アイノウ
汽笛が鳴っている。
風になびく天鵞絨のように穏やかな海が、それと同じくらい柔らな斜陽によって照らされている。黄昏に翻る波が七色の水しぶきを上げ、停泊する船の足元で砕けていた。ぐるりと世界を巡るあの遊覧船は、夕暮れと共に緑の大陸を旅立つ。きっと、透明度の高いこの海に映る星空は、恐ろしいほどに美しいだろう。太陽はもう、沈もうとしていた。
港の防波堤には、誰もいない。
ただ、海の果てに真っ赤な太陽が帰っていくのがよく見えるばかりだった。そして、その眩しさに目を細めれば、潮風のにおいがより鮮明になる。世界中を巡り巡って帰ってきた風のにおい。この風はきっと、此処より暑い土地、此処より寒い土地、此処より建物や人の多い土地、此処より魔法使いの多い土地、様々な〝此処より〟を見てきたことだろう。
けれど。
けれど、果たして。
果たして、この土地より美しい場所を、心の豊かな国を、いま吹く風は見たことがあるだろうか。
防波堤の隅に腰掛ける。港町の人々が立てる喧騒は遠く、川とも湖とも違う、海の起こす波音ばかりが耳に入った。片手に持っていた杖を横向きにして、膝の上に乗せる。旅立った頃よりも伸びた髪が重くて、後ろへ倒れてしまいたかった。背にしていた荷袋も、肩から外して自分の隣へ置く。重くなったのは髪だけではなく、この鞄の中身もだった。旅立ちからまだ一年も経っていないというのに、自分が付けている手記はもうずっしりと重く、紙というものは集まると、随分重いものになるのだということを身を以って知った。
目を閉じる。生粋の旅人からしてみれば、なんてことはない、これまでの短い旅路の景色を想った。
緑の大陸の至るところに在る高台から見下ろす風景は、いつでもその季節の自然の彩りを色濃く映し、道半ばに点在していた旅人用の小屋は、疲れた身体を癒やす助けとなり、また、小屋に泊まっている別の旅人や、定期的に訪れる商人との交流するきっかけともなってくれた。動物たちはこの国の豊かな自然の中であちこちを駆け回り、時には街道近くまで出てきて道行く人をからかい、時には気配だけを残して深い森の奥へと身を隠す。冬となっても木々も獣もしたたかなまま、次の春に咲く草花の色彩を目に浮かべ、じっと時が流れるのを待っているようだった。国の中心にそびえる大樹は、生まれ火の月の寒さの中でも、揺らぐことなく日々の移ろいを見つめているのだろう。緑の大陸。この国は、まさにその名にふさわしい国であった。
そうだ、たとえば。たとえば、夏の真ん中で人魚と魔女に出会ったあの森に流れていた川は、冬の寒さに抱かれて凍ってしまっただろうか。けれども、おそらく、自分はそんな氷が春の陽気に微かな歌声を上げて溶けゆくさまを見ることはないのだ。旅路の中で聞いた、幾つかの言葉を想い出す。薬師のゼンが言っていた言葉は、結局今でも分からないままだった。〝その内分かるよ、たぶん、嫌でもね。たとえば、きみがこの街を抜けて、最後にディリィの花を見た後——もう一度、ディリィの花を見たときとか、きっとね、分かる。〟けれども、占い師のシグナルと出会ってから先、この国にコーデリアは一輪も咲いてはいなかった。
分からない言葉や、果たせない約束が、旅の中には過ぎた日数よりも多く在った。旅の記録を連ねた羊皮紙の上にも存在するそれらは、たぶん自分が死んでも残り続ける記憶なのだろう。自分は仕立屋のクローマが発した、お祭りの聖歌隊を見に来てほしい、という言葉はおろか、道中で出会った人々と幾度も交わした、またね、すら守ることもままならないのだ。自分が発するその言葉が約束なのか、それともただの願いなのかは、最早判断が付かない。
目を開ける。潮騒とは別に、何か物音がしたからだった。
そうして自分は音がした方へと振り返ると、そこには初老の男性が一人、息の仕方も忘れてしまったふうに見える驚きの表情で、こちらをじっと見つめていた。
「——あの、もし……」
男性の口から細い声が洩れ出る。それが明らかにこちらへと向けられたものであったから、自分は息を潜め、継がれるだろう相手の言葉を待った。けれども男性の喉から絞り出されるのは、波音に掻き消えてしまいそうな息づかいばかりで、声ではない。自分は首を傾げた。相手はゆっくりと瞬きをし、それから深呼吸をした。
「あなたさまは……私をご存知の方、ではございませんか?」
そう問いかける男性の手は、小刻みに震えていた。草原の高台以前の記憶がない自分にとって、返せる答えは決まっているようなものだったが、それでも差し出された問いかけに、相手の姿をじっと見ずにはいられなかった。
青い瞳。時の流れた跡の在る目尻と、柔らかいまなざし。優しげな白髪混じりの、けれど上品な灰色の短髪。肌は白く、身に纏っている黒のベストと細身のパンツがよく映えていた。片手には銀色の杖を持ち、そのてっぺんでは水晶玉が夕陽を吸い込んで輝いている。上背がありながらも、威圧感は覚えない人だった。もう一度、相手の顔を見る。彼は息を洩らすふうに少しだけ笑った。自分も微笑み返し、それから首を振った。
「いえ……すみません。思い出せないみたいです」
「そう、ですか。こちらこそ、おかしなことを訊いて申し訳ありません。驚かせましたね」
男性は形の良い眉尻をすまなそうに下げると、なんとなく困ったように視線を彷徨わせ、そうして水平線の向こうを見やった。
「……海を、ご覧になっていたのですか?」
「ううん……どうなんでしょうね。見ていたような、見ていなかったような」
「あなたさま、きっと、これから何処かへ行かれるんですね」
「……はい。あの船に、乗ろうかと思っていて……」
波音に混じる、相手のどこか悟ったふうな言い方に、自分は自然と船着き場の方を指差した。遊覧船はゆらゆらと煌めく海の上を、少しも自信を失わないままに浮かんだままだった。男性はこちらの言葉を受けるとそうっと目を細め、それから隣に座ってもいいか、という問いかけをまなざしだけで投げかける。自分は考えるより先に頷いた。こちらの隣に腰掛けて、彼は首肯と疑問、その間くらいの仕草で、
「——でも少し、迷っている?」
と微笑んだ。
「え? あはは。よく分かりますね」
「いえいえ。お顔を拝見していれば、誰にだって分かりますよ」
「そ、そうなんですか? それはちょっと、恥ずかしいな……」
なんとなくいたたまれなくなって頬を掻けば、男性はくすりと笑う。彼が笑うごと、目尻に刻まれた皺は強調されて、相手の優しげな印象は更に深まるばかりだった。
「……お名前を伺っても?」
それでいて、なんだか、ひどく懐かしげに微笑む人だととも思った。そして、柔らかく笑みながらそう問いかける彼は、問うまでもなく、こちらの名前などお見通しな気さえした上、自分もまた、それが当然のことであるというような錯覚を起こしていた。自分は、もう随分前に名乗った気がしていた名前を発するため、息を吸った。
「マイロウド。僕は、マイロウドと言います」
「マイロウドさま……」
「あなたは、なんて?」
「ああ、これは失礼しました。私は——」
問いを返せば、彼もまた、思い出したふうに息を吸っていた。
「……アイノウ。以前は別の名前で呼ばれていましたが、ほんとうの名前はアイノウと申します」
その名前に、何か聞き憶えがあった気がして、少しだけ目を閉じた。
アイノウ。耳の中で反響する名と声に、頭の奥がゆらゆらと揺れる心地がする。波よりもあたたかく、優しいものにそっと揺らされるように。目を開ける。何もかも想い出せないが、それでも不思議な気分で相手の方を見た。
「アイノウ。あなたは、何処かに行くんですか?」
「私ですか? さあ……それは、どうなのでしょうね」
言いながら、彼は手にしている杖の水晶玉を軽く撫でた。こちらを見ていた瞳が海原の方を向き、アイノウはそのまましばらく沈黙を保つ。自分もそれに倣って、海を眺めた。太陽は一日の中で最も赤く輝き、そして水面はそれを写し取るみたいに、波を赤に、橙に、金に染めていた。
もうじきに、出港の時間になる。隣人へと視線を戻せば、彼の青い瞳は遠くとおく、水平線のはるか向こうを眺めていた。
「……なにぶん、生きがいというものを失ってしまったものですから」
波の間に落とすように、彼の口から呟きが洩れる。潮騒に攫われる前にこちらの耳に届いたその言葉に、また少し頭の中が揺れると共に喉の奥に何か、自分自身気が付かなかった傷があるのを知った気分になった。
「以前は……」
「え?」
「以前は、どんな名前で呼ばれていたんですか?」
微かに喉の渇きを覚えながら、けれどそこまで上ってきてしまっていた問いを発する。アイノウの視線が潮風と同じ速度でこちらを見、その海より深いまなざしは、さながらひび割れた水晶にも似た光を湛えたままに、再び海の方へと向けられた。
「バレット、と。そう呼ばれておりました」
「バレット……」
「或る方の、専属の執事をしていたのですよ。ただ、その方だけは私のことをほんとうの名前——アイノウと呼んでくださいましたが」
足元で、波が白い花となりながら砕けた。彼の呼吸も自分の呼吸も、耳に届く前に水に溶けゆく。沈黙は痛いほど静かで、しかし穏やかでもあった。向こうの空で、カザハナカモメが夕暮れの声で鳴く。それにつられて、言葉のための息を吸った。
「……どうして、僕にほんとうの名前を教えてくれたんです?」
その問いかけに、アイノウはどこか困ったふうな笑みでふ、と笑った。そうして緩やかにかぶりを振り、ようやくこちらの方を見る。
「私自身、もう執事ではありませんので。それに……あの方なしでは、私は行く当てのない、ただの根無し草でございますよ」
そう語る彼の声は、夕暮れの陽よりも掠れた郷愁の色を宿し、表情などはまるで遠くなってしまった景色を眺めるようであった。
それが胸の奥にどうにも響くものだから、自分はまた、喉の中にある己の傷跡に気が付いた。そして、彼に対して浮かぶ、ごく自然な疑問を喉へ通すたび、その傷跡がじくりと痛むのだ。どうしてなのだろう。自分は今まで、幾人もの人々とこのようなやり取りをしてきたというのに。それでも、自分の喉は言葉を発さずにはいられなかった。
「——アイノウは、魔法使いなんですか?」
「おや。どうして、そうお思いに?」
「魔法使いは、永い時を生きる人が多いと聞きました。あなたの口ぶりは、まるで仕えていた人を失ったみたいだったので……だから……」
「その時の中で、主に先立たれたのだと思った?」
アイノウは柔い笑み方で、首を傾げた。その仕草に促されてこくりと頷けば、彼は青い瞳を瞬かせ、それから息を洩らして微笑みを繋いだ。
「あなたさまは、お優しいですね。それに、半分は正解です。さすが——」
そこまで言って、アイノウは何かを思い出したふうに言葉を切った。そうして、言葉の続きを待っているこちらに向かって、彼はかぶりを振った後、再び困り顔で微笑んだ。
「……確かに仰る通り、私は魔法使いです。けれど寿命は——生きる速さは、他の方と変わりません。それに、魔法のために差し出したものもつまらないものですから……私は誰を守ることもできないのですよ」
「けれど、アイノウ。あなたはどんな魔法を使うんです?」
「え?」
その問いに、何故だろう、彼はほんの少し驚いた顔をした。アイノウの瞳は海を忘れ、今はこちらの目を真っ直ぐに見つめている。彼は眉を下げ、それと共に、自身の目の青を滲ませるように細め、また笑った。まるで、懐かしいものがいま目の前にあるみたいに。
「私の魔法は、手に触れたもののことを少しだけ知ることができる、というものです。たとえば、この海……」
言って、アイノウは座ったまま少しだけ身を乗り出し、眼下の海に自身の杖を浸した。そうして杖から滴る海水に指先で触れると、彼はそっと目を閉じ、その瞼の裏で何かを見たようだった。
「……この地方の海には、珊瑚礁がそこここにございますね。水質自体ももちろん透明度が高く、とても美しい。しかし、此処の珊瑚には変わった特徴があって、彼らは白昼に自ら発光する。そのため、昼間は太陽光と水中の珊瑚の光で、海面が真っ白に染まってしまう。だから、この港に停泊する大型船は、夕暮れから夜にかけて出港することが多いのですよ。そちらの方が、かえって視界が良好ですから」
つらつらと淀みなくそう言ってのけるアイノウに、思わずぱち、と瞬きをする。たった今そこで得た知識とは思えない語り口に、おお、と知らず知らずの内に喉から感嘆の声が洩れ出た。
「そ——そんなことまで分かるんですか。アイノウは物知り、ですね」
「まさか。魔法を使って、物知りのふりができるというだけですよ」
「だけど、実際知ることができるんだから、アイノウは物知りですよ」
こちらの言葉を聞いて、アイノウはどこか気恥ずかしそうに笑った。そんな相手に自分もまたくすりとして、それなら、と好奇心のままに片手を彼に向かって差し出してみた。
「アイノウ」
「ええ」
「僕のことも、分かりますか?」
そう問えば、彼はまた誰かに出会ったような顔をして、こちらの目を見ながらふっと微笑んだ。それから、目の前に差し出された手を何か壊れ物でも扱うみたいにやさしく握り、彼は瞼を閉じる。ややあって目を開けたアイノウは、かぶりを振りながら、息を吐く合間にまた淡く笑った。
「人のことは分からないのです。それはきっと、私自身が人間だから、なのでしょうね」
そして、握手の形に繋がれていた手のひらが、そうっと離れていく。彼の横顔が斜陽に照らされ、目の光はより強く、落ちる影はより濃くなっていた。
アイノウは自身が手にしている杖を撫でながら、こちらが持っている杖を目に映している。その視線を追って、自分もまた己の杖を見た。杖の硝子玉は持ち手と比べて傷一つ付かないまま、きらきらと輝いている。そんな光の中に、自分はまた彼に問いかけたいことが一つ増えて、それを吐き出さずにはいられなかった。
「……アイノウが以前仕えていたというその人は、どんな人だったんです?」
「そう、ですね……」
アイノウはゆっくりと瞬きをすると、それからこちらを見やってひどく優しく口角を歪めた。彼の青い瞳は凪いだまま、自分を透かし、もっと遠い何かを眺めていた。それは近く、遠く……
「私にとっては、ただ一つの灯りのような方でした」
「灯り……」
「落ちこぼれの魔法使いで、老い先も決して長いとは言えない私めをそばに置いて、いつでも励まし——暗い環境の中でも、明るい未来の話をしてくださった。言い方はぶっきらぼうなものでしたが、それでもいろんなことに気が付く、心根のひどく優しい方でした」
そう発する彼の言葉の紡ぎ方は、誰かに伝えるというよりも、さながら自分自身で確かめているふうだった。アイノウは目を伏せ、此処ではない何処かの、誰かの姿を瞳の中に映している。その指先で、触れるまでもなく。
「彼は、外の世界にいつも……ほんとうにいつも、憧れていました」
「……外の世界? 外には、出られなかったんですか?」
「ええ。実の兄弟に、軟禁されておりましたから……」
彼の思いがけない言葉に、目を見張る。それと同時に、妙な納得感も胸の中で生まれ、困惑のまま声が発せなかった。
「此処からはずっと離れた、或る王国で。王位継承権を持つ兄に、彼は生まれたときから高い塔の上に軟禁されていました」
しかしアイノウはそれすらも懐かしげに、眉間に皺を寄せながらも微かに笑んで言葉を継いだ。彼は息を吐く。かぶりを振る。郷愁と夢想の狭間に、痛みを混ぜた表情だった。
「けれど、結局のところ、彼の兄はそれだけでは安心できず——兄君は用心深く、その上執念深くもあったので——あの方の暗殺を目論み、鳥の巣を壊すような気軽さでそれを決行した。兄君にとっては、この世に二人といない弟よりも、王座だけが自身のすべてだったのでしょう」
「そんなことが、ほんとうに……?」
「ええ。この国にいると、あまりに穏やかで忘れてしまいますけれどね。未だ、世界の幾つかの大陸では、そういった争いが行われている国も在るのですよ。たとえあなたさまが、忘れてしまっているとしても……」
ぱちん、とこめかみで、いつかの雷鳴が弾けて鳴った。自分は彼に、記憶喪失であることを話しただろうか? そんな疑問が口を突く前に、アイノウのまなざしに先手を打たれる。
「幸運だったのは、私が己の魔法を用いて、その暗殺計画を事前に知ることができたということです。私の魔法は人間そのもののことを理解することはできない。それでも、誰かが立っていた床、触った扉、使った食器などから、その時々に誰がそこにいて、どんな会話をしていたのか——書き記したものの内容すら、知ることができる。これは、あの方と私の秘密ですけれどね。ですから、私たちは兄君が塔を焼き払おうとしていることを運良く知ることができたのです」
波音は今や遠く、遊覧船は朧な突塔となって蜃気楼のごとく揺らめいていた。瞬きをする。その瞬間、幻は霧散し、目の前には広大な海と夕陽が戻ってきた。それでもアイノウの言葉は身体中を反響し、鐘に似た音と、銃声のような爆発音、それから雷鳴が再び何処かで轟く。闇を溶かした海が、ぱっと明るく輝いた。
「けれど、兄君の方が抜け目がなかったのでしょうね。私たちの脱走計画はあと一歩というところで彼に露見し、我々は後を追われました。かの王国は魔法技術が発展していたので、大陸を囲む四方の海に、他の国の海へと繋がる門が浮かんでいるのですが……私たちは小さなボートでそれをくぐる直前、追っ手から放たれた火の球に爆撃を受け、ボートは大破、私は海に投げ落ち、あの方もきっとまた……」
開いている目で、瞳を開ける。アイノウも今は笑みを失して、こちらを真っ直ぐに見つめていた。ぎゅうと杖を握り締める手の痛みだけが、微かに在った。
「私は、もしものことがあったときのため、あの方に硝子玉を渡しておりました」
「硝子玉……?」
「魔法使いから、新たな魔法使いへと贈られるものです。もしものことがあれば、私の命と引き替えに、ご自身の命をこれでお救いなさい、と」
そこで呼吸を忘れていたことにようやく気が付いて、自分はきっと音を立てて息を吸った。己の杖を見ることはできなかった。それがアイノウから視線を逸らすのが怖かったためなのか、それとも杖を見ることが怖かったためなのかは分からない。とにかく吸った息を吐いて、言葉を発そうと喉の奥で藻掻いていた。
「でも、自分の持っている何かとでなければ、魔法の力は得られないんじゃあ……?」
返した声は、おそらく震えていたことだろう。けれどもアイノウは少しも動じることなく首を横に振り、
「私の命も私の力もすべて、あの方のものです。だからきっと、そう呼びかければ世界は応えてくれましたよ」
そう優しく、またそれがひどく誇らしいものであるかのように微笑んでみせた。けれどもすぐに彼はその表情を曇らせると、傷付いた青い瞳を睫毛で覆って、自分自身の手のひらをどこか軽蔑のまなざしで見つめる。
「そして、そのもしもは起こり、……私は未だ、こうして生きている。波に流されて門をくぐったとするならば、辿り着くのは私と同じこの緑の大陸のはず。私はこの一年、彼の痕跡を探して国中を回りました。けれど……あの方の痕跡は一切見付からず、時は過ぎ……」
彼は目を瞑る。そうして防波堤の地面に指先を触れさせると、何かを見付けたようにふっと息を吐いて笑った。それは、不思議な笑み方だった。失望と喜び、悲しみと安堵、寂しさと納得感をないまぜにしたような笑み方で。
「ですが、ようやく、私にも分かったような気がします。いいえ、はじめから分かっていたから、此処まで探してきたのかもしれない。優しい彼が、誰かを犠牲に生き延びることなどできないということ。それでいて、自由への渇望と執念は根深いものであるということも。おそらく、彼が自身の命を繋ぐために差し出したものは——」
アイノウの視線が一時だけ海を認め、目の中に暮れる今日の陽を映した。彼は息をしている。自分もまた、そうだった。
「マイロウドさま」
「……うん」
「きっと、私の方が、あの方より一歩早く、この国を回っていたのでしょうね」
その言葉に、答えは返せなかった。
アイノウの話を耳にして尚、自分は自分のままで、おそらく彼と同じ痛みを分かち合うことはできないのだ。先ほど一瞬浮かんだ景色も、今ではもう想い出せず、雷鳴もまた、あの日の高台で聞いたものばかりが耳に蘇った。想い出せない。僕はもう、僕以外のことは。ふと、硝子玉を見る。それは未だ美しく、あたたかい橙色を宿していた。
「アイノウ」
「ええ」
「硝子玉の色は、何色だったんです?」
問いかけに、痛みはもうなかった。代わりに、輪郭のない懐かしさだけが胸で響いていた。
「——忘れてしまいました。あの夜は、とても、とても暗かった……」
アイノウは分かりきった表情で、そう言って細く笑った。暗い夜の海。此処とは違う色をした、空と海。汽笛が鳴っている。日が暮れる。この国にも、夜がやってくる。星々が輝き、海面を照らす、明るい夜が。何処かではない、此処だけの夜が。
「マイロウドさま、私はきっともう、あの方に会うことは叶いません」
「……はい」
「ですから、マイロウドさま。せめてあなたさまは、会いたい方に会ってください。会って、気持ちをお伝えするべきです。いつかの機会が、呆気なく永久に失われてしまうことだってございます。現に私は、あの方にありがとうと、その一言さえ伝えることができなかった」
心臓の形をすっかり見透かしたような彼の言葉に、自分はつい苦笑を洩らした。
「……僕はそこまで、あなたに言いましたっけ?」
「いいえ。けれど、お顔を拝見していれば分かりますから」
そう言うアイノウは、こちらのそんな笑みにどうも見覚えがある様子で、少しばかり悪戯っぽく口の端を吊り上げて笑った。自分もまた、つられて笑う。夕暮れの潮風は、それでも肌に沁みて痛かった。
「アイノウ、何処かへ往くんですね」
そう問いかけたのは、しばらくの沈黙ののち、再び鳴った汽笛の音と共にアイノウが立ち上がり、水平線の彼方を見たからであった。こちらの問いにそっと頷くと、彼は来し方を見て笑ったようだった。
「ええ。やっと、すべてが腑に落ちたような気がするのです。それにあの方は、私に〝おまえは自分の生きがいを自分以外のところに作りすぎだ〟とも仰っておりましたから。私は私の、行きたいところに行ってみようかと思います。……と言っても、その行きたい場所は、あの方が以前行ってみたいと仰っていたところになると思いますけれどね」
「じゃあ……アイノウは、これから、自分の人生を往くんですね」
しかし、その言葉にアイノウは首を横に振った。彼は傷の癒えない瞳のまま、こちらを見つめ、
「今までも私の人生で在りましたよ。ずっと、確かに」
そう言って、青い目を細めた。笑い皺の刻まれた、優しい顔で。きっとそれこそが、彼の誇りだった。目が合う。自分の瞳が、少し痛んだ気がした。
そして、ああ、と思うより早く、自分は荷袋の中から遊覧船のチケットを取り出すと、それを彼に手渡していた。そうすることが当たり前で、自然なことなのだと、今は疑いようもなかったから。アイノウは差し出されたチケットに当然困惑し、迷っていたが、こちらの目を見ると困ったふうに微笑んで、ついには手のひらの上に押し付けられたそのチケットを受け取った。
それから再び、汽笛が鳴った。アイノウがこちらに背を向けてしまう前に、自分は、彼に向かって問いかけではない言葉を発するために息を吸った。
「……あなたもきっと、その人にとっての光でしたよ、アイノウ」
「え?」
「外の世界に憧れていたその人にとって、色々なものに触れ、そこから様々なことを知ることができるあなたの話は、きっと希望に等しかった。明日を生きる糧だったはず。アイノウ、あなたは——彼にとって唯一の光であり、最高の魔法使いだった」
自分がこんなことを言うのは、おそらく酷い無責任で、独善的なのだろう。それでも、言わずにはいられない。喉元まで言葉が上ったなら、もう発さずには。今、こんなに傷付いた目をしているこの人に、言葉を発することができるのは自分しかいないのだから。こんなに優しい、この人に。
「マイロウドさま」
「はい」
「あなたさまは、自由だ。往きたいところへお行きなさい。会いたい人に、お会いなさい。あなたさまの人生は、誰にも縛ることのできない、あなたさまだけのものなのですから」
ああ、けれどこの人は、自分が想像するよりもきっと、ずっと強い人だった。彼はこちらの方に手のひらをそっと置くと、驚くほど揺らがないまなざしと声を以って、そう言った。彼はもう、自分の中に他の誰かを見てはいなかった。一人の子どもを目の前に、清濁を知る瞳で優しく笑いかけていた。
杖をぎゅう、と握り締める。アイノウは、今までとは少し異なって気軽な調子でこちらの肩をぽん、と叩くと、踵を返して元来た方へと歩き出した。
「……アイノウ!」
そんな彼の背に、思わず声をかける。こちらの呼びかけにアイノウは振り返らずに立ち止まった。汽笛が鳴る。それに負けじと、自分もまた声を張った。
「また! また、会おう……!」
果たしてこの声は届いただろうか。そう案じるまでもなく、アイノウがゆっくりとこちらの方を見やった。彼の杖を持つ手が震えているように見えたのは気のせいだったろうか。アイノウの口が、はくりと空気を呑んでいた。
「——ありがとう……」
彼の声は、汽笛にも潮騒にも攫われなかった。目尻の光も、夕陽に塗りたくられることなく、こちらの視界に焼き付いた。また、と言った瞬間から、どうしても。どうしても、もう二度と彼には会うことができないような気がして、去っていく背を引き止めようと何度も思った。思ったのに、足が一歩も動かない。動けないまま、彼の足音すらすでに遠く、聞こえなくなっていく。
汽笛が鳴っている。長い音。きっと、最後の音だった。
頭のてっぺんからつま先までを巡る彼の別れ際の言葉に、自分の喉元から、聞いたこともない声が洩れた。彼はもうこちらを振り返らず、歩き続ける背はもうずっと遠い。それを見送る内に脚へ力が入らなくなり、自分は杖にしがみつきながら、その場に頽れた。頭がわんわんと鳴り、目尻が熱い。石造りの地面に、雨もないのに水滴が落ち、灰色の染みが増えていった。視界が滲んでいる。水中で目を開けたときより、もっとずっと酷い痛みを伴って。堪えきれず目元を拭えば、頬全体が濡れていた。そこで初めて、ああ、自分は泣いているのだな、ということに気が付いた。
悲しかった? 寂しかった? 切なかった? 苦しかった? 何もかも分からないまま、泣いていた。ずっと、泣いていた。泣き方も分からないのに、泣いていた。彼の乗った遊覧船が出港し、その姿が星よりも小さくなって、音もなく、気配さえ感じられなくなっても泣いていた。
泣いていた。声を上げて。
ずっと。
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