ふるえる燈火
自分は耳の中に心臓があるのか。
馬鹿げていると分かりながらも、しかし彼はそう思わずにはいられなかった。怖がりな青年の心臓は鳴り止まず、それどころかそのうるささを一歩二歩と進むたびに増すばかり。だが、それでも彼は確かに歩を進めたのだった。扉を自らの手で開き、確かに。
扉を開けた向こうに見えてきた目的の人影に、丹は自らの心臓が一瞬止まったのを感じた。強く手のひらを握って、気を抜いたらふらつきそうな足を心の中で叱咤しながらカウンター越しに座っている母の元へと進んでいく。何やら手元の紙切れに目をやっていた母の視線がこちらへと向いた。
「……丹」
母と目が合う。普段の彼ならば、ここで人懐っこい笑みをその顔に自然と浮かべるところだった。だが、今の彼といえば唇を固く引き結んで母のことをほとんど無表情にじっと見つめるばかり。丹にはあまり似合わないその表情は、〈永刻堂〉の常連が見たならばおそらく首を傾げるだろうものだった。――だが、今の彼にはそうするしかなかったのだ。今、笑うことなど到底できそうになかった。それに、母の前ではどうせ上手く笑えやしないのだから、だったら最初から笑おうとしなければいい。丹は呟くように言葉を音にした。
「母さん……」
「……驚いた。どうしたの、突然」
(驚いた、どうしたの、突然……か)
母がこちらを見て発した言葉を、丹は喉の奥だけで反芻した。そして心の中で首を横に振る。
――何をしにきたのかは、実のところ自分でもよく分からなかった。ただ、母が突然〈永刻堂〉を訪ねたあの日から、ずっと此処へ来なければならないような気が丹はしていたのだった。そうしなければ、母はもう二度と自分の前に姿を見せないような予感が、あの日からずっと丹の心を鳴らし続けていたのだった。
「……えっと」
「言いたいことがあるならはっきり言いなさいな。男でしょう、格好悪く見えるわよ」
「――親父と母さんって、どうやって出会ったんだ?……きっかけはあの鏡だって、聞いたけど」
「えっ……?」
丹のあまりの唐突さに、母の漆黒の瞳も流石に揺れ動いた。そしてまた、この問いを発した当人も困惑していた。何故、こんな質問が口を突いて出たのだろう。もしかすると、ついに緊張が頭まで回ってしまったのだろうか。冷や汗が首筋を流れる。これ以上、無意識におかしなことを言わなければいいが……。自分のことながら、いいや、自分のことだからこそ妙に不安だった。恐る恐る母の顔を伺えば、幸い彼女は機嫌を悪くした様子もなく、ただ呆れるように小さく笑っていた。
「何よ、丹。そういうことが気になる年頃なの?」
「え――あ、いや……そういうわけじゃ……えーっと……うん」
「ま、いいわよ。そこに座りなさい」
そう言うと、母はカウンター前に置かれている椅子を指差した。丹は促されるまま、そこに背筋を伸ばして座ると、自分にしか聞こえないように長く息を吐いた。
「〈永刻堂〉が元々、骨董屋だったのは知っているでしょう」
「ああ、知ってるよ。親父の、父さんがやってた骨董屋〈永刻堂〉を親父が継いで、その〈永刻堂〉を俺が継いだ……角灯屋として、だけど」
「そうね。まあ、早々に店をあんたに継がせて正解だったと思うわ。あの人、商才は全くないから……自覚があるかどうかは知らないけど。とにかく、ね……丹、あんたのお祖父さんがまだ骨董屋をやっていた時代の〈永刻堂〉で、あたしたちは出会ったのよ」
丹はどこかぼんやりとした気持ちで――それはさながら母の手のひらがつくり出した無重力の中にいるような気分だった――母が淡々と、しかし懐かしげに語る話に耳を傾けた――
……骨董屋になんて入るのは、このときが初めてだった。と、いうよりは此処が骨董屋だとは思いもしなかった。暖かみのある木の扉に惹かれて、それをその心のままに開いた少女の目に飛び込んできたのは、少しばかり薄暗い空間に数々の歴史たちが静かに息づいている姿だった。一瞬呼吸をするのを忘れた少女は、その漆黒の髪を揺らして小さく息を吐いた。
そこここに並ぶ壺や絵画を蹴っ飛ばさないよう慎重に少女が歩を進めると、彼女は或るところで足を止め、髪と同じ黒を湛えた瞳を見開いた。それは店の一角、そこには天井に届くほどに大きく、そして古いが磨き抜かれた鏡が置かれていた。その鏡の中には、漆黒の髪と瞳、そして白い肌をもった少女が入っている。手を伸ばせば、その鏡に映し出されている自分に触れることさえできるのではないか。そう思わせるほどの鏡面の美しさに、少女は無意識に鏡に映る自分へと手を伸ばし、触れるすんでのところで我に返り手を引っ込めた。すると、そんな自分の背後から明るい笑い声が聞こえてきて、その声にびっくりした少女は勢いよく後ろを振り返って、声の正体を少しばかり怯えた目で見つめた。
「その鏡、別に触ってもいいよ。キレーだもんな、それ」
そんな少女の驚きや怯えには目もくれず、明るい笑い声の正体――少女と同じくらいの少年である――は鏡を眺めてまた笑い声を上げた。少年の癖っぽい桃色の髪が揺れ、それよりかは深い、紅い梅色をした瞳が細められる。少女は漆黒の瞳でばつの悪そうに左右を見て、小さな声で返事をする。
「い……いい。触りたかったわけじゃなくて、触れそうって、思っただけだもの」
「触れそう?」
「……鏡に映った、自分が」
「自分が?……ああ、なるほど、確かに。面白いこと言うもんだなぁ、あんた」
鏡の前に立ってうんうんと頷きながら、鏡面に映る自分を眺めた少年は振り返って今度は少女を眺めた。そんな少年の様子に、少女は何だか動けずにいると、少年が困ったように頭を掻く。
「この鏡、気に入ったの?……でもこれ、すっごく高いぜ」
「え……高い、って……あなた、この店の人なの?」
「ああ、そうだよ。見えないか?……まぁ、何でもいいけど。おれの親父がやってんだ、この店。今日はおれが店番の日」
「そうなの……あの、高いって、どれくらい?」
少年が事も無げに鏡の値段を告げると、少女はびっくりして思わず、先ほど鏡面に触れようと伸ばしていた方の手のひらをもう片方の手でさすった。少年は少女のその様子を見て面白そうに笑う。
「……ま、気に入ったならまた見に来ればいいよ」
「えっ?」
「親父もこの鏡、売る気ないみたいだしさ。だからこんな高い値段吹っかけてるんだよ、大事なら売らなきゃいいのにな……大人ってよく分からねえや。まぁ、だから……また、見に来れば?」
それを聞くと、少女の黒い瞳がまるで鏡面のように輝いた。少年はちょっと笑って頬を掻くと、鏡の裏側の方を指差して、少女に見てみるように促す。少女が、立て置かれている鏡の後ろ側から店の壁までに若干の隙間があるのを見てとると、それから鏡の後ろ側の壁に中くらいの絵画が飾られているのを発見した。若い女の人の肖像画だろうか、少しばかり隣の少年とこの女性は顔つきが似ているように少女は思う。少年が横からひょいっとその肖像画を壁から外すと、ぱっと見ただけでは気付かないだろう壁と同じ色をした取っ手がそこに現れた。少年はにっと悪戯っ子のような笑みをその顔に浮かべると、その取っ手を強く横に引く。そうしてみれば、何とそこには新たな空間が生まれ出て、少女は目をぱちぱちさせて唖然とした。いわゆる、隠し扉というやつである。
「おれの秘密基地、あんたには教えてやるよ――」
――想像に身を浸していた丹はそこまで聞くと、思わず片手を前に突き出して母の話を遮った。気持ちよく語っていたのを遮られた彼女は、やや機嫌を斜めにしながらもちらっと丹の方を見た。
「……何よ」
「か――隠し扉、って……?」
「え……あるでしょう、鏡が置いてあった壁のところに。あの人から、聞いていない?」
「……」
「丹?」
「ごめん、母さん。今日は……帰るよ」
そう言って椅子から立ち上がり背を向ける丹を、母が少し慌てた様子で引き留めた。丹が振り返って、同じように椅子から立ち上がった母のことを怪訝な表情で見つめる。母は静かに息を吐くと、小さく笑って丹に声をかけた。
「また……来なさいね」
「あ……」
そう言われて、丹も伝えたかったことがあったのを思い出した。あの日、母が〈永刻堂〉を訪ねてきた日、去りゆく母に伝えそびれていたこと……
丹は母の言葉に頷いて人懐っこい笑みをその顔に浮かべると、母と同じように静かに息を吐いて、母の漆黒の瞳から目を逸らさずに言葉を音にした。
「絶対、また来るよ。……だから、母さんも――また、来てくれ、きっと」
「……行くわよ、絶対。ランタンの調整も、してもらわなくちゃだし」
「うん、任せてくれ。俺も、母さんに時計の調整をしてもらわなきゃだ。……また、母さんの話も聞きたいし」
「そんな毎回毎回はいやぁよ。普通に考えて、次は丹が話す番でしょう?……恋人の一人や二人、いてもいい年頃なんだから」
母のその物言いに苦笑しながらも頷いて、丹は今度こそ母に背を向け、外に出ようと時計店の扉に手をかけた。――母と、こうして話せたのは心の底から嬉しかった。その気持ちに嘘はない。ほんとうの、ほんとうだった。しかし、早く、一刻も早く丹は此処から出なければならなかった。急げと瞳の奥で鳴り響く音に背を叩かれながら、丹は扉を開き、外へと出た。
外に出ると、丹は店である己の家に戻るために一歩を踏み出した。傾いた陽が、ひどく眩しい。時計店に入る前とは打って変わって、心臓は静かに命を刻んでいる。しかし、激しい鼓動の代わりだとでも言うように、丹の両目からは涙が止め処なく溢れ出ていた。唇を固く噛み、声も上げずに、丹は涙をぼたぼた零しながらひたすら家に向かって歩いていく。この帰り道に自分以外の人が歩いていたかどうかは覚えていない。泣いているところを見られただとか、変な風に思われただとか、そんなことは今の彼にとってどうでもいいことだった。
家の中に入っても未だ止まることを知らない涙を気にも留めず、丹は一目散にあの鏡が置いてあった店の一角まで進んでいく。その間に、何かを蹴飛ばしたかもしれない。しかし、それすらどうでもよかった。壁の前に立つと、丹は今まで絵画を掛けるための取っ手だとしか思っていなかったそれを、強く横に引いた。ぎっ、と古めかしいような重苦しいような音を立てて壁が横に動き、そして、壁が在ったところには新たな空間が生まれ出ていた。丹はおぼつかない足取りでその空間に足を踏み入れると、踏み入れた先に広がっている部屋を見渡して、力の抜けたように床に膝を突き、声を上げて泣いた。
部屋の中に在ったのは、一つの机と二つの椅子。低い棚、その上に飾られた写真立て――壁にも写真が飾られていた――そこには自分が生まれる前に亡くなった父方と母方の祖父と祖母の写真、父と母の写真……そして、父と母に抱かれる自分の写真も在った。自分が初めて造ったランタンも棚の中に入っている。時計や、小さな骨董の数々――これらは父と母の物だろうか――も、ランタンの隣に飾られていた。丹は肩を両手で抱いて、これ以上は泣けないというところまで、ひたすら声を上げて泣き続けた。
――嬉しかったのかもしれない。いいや、さみしかったのかもしれない。知れたことが嬉しかったのかもしれない。知らなかったことがさみしかったのかもしれない。知って、哀しくなったのかもしれない。分からない、何も分からなかった。ただ、泣くことしかできなかった。嬉しかった、母と昔のように話せたのが。さみしかった、父がこの場所のことを教えてくれなかったのが。哀しかった、知ってしまったことが。知れば、知って納得すれば、このどうしようもないさみしさは薄れるものだと思っていたのかもしれない。だが――だが、知ることによって、心にぽっかり穴が空いたようだった。嬉しかったのかもしれない。いいや、さみしかったのかもしれない。知れたことが嬉しかったのかもしれない。知らなかったことがさみしかったのかもしれない。知って、哀しくなったのかもしれない。分からない、何も分からなかった。今は、それこそまるで小さな子どものようにただ、泣くことしかできなかった。
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