カンウ
ぽつり、ぽつりと、空の色を吸い込んだ雨が緩く頬を叩いている。
いつもはその名の通り、うだるような暑さに木陰を求めてばかりのこかげ呼びの月だが、今日に限っては自分も、またおそらく動物たちも、暑さとは別の理由で木蔭を探していた。
——雨は、急に降り出した。
気配もにおいも感じさせず、太陽ですら雲の上着をお召しにならないまま、雨のはじめの一粒は、青空の中からぽたりと地面に落ちてきたのだ。雨自体はこれまでに何度か見てきたが、しかし鮮やかに澄んだ青の中から、きらきらと光を受けてやってくる雨を見たのは初めてで、思わず顔を空へと向けていたら、その一粒が目に入ってひどく沁みたものだった。
それでも懲りずに光に輝く雨粒たちを眺めていれば、ふと背後からがらがらという音が聞こえてきて、はたと視線を元に戻す。その音が近付くにつれて、がらがらからごろごろという響きに変わってきた。風を切る気配にほとんど反射的に道の端へと避けてみれば、それから次いですぐに嵐のような勢いの荷馬車が隣を通り過ぎていく。
降り出した雨に焦ってか、それとも大急ぎで届けなければならない荷物があるのか、轟音を上げ去っていった荷馬車に、ぽつぽつと降りはじめた雨で少しぬかるんだ道の土が跳ねた。息を吐く暇もなく一歩引いて、飛んできた泥をなんとか避けたものの、しかし、片足をやった背後の道が思ったよりも柔らかく、そこには水すら浅く溜まっていたため、ずるりと足元を持っていかれる。
転ぶまいと無意識の内に杖を地面に突いたが、結局自分の重さに負けて背中をしたたかに木柵へとぶつけてしまったので、思わず鈍い声が口から洩れた。衝撃の後を追ってじわじわと広がっていく背の痛みに、視界の端が少し滲むのを感じる。たぶん、雨のせいではなかった。
そのまま柵に背を預けたまま、落ち着くために一つ溜め息。
そうして、なんとなく周りの景色に視線を巡らせてみた。なだらかな道の左右には、背の低い草が茂る野原と、その間に点々と存在する何者かの畑や小屋が自分と同じように雨に打たれている。此処は、一つの村から、また別の村へと至るための道だった。畑には今が旬のベッコウトウキビが透け感の美しい焦げ茶色に輝き、そこに弾かれる水滴が更にこの雨の存在を際立たせていた。
睫毛の先に水滴が溜まっているのを感じて、それを指先で軽く拭う。ずっと遠くに森が見えるが、作物を育てるために開墾されたのか、この辺りにはほとんど木らしい木は低木を除いては生えていないようだった。農家の人は今の季節、何処で休んでいるのだろう。そんなことが頭に浮かび、ぽつぽつと建っている小屋を視界に映して、まあ、きっとあそこだろうな、と結論付ける。
雨はきっとまだ、しばらく止まない。
ざっと視線を巡らせてみた限り、確かにこの周辺に木らしい木はほとんど見当たらないが、しかし、一本——たった一本だけ、此処からもう少し遠くの方に樹が生えているのが見えた。向かいの柵を越え、きらきら輝くベッコウトウキビの絨毯の間に続くあぜ道を進んでいった先だ。あの下ならば、雨宿りができる。ただ、少し前に道の途中で見かけた看板によると、次の村まではかなり近い距離まで来ているはずだった。だとすれば、走りでもして次の村を目指した方が賢いだろうか?
ふと、顔を上げる。此処に在るものすべてを叩く雨音に混じって、何かの気配を感じた。透明の降る青空の中を、幾つかの黒く小さな影が翔ていく。鳥の群れだ。その行き先を目で追えば、彼らの目指しているのはどうやら向こうに見えるあの樹のようだった。
自分のつま先がいつの間にか柵を越え、道から外れてあの一本の樹を目指していることに気が付いたのは、鳥の歌が聴こえるほどに樹の元へと近付いたときであった。そう、歌なのだ。鳥たちの発するそれが声ではなく歌と瞬間的に感じたのは、奏でられるその鳴き声たちがあまりに音楽のように聴こえたからだった。
水を弾いて輝く樹の下、柔らかく降り続ける雨に濡れた前髪を触る。頬も拭い、かぶりを降っては肩に落ちている雫を払って、もう少し幹の方へと近付いた。視界に一本の樹が広がるにつれ、まるで樹自体が歌っているようにも錯覚する。雨の中、風は時折そんな枝葉を淡く揺らす程度だった。
視線を枝葉の方へと向けてみる。樹からは、雨に溶けた緑のにおいがした。樹の一部分に複数の種類の鳥たちが集っているのは彼らの歌と、それから気配でなんとなく分かったが、今は一年の中で最も植物の緑が存在を放つ季節である。どの辺りにどのような姿の鳥たちが集まっているかまでは、此処からでは目に映すことができなかった。
緩やかな風に吹かれて、しゃらしゃらと葉擦れの音も聴こえてくる。緑が力強く両手を広げる、このこかげ呼びの月に相応しく、葉は枝を覆ってしまうかの如くに生い茂っていた。雨が枝葉を叩き、それがそのまま曲となって、鳥たちは旋律に歌を乗せている。樹の曲、鳥の歌、雨の音楽。彼らの奏でる楽の音をもう少し聴いていたくて、なるべく音を立てないようにして樹の根元に腰を下ろした。
そうしてしばらく人ひとり分には贅沢な木陰に収まっていれば、鳥たちの歌が止むと同時にとさりと何かが落ちる音が背後で鳴って、はっと後ろを振り返る。鳥の雛が落ちてしまったのか? 幹に手を添え、そろりと覗き込むようにして様子を窺えば、けれども鳥と呼ぶには大きすぎる後ろ姿が目に飛び込んできて、思わずわっと声を上げてしまった。
「おっ——と」
こちらの声が耳に入ったのだろう、樹の上から地面へとその人は、自分の方を振り返った。
「気付かなかったな……驚かせて悪かった。雨宿りかい?」
ぱちりと紅鳶色の瞳と目が合う。軽く頭を掻きながら少しだけ申し訳なさそうに、けれども声色は気さくな様子でそう発する相手に、こちらも慌てて両の手のひらを胸の前で振った。
「あ、いえ、こちらこそ。急に降り出したので、此処で少し休んでいたんです」
「さっきまで晴れてたもんなあ。ま、今も晴れてるっちゃ晴れてるが」
「不思議ですよね……」
相手——彼は中性的な顔立ちだったが、声を聴いた瞬間にすぐ男性であることが分かった。すらりとした体型は、先ほど樹の上から降り立ったのと相まって、ひどく身軽そうに見える。さあ、と雨の音と緑のにおいが交じった風が、淡く彼の髪を揺らしていた。後ろで一つに纏められた、橙色よりもわずかに濃く、どちらかと言うと茶色に寄っているその長い髪が緩く揺れ動くさまは、どこか鳥の尾羽を連想させた。
いつまでも樹の幹を隔てて会話をするのもおかしな気がして、立ち上がって彼の元まで進み出る。そうすれば彼もこちらへと歩み寄り、それからふっと微笑むと彼側の方の幹へ自身の背を預けた。自分もその隣へと並んで、彼の方を見る。
「僕はマイロウドと言います。名前、訊いてもいいですか?」
「もちろん。オレはカンウだ。よろしく、マイロウド」
「よろしく、カンウ」
そう返せば、カンウは、ふは、と小さく笑った。その理由は自分でも分かる。彼が発した〝カンウ〟と、自分の発した〝カンウ〟の音調が、自分自身で分かってしまうほどにひどくずれていたのだ。
「聞いたことない言葉って感じだな。カンウっていうのは鳥の——」
一度言葉を切って、カンウはごくごくわずかに彼の長い睫毛を伏せたようだった。それから少しばかり上を向くと、まるで口笛でも吹くかのような気軽さで、ピィ、と鋭く鳥の声をその口から発した。
「こういう、冠みたいなところのことだよ」
手の甲の上にちょこんと乗った小鳥の頭を示して、彼は柔らかく目を細めた。明らかに彼の呼び声に誘われてやってきたのだろうその一羽が、カンウに向かってキュイと鳴く。そうすれば今しがた人の言葉を話していたものと同じ口から、今度はキュイキュイ、と鳥の言葉が発せられる。
「……カンウ」
「そうそう、カンウ。いいね、そんな感じの発音だ」
「じゃなくて、その——それ、どうやってるんです?」
「えっ、どれ?」
「ぴいって、鳥の鳴き声みたいな」
「あ、あー……」
率直に浮かんだ疑問を伝えれば、彼は瞼の上を少し触った後、迷うように手の甲に乗っている小鳥の上背を撫でた。
「どうやってやるんだろうな?」
「ええっ?」
「や、なんていうか……これ、物心ついたときからできるからさ、説明しようがないっていうか。たぶん、オレの一族はみんなそうだと思うよ」
困り顔で彼は笑って、緩くかぶりを振る。カンウがチチチ、と鳥の言葉を発して、鳥の乗った手の甲を少しだけ上げた。そうしてみれば、彼が発したものとほとんど同じに聴こえる言葉を相手も口ずさんで、ぱたたと頭上の枝のどれかへと飛び立っていく。
自分もカンウの真似をして、彼が鳥の声を話すときするように唇を尖らせ、口笛を吹いて——傍目にはそうしているようにしか見えないため——みようとしたが、しかし自分の口からは鳥の言葉どころか笛の音すらしなかった。聞こえたのは、間抜けに空気が外へ出ていく音ばかりである。そんな自分を見て、カンウがちょっぴり得意げにも見える表情でピィ、と鳥の声を発した。
「カンウは、鳥の言葉が分かるんですね」
「うん? いや、分からないね」
「え? じゃあ……気持ちが分かる、とかです?」
「まさか、ぜんぜん。そこまで傲慢じゃないって。人の気持ちすら分からないのに、ましてや鳥なんてさ」
ははは、とカンウは快活に笑った。彼の声がほんの少しだけ低くなって、彼の笑い声がほんの少しだけ乾いているものに聞こえたのは、しかし自分の気のせいだろうか。こちらを向いたカンウの左こめかみで飾られている、羽根に包まれた卵のような金色の装飾が、頭上の枝葉の隙間からぽつぽつと雨のように落ちている光を受けてちかりと輝いている。
「少なくとも、オレには分からないよ」
言いながら、彼は赤い丸石が連なる首飾りに触れ、それから身に着けている矢絣柄の額当てを結び直した。光の中、未だ雨は降り続け、頭上の鳥たちも気ままに歌を歌い続けている。カンウは自身の纏っている、さながら鳥の羽根を簡略化したような模様の上衣を見下ろすと、それからこちらを見て気楽な様子で言葉を発した。
「オレ、ホウオウの民ってやつなんだけどさ。たぶん知らないよな? マイロウド、あんた、旅人っぽいし」
「ホウオウの民……はい、初めて聞きました」
「だよな。ま、ホウオウの民なんて大仰な名を名乗ってるけど、それだけだよ。夢見がちで、時代遅れで……オレたちのこと、あんただって聞いたら呆れると思うぜ」
そう話すカンウの声色や、また表情も明るいものに映ったが、けれども耳に入ってくる彼の言葉はどこか苦々しい響きを以って聞こえた。それは、嫌悪とはまた少し違う響きだったかもしれない。おそらく、倦怠とも違うだろう。それよりもっと、何か、どこか、彼の声は……
「マイロウド、夏って好きか?」
「夏?」
「雨はどうだ?」
「そう、ですね……」
唐突なカンウの問いに首を傾げつつも、きらきらと輝きながら降り注ぐ光の雨を見る。視界の端でカンウもそちらの方を向いたのが分かったが、しかしその表情までは目に映すことができなかった。
「この季節も、雨も、嫌な気持ちにはならないです。好き……なんだと思う。それに、今日は雲一つない青空の中で雨が降っている。なんだか綺麗だなって、少し嬉しくなりました」
カンウの方へと視線を戻して、そう率直に答えれば、今度は彼が首を傾げながら、なんだか面白げに目を細めていた。
「まるで初めて天気雨を見たような感想だな」
「天気雨って言うんですか?」
「っておいおい、まじかよ」
「ま、まじです」
「緑の大陸以外では、天気雨が降らなかったりするのかねえ」
カンウが肩をすくめ、雨の方は見ずに指先だけで木陰の外——天気雨の方を示した。
「この辺りはこうした晴れの日の雨——天気雨がよく降るんだ。言い伝えにゃあ、天気雨の降るときには魔女がバターを作ってるって聞くけどな」
「バター?」
「うん。魔女のバターって、どんななんだろうな?」
「……たぶん、みんなとおんなじものなんじゃないですか?」
そう返せば、カンウはちょっぴり不思議そうな顔をした後、まあ、それもそうか、と納得したように頷いていた。確かに普通のバターがいちばん美味いだろうな、と。
カンウが雨に打たれる下草の方へと視線をやる。それから少し間を置いて、こちらを見ずに彼は小さく息を吸った。
「オレは苦手なんだ。夏も、雨も」
「どうして? やっぱり、暑かったりじめじめしたりするからですか?」
「嫌いな物語があってね。夏と水の話なんだ」
訊けば、彼はそう返した。そうしてカンウはその背を完全に木の幹へと預けると、息を吐きながら下生えへと腰を下ろす。先ほどまで柔い風を含んで揺れていた長い腰巻が、彼が座るのと同時に、まるで羽が折り畳まれるかのようにするりと存在感を淡くしていく。カンウに倣うようにして、彼の隣に腰を下ろせば、彼はまだ降り止まない光の雨を見つめているようだった。
「——むかーし昔、少しだけ昔、一人の子どもは幸福を呼ぶ鳥のことを、一族の中でいちばん物知りだというおじいさんから聞きました。それは、この世界で最初に初めて魔法を手にしたとされる、一番目の魔法使いが創り出したという美しい鳥。オオトリと呼ばれるその鳥はたった一人、自分が心を開いた者にだけ、己の力を託してくれるのだと——すなわち、願いを叶えてくれるのだと、子どもの生まれた一族たちの中では言い伝えられてきました」
すっと静かに息を吸い、そう言葉を紡ぎはじめたカンウの声は、自分と今まで話していたものとも、また彼の口から発せられる鳥の声とも違い、つい瞼を落としたくなるほどにひどく優しい色を宿して、光る雨と柔い風の中へと溶けるようにして響いていく。彼の赤茶けた、夕暮れを飛ぶ鳥の影のような瞳は、どこかずっと遠くを見ていた。
「子どもには、五歳年の離れた妹がいました。或る夏の日、そう、こかげ呼びの月。それはとても——とても、暑い日でした。子ども——兄とその妹は、一族たちの、遊び盛りな子どもたちにはひどく退屈なお話し合いからこっそりと抜け出して、その日天幕を置いていた場所から少し離れた森の中へと遊びに出かけました」
さながら、そらで絵本を読み聞かせるかのようなカンウの声に、先ほどまで楽しげに歌っていた鳥たちの声もなんとなく控えめになったような気がする。睫毛を伏せては細められた彼の目は、きっと眼前に広がるベッコウトウキビ畑やそこここのあぜ道を透かして、〝その日〟の森の景色を映していた。
「その森の中で、——」
それまですらすらと編まれていた彼の言葉が、まるで呼吸が足りないという風に一度詰まった。そうしてなんだか自虐的に小さく、ふ、と息を洩らして笑ったカンウの唇にこそ笑みは湛えられていたが、しかし、その眉間には浅く皺が寄っているようだった。
「……森の中で、二人は道に迷ってしまいました。森には同じような景色が続いていて、自分たちがどの方角からやってきたのか、そしてどちらへ行けばいいのか、兄妹には分からなくなってしまったのです。その日は、暑い日でした。ほんとうに、暑い日でした。だから兄は、早く戻らなければと焦りました。何故なら、こっそりお話し合いを抜け出してきた兄妹には、水の用意なんて有りはしなかったからです」
さあ、と一瞬、樹の枝葉が音を立てた。風が瞬きの間だけ強くなって、それに乗せられた雨が頭上の緑たちを叩いたのだ。その音を聞いてか、カンウの表情がいよいよ痛みを堪えるようなそれになって、ああ、やはり、と思う。ああ、やはり、この物語の主は。
「ふらふらと森の中を彷徨い歩いて、どれくらい経ったでしょう。もう随分と時間が経ち、自分の目の前もちかちかと光り出したとき、木の根に足を引っ掛けて倒れた妹が、そこから起き上がれなくなりました。兄は慌てて妹を助け起こしましたが、妹の顔は真っ赤で身体は微かに痙攣し、目は虚ろでした。兄の必死の呼びかけにも、彼女は応えられません」
カンウは片手を伸ばし、木陰の向こうで降っている光の雨を掴む仕草をした。
「力を振り絞り妹を抱き上げて、そこからなんとか足を進めた兄は、目の前に現れた小さな里の入り口を見て、助かったと思いました。兄は、そのいちばん近くにいた人に声をかけ、水を乞いました。けれども……」
伸ばされていた片手が、音も少なく元の位置へと戻ってくる。カンウは両の手のひらを自分の両脇について、一呼吸分の沈黙を守った。
「けれども、断られました」
彼が息をした音は、聞こえない。
「その里の人たちは、元々外の人間があまり好きではなく、更に最近では、だめになっていく自分たちの里の水源に困っていたのです。そのため、兄と妹は里の前で門前払いを食らいました。何を言ってもだめだったのです。だから、兄はせめて森の出口を彼らから聞いて、そうして……なんとか外に出て、一族のみんなと合流することができましたが、そこまでの記憶とそこからの記憶は、自分も熱に当てられていた兄の中では、もうほとんど曖昧なものとなっていました」
「……カンウ、あの」
「兄妹は一命を取り留めましたが、妹の方は、その日の後遺症で生涯両脚が動かなくなってしまいました。一方兄はどこも悪くすることなく、あの夏の日のいろんな感情を自分の中で整理することができずに、一人きりでいつもふらふらと——しかし一族の天幕からは付かず離れずの距離を保ったまま、彷徨い歩くようになりました。何年も、何年も。そして、幸福を呼ぶオオトリを探して各地を点々とする一族の天幕が、あの夏の日の森へと近付くたびに、兄はその森の中へと足を進め、けれど何をするわけでもなく、ふらりと辺りを歩いていました。そんなことをもう何度もくり返していたために、兄は森の何処に川が在るのか、そして森の何処にあの里が在るのかは分かっていましたが、どちらにも近付かないようにして、いろんなものから隠れるように森の中をあてもなく彷徨っていました」
物語を紡ぐカンウの声色は相も変わらず、眠りを誘うかのように優しかったが、けれどその表情に樹のせいではない影がだんだんと色濃く落ちていくものだから、つい話の途中で彼に声をかけてしまった。しかし当のカンウはと言えばちらりとこちらを見て、目だけでただ微笑むばかりであった。
「そして、同じように森の中を彷徨っていた或る日。こかげ呼びの月の、とても暑い日です。わざわざあの夏の日のように森を訪れていた兄は、ふと、木の根元に光が落ちていることに気が付きました。日だまりではありません。また、こんなところに太陽が落ちているわけもありませんでした」
そこで一度言葉を切って、彼はピィ、と鳥の声を発した。
「——それは、鳥だったのです。何かと思って彼がしゃがんで見てみれば、それは、小さな鳥でした。暮れる太陽のような光を放つ、小さな鳥」
「鳥?」
「そう、鳥です。理由は分かりませんが、兄は直感しました。この鳥こそ、自分の一族が探し求めているオオトリなのだと。自身が心を開いた者へとその力を託し、願いを叶えると云う、魔法使いが生み出した幸福の鳥なのだと」
言いながら、カンウはかぶりを振る。
「ただ、兄にとってそんなことなどどうでもよくなることが一つ、その鳥には起こっていました。地面に落ちていた鳥は、拾い上げてみると驚くほどに熱く、またぐったりとして、痙攣を起こしていたのです。まるで、あの日の妹のように」
カンウは自身の額当てに触れながら、少しだけ息継ぎをしたようだった。
「兄の頭にあの夏の日がよぎって、それはまるで血が逆流するようでした。しかし同時に、さっと頭が冷えていくのも彼は感じていました。何故なら、彼はあの日と違い、川の場所も、こういうときにどうすればいいのかも知っていたからです。兄は自分の額に巻いていた布を取って、そこに手持ちの水を含ませると、それを絞って鳥のからだに巻きました。そうして少しだけ水も鳥に飲ませると、もっと涼しいところ、川辺の木陰まで走っていきました」
キュイ、と声が響いて、枝葉の方からカンウの元へと一羽の鳥が飛んでくる。それに応えるように彼は片方の手の甲を差し出すと、鳥はそこに留まって、また幾つかの声を発した。カンウはその声には鳥の言葉で応えず、ただ、行くのかい、と手の甲の鳥に問うばかりだった。鳥もまた彼の言葉に返事をすることなく、そんな鳥にカンウは、ああ、さようなら、と言葉を発する。そして鳥は、声もなく飛び立った。
「——夕暮れ頃、光の鳥は目を覚まし、もうすっかり元気な様子で兄に向かって……彼も聞いたことのない、鈴が鳴るような声で鳴きました。そのからだは弱っていたときとは比べものにならないほどに光り輝き、まるで、小さな太陽が手のひらの上に乗っているかのようでした。鳥は……オオトリは手の上で、その虹色に移り変わる瞳でじっと、何かを問うように兄のことを見つめました」
鳥が留まっていた手をそのまま少し掲げたまま、カンウはその一羽が飛び去っていった方角を眺めやる。その横顔に、まだ太陽は空のてっぺんに在るにもかかわらず、夕暮れの気配を感じた。
「兄は、魔法に対価が必要なことを知っていました。人の願いを叶える、魔法で創り出された鳥。ならば、願いを叶えんとするその鳥に課せられる対価とは、一体なんなのか。声か、瞳か、翼か、それとも……」
手を下ろして、カンウは少し自虐的に笑った。
「兄は結局、オオトリに何も願うことはできませんでした。たった一言、あの夏の日のことをなかったことにしてほしい、妹の脚を治してほしいと願うだけで良かったのに、何も。怖かったのです。誰かの命のために、誰かの命を犠牲にすることが。それを、自分だけが知っていなければいけないことが。結局、何がなかったことになって、何が治ったとしても、自分の心だけは癒えず、苦しみが増えるばかりだということが。自分のために、願えなかった。或いは、それが彼の願いでした」
唇に笑みを残したまま、彼は下ろした片方の手のひらを見つめ、それを緩く握ったり開いたりをくり返す。鳥の歌はもうほとんど聴こえず、雨の音も段々とその鳴りを潜めているように思えた。カンウもそれに気が付いたのか、ふと、枝葉の方へと顔を向け、けれどもすぐに自分の手へと視線を戻した。
「願いの代わりに、彼はオオトリに言いました。もう二度と、自分たち一族の前に、自分の前に現れないでくれ、と。自分たちが見付けられないほど遠くへ、遠くへ行ってくれ、と。それは最早願いなどではなく、ほとんど呪いじみていました」
カンウは両手を組み合わせると、少し困ったように頭上を仰いだ。それでも彼は鳥の声を発さない。
「……それから数年の時が経ち、兄がもう十分に大人を名乗れるようになった頃、彼の妹は一族の中の美丈夫と婚約をすることになりました。妹は自分の力で幸せを掴み取ったにもかかわらず、兄はと言えば未だに一族の誰にも、唯一の肉親である妹にすらオオトリのことを話すことができず、各地をふらふらと彷徨い、樹の上なんかで鳥の真似事をしています。妹はあの夏の日から確かに成長したのに、兄だけがあの日からずっと子どものまま、こんなところで……通りすがりの旅人に八つ当たりをしていましたと、さ」
少しの沈黙。語り終え、呼吸をしたカンウは、もうすぐ止もうとしている雨の方を見やって、はた、とした表情を浮かべた。そうして自分の唇を親指で触って、眉間に分かり易く皺を寄せる。まるで、こんなに話すつもりはなかったとでも言うような顔だった。
「あの、カンウ」
「……なんてな。どう、けっこう上手いだろ?」
「それは……流石に、苦しいと思いますよ」
「……うん」
はああ、と長い溜め息を吐いて、彼は立てた両膝の間に頭を埋めた。
「……これ、鳥にはよく話すから。オレ、あんたのこと、鳥かなんかだと思ってんのかな」
「僕、鳥にしては大きいと思いますけど」
「わぁってるよ。でも……」
「でも?」
ややあって、カンウが顔を上げる。たぶん、もう雨は止んでいた。
「——オオトリが、また来たのかなって思って」
「え?」
「いいよ、なんでもない」
くすりと寂しげに笑って、彼はかぶりを振った。そして、雨が止んだことに気が付いたのだろう。カンウは立ち上がって木陰の外へと歩いていく。雨上がりの強い日差しがカンウを照らして、彼はその光が痛そうにこちらを振り返る。そんな彼の元へと自分も歩いていけば、カンウは何故かこちらを見て眩しそうに目を細めた。
「……カンウのほんとの願いって、なんだったんです?」
「あんた……変わってるよな。普通訊かないと思うよ、この状況だったら」
「まあ、その辺りは、さっきまでバターを作っていた人のお墨付きなので」
「なんか、あんたが言うと冗談に聞こえないよ、マイロウド」
肩をすくめて、カンウは呆れたようにそう言った。さあ、と柔らかい風が吹く中、背後から雨宿りを終えた鳥たちがピチチ、と声を上げながら飛び立っていく。その声は、明らかにカンウを目指したものだった。
「……妹の脚を治してほしい。あの里の水を元に戻してやってほしい。オオトリに出会った日、あの鳥にかけた呪いを解いてほしい。みんなを自由にしてほしい。オレを自由にしてほしい。あの日のことを全部なかったことにして、全部忘れさせてほしい」
鳥たちが去っていく方角を見つめていたカンウは、少し間を置いてからふとこちらの方を向いた。
「——あの日、水が欲しかった」
それだけだよ、と微笑んだカンウの笑顔があまりにも痛々しげで、自分がどんな表情を浮かべたのか分からなかった。ただ、それからカンウが困ったように笑い混じりの息を吐いたから、随分と酷い顔をしてしまったことだけは分かる。
「え、なんだよ」
そうして思わず、ほとんど衝動的に彼の手へと自分の革水筒を握らせていた。カンウは手の中に有る革水筒を見やって、もちろん訳が分からなそうに首を傾げていたが、自分にも何故そうしたのかが分からないために説明のしようがなかった。しばらくカンウの手に乗った革水筒を見つめて押し黙っていれば、彼は根負けしたように、その蓋を開けて中身の水をあおり、
「ぬるいな」
と、一言感想を放って、こちらへ手へと水筒を返してきた。
「……真っ直ぐな目をしてたんだ、あんたみたいに」
ふと、カンウがそう発して、手の中の革水筒から視線を上げる。目が合ったカンウの紅鳶色の瞳が、昼間の白い光を反射して、それが涙の膜のように見えたものだから、少しばかり喉の奥が詰まるように感じた。
「あの夏の日から、みんなオレと目が合わないんだ。視線自体は合うんだけど、ああ、分かるだろ? 腫れ物扱いってことさ。だから、嬉しかったんだよ、ほんとは。オオトリとは、ちゃんと目が合ったって思ったから」
言いながら、カンウの眉以外が笑う。彼はあまり作り笑いが上手くない。だからこそ、彼のいびつな笑顔を見ていると、じり、と心臓の中が痛むように思えた。
「でもさ、きっと、妹もそれは同じだったはずなんだ。でも、あいつは——オレが、オレだけが逃げた。オレだけが、ずっと逃げてるんだ」
「……それって、いけないことですか?」
「分からないな……たぶん、分かりたくもない」
顔を鳥が飛び立っていった方へと向ける。もう鳥の歌も、鳥たちがカンウに呼びかける声も聴こえず、またその姿も目に映すことは叶わないが、それでも視線を向けずにはいられない。彼らの別れ方は、ああ、なんだか少し喉の渇きにも似て、寂しげなものように思えてならなかったから。
「……またねって」
「うん?」
「また会いたいときは、またねって言うものらしいです。さよならじゃなくて、またねって。僕も最近、知ったんですけど」
「ああ——」
言えば、カンウもまた鳥たちが飛び去っていった方角を見つめる。雨上がり。太陽の光は、そこここに溢れるほどに落ちていた。
「……うん、知ってるよ」
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