こころ映しの花束
〝ニシキマコト〟という男は、ばかな男である。
鼻の先に差し出された花の一輪を見つめながら、町を気ままに散歩していた一匹の犬は思う。
そうなのだ、この男は底抜けにばかなのだ。今日、最初に花屋でこの男を見かけてから、おれはずうっとそう思っていた。ほんとうに、ほんものの、仕様のない――
「――ああ、そうそう、それくらいの大きさの……そう、あまり派手じゃない感じがいいな。え?……あ、うん、贈り物。夕方から誕生会に呼ばれててさ……まぁ、人数の埋め合わせで、だと思うけど……そう、そこまで仲良くはないんだ。だから、えっと、何あげればいいか分からなくて……花なら、だいじょうぶかなって」
いい加減、気怠い日陰でだらだらと過ごすのも飽きてきた昼下がりである。見上げた空がこんなに青いのだ、少し散歩するのも悪くないだろう。そう、おれは目がいいのだ。他のやつらがどうかは知らないが――まぁ、おれほどよくは見えないだろう――おれには世界が色に溢れて見えるのだ。まったく、誰だ、おれの目に色がよく映らないと決めつけたのは……
のっそりと立ち上がった一匹の犬は大あくびをしながら、陽のよく当たる道の方へと歩いていく。その道中で見かけたのは、気のよさそうな辰砂色の瞳に、それよりかは深い色、そこにほとんど茶色のような黒がところどころ交じっている髪――気取って襟足だけを伸ばした癖っ毛だ。さらに、彼の左の耳たぶでは透明な玉の中で炎が燃えている、ヘンテコな耳飾りが揺れていた。誰かに向かって彼が笑う。……そうそう、こいつの笑った顔はどうにも幼く見えるのだ。確か彼――この、間抜けと言って差し支えないだろう男の名前は〝マコト〟だったと、一匹の犬は思う。マコト、そう、マコトだ。〝ニシキマコト〟、それがこの男の名前。マコトは、何やら花屋から小さい花束を受け取って笑っている。それを眺める犬の尻尾が、退屈そうに揺れた。
おおよそ、好きな女にでも会いに行くのだろう。マコトの困ったような笑顔と、小さくて控えめだが美しく彩られた花束をその丸い瞳で一瞥して、犬は思った。おれはこういうのにけっこう鋭い。他のやつらがどうかは知らないが――いや、きっとおれよりは鈍いだろう――おれには分かるのだ。そうだ、こいつの後をつけてみることにしよう。ちょうど、暇を持て余していたところだ。こいつの後についていって、こいつが花を渡す相手にこっぴどく振られるところを笑ってやろう。それがいい。犬は、花屋から遠ざかって大通りの方へ歩いていくマコトのことを、見失わない程度にのんびりと追っていった。
「あ……だいじょうぶかい、お嬢ちゃん?」
「い――痛い……」
「ああ、擦りむいてるな……歩けるか?……無理か。うんじゃ、俺が近くの公園まで運ぶな。とりあえず、水で洗わないと……あ、悪いけどこの花、持っててくれ」
……この男は、一体全体何をやっているんだ。
思わず吠え立てたくなる気持ちを抑えつけて、犬はマコトが、転んで怪我をした小さな子どもを両腕で抱えるのを黙って眺めていた。今にも泣き出しそうな少女に何やら声をかけながら、マコトは足早に道を駆けていく。こういうときのこいつはどうやら足が速いらしい。てきぱき動くことができるのなら、最初からそういう風に動けばその間抜けそうな雰囲気も少しは何とかなるのではないだろうか。そんなことを考えながら、犬はマコトを追い抜かない程度の速さで、彼の後ろを駆けていく。
「……これでよし……っと。泣かなくてえらかったなあ、お嬢ちゃん」
犬が公園に足を踏み入れると、少女の怪我の応急処置はすでに終わったようだった。マコトがちびの頭をわしゃわしゃと撫でている。ちびが間抜けを見上げて、無邪気な笑顔を見せた。
「ありがとう、おにいちゃん……。あ、お花、返すね。えっと、きれいだね。お花をもってるとね、かわいいおねえちゃんになった気分でね、うれしかった」
「……」
マコトは少女から花束を受け取りながら、ぼんやりとその花たちを眺めている。その瞳に映った色に、犬は言いようもない不安を覚えた。おいおいまさか、おまえがどんなに間抜けだとしても、まさかそんなことはしないだろう。そんな犬の心は露知らず、マコトは花束の中から何輪かの花を抜き取って少女に手渡した。その行動に犬はもう地面にごろごろ転がってひたすら唸ってやりたい気分だったが、そこは犬にとってたいせつな暇つぶしであり、乗りかかった舟だった。
――まぁ、小さい女の子はかわいいからな……
満面の笑みを浮かべる少女の頭をにこにこして撫でるマコトを眺めながら犬は、彼がまた歩き出すのを待っていた。
「お――おい、だいじょうぶか」
「……うるさいな、ほっとけよ」
「ほっとけって言われてもなぁ……冷やさないと腫れるぞ、それ」
「いいよ、別に」
何をやっているんだ、とは思いつつもこの状況に慣れてきてしまった犬である。マコトと一匹の犬は、白みがかった黄緑――柳色を宿した髪の少年が、一人の少女に頬を勢いよく叩かれるのを目撃したのだった。走り去る少女を二人と一匹は呆然と見送りながら、マコトはいたたまれなくなり、ぶっ叩かれたことで頬を赤くした少年に声をかけた。
「あー……なぁ、何があったか聞いてもいいか?」
「……別に……いらないこと言っただけだよ、おれが」
「ああなるほど、素直になれないのか」
「うっせえな……どうしろってんだよ、ちくしょう……」
マコトが、花束を持つ方の手で困ったように頭を掻いた。その拍子に花びらが一枚、ひらひらと地面に落ちる。その花びらが空中に踊る様を見つめながら少年が、ほとんど呟くように言った。
「花の一つでも、ありゃいいのかな……」
いらないことまで拾う間抜けの耳は、やはりその呟きも例に漏れず拾い上げたようだった。今度はほとんど迷いなく花束の中から一輪、もう一輪と花を抜き取っていく。二輪くらいなら差して問題はないだろう、と犬が半ば呆れた気持ちで眺めていれば、その抜き取った二輪を眺めたままマコトが動きを止めた。少年と犬が怪訝に思って彼のことを見ていれば、マコトは意を決したように頷き、あの子どもっぽい笑みを顔に浮かべて、抜き取った二輪の花ではなく――むしろその二輪だけを自分の手に残して、残りの花束は全部少年に押し付けてしまった。少年が困惑しきってマコトを見上げれば、彼は〝お人好しです〟と書いてあるその瞳を細めて少年の背を強く叩き、言う。
「早く行けって。今ならまだ追い付けるだろ? おまえ、足速そうだし」
「え……いや……」
「早く!」
「――くそ……っ! 分かった、行きゃあいいんだろ、行きゃあ!……借りは、返すからな!」
そう叫び、小さな花束を抱えて走り去る少年にひらひらと手を振って、マコトは喉の奥だけで笑った。
「……悪役みたいな台詞だなぁ」
愕然として声も出ない犬である。くつくつと笑うマコトの手の中に二輪の花のみが残されているのが目に入ると、我に返った犬は彼に向かって大きな声で何回も吠えた。――ばかだ、ばかだ、おまえはばかで間抜けで、どうしようもないやつだ!……と。
マコトはその声にびっくりして振り返ったが、吠え立てる犬の姿を認めるとすぐにその表情を和らげた。それから未だ吠え続ける犬の方へ怖がりもせず歩いてきて、目と目を合わせるように地面に胡坐をかいて座った。マコトは手の中の残された花を眺める。その瞳の中にいろんな感情が混じり合っているのを犬は見付けると、そのたくさんの感情の中にさみしさも混じっていることを認めた。彼に向かって吠え立てる気がなくなった犬は、さみしがりのマコトの手をぺろっと舐める。
「……おまえ、今日一日俺についてきてくれてたろ。ありがとな、疲れただろ?……でも、俺はけっこう楽しかったよ。おまえはどう?――誕生会、すっぽかした言い訳……考えないと、なぁ……」
その言葉に犬は空を見上げる。確かに、空はもう藍色に塗れはじめていた。誕生会は夕方から――言われてみると、そんなことをこいつは言っていたかもしれない。つくづく仕様のないやつだ、と犬が呆れかえっていると、マコトは犬の首元をよしよしと優しく撫でて、花の一輪を片手に持ち、子どもっぽく笑った。
「――ありがとう」
〝ニシキマコト〟という男は、ばかな男である。
鼻の先に差し出された花の一輪を見つめながら、町を気ままに散歩していた一匹の犬は思う。
そうなのだ、この男は底抜けにばかなのだ。今日、最初に花屋でこの男を見かけてから、おれはずうっとそう思っていた。ほんとうに、ほんものの、仕様のない――
犬は差し出された花を口でくわえると、フンと鼻を鳴らした。生意気な態度をとっている犬の頭をマコトは楽しそうに撫でると、残った花のもう一輪を片手に持ち、元来た道を引き返していった。
彼が何処へ向かうのかは、大体検討がついている。犬は花の柔らかな香りが鼻先をくすぐるのを感じながら、心の中だけで笑った。マコトはこれから、最初に花束を買ったあの店へと戻るだろう。それから、ずっと持ち歩いていたせいで萎れてしまった花の一輪を、花束をつくってくれた店員に差し出して困ったように笑い、痒くもない頬を掻きながら言うだろう。
「この花……萎れちまったんだけど、助けられないかな」
まったくもって、どうしようもなくばかな男である。犬は大あくびをした。
それにしても、花の一輪を抱えて眠る犬なんてのは、もしかしなくてもおれが初めてかもしれない。ああ、いいや、しかし……存外、そういうのも悪くない。
犬は笑った。
――〝ニシキマコト〟という男は、ばかな男である!
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