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アンダイン

 目次

 見上げれば、深い緑の木々たちの間に、強い青が浮かんでいる。
 太陽の光が日に日に眩しさを増す、しるべ風の月はもう、今日で十六日目を迎えていた。
 緑の大陸は広い。自分は未だ心のままに歩を進めるばかりだが、このつま先はどうも、いつも東を目指すことを止められないようだった。緑の大陸は海に囲まれた大陸である。このまま歩き続ければ、いつかは海に辿り着くはずだった。海。なんとなく、思うのだ。海を間近で見ることができれば、自分の中で何かが変わるのではないかと。自分の中で、何かが——何かが、決まるのではないかと。
 この大陸の東の果て、太陽がやってくる場所から海を望めば、自分がそれから——
「わっ」
 ふと、隣で緩やかに流れている川から、ぱしゃりと水しぶきが飛んできて、思わずそちらへと顔を向けた。魚が飛び跳ねたのだ。きらきらと光の粒を残して輝く水面に、そういえば、と当初の目的を思い出して手の中に有る革水筒を振る。
 ぽちゃ、と控えめな音を立てるそれの中身は、もうほとんど空に近い。高台や案内板で確認してみたところ、この辺りからいちばん近い町まで辿り着くのに、最短でも三日はかかるようだった。しかし、町が遠くとも、水がなければ旅を続けることはできない。水を補給するため、流れる小川を追って入り込んだ森の中は外よりずっと涼しく、額に浮かんでいた汗が引くと共に、この喉の渇きも気にならない程度に癒えていたようだ。そのため、危うく、肝心なところである水の確保を忘れてしまうところだった。
 川の冷気を含んだ風が頬を撫でる。川岸に膝を突き、この旅の中で見てきたどの川よりも透き通って見える水面に手を伸ばして、軽くその水の流れを感じながら、ややあって革水筒の蓋を開けようと手のひらを引き上げた。
 そして、その瞬間、水飛沫が踊るのを見た。
 此処からは少し遠くに在る滝つぼの方で、さながら舞うように何匹もの羽付き魚が飛び交っている。頭上、ちょうど拓けている空からまばゆい光が降り注ぎ、砕いた水晶のような輝きがその辺り一面に散っていた。そんな光景が真っ直ぐに目に焼き付き、蓋を開けようとした指は宙に触れたまま、けれど次の動作に移ることができなかった。
 その舞い踊る魚たちと散る光は、段々と言うには鋭い速さでこちらまで近付いてくる。ぱしゃり、ぱしゃり、と忙しなく飛び交う魚たちの中心で、何か大きなものが水を掻く音が聞こえてきた。
 はじめは巨大な魚が小さな魚たちを引き連れて川を下っているのかと思ったが、目を凝らす内、水の中に在るものが魚の影ではなく、どんどん人の影に見えてきて、驚きが口を突く前に身体が先に動いてしまった。
 水の中を泳ぐ生き物なんて、魚以外に見たことはない。こちらに近付いてくるあの影は、人で間違いないのだろうか? 人は、魚のように水の中を泳ぎ回ることができたのか? 一歩後ずさり、思う。そもそも、人は水の中で息ができるのか? 自分は顔を洗うときに毎回、息を止めているというのに!
 瞬きをくり返し、まだ物心ついて浅い自分の記憶、その頁を混乱のまま捲っていく。そういえば、高台の草原で、子どもたちに読んでくれとせがまれた絵本の中に、今の状況に思い当たるものが一つ在った。そうだ、上半身は人と同じで、けれども腰から下は魚の尾をもった……
「——人魚?」
 呟くのと同時に、ざぱりと水が弾けて、川の中から影の正体が顔を出した。大きな水飛沫が割ってしまう前の宝石のように飛び散り、その一つがこちらの瞼に当たって弾ける。
「ねえ!」
 そして、水と共に声が響く。
「――此処の水、あなたにはちょっと危ないんじゃない?」
「えっ?」
「此処さ、あたしみたいなのがよく泳ぎに来てる場所だし、たぶんあなたには綺麗に見えるのかもしれないけど、見た目ほど——だよ」
 よく通る声でそう言うと、ざばざばと水を掻きながら川岸へと近付き、人魚かもしれない目の前の女性は、しかし当然のようにその両脚で岸へと上がり、自分の隣で濡れた髪を軽く絞った。夏空よりは浅く、けれども曇り空よりは透き通った水色をしている、肩より少し短い彼女の髪からぽたぽたと水の粒が滴り落ちて、川岸に生える草の葉を小さく揺らした。
「こんなに透き通っているのに?」
 一呼吸か、もう少しの間固まってしまっていた自分の口が、ここでようやく動き出した。こちらの声を聞いた彼女は、その橙色をした瞳ばかりを自分の方へ向ける。それから、ふ、とどこか寂しげに彼女の目が細められた。その色はきっと、もうじき夕暮れの光に染まる川の水面にも似ているような気がする。
「ほんとうはね、こんなものじゃあないの、この川の美しさは」
 ぽつりと、何かを確かめるようにそう発して、彼女は近くの木まで裸足のまま歩いていく。さくさくと鳴る足下の緑たちは、彼女が歩を進めるたびに落とす水の欠片を未だ受け、それを跳ね返して遊んでいるようだった。
「さて、と!」
 木の枝で揺れていた、淡い水浅葱色の上着をまだ水滴の光る肌の上に引っ掛けて、彼女はこちらを振り返って笑う。手のひらで作った水中の泡が弾けるような快活なその笑みに、かえって瞳に浮かべていた先ほどの黄昏を想い出す。
 控えめな石の装飾が施されたサンダルを素足に履かせた彼女は、川の中にいたときとは緩やかな速さでこちらに近付き、しかしぱしりと力強く自分の手首を取った。
「水が要るんでしょう? 来て!」
 迷いのない目でそう言う彼女の顔と、掴まれた手首を交互に見比べていれば、こちらの回答を待たずに彼女はくるりと踵を返した。それから間髪を入れずにぐい、と腕を引かれ、有無を言わさず最初の一歩を強いられる。
 そうして特別速くもなく、けれど遅くもない速度で走り出した彼女の背を戸惑いながら見つめていれば、ちかりと輝くものが目に映って、思わずそちらへと視線を向けた。
 歩みは川の流れに逆らって進んでいくが、彼女の左側のこめかみ辺りで揺れる羽根のような飾りは、水面の光を反射して、一種の宝石のような輝きを放っている。そういえば、先ほどまで水に濡れていたというのに、湿った様子が見られない。むしろ、水を弾いて輝きを増しているようにさえ見えた。きっと、鳥の羽根と言うよりは、もっと強固で鋭い何かだ。
 駆けながらそんな風に思考を巡らせていれば、引かれていない方の手に有る杖の石突を木の根に引っ掛けかけて、ひやりと杖のもう少し上を持ち直す。草の上を走る音と、隣を流れる水の音、それに混じって木の葉が揺れる音や鳥たちが囀る声も聞こえてきていたが、この森のもつ空気は外よりもずっと静かだった。
「ねえ!」
 だからだろう、発せられる声がよく聞こえるのは。
「——あたしの名前はアンダイン! あなたは?」
「マ——マイロウド! です」
「マイロウドくんね。よろしく!」
 走るたびに生まれる風へ乗せるように張られた彼女の声が、そのすぐ後ろを走る自分の耳に届く。澄んだ響きをもつ、アンダインと名乗った彼女の声につられて、こちらも発する声が普段よりも大きくなったような気がした。アンダインは、そのことになんとなく気付いたのかもしれない。だって、それから返ってきたよろしく、という言葉に少しだけ、笑いが滲んでいたのだ。
 自分となんら変わりのない、人の脚を交互に動かして、目の前のアンダインは上流に向かって駆けていく。
 こんなものではない、と彼女が断言した川の水面は、しかし自分の目にはこれ以上ない透き色の輝きを保っているように見えた。緩やかに傾斜している川岸を進み、最初にアンダインの姿を遠く見かけた滝つぼの隣に在るもう少し急な坂を登って、それから更に苔むした岩場を手と杖を使いながら登った。自分よりもずっと確かな足取りで滑りやすい岩場を登っていくアンダインは、時折こちらを振り返り、ちょっとだけ得意げに笑っていた。
「マイロウドくんはさ、何処から来たの? この辺りの人じゃあないよね」
 そうして高く流れていた滝を越え、更に森の奥地へと入り込み、あちこちに大小様々な石が佇んでいるごくごく浅い池に辿り着くと、アンダインはところどころ岩がせり出しているようにも見える崖を指差して、あれがご所望の水だよ、と足下の池まで緩やかに滴る湧き水を示した。先ほど登ってきた岩場のそれとは比べものにならないほど深い色をした崖を覆う苔に、少しだけ息が洩れる。
「西の方から。コーデリアの咲く辺りです」
 池に身を浸している岩の上に座ったアンダインの問いにようやく答えて、自分もまたその浅瀬の中へと足を踏み入れる。此処には、ほとんど陽が当たらないようだ。サンダルだけを引っ掛けている足に、想像よりもずっと冷たい水が触れて、思わず滑りかけてしまった。
「コーデリア?」
「はい。バラにも似た、綺麗な花なんです。心臓の花」
「へえ、そうなんだ。あたし、あんまり遠くへ行ったことないからなあ」
 崖の方まで進み、流れてくる湧き水を受けていた手のひら——その指の間から、水がぽたりぽたりと足下の池まで零れ落ちていく。それを口に運ぶこともせず、また、アンダインの問いにも、その答えを返すときにさえ彼女の方を振り向けなかったのは、ふと、自覚をしてしまったからだった。
「……この大陸の、西の端の少し手前にしか咲かない花らしいんです」
「そっか。確かにこの辺りだと、ちょっと外れてるかも」
 そう、彼女の言葉に自覚したのだ。
 ——自分はあの場所から、少し、遠くまで歩いてきたのだと。
 コーデリアの——あの心臓の花の話をしたからだろうか、なんだか少しだけ左胸の奥が音のない音を立てたような気がした。それは痛みとは違う、けれども痛みに似た何かだ。振り払うように、心の中でかぶりを振る。そうして、どこか詰まるような喉をこじ開けるために、手のひらで受け止めていた湧き水をようやく口に運んだ。
「こんなところまで旅人さんを連れてきちゃったら、あたし、後で怒られるかなあ」
 引っかかることもなく喉をするりと通っていく湧き水は、微かな甘みさえも宿して身体の中を落ちていった。手の中に有った水をすべて飲み下してから、本来の目的であった革水筒の中へと湧き水を汲んでいる途中、つとアンダインの発した言葉に、今度こそ振り返ることができた。
「どうして?」
「この辺り、もうけっこう里に近くて。ぎりぎりお目こぼしもらえるか、もらえないか……ってくらいなの」
「アンダインはこの辺りに住んでいるんですか?」
「うん、そう。でも、あたしたちの里、あんまり外の人が好きじゃないんだ。最近は特に」
 そこでアンダインは言葉を切った。
 声が失せて、革水筒の底を水が控えめに叩く音ばかりが耳に響く。陽があまり当たらないだけでなく、ひどく静かで、空気は澄んでいるというよりは最早澄みきっているように感じた。足を浸している池の水の冷たさとは別の冷たさで、この場所を満たしている空気はこちらの肌に触れる。寒いわけではない。自然と背筋は伸びるが、緊張とも違うような気がした。もっと掴めない何かの、それでもその掴めないものの気配が、此処には在るのかもしれない。
 自分にとって、初対面の相手との間に流れる沈黙はさほど辛いものではない。ただ、必ずしも相手が自分と同じだとは限らなかった。澄んだものたちだけがどこか張り詰めるような空気の中、アンダインは岩の上に座ったまま、その足先で池の水を蹴った。ちゃ、と沈黙の中に音を立てた水が、弧を描いてまた池の中に戻っていく。
「アンダイン」
 革水筒の中に粗方湧き水を注ぎ終わったところで、つと彼女の名前を呼んだ。少し俯いて足下を眺めていたアンダインの横顔は、その寒空のような水色をした髪が掛かって隠れてしまっていたが、まるで鏡のような池の水面には、彼女の淡く翳った表情がはっきりと映し出されている。アンダインは一拍置いてからはっとしたように顔を上げ、返事をするよりも先にこちらの方を見やった。
「アンダイン、もし——僕が此処にいることが見付かったら、怒られますか」
「え? あ、ああ……うん、たぶんね」
「すっごく?」
「うーん……まあ、うん、そうかも」
 水筒の蓋を締めて、軽くそれを振れば、ちゃぷ、と短い音が返ってきた。それから湧き水をもう一口だけもらって、滑らないように気を付けながらアンダインの方へと歩を進める。自分の足も、この池の冷たさにもう随分慣れたようだった。
「じゃあ、見付からなければだいじょうぶですよね?」
 アンダインの座る岩の手前に在る、腰掛けるには背の高い岩に背を預けて、なんとなく声を潜めて彼女にそう問いかける。その問いに彼女はどこか面食らったような表情をしてから、呆れ笑いを交えてかぶりを振った。
「もちろん。見付かってないんだから、そりゃあね」
「なら、きっとだいじょうぶですよ。此処って、なんというか……少し、特別な場所——でしょう? あんまり人、来ないんじゃないですか?」
「……よく分かるね。だからこそ、もし見付かっちゃったらちょっと怖い、っていうのもあるけど」
「じゃあ、もしも見付かったら、一緒に怒られましょう」
 そう言ってから、ああ、と思い、すぐにかぶりを振る。
「どうしてもアンダインが怒られなければいけない場合、です。ほら、そもそも此処にいるのは僕のせいなんですから、僕だけ怒られて済むんだったらそれでいいんですけど……」
「マイロウドくんのせいじゃあないよ。あなたは水が欲しかっただけ。それってぜんぜん、怒られるようなことでも、悪いことでもないよ、ほんとうは……」
「でも、僕のためにしたことでアンダインだけが怒られるのは変だし、僕は嫌です」
「それだったらあたしも、あたしが勝手にしたことでマイロウドくんだけが怒られるのは嫌だけどな」
 そう抗議するように発するアンダインの瞳から、ほんの少しだけ翳りが去った風に見えた。頷き、自信ありげな顔をしているだろう自分は、こちらより少し年上に見える彼女にはもしかすると生意気に映ったかもしれない。ただ、それを気にするよりも先に、言葉を継ぐための口が開いた。
「やっぱり、それなら一緒に怒られましょう」
「……分かったよ、そこまで言うなら」
「ありがとう、アンダイン。だいじょうぶです。もし見付かったら、相手の目を真っ直ぐ見て素直に謝れば……」
「なんだか怒られ慣れてるみたい。悪くないのに謝るの?」
 こちらの目は見ずに、アンダインは足下の水を先ほどよりは緩く蹴った。少し跳ねた水はこちらまで飛ばずに、ほとんど同じ場所へと落ちる。そんなアンダインから視線は外さずに、軽くかぶりを振った。
「なんて言えばいいんだろう。自分がしたことにと言うよりは、自分がしたことで傷付いた相手に対して謝る……と、言うか」
「傷付く? どうして?」
「だって、僕に対して怒る人は、いつも僕のことを考えて怒ってくれましたから。その気持ちを傷付けてしまったなら、それはやっぱり、ちゃんと謝らなきゃいけないことだと思うんです」
 ちら、とアンダインの橙色がこちらを向いた。
「人は、傷付いたときに怒るものじゃあないですか?」
 そう問えば、アンダインは少しだけ上を向いて、それからどことなく乾いた笑い声を小さく発した。その響きが何故か悲しげに聞こえて、岩から背を外せば、足下の水が波紋をつくって控えめに揺れる。
「——そっか。ねえ、マイロウドくん。たぶんだけどね、怒られることと叱られることって別のことだよ」
「え? ええと……」
「マイロウドくんは今まで、ちゃんとマイロウドくんのことを想ってくれる人に叱られていたんだ、きっと。だけど、この世界にいるのはそういう人ばかりじゃない。自分のことしか考えず、自分のことしか考えてないから——自分の感情に任せて、不都合だから、気に入らないからって理不尽に怒ってくる人もいるのよ」
 その声色はひどく静かで、それなのに、自分の肺の辺りがじりじりと焦げるような心地がした。アンダインは岩の上から池の中へと飛び降りると、そのまま歩いて先ほど自分が水を汲んでいたところまで歩いていく。鏡のような水面が、彼女が歩を進めることによって揺らいでいた。
「アンダイン」
 この場所は、小さな声でもよく響く。呼べば、崖の壁に手を添えていたアンダインが、視線だけをこちらに寄越すのを感じた。
「だったら、堂々を怒られましょう、一緒に」
「堂々、って?」
「そのままの意味です。どうせ怒られてしまうなら、自分がなるべく傷付かないようにしなくちゃ。意味もなく怒られるのは、たぶんすごく、悲しいことだと思うから」
 振り向いたアンダインの両目が、こちらの目をはっきりと捉える。
「だいじょうぶ。僕はアンダインが悪くないことを知っているし、アンダインも、僕が悪くないことを知っているでしょう。それだけ互いに分かっていれば——それでも、少し怖かったり、傷付いたりするかもしれないけど……でも、少なくとも半分こくらいにはできるはずです、そういう悲しさを。だからきっと、だいじょうぶですよ」
 アンダインが苔むした崖の岩壁から手を離し、何かを言いたげに口をはくりと動かした。ただ、そこから声が発せられることはなく、彼女の呼吸が一つ浮かんで、緑の苔たちの中へと吸い込まれるばかり。
 アンダインはその夕焼けを映した水面のような瞳でこちらの目を一瞥すると、それから視線を少し落とし、自身の手のひらをどこか寂しげに見つめた。すべての指にはめられている控えめな金色の指輪から、まるで水かきのような薄布の装飾が指の間を埋めるように流れている。アンダインは光に透けそうなそれを眺め、手のひらを一度握り、また開いた。
「……リュウの里」
 呟き、アンダインは顔を上げて、真っ直ぐにこちらを見た。
「リュウの里って言うんだ、あたしの里」
「リュウの里?」
「そう。リュウを祀り、信仰している小さな里」
 頷いたアンダインは、左のこめかみに飾られた鳥の羽根にも似ている装飾を軽く触ると、それから彼女たちが信じるというリュウの話を一つずつ、木の葉の露を数え確かめるように語っていく。そんな彼女の目があまりに揺るぎなく真剣であり、この場の澄みきった空気に響く声と相まって、言葉を紡ぐアンダインにと口を挟むことなどとてもできはしなかった。池まで滴る湧き水の音も、今は声を潜めているように感じる。
 リュウ。彼女曰く、リュウは、くねらせるほどの長い胴をもち、天を舞うその姿はさながら流れる川のように美しく、そして厳かだと云う。全身は鱗に覆われているが、年月を経るごとにそのリュウの鱗の一枚が剥がれ落ちるため、それが舞い降りた地には新たな水脈が生まれることが約束されるという伝承がある。
 また、この世の森羅万象を見通す神仙と、この世界の弱肉強食を極めた獣の両方を備えたような面差しをもつリュウの頭には、稲妻を操る一対の角、そして長い胴に備わる四本の足の爪には、雲を裂く力があり、雨を降らせる地を意のままに決めることができると云う。普段はすべての水脈が一つに繋がり、すべての命が始まった場所の奥深くに身を潜めているが、この大地が涸れ果てる危機に陥れば、必ず姿を見せて雨を降らせてくれると信じられている。
 リュウとは、自由に天候を操り、この地に雨を降らせることのできる存在であり、それはつまるところ、この世の水と命を司る大いなる存在ということだった。
 語りながら、アンダインがこちらを見て言う。リュウの鱗は透き通るような水の色、そして、瞳は燃える陽ような橙色なのだ、と。
 リュウについて発するアンダインの表情は自信に充ち満ちており、先ほど翳った表情を見せていた人物とはまるで別人のようにも見えた。アンダインの冬空色をした髪は、身振り手振りで語る彼女に合わせて、さながら水が踊るように揺れ、そして瞳は、彼女の中から湧き上がる熱を隠しきれず、確かに煌々と燃えていた。それはきっと今しがた自身が表現した、リュウの瞳のように。
 今、彼女の中で輝きを放っているのは、おそらく自信と呼ぶよりも、誇りと呼ぶべきだった。
「ドラゴンとは違うんですよね? あの、時々、ずうっと遠くに飛んでいるのが見える……」
「ドラゴン?」
 そうして、リュウについて一通り語り終えたのだろう彼女が息継ぎをしたときに、話の中で一つ疑問に思っていた点を問いかけてみた。空を飛び、角と爪をもち、その圧倒的な力で弱肉強食の頂点に存在しながらも知能の高いものが多いと言われるドラゴン。生い茂る木々と高い崖に覆われて、今は姿の見えない空を指差した自分に、アンダインは、違う、と可笑しそうに声を立てて笑った。
「——だって、リュウは神さまなのよ」
 曇りのない目でそう言い切り、アンダインは水かきの装飾がついた手のひらで、自身の心臓の辺りを軽く押した。
「あたしたちはリュウに護られ、そして、同時に呪われながら生きているのだから」
 呪われ? 彼女の言葉に首を捻れば、アンダインは自分の髪を指差し、口元だけで笑う。
「里の水源の一つが涸れたの。あたしたち、水源がだめになるたび、髪の色が濁っていくのよ」
 そう言う彼女の声は、さながら同じ速さで水が落ちるように淡々としており、またその目には、あえて感情を映していないようにも見えた。
 彼女の左こめかみに在る羽根の飾りは、足下の池の揺らぎによって生まれた光を反射して、透き色にも等しい水の色を以って輝く。鱗、というアンダインの言葉が自分の中で目の前の羽根飾りと結び付きかけ、けれどもするりとほどけて消える。それは、笑顔が悲しかったからだ。目の前で表情を歪めたアンダインの笑みが、あまりに悲しく見えたから。
「アンダ——」
「里の水がみんな死んで、髪が濁りきれば、里の終わりと共にあたしたちもみんな死ぬ」
 名を呼ぼうとした声が、淀みなく事実だけを語ろうとする彼女の言葉に遮られる。それでもと再び開いた口が彼女の名を紡ぐ前に、しかしアンダインは自身の言葉を継いだ。
「下の川。ほんとうはもっと透き通ってて、水はあたしたちを拒まず、魚たちとの距離も今よりずっと近かった。水は呼吸の一つで、その揺らぎは心の一部。そして彼の水面はいつもあたしたちの鏡だった」
 この場所と同じように。そう付け加えて、彼女は息を吸う。池の水面が少し揺れて、今まで失せていたように思える湧き水の音が耳に返ってきた。水鏡に映るアンダインは未だ淡く微笑んでいたが、しかし息を吸ったその唇を内側で強く噛んでいるようにも思える。彼女の足下の水は、震えるように揺れていた。
「みんな、もう誰も水の鏡を見ることはない。今、自分がどんな姿をしているのか、それを水に映すことはしない。知るのが怖いから」
「水が……遠くなっていることを知るのが、ですか」
「そうだったらよかったのに」
 どこか息苦しそうに笑って、アンダインはかぶりを振った。少しずつ里の水は腐っていっている。リュウの一族は水の病を治す秘薬を求めて、世界中に散らばっているのだと、彼女は言う。そうして身体の後ろで指を組んで、彼女は一歩踏み出した。
「見付からないよ、あたしたち」
「アンダイン?」
「だって、元気な人はほとんどみんな、秘薬を探す旅に出ちゃったから」
 悪戯っぽくそう笑ったアンダインの表情が、それでも切なげに映って、肺の下にある骨が軋むような思いがする。そして、きっと自分のそんな気持ちは、隠すこともできずに顔に滲んでしまっていた。視界の端、足下の鏡に映る自分の顔が、その通りだと答えを告げている。アンダインはと言えば、こちらの顔を見た後、困ったような声色で、やはり困ったようにまた笑っていた。
「——でも、あたし、なんで水が腐っていっているのか、ほんとうは知ってるんだ」
「……え……?」
「里の水は腐って、涸れていく。それと同じ速さで、あたしたちはリュウに見放されていく」
 アンダインは、何かを瞼の裏で想い出すように、ほんの少しだけ笑んだ。
「だって、人って欲深い」
 自分の瞳の中で、小さな雷が光り、音を立てるのを感じた。そうしてふと想い出したのは、傾き、崩れ、そのまま動けない身体と、出せない声、暗くなる視界に、深くなる霧のような恐怖——それから、そんな自分の手を掴んでくれた、自分のものではない体温のあたたかさ。
「アンダイン」
 だからなのだろうか、こちらに背を向けた彼女の腕を思わず掴んだのは。
「たぶん僕は、今日、出会ったばかりのあなたのことをたくさん傷付けたと思います。でも、これから僕が言うことは……もっと、あなたのことを傷付けるかもしれない。だから、先に謝っておきます。ごめんなさい」
「……マイロウドくん?」
 言葉が上手く纏まらず、震える声ですらこの場所ではよく響く。足下の水面だけではない。此処に在るすべてが、自分を映し出すようだった。そして、それはたぶん、少しだけ怖いことだ。けれど、それよりもずっと怖いことが、今自分の目の前には在った。
「——僕は、あなたに死んでほしくないです、アンダイン」
 こちらを振り向いたまま、アンダインの橙色が丸く見開かれた。
「アンダイン。僕は、あなたに生きていてほしい」
「……どうして?」
「どうしてって……そんなの、嫌だからです」
 他に言いようがなく、そのまま伝えれば、アンダインはいろんな色が混じった顔で、それでもなんだか可笑しそうに声を立てて笑った。
「子どもっぽい!」
 アンダインのその答えに、思わず口を閉ざす。きっと自分は今、ひどく不服そうな表情をしているだろう。水鏡よりも先に、堪えきれずに小さく吹き出して笑い声を上げたアンダインの顔が、その通りだとこちらへ告げていた。
「ねえ、マイロウドくん!」
「は——はい!」
「初めてあたしを見たとき、あなた、なんて言ったの?」
「えっ……ええ?」
 掴まれたままの腕でこちらの腕を掴み返してきたアンダインの問いに、ぐ、と言葉に詰まる。それでも視線を真っ直ぐにこちらへと向けてくるアンダインの瞳から逃れることができなくて、息を吐く代わりに肩をすくめた。
「に、人魚……」
「人魚! あははっ、こんなに立派な両脚があるのに!」
「絵本で読んだから……あの、子どもっぽい、ですか」
「ううん。でも、みんなマイロウドくんみたいだったらいいのにって、今ちょっと思った」
 視線で疑問を投げかければ、アンダインは面白そうに目を細める。
「自分は子どもっぽいのかもしれないって、それがなんだか気恥ずかしくなって——足下もろくに見れないあなたみたいに!」
「お、思ってないです!」
「残念、水には全部映ってます」
 そんなアンダインに返す言葉もなくて、降参の意を込めて笑い返すことしかできなかった。アンダインはどこか満足げに頷くと、ぐい、とはじめに出会ったときのようにこちらの腕を強く引いた。
「さあ、行こう!」
「わっ——何処に、ですか?」
 ぱしゃり、と透き色が跳ねた。こちらの腕を引いて歩き出した彼女に、自分は池の底に足を取られないようにするので必死だったが、それでも、彼女が笑ったのは足下の水が教えてくれた。
「それはもちろん。人魚のなり方、教えてあげる!」


20190106 
シリーズ:『マイロウドの手記

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