなく、心よりも更に深いところでぬるく広がるのを感じた。それはそこまで古くはない記憶、しかし新しくもない記憶の痛み……
――たいせつな人の写真を入れるといい、そう彼女は言った。
許嫁であり初恋の人でもあった彼女からそんな風に言われて貰ったこの首飾りは、それから肌身離さず着けている。
これを貰った当時は家族の写真を入れるのも、想い人の写真を入れるのも、どちらも気恥ずかしいというような時期だった。それからこのペンダントに何か写真を入れる時を計り損ね、今の今までずっとたいせつを守る小さな宝箱は空のままなのである。空賊団の頭領としてきょうだいたちを率いる今となっては、この首飾りだけが自分と彼女を繋ぐたった一つの鎖なのだ。
しかし、何のための鎖なのか。もう自分ではない誰かの人になったのだろう彼女に抱くものは最早恋でもなく、おそらく愛でもない。
ならば、想い出だった。家族のことを想い出せば、それと同じに彼女の顔が浮かび上がる。彼女のことを想い出せば、それと同じに家族の顔が浮かび上がる。
だってずっと、あの日までずっと一緒だったのだ。許嫁より、姉のような人だった。自分もおそらく、許嫁というより弟のようなやつだったのだろう。だから好きになったのだ、だからこの鈍い金色を外せなかったのだ。
離してしまえば想い出を忘れるようで、いいや、想い出に忘れられてしまうようで。
ロケット・ペンダントを見つめる彼の瞳にどんな色を見たのか、青年は少しばかり不安げな声でアベルに問いかけた。
「……あなたはいつか、何処かへ往ってしまうんですか」
アベルは目を瞬かせて顔を上げ、己のきょうだいの顔を見た。それから空を仰ぐと、悩ましげな声で小さく唸る。青年がどうしたものかと首を傾げはじめた頃、アベルは視線をきょうだいに戻し、何やら覚悟を決めたような顔で頷いた。
「――そりゃあ、往くさ。お前らと一緒に、な」
甲板の手すりを背に、小さく光る首飾りを空に向けて掲げる。扉の開かれたそこはやはり空っぽだったが、その空っぽの金に淡く飛空艇と空の色が反射し、鮮やかさこそなかったが確かに光に煌めいた。
おれの想い出たちは、この空を知らない。雲の色を知らない。この甲板に吹く風の表情を知らない。知ることも、ない。
アベルはその光を受けたロケット・ペンダントを隣にいるきょうだいが何かを言う前に背後に向けて放り投げ、瞬きながら雲の下へ下へと落ちてゆくそれを見ようともせず、ただ後ろに流れていく空を見上げて笑う。その笑い声に、微かな寂しさと涙の色が混じったのは青年の気のせいだっただろうか。
しばらくしてまた飛空艇の進む方へと身体を向けた己の頭領に、そのきょうだいである青年はまったく呆れたというように声をかけた。
「ボス、野暮なことを言ってもいいですか」
「……いいぜ、たぶん俺も同じこと思ってるし」
「捨てるくらいなら、売ればよかったんじゃないですか?……あのペンダント、けっこう上物ですよね。自分らというか……ボスの麦酒代くらいにはなりそうでしたよ」
「……おい、何処ら辺に落ちてったか見たか? 取りに行くぞ、きょうだい」
「嫌ですよ、ぜったい!」
20161021
シリーズ:『貴石奇譚』〈ブラックシープの愛し方〉
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