コージィ
土のにおい。
あれから一月が経った。今は春のはじめ。けもの歌の月である。
畑仕事による血豆は一時期ペンも握れないほどだったが、最近では多少落ち着き、元々持っていた羊皮紙に筆を走らせることもできるようになった。
ペンを持ち、日記を付けるようになってから気が付いたことだが、どうやら自分は文字の読み書きができるらしい。自分が今いるのは、緑の大陸と呼ばれる国のほぼ最西端であることはコージィから教えてもらったが、その緑の大陸を名目上では統べていた王家が百数十年前に没落し、今、この国に王が存在しないことは、彼女に問わずとも、何故かはじめから知っていた。
ちなみに、食事、入浴、服の脱ぎ着などは問題なく行えたが、家事や畑仕事についてはコージィや子どもたちに一から教わらないと、右も左も分からなかったため、随分と呆れ返られたものである。
頭上を見上げる。空は高く、澄みきっていた。辺りには太陽の光がさんさんと降り注ぎ、もうすぐ昼になるという頃だったのを、そういえばと思い出す。
畑を耕した鍬を杖にして、ふと背後を振り返った。土と草木のにおいをないまぜに、風が吹き抜けていく。春のものにしては冷たいそれは、青空の下に掛かっている大量の洗濯物をしかし穏やかに揺らし、同時に洗濯物を干すコージィの蜂蜜色の間をも、ゆったりと吹き抜けていっていた。
——コージィ。
柔らかな金をした髪を両耳の下で二つに結び、白く丸い帽子を頭に被っては、腰に膝丈の緑色をしたエプロンを身に付けるのが常らしい彼女は、慣れた手付きで次々に洗濯物を干していた。
その手伝いをしている子どもたちと何事か言葉を交わす彼女の横顔では、秋の入りに微かに褪せ、そして微かに深くなる葉のような緑が、今ばかりは陽光に照らされてきらきらと輝いている。
一月前の光と闇の中で見た彼女の二つの顔は、思ったよりも簡単に自分の中で交じり合い、一人の人間——コージィとして、自分の中に収まった。
どちらも彼女であり、おそらくはどちらが欠けても彼女ではない。そう感じるのは、自分が目を開けたときに映ったのがどちらも彼女だったからだろうか。
息を吸う。
辺りは緑の草原が広がっている。風にさわさわと草花がそよいでいた。手を鍬から外して、少しだけ歩く。何処までも続いていくように思える草原の端まで歩を進めると、白い柵に囲まれているその眼下には、遠く、小さな町の姿が見えた。
この町外れの高台には、一人で住むには大きく、しかし大家族で住むには小さい一軒家が建っている。そこがコージィと子どもたちの住まいであり、そしてまた、自分が目覚めた場所でもあった。
「おれのじいさんの家だよ。ま、もう随分前におっ死んじまったがな」
自分が目覚めた次の日、あれこれとコージィに問うたり問われたりする中で、彼女はそんな風に肩をすくめて言ったものだった。こちらの記憶がないことを、どうやらほんとうらしいと彼女は悟ると、
「おれたちと似たようなもんだな」
と、少しだけ笑っていた。
言葉を交わす内に分かったのは、彼女が天涯孤独の身であること、それから、彼女は寄る辺を失った町の孤児たちで形成された、小さな盗賊団の元締めであるということだった。
それに対して、特に嫌悪感は覚えなかった。そもそも、自分は彼女たちという人間しか知らないのだから、彼女たちに生きていてほしいと思うのは、おそらく、きっと、普通のことなのだろうと思う。そうすることでしか生きていけないのだというのなら、尚更。
命を助けてもらった恩とコージィから借りた〝でかい貸し〟を返すため——と言うよりは、自分にも何かできることはないだろうかと、そう思い立ち、こうして自分も鍬を手にしてみたが、実際役に立てているかと問われると、それは微妙なところな気がする。
「おおい、こら〝イソウロウ〟、何サボってるんだよお」
遠くから、幼くもよく通る声が飛んできて、ゆるりと後ろを振り返った。孤児ではあるが、コージィの家族であり、また盗賊団の一員でもある子どもたちの中の一人が、言葉とは裏腹に明るい表情をしてこちらへと駆け寄ってくる。
「なにしてんの? 町、見てたの? それ、なんかおもろい?」
「いえ……じつは、町のことはあんまり見てませんでした」
「はあ? じゃ、なにを見てたっていうんだよぉ」
「何を、か……そうですね、きみたち、かもしれません」
「町の方を見てたのに? 変なの!」
明るい表情を更にぱっと明るくさせて、屈託なく笑う子ども——ラフを見ていると、なんだか目の前をきらきらと眩しいものが舞った気がした。手のひらの辺りがじんわりと温かくなる。
自分の中になんとなくもどかしさを感じながら、特に為すすべも見当たらずにラフのことを凝視していれば、じっと見られていることに違和感を覚えたのだろう、少年はこちらを見上げながら小首を傾げた。
「……イソウロウってさ、笑わないよね」
「え? そう……なんですか」
「なんだよ、昔の自分のことじゃなくて、今の自分のことも分からないのかよお。おまえ、つまんなそうってわけじゃないんだけど……でもぜんぜん、笑わないよ。笑い方、忘れちゃったの?」
からかうようにそう笑ったラフの言葉に、思わず片手を自分の頬に押し当てた。笑い方を忘れたのだろうか、自分は。だとしたら、思い出せるものなのだろうか。そもそも、自分は笑い方を知っていたのだろうか。
笑えれば、と思って吐き出した息は、ただの息にしかならなかった。肩をすくめて、ラフから視線を外す。高台の下から吹き上げてくる風は、自分の前髪や衣服に入り込み、それらを緩やかな力で浮き上がらせている。ちなみに、自分が今着ている服は、このラフがコージィに頼まれて、眼下の町から盗み出してきたものだった。
ラフが白い柵に背を預け、その丸い目でこちらを見上げ、どこか大人びた表情をわざとらしくつくっては、それとは対照的にからからと声を上げて笑った。
「笑おうとして笑えるもんじゃないって。それより戻ろうよ、イソウロウ。コージィに怒られる」
そう言ってこちらの手を掴んだ小さな手のひらは、しかし思ったよりも強い力で自分をぐっと引き寄せた。急に引っ張られたことによって、こちらが少しだけぐらついたことに気が付いたラフは、おぼつかない足下を見たのちにこちらを見上げて、今度は呆れたように小さく笑う。その丸い瞳の周りが、またきらきらと光って見えた。
「……ラフの目は、きらきらしてますね」
「えっ、そう? そんなの、がきっぽくて恥ずかしいや」
こちらの手を引いて駆けはじめたラフは、そう呟くと前を向いて、自分の頬を掻いたようだった。ラフの両足は、こちらのものよりも忙しなく地面を叩く。それもなんだか眩しくて、暖かなもののように思えた。
「でも、おまえだってそうだよ、イソウロウ」
ううん、と小さく唸った後にこちらを振り返った少年は、その輝く丸い目をこちらに向けて、にっと音が鳴りそうなほどに自分の表情を崩した。
「イソウロウは笑わないけど、目の奥がきらきらしてる。だから、べつにつまんないわけじゃないんだって分かる。〝キオクソーシツ〟になったやつって、もっと落ちこんだりするのかと思ったけど、おまえはそうじゃないみたいだ」
あ、落ちこむためのキオクがないのか、と呟いたラフに手を引かれながら、自分はそっと少年の方に向けて背を丸めた。なんとなく小声になってしまったのは、コージィに聞かれたら怒られるかもしれないと思ったからかもしれない。
「——みんなと過ごしていると、落ち込んでる暇なんてありませんよ」
「あはっ、言えてる。イソウロウ、コージィこわい?」
「怖くはないです。だけど……そうだね、時々ちょっとおっかないかな」
「それ、どこが違うんだよぉ」
溜め息混じりに笑うラフの上を何かが弧を描き、その何かがこちらの額の上で、すこんと音を立てて跳ね返った。
「仕事をサボってお喋りとはいいご身分だなあ、二人とも?」
じんじんと痛む額に片手をやりながら、声がした方へと顔を向ければ、にこにこと鬼の形相をしたコージィがラフの前で仁王立ちをしていた。それを目にしたラフの横顔は引きつり笑いに歪み、少年のそんな表情を見たコージィはその笑みを更に深めている。ラフが顔の前で片手をぶんぶんと振った。
「や、やだなあ。サボってたわけじゃないってば。おれたちは今オトコとオトコの語らいをしてたとこで……」
「それをサボってたって言うんだろうが」
「ちっ、違うって! なあ、イソウロウ?」
「いえ、少なくとも僕は怠けてました」
「こ——の、正直者っ!」
コージィの怒号が飛んでくると同時に、自分の額にまた何かが当たり、跳ね返った。その衝撃で少しばかり後ろへと仰け反ると、コージィが両手をはたき、ふうっと満足げに息を吐いたのが目に映る。その様子がまるで、撃った後の銃口に息を吹きかける刺客のようで、少しだけ息が弾んだ。
「あーあ、おっかねえんだ……イソウロウ、痛そ……」
「おいこら、なぁに他人事みたいな顔してんだよ、ラフ? そら——」
「わーっ! ごめんなさい、ごめんなさいったら!」
何故こんなことを思ったのだろう。何故、こんなことを〝知って〟いるのだろう? 目の前が微かにぐらつく。それを振り払うために瞬いた。もう一度、もう一度。瞬く。目の前にはコージィしかいなかった。その輪郭を他のものにすり替えたくなくて、じっと彼女の顔を見つめる。それに気付いたコージィが、どこか苦虫を噛み潰したような表情をした。
「な——なんだよ」
「いえ……」
「いえ、じゃないんだよ……。なんか文句があるなら言ってみろ、あんたの額がもっと赤くなるだけだがな」
「……僕は」
自分の額に当たり、それから地面に落ちたものを拾いながら、視線だけはコージィにやった。彼女がこちらに向かって投げ付けていたのは、どうやら木の実だったようである。
「僕はたぶん、思い出せない」
「はあ?」
「前の自分が知っていたことは、今もきっと、自分の中に知っていることとして存在してるんです。身体が覚えているというか、なんというか……。でも、その中に自分がいない。自分は、いないんです」
「……何言ってんだか分かんねえけど」
「たぶん、前の僕は死んだんですよ。だから、思い出せない」
言いながら、コージィの手のひらに拾った木の実を乗せた。
彼女の後ろからひょっこりと顔を出したチャクルが両腕に抱えている籠には、胡桃がこんもりと山をつくっている。コージィはその籠を抱えた少女の胡桃の山に、こちらから受け取った二粒の胡桃をぽいと戻すと、はあと溜め息を吐いた。
「……思い出したくねえだけだろ」
「そうかもしれません」
「は、べつにいいんじゃねえ? てめえの人生だ。生まれなんか選べねえんだから、てめえの生きやすいように生きて、一体何が悪い?」
そう言ってのけると、コージィはその両手を前で組み合わせて、自身の両膝を合わせると、少しだけ前屈みになってこちらを見上げた。
「——〝わたしだって、いつもそうやってるわ〟」
柔らかく優しげな口調で囁いたコージィは、こちらと目が合うとその目をすっと細めて、自身の唇を皮肉に歪めた。それから背後のチャクルが持つ胡桃の山へと視線を飛ばすと、そちらへと軽く顎をしゃくって、さっきとは打って変わりぶっきらぼうに言い放つ。
「これでパンでも焼くから、後で殻割りを手伝えよ。よろしいな、いいご身分の坊ちゃんたち」
意地の悪そうな顔をして、コージィは鼻先ばかりで笑うと、自分たち二人に踵を返して家に向かって歩き出した。けれども数歩進んだところで彼女は立ち止まると、ふとこちらを振り返り、その表情から皮肉な笑みを消し去って言った。
「雷、怖いか?」
言葉はこちらへと確かに通っているのに、どうも彼女の姿が霞んで見える気がして、思わず何回も瞬いた。それを見たコージィは、自分が彼女の言葉に驚いているのだと見たのか、ふっと息を洩らして肩をすくめる。
「いちばんはじめの記憶が雷、なんだろ。それが怖いものなんだったら、あんたみたいな赤ん坊にはけっこう……堪えるん、じゃないか」
また目の前がぼんやりと曖昧になった。これではまるで、最初の日だ。起き抜けの視界と言った方が近いだろうか。目を擦る。コージィの方を見ながら首を振った。
「だいじょうぶです。だって雷は、コージィたちに似ているから」
「ああ?」
コージィの目がいきなり三角になり、口元に引きつった笑みが浮かび上がる。そんなにまずいことを言っただろうか。なんとなく曖昧に頷いてみた。
「似てますよ。ぴかぴか眩しいところとか、一瞬静かになったと思ったら、みんな一斉に笑い出すところとか、こっちの目を覚ましてくれるところとか……」
「あと、コージィは雷を落としてびりびりさせるのも得意だよねえ」
「ラフ、殴るぞ」
「ごめんなさい……」
「——だから、だいじょうぶなんです」
軽く拳を掲げたコージィに、ラフは、短くひいっと声を上げて頭を押さえている。それを見たチャクルが小さく笑い声を上げていた。
そんな三人の様子を見ていると、心臓より少し下の辺りから何かがせり上がってくるのを感じる。それを、なんとなくおかしなものとして呑み下していると、ふとチャクルのどんぐりまなこと目が合った。
「おにいちゃんは、じぶんの名前も思いだせない? 思いだしたくない?」
「なくても、そんなに困らないものなんだな……とは思ってます」
「イソウロウはイソウロウで間に合ってるもん。な?」
「ラフはだまってて」
「……はぁい」
他の子どもたちがラフにつられて自分のことを〝イソウロウ〟と呼ぶ中で、響きがかわいくないから、と頑なにイソウロウの呼び名を拒否するチャクルは、まだ十にも満たないだろうその瞳の中に、ぎらりと鋭い光を宿してラフをいなした。少年はその静かな雷を受け、哀れにも地面に両足を縫い止められてしまったようだった。チャクルの目は、色も形も違うのに、どこかコージィのそれに似て見える。
「でも……名前がないと、じぶんが誰だかわからなくならない? あ、そうだ……」
小首を傾げていたチャクルはそう呟くと、胡桃の籠を抱えたまま、ちらりとコージィの方を見た。
「——コージィに付けてもらえばいいんだ」
「はあ?」
「うん、それがいいよ、おにいちゃん。だっておにいちゃん、今はコージィの子どもでしょ。わたしたちと一緒で! ね!」
チャクルがその場でぴょんと跳ねる。山から胡桃が幾つか落ちていた。そんな幼い少女をコージィは疲れたようなまなざしで見つめると、たしなめるようにして少しだけその手を振った。
「おい、こればかりはおれもラフと同意見だぞ。イソウロウで間に合って——」
「だめ! やだ! ぜんっぜんかわいくない! 呼びたくない! そもそもおにいちゃん、イソウロウって見た目じゃないでしょ!」
「それとこれとは話が別だろ——って、ああ?」
視線を飛ばしたチャクルにつられて、コージィがこちらに顔を向けた。それから一瞬だけ心底驚いたような表情をすると、しかしすぐ、その丸くなった目を不機嫌そうに眉と共にしかめる。
「あんた、顔真っ赤だけど……まさか、こいつの言葉を真に受けたわけじゃねえだろうな……?」
ただ、唇から発せられた声は困惑が滲んでいた。顔が赤い? 返事をしようと開いた口からは短い息しか出てこなかった。息が足りない。深く吸い込んで、もう一度言葉を発した。
「……あ……はい……?」
「なんだよ、何ぼうっとして——」
ふと、コージィがはっとした表情で、こちらの頭から爪先までを鋭く見やり、それから顔まで視線を戻した。
「あんた、最後に水を飲んだのは!?」
「え……」
「最後に水飲んだの、いつだって訊いてんだよ!」
自分の頬を触ろうとした手のひらが、中々そこまで上がってこない。目の前がちかちか瞬いている。こんな晴れた日にも雷は落ちるものだろうか。太陽に照らされた蜂蜜の金色が目に眩しい。ああ、なんだったか。首を少し動かす。そうだ、水……?
「……朝、起きたとき……?」
「ばっ——あ、くそ、おい!?」
唐突に落ちた視界に、草の色が映った。それしか見えない。手を伸ばす。宙を掻いた気がした。コージィの声が聞こえる。声しか聞こえない。誰を呼んでいるのだろう。自分だろうか。自分は誰だったか。イソウロウ。イソウロウ。おにいちゃん。そう呼びかけるラフとチャクルの声もする。目が開かない。落ちる。遠くなる。伸ばそうとした手も落ちた。遠い。もうなんの音もしない。遠い。暗い。寒い。自由? 嫌だ。土を掻く。自分は誰だ。誰でもない。違う。また、誰でもなくなる。誰でもないのか。誰でもなくなるのか? 嫌だ。目は開かない。声も聞こえない。ただ、かろうじて唇は動くようだった。自由。そのために自分を失くすのは嫌だった。この自分を離すのは。自由。自由、自由、自由。何もかもを明け渡した果てに在るそれが怖い。それが今、怖かった。どうすればいい? どうすれば、自分は自分でいることができる? 何も聞こえない。雷も鳴っていなかった。何もかもが暗い。雷は光らない。少しだけ、唇を動かした。怖い。発した言葉は声になっただろうか。怖い。怖い。怖い……
雷は鳴らなかった。
ただ、誰かに手を掴まれたような気がした。
❇
目を開ける。
冷たくなった風が、頬を抓るように通り過ぎていった。
「あっ、イソウロウ!」
そう声をかけられて、首を動かす。額の上から、風よりも冷たく湿ったものがぽたりと顔の横に落ちた。白い手拭い。湿っていて冷たいが、固く絞られているために水滴は零れてこないそれを広げてみれば、隅に桃色をした花の刺繍が施されていた。
冷えた空気を吸い込み、手拭いを両手に身を起こせば、嬉しそうに顔をほころばせる少年の瞳と目が合う。しかしその瞬間、少年の目が少しばかり翳った。
「な、なあ、イソウロウ……おれのこと、ちゃんと覚えてる?」
困ったように笑いながら、こちらを見上げるようにしている少年の瞳は、不安の色に少しばかり揺れ動いていた。そんな彼から少しだけ視線を外す。
大きな樹の陰に、また冷たい風が吹き抜けていった。遠い空の果てから差し出される太陽の光は橙になって、こちらまでやってきている。少年の顔へと視線を戻した。彼の輪郭は、斜陽に照らされてこがねの色に輝いている。その眩しさに、そっと息を吸った。
「——ラフ」
そう名を呼べば、ラフはぱあっとその顔を輝かせた。太陽の光もこれには劣る。思わず少年の頭に手を伸ばし、そのふわふわの癖っ毛をゆっくりと撫でた。
「すみません。また迷惑をかけたみたいだ」
「じゃなくて、心配」
「……そうか。ごめん、心配させて」
「ほんとだよぉ……」
言うと、ラフの瞳にみるみる水の膜が浮かび上がった。夕暮れの光に照らされてきらきらと輝くそれを見ていると、なんだか心臓をぎゅっと握られたような気持ちになる。それが悲しいのに、けれど少しだけ嬉しいような心地もして、ラフの髪の毛をもう少しだけ荒っぽく撫でた。
つと、足音が聞こえる。陰をつくってくれている樹の幹へと顔を向ければ、その背後から、いつの間にか両手が空になっているチャクルがひょっこりと姿を現した。
「おにいちゃん、わたしのこともちゃんと覚えてるよね?」
「もちろん。この手拭いは、きみのだ。チャクルはこの花が好きなんですよね」
「うん、せいかい。かわいいし、砂糖に漬けて食べるとおいしいんだよ」
「虫かよ」
「ラフ、だまって」
そうしてラフを縮こまらせたチャクルが、ちょっと待ってて、と言ってからしばらくして汲んできてくれたグラス一杯の水が、両手の中で揺れている。黄金の光に照る水面が、宝石のように輝いていた。
——そうだ。
はじめから、差し出された水を飲めばよかったのだ。自分でいるために、この水を。ずっと差し出され、注がれ続けていたこの水を。これが欲しかったのだと、飲み干せばよかった。飲んでしまえば、もう戻れない。もう、〝この自分〟以外にはなれない。それが怖かったのかもしれない。或いは、手に入れて、また失うのが怖かったのかもしれなかった。それでも、飲めばよかったのだ、この水を。だって自分は、ああ、これが欲しかったのだから。たぶん、ずっと、ずっと。
グラスに口を付けて、傾ける。一気にあおったそれは喉に冷たかったが、そこから先はまるで、心の臓に湯を注がれるかのようだった。
「——ありがとう」
そう言って、チャクルの頭を撫でた。チャクルはどこかぽかんとした表情でこちらを見つめている。冷たい水を飲み下したばかりだというのに、そこから熱いものが上ってくるのを感じた。
それは少し前、違和感として自分が呑み込んでしまったものだ。何回も何回も、それが何かも気が付かないまま、自分が呑み下してしまったものだった。
ようやく、息と一緒にそれを外に放り出した。ラフとチャクルが固まるのが見える。少しだけ肩が震えた。自分はこんなにも明るい声が出せたのか。
「い、イソウロウ……どうしたんだよお……や、やっぱり、熱に当てられてちょっと変になってるんじゃ……」
「ラフ、さすがにひどすぎるよ」
「ええ……? だってさあ……」
「まったくもぉ……ラフなんかほっといて、おにいちゃん、これ見てみて」
チャクルが言いながら、コージィと同じように腰に巻いているエプロンのポケットから、彼女の手にはまだ少し大きく見える手鏡を取り出した。そして鏡面をこちらに向け、少女は微笑む。暖かなその笑みに、思わず目を細めた。
視線をやった鏡には、締まりのない笑みを浮かべている少年——或いは青年が、一人映っていた。少年と呼ぶには大人びた顔つきをしている彼は、しかし青年と呼ぶにはまだ幼く見える。長い金髪に、ややつり目がちの青い瞳。そのどちらもが、ラフやチャクルと同じように黄昏の光を浴びていた。
——なんだ、此処にいるじゃないか!
鏡越しに何度か見た自分の姿は今まで、いつもどこか薄い膜を一枚隔てている風に見えて、まるで蜃気楼のようにしか思えなかったというのに。ああ、よかった、此処にいる!
ほっとした笑みを浮かべている自分を映した鏡を見て、今度は声を上げて笑った。仕方がない。だって自分の笑顔は、あまりにあどけないのだ。幼すぎる。これじゃあほんとうに……
「——ああもう、子どもみたいだ!」
言って、両手を後ろについて笑い声を上げれば、ラフとチャクルも顔を見合わせ、そうして声を上げて笑い出した。見上げれば、大樹の枝葉の間から、赤から紫へゆっくりと移ろっていく空の色が映る。ぐう、と自分の腹から気の抜ける音がした。
ふと、背後から身じろぎの音が聞こえてきて、半ば反射的に振り返る。
そこには脚を三角にして座り、そのまま眠りに落ちていたコージィが、なんとなく恨めしげな視線をこちらへと向けていた。今目覚めたのだろう、彼女はあくびを噛み殺している。そうして開いた彼女の口から、少しばかり掠れた声が聞こえてきた。
「……趣味なのかよ」
「えっ?」
「ぶっ倒れるの」
「ああ……あー……はは、す、すみません」
「借り、返すんだろ。……そんなんだと、いつまで経っても何処にも行けねえぞ」
それを半ば遮るようにして、チャクルがコージィの前に躍り出る。それからこちらを向いてぱたぱたと両手を振り、少しだけ慌てたような口調で家の方を指差した。
「あの、あのね、コージィがくるみ粥をつくってくれてあるよ! みんなでおにいちゃんの様子を見ながら殻をむいてね、おにいちゃん、おなか空いてるでしょっ? さっきおなか鳴ってたの、わたし、聞こえてたからね!」
その言葉に少しだけ疑問を覚えてコージィの方を見た。
「パンを作るって……」
「あんたが倒れたから時間がなくなった」
「パンじゃ、おにいちゃんの喉に通らないかもしれないもんね」
「……チャクル、人の話はちゃんと聞け」
きゃあきゃあとやり合いはじめたチャクルとコージィに、思わず頬が緩むのを感じた。自分を盾に、ラフが呆れ顔で二人を眺めているのもなんだか可笑しい。どうなるのかが目に見えているため、意識的に呑み込んでいた笑いが、くつくつと喉の辺りでくすぶっていた。
自分の背が不自然に揺れたのを感じ取ったのか、ラフがそこから出てきて、こちらの顔を覗き込む。少年は瞬時に嫌な顔をした。いや、だめだよ。耐えろよ。まずいってほんと。そう顔に書いてあるラフの表情を見たのが、どうやらいけなかったらしい。唇の端から洩れ出たものは、もう手のひらで抑えても止まらなかった。
「……ふっ……ふはっ、……あは……はははっ!」
ラフが額を押さえる。音が鳴りそうな勢いでコージィがこちらを振り返った。かちりと目が合う。ぱっと表情を明るくしたチャクルに反して、コージィはまるで息でも止めるかのように口を引き結ぶと、その眉間に深すぎる皺を寄せて、それから思い切り息を吸った。
「人の! 話は! ちゃんと聞け!」
その怒号に、手のひらがびりびりと痺れた。それすらもなんだか楽しくて、思わず目を細める。肩で息をしてから盛大な溜め息を吐いたコージィに、少しだけ近寄ってその顔を覗き込んでみる。深い緑の目が逸れて、夕陽の方を向いた。引っぱたかれなかっただけましかもしれない。
「あの、コージィ」
「なんだよ、嫌だよ」
「いや、何も言ってないんですけど……」
「あんたはろくなことを言わない」
「……なんで、僕の言葉を信じたんです?」
言えば、驚いてほとんど無表情になったコージィがこちらを見た。いらない誤解を与えてしまったかと、慌てて顔の前で両手を振る。
「でも、その……もしかしたら僕はものすごく悪い人で、言ってることも全部嘘で、コージィやみんなを騙しているだけかもしれないじゃないですか」
「……あんた、がきとおんなじ目をしてんだよ」
「え?」
聞き返せば、コージィはまた深い溜め息を吐いて、その額を両膝へと押し当ててしまった。
それからしばらくして彼女は顔を上げると、それを夕陽の方へと向けた。光を受けた彼女のむっつりとした横顔が段々とほどけて、子どもたちへと向ける、少しだけ呆れたようなそれになる。彼女の名前を呼ぶ。言葉は声にならなかった。それでも彼女はこちらを振り向き、まったく仕方がないといった様子で、ふっと優しく微笑んだ。
「うるさいな。いいか、坊ちゃん。そんなのはな、騙される方が悪いんだ」
「騙される方が?」
「そうだ。しっかり、よぉく覚えとくんだな」
その言葉に、こみ上げてくるものを隠しおおせなかった。
聞こえてくる自分の笑い声は、おそらくコージィには聞こえるか聞こえないかくらいの大きさだっただろう。それでもやはりこちらの声に気が付いたコージィは、みるみる内にその眉間に皺を寄せていた。もう隠そうとする意味もない。なんとなく口元に当てていた手のひらを地面に下ろすと、そっと彼女の目を覗き込む。
「ねえ、それってなんだかすごく、優しい言葉ですね」
薄れゆく意識の中で彼女に手を掴まれてから、こんなに簡単なことだったのだと気が付いた。どうすれば、自分は自分でいることができる? 簡単だった。掴みたいのなら、掴んでおくこと。そして、離したくないなら、離さないことだ。そんなのは子どもだって知っている。此処にいるのだから、掴めばいい。離さないでおけばいい。此処にいるのだから。今は。今だけは、此処に。
「——なんでもゆるせるみたいだ」
睫毛を伏せて笑う。掴んだ彼女の手は、夜待ちの風に冷えていた。その冷たさに、彼女が作る料理の温かさを想い出す自分は、もしかすると、ものすごく悪い人なのかもしれない。
そういえば、洗濯物は全部取り込めただろうか。畑に置きっ放しの鍬はどうなっただろう。背中に二つの体温。ラフとチャクルは今、一体何処を見つめているのか。雷、笑顔、花の刺繍、水、夕焼け、胡桃粥……
「ここに、いればいいのに……」
そう呟いたラフに、振り向かないまま、そっと微笑んだ。遠く夕焼けを見つめる彼女は、きっと、この言葉に聞こえない振りをしていた。
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