空のぬすびと
月が嗤っている。
奥が深く、天井の高い洞窟の中に泊めた飛空艇、その二階に在る寝台の上で夜半にアベル・メリアスは目を覚ました――もとい、その夜は眠れなかったのだった。
没落した己の家を飛び出し、夜の街でジークを――間接的にだが――奴隷主から盗み出して、今で三日目の夜だ。明日、額に生えている角――鬼族の証、その片方を折って売る。アベルは、貴族の夜会にて鬼族の角は薬師に高く売れると度々耳にしたことがあった。明日向かう街には知り合いの商人がいる。取引、その点については概ね問題なさそうだった。だが……
(……角を折るって、どんくらい痛いんだろうな)
アベルは溜め息を吐いて、寝台から起き上がる。向かいの寝台で眠っているジークを一瞥し、その口から時折呻き声が発せられるのを耳で拾い上げながら、アベルはそっと広い船員室から抜け出して通路へと滑り出た。
それから三階へと繋がる螺旋階段を上り、そこに位置する大きめのブリキ扉を開けて飛空艇の甲板へと出る。そこからなら満天の空が見えると思えば、しかし視界に映るのは薄暗い闇ばかり。そういえばと洞窟に飛空艇を泊めたことを思い出してアベルは頭を掻いた。どうやら寝惚けていたらしい。
息を吐いたアベルはその鬼族特有のしなやかな身のこなしで、飛空艇の三階に位置する甲板から何と洞窟の壁を蹴り蹴り、呼吸も乱さずに地面へと降り立った。腰ほどまである長い白群の髪が揺れる。そうして洞窟を抜けて今度こそ満天の空の下へと出ていった。
(ジークにも、いろいろある……あいつがこうしてうなされているのは、俺が無理やりこの船に連れてきたからだ。けど、あいつが奴隷のままでよかったなんてのは……到底思えない。でも、何だかんだ言っても、結局は俺の目の前で人に死なれたくなかっただけなのかもしれない……それとも、奴隷だったあいつを救いたかっただけか……ジークの言う通りなのかもな、〝義賊気取り〟……俺は勝手だ、何もかも)
重たい考えを振り払おうとしてか、アベルは先の身のこなしで洞窟の外側の壁を伝い上がり、刃の切っ先のようになった、洞窟の天井となっている崖の上へと登った。アベルはその切っ先へと座り込み、片足は立てもう片足は崖の下へと投げ出す。
見上げた月はいつにも増して青白く、その冷たい光にアベルはすべてを見透かされているような気分になった。
(俺は逃げ出したかっただけなんだ、貴族っていう重荷から……崩れる家という重荷から……全部、家族に押し付けて――逃げ出したんだ、俺は。夢を、口実にして……)
メリアス家が破産――没落して三日目の夜だ。家族は今頃どうしているだろう。父は、引っ越すと言っていた。もう、俺の知らない土地へと引っ越してしまっただろうか。元気だろうか。泣いてはいないだろうか。少しくらいは笑えているだろうか。おれを恨んでは、憎んではいないだろうか……
その考えに辿り着くと、アベルは吐き出すように笑った。それはもう、ほとんど嘲りだった。
(憎まれて当然だ、憎んでいないはずがない……俺は捨てたんだ、家族を)
それでも空に憧れ、飛びたいと思ったのは自分だ。自由を追い求めたのは自分なのだ。
煌めき瞬く無数の星々の光は今、アベルの瞳にさみしい光の瞬きとして映った。
(俺は今――自由……か?)
背負わねばならないものを放り投げ、己の血の繋がりすらも引き千切り、捨てられるものはすべて捨て、そうまでして空へと旅立った自分は果たして自由なのだろうかとアベルは疑問に思う。
それは自由というより――最早、おれは空に囚われているのではないだろうか。
(……自由でないなら、やはり勝手なんだ、俺は……。間違っていた、間違っているんだ……)
意識せず、アベルの片目から涙が零れ落ちた。それが呼び水となり、堰を切ったように次々にアベルの両の瞳から透明な涙がぼろぼろと零れていく。さみしい光たちに照らされて輝く透き色を、今は月だけが知っていた。唇を強く噛み眉間にきつく皺を寄せて涙を流すアベルは誰が見ても、貴族の男でも空賊となった男でもなく、ただの寂しがりな一人の青年だった。
見上げた月は、やはり、こちらを見て嗤っている。星も今や月に同調するように瞬いて、くすくす忍び嗤いを漏らしていた。
アベルは憧れてやまなかった空の、無情な夜の顔に怯えてきつく目を瞑り、それから飛空挺に戻ろうと、ふらふら立ち上がって月に踵を返した。その拍子に、羽織ってきた上物の白い上着から何かが零れ落ち、こつんと軽い音を立てて地面を叩いた。未だ涙が止まってはいなかったアベルがそれを拾い上げると、星月の光に照らされてその正体が暴かれる。
それは、橙色のアイシャドーだった。オレンジカルサイト・カラー。
それを目にした驚きにアベルの涙はぴたと止まり、今度は怒りにも似た呆れが自分の血液を駆け巡った。
(何で、こんなもの……)
それは、許嫁へ次に会ったときに贈ろうと思って用意していたものだった。
洒落た入れ物に入っているわけでもない、勢いで買ったために気が回らず、包装すらしてもらっていない、透明な薄い箱に入っているだけの無骨なもの。ただ、色だった。この色が、彼女にはきっとよく似合うとアベルは思ったのだった。
地面に落ちたために割れてしまったそれをぼんやり眺めて、アベルはおもむろにそのアイシャドーの透明な蓋を開けた。
「……ちくしょう――」
指先でその橙を取ると、アベルは先ほどまで子どものように涙を溢れさせていた己の目の下、泣いたことで赤くなってしまった下瞼から目尻にかけてを橙色に染めた。
そして彼は、こちらを嘲る月へと振り返り、橙を引いたその目を細める。アベルは割れたアイシャドーを見て、唐突に思い出したのだった。
――自分が、アベルなのだということを。アベル・メリアスなのだということを。
(もう……戻れない。俺は道を踏み外したんだ、自ら。そして〝間違える〟道を歩くことにした……。父さんはよく言っていた、自分の発言には、行動には、選択には責任を持て――と。家を捨てたこの身で今さらメリアスの名を語るのは間違いかもしれない。けど、俺が選んだのは〝間違える〟道だ。捨てたとしても、俺が生まれ、そして育ったのはメリアス家だ。俺は、アベル・メリアスだ――それ以外の何者でもない。割れたアイシャドーが、それでも変わらずアイシャドーのように)
空賊として、アベル・メリアスは生きていく。もう、彼の心は決まった。
そうしてアベルは目を瞑り、彼の最も得意とする水の魔法を変化させて氷の刃を創り出しそれを手に取ると、彼は長い髪を邪魔だというように半ば乱暴に切り捨てる。
腰ほどまであった髪を肩にかからなくなるくらいまで切り捨てた後、彼は全く清々したという表情で笑い、こちらを嘲っていた月の方へと振り向いた。
「……今日から俺は、お前の仲間だ。はは、いいや――」
アベルは地面に仰向けになって寝転がり、星月の海へと手を伸ばす。今や嘲る青白い月も忍び嗤う星たちに恐怖を感じることもなくなった。今、そこにあるのは彼の憧れる空、彼が囚われる空だった。
空賊アベル・メリアスはやられたらやり返す性分だ。物心ついた頃から彼を憧れさせ、囚われさせているこの空……アベルはその突き抜けた黒と眩しい光の波へと伸ばした手を強く握る。もとい、それは空を掴んだことに等しかった。
空をその手に掴み、目を細めて笑う彼は今まさしく、空を手にした盗人――空賊アベル・メリアスだった。
「――ボスはいつも目元にオレンジを入れてますよね、何か理由があるんですか?」
「いや、べつにないぜ。けどほら、きょうだい、俺って……お洒落さんだろ?」
「お洒落を語るなら洗濯の仕方くらい覚えてくださいね、アベル兄さん。ボスが放り込んだ服のせいで、きょうだいたちの服がみーんな青く染まったんですから」
「……この船では、間違いこそが正解だぜ、きょうだい」
「ああはいはい、それっぽいこと言ってないで洗濯手伝ってくださいよ。というか手伝わないとまたジーク兄さんにどやされるんじゃないですか?……麦酒、またしばらく禁止にされますよ」
「げっ……。わーったわーった、手伝うって」
白昼、羊雲の上で空の青に染まった月が笑っている。そして、その気配を背後に感じたアベルもまた、笑い声を零したのだった。
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