白火飴
手のひらの炎に炙られて、ひび割れるガラスが声を上げるのをただ眺めていた。
その手から滑って落ちていく色とりどりのガラス玉を追うことも拾うこともせず、丹の瞳は工房から店内へと転がっていくガラス玉の一粒を虚ろに映している。霞んでよくは見えない両目に、似合わないから、と普段はかけない眼鏡を押し当て、飴色のブランケットを頭から被って作業台に突っ伏す。部屋を満たす空気はどこか冷たく、丹は突き放されたような気持ちで木の器に盛られているたくさんのガラス玉、その一粒に手を伸ばした。
何も考えたくない、そんなときはまずランタンのことを考えることにしている。たとえば、アイデアスケッチを描いてみる、設計図を描いてみる、部品を組み立ててみる、燐寸の火で少しばかり遊んでみる、そんな風に。
だが、今は。
今はどうだろう、手の中でガラス玉を転がし炙って、挙句の果てに床に落としている自分は。父が見たら言うだろう、だらしがない、と。母が見たら言うだろう、格好が悪いわね、と。ああ、だがそれもどうでもいい。丹は深い溜め息を作業台の上に転がした。
不意に、店の入り口の方から扉が開く音と小さく足音が聞こえてきた。ぼんやりとする頭で、聞こえてくるそれらの音を不思議に思いながらも、丹はどうしても立ち上がる気力が湧かず机に突っ伏したまま、意識だけをその音のする方へ向ける。しばらくすると、工房の扉辺りから明るい声が聞こえてきた。
「あ、また開けっ放しでランタン造ってるんですか、丹さん――」
ああ、この声は、と未だ不鮮明な頭に浮かぶのは或る少女の黄土色。返事の代わりに生気のない声を上げながら、今、自分の姿は彼女の瞳にどう映っているのだろう、と丹は思った。次いで乾いた笑いを小さく漏らす。ブランケットを頭から被って机に突っ伏す自分は、さしずめ飴色のよく分からない生き物、そんなところか。それでも顔を上げずに、丹は掠れた声で扉の前から動いた気配がない彼女に声を掛ける。
「――今日は臨時休業するって、表に書いてなかったっけ……」
「え?……ご、ごめんなさい、よく見てなかったかも! あの、丹さん、体調でも悪いんですか?」
「……いや、元気だよ」
「ええ? そんな風には……」
言いかけた言葉を遮るように、丹は作業台から顔を上げた。縁が錆色をした眼鏡の中にある丹の辰砂が、いつもより赤みを帯びた色を湛えていた。少し伸びをした後に長く息を吐いてから、丹は口を開く。
「ただの寝不足だって」
「……目、赤いですね」
「コンタクト着けたまま仮眠しちゃってさ」
「ほんとうに?」
「――嘘、失恋した」
彼女の丸い瞳が、更に丸みを帯びる。その表情を見た丹は小さく吹き出して笑った。
「言いたかないけどな、友だちの間では失恋王って呼ばれてんだよ、俺。やれやれ、不名誉なこった。いっつも勝手に好きになって勝手に失恋してんの、傍から見れば結構面白いと思うぜ。いやあ、それにしても何が駄目なんだろうな? こういうところか? はいはいどうせ俺は臆病者ですよ……何だよ、意外か?」
「あ、いえ、あの――ランタン一筋なのかなって」
「あのな、ランタンとは結婚できないだろ」
「それは……確かに」
席を立ってホットミルクを作りながら、丹は吐き捨てるように口の中だけで呟いた。格好悪い。下唇を強く噛みながら思う。格好悪い。臆病で自分の気持ちもろくに伝えられない自分が、失恋したくらいで仕事を投げるような自分が、それを知られたくないがあまり、へらへら笑って誤魔化そうとしている自分が。視界の端で、床に落ちているガラス玉を拾い上げている彼女の、黄土色の髪が少しばかり揺れた。
「これ、お店の方にもいくつか落ちてましたけど……ガラス玉?」
「ああ、うん、古いガラスの玉らしい。親父の。倉庫に大量にあってさ、溶かして何かに使えないかなと思ったんだけど――ちょっと火力……が足りなかったな、全然溶けなかったよ。中にヒビが入っただけ」
火力も何も、ただ何となく、燐寸の火を手のひらに移してガラス玉を炙っていただけだ。溶かす気なんて、さらさらなかったのだろう。丹の心の中にある青い炎が、丹自身を軽蔑してばちばちと熱く冷たく爆ぜる音を立てた。言い訳だけは得意だな、そんなおまえの汚い手で、人を笑顔にすることができるとでも? 丹は両手に持ったマグカップの一つを、ガラス玉を転がしている彼女の手のひらに押し付けて、自分は熱いホットミルクを一気に飲み干した。喉を焼くような熱さに、丹の眉間に深く皺が刻まれる。丹のぐつぐつ煮えて蒸発する思考が、しかし一点の光のような明るい声によって地面に引き戻された。
「――綺麗ですねえ、これ!」
「え?」
「ほら、光にかざすとヒビの部分がきらきら光って……」
そう言って渡されたガラス玉を、白熱灯の光にかざしてみる。丹の霞んだ目にも、その輝きは映った。床に落ちている青のガラス玉を拾って光にかざす。ヒビの部分が白に、時折黄にも光って見えた。丹のどこか青白かった頬に、少しの赤が差す。彼は子どものようにはしゃいで笑った。
「――すごいな、これ! よく気付いたなあ、はは、いろんな色が見える」
「……丹さんって、臆病ですか?」
「何だよいきなり?……自慢できることじゃないんだけどな」
「丹さん、わたしが草むらに花の種を落としてしまったらどうしますか?」
「うん? 探すだろ、そりゃ」
春のやさしい土の色をした髪を揺らして、彼女は小さく笑った。ガラス玉の色彩が、彼女の瞳を照らして転がる。今日の天気など丹は覚えてもいなかったが、先ほどまで冷えていた工房の空気が晴れの日のように、少しだけ暖かくなったのを彼は感じた。
「丹さんにはそういう勇気があるじゃないですか!――見つかるかも分からない種を探す勇気が。ね?」
「それはだって、その花の種はおまえのたいせつなものかもしれないから……だろ。誰でも探すって」
「ふふ、そうでもないんじゃないかなあ。伝えることって、言葉だけのものじゃないですよ、きっと」
先ほど飲んだホットミルクの熱さが、喉元まで戻ってきた。ゆるやかに上ってくる熱さを含んだ水を抑え付けるように、眼鏡を強く目元に押し付けた。その熱さが去っていくと、今度は別の熱さが丹の喉まで込み上げて、彼はそれを抑えることができずに笑い声として外に放り出した。驚いた彼女の手のひらから一粒、ガラス玉が落っこちて軽快な音を奏でる。丹は床に転がっているすべてのガラス玉を拾い、棚に入っていた透明なコルク瓶に詰めて、彼女の手のひらに置き渡す。
「これ、お礼な」
「えっ?……何の、ですか?」
「何でも。――ありがとうな」
「ええと、どういたしまして……? あ、そうだ、丹さん。命短し恋せよ乙女!……ですよ! きっと、だいじょうぶです!」
「俺は乙女じゃないんだけどなあ、お生憎さま」
「あはは、そうでした、そうでした」
笑った彼女の瞳は優しい光で満たされている。白い陽光に照らされる黄の花、その花に映る光。自分の瞳はひび割れてしまってはいないだろうか、と丹は眼鏡を外してその瞼に指を滑らせた。いいや、ひび割れてしまっていてもいいのだろうか。彼女の手のひらにある、あのガラス玉のように輝けるのならば。嘘吐きな手のひらでもいいのだろうか。自分のランタンの灯が、誰かのことを照らせるのならば。丹は少しだけ笑って、小さく首を振った。今は、目の前にあることだけを信じよう。彼女の手のひらで光るあの色彩を、彼女の陽光を、言葉を。それは今、彼の心で光を放っている、最大限の勇気の炎だった。
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