クローマ
目の前に海。
青く澄んだ冬空の色を写し取る水面は、朝を告げる白い陽光を反射し、波頭を美しく煌めかせている。太陽のまなざしに洗われた透明度の高い海水は、潮の満ち引きを刻々と記す珊瑚礁の姿に諸手を広げ、そのさまを空の主に自慢しているようだった。磨き立てた鏡さながらの海原。足を踏み出せば、今にもその上を歩いて何処までも渡って行けそうだった。高台となっている噴水広場の端で、水平線を眺めながら息を吸って、吐く。風に乗って運ばれてくる潮のにおいと、噴水の音に混じって聞こえる波の音ばかりが、いま自分の中でひどく鮮明だった。
生まれ火の月、二十三日。
白い柵に片肘をつき、眼下を見下ろす。街の至るところで家々から一日を始めるための煙が上がり、街路では木箱をたくさん載せた荷車引きが、それらを交易船へ積み込むために港の方へと走っていく。そして、その後ろでゆっくりと歩を拾っている商人らしい風貌の男は、せり上がる欠伸を押し殺せないまま、荷袋を背負い直して、荷車引きと同じ方角へと向かっていった。港の船着き場には複数の漁船と交易船、それより一回りも二回りも大きな遊覧船が穏やかな波に撫でられながら浮かんでいる。声までは流石に届かないが、漁船や交易船の中から続々と魚や積み荷が降ろされ、それらを人々が慌ただしく何処かへと運んでいくさまは見えた。向かう先はきっと、目抜き通りで行われる朝市の方だろう。
そうして海原を眺めていれば、ふと、荷車のそれとは打って変わり、控えめな車輪の音がすぐ下から聞こえてきて、そちらへと目を向ける。そこでは郵便配達員の少年がしっかりと整備されている白い石畳の上を滑り、通りすがる人々へと元気よく挨拶を告げながら、さながら手品じみた速度で朝の郵便を配達していた。こちらの視線に気が付いたのか顔を上げた少年は、高台の柵に身を預けて呆けている自分にさえも、おはようございます、と人好きのする笑みを送ると、また鳥が飛び立つように去っていく。こちらが少し遅れて返した挨拶が、微かでも彼の追い風になれたらよかったのだが。
「——ええっ、嘘!」
去っていく配達員の背中を視界に映し、それからややあって、ふと、よく通る大きな声が広場に響き、思わずその声に振り返った。突如投げかけられた言葉にこちらの目は驚きに見開かれていただろうが、相手の瞳もまたそれと同じほどに驚愕に染まっている。
「そのマント、キャンメル⁉ えっ、服もシルキスじゃない? なんて贅沢な……!」
「あ、あの……」
「んっ? あ、ごめんなさい! あなたの着てる服が、あんまり良いもんだったからびっくりしちゃって、つい!」
小刻みに両腕を震わせながら、半ばまくし立ててそう発した相手は、自分と同じ年頃に見える一人の少女であった。彼女はこちらの服装と顔を交互に見やって、一瞬顔をさあっと青ざめさせる。そうして次の呼吸で少女が、もしかしてお貴族さまですか、と小さく呟いたので、それを慌てて否定すれば、彼女はほっとした朗らかな笑みをその顔に浮かべてみせた。
「ああ、よかったあ。お貴族さまに失礼なことでもして、食い扶持なくされたらどうしよかと思ったわ」
そうして胸を撫で下ろした少女は、琥珀にも似た橙色の髪を襟足だけを長く伸ばしており、瞳は朝の光を浴びて鮮やかに輝く紅樺の色を宿していた。彼女は片腕に大きな布を担ぎ、白と黄緑色を基調とした、レースやフリルをふんだんに施した可憐な衣装に身を包んでいたが、けれどもそのさまに似付かわしくない重そうな荷袋や弓矢までを背に負っている。
いまいち目の前の少女の生業を掴めないままでいれば、彼女はその重たげな荷物をすべて身一つで引き受けたまま、こちらへ向かってぺこりと頭を下げる。港からやってくる風が、胸元で結ばれた少女の目と同じ色をしたリボンを揺らしていた。
「ほんと……急にごめんなさい! わたし、クローマって言います。仕立屋見習いなんかをさせてもらってて……」
「ああいえ、気にしないでください。僕はマイロウドと言います。僕もただの旅人なので……」
「旅人さん? はああ、それにしては随分上等なお洋服を着てるよねえ。ちょ、ちょっと触ってみてもいい?」
言って、クローマと名乗った少女は肩まで上げた両の手のひらをこちらに向けながら、じりじりと迫ってきた。陽光のためだけではない目の輝きと、そこに燃える熱気めいたものに思わず一歩後ずさりをしたが、自分のマントはすぐに彼女の手に捉えられる。そうしてその場にしゃがみ込んだクローマは、うっとりと夢見心地でマントを見つめ、指先で確かめるみたいに布地を触った。
「ああ、やっぱりキャンメルやわ。何処で買ったん……買ったの? この素材は砂漠でしか取れない上等品だし、シルキスだってずっと東の国の高級なもんよ。あ、でもこれ、縫製は職人仕事ではないっぽいね? 思いやりの仕事やね。お母さんとか身内の方が縫ってくれたん……作ってくれたの?」
「お母さん……? その、近いような、近くないような……なんと言いますか、恩人みたいな、名付け親みたいな人で……」
「なるほどね。ま、あんまり込み入ったことは訊くべきじゃあないか」
クローマの言葉には、この辺りではあまり聴かない訛りがあるようだった。彼女はこちらの言葉にこくりと頷き、からりとそう笑えば、再び立ち上がって少し考える風にその目を眇めてみせた。それからマントを触っていた手を離して、彼女はこちらから一歩身を引くと、ひらと片手を振って首を傾げる。
「その服、すっごく大事に着てるみたいだけど、あちこちほつれちゃってんね。どれくらいになる?」
「そうですね……そろそろ、一年くらいは着てきました」
「うん、そんな感じがする。そろそろ新しいのに買い替えか、繕わないとだめそうだよ」
クローマの口からごく自然に発されたその言葉に、はたとして瞬きをした。それから、目を伏せる。頭の中で、古くなった服を買い替えるのは当然のことだ、と言う自分と、言葉の意味は理解したまま、それでも納得ができない自分が、いや、でも、だけど、と首を縦に振れずに俯いている。
そうして少女の言葉に肯定も否定もできずにいれば、何故だろう、彼女はちょっとだけ目を細めて、澄んだ冬の空を見上げていた。白く泡を吐くこともなく、波が立つこともない真っ新に青い天上の海の中を、カザハナカモメが飛んでいく。真白な身体を持ち、冬晴れの間だけ海へと向かって飛んでいく彼らは、降雪のない緑の大陸にとっての雪景色であった。なんとなくその姿に手を伸ばそうとして、けれども隣のクローマが、こちらよりも早く飛ぶ鳥に向かって片手を伸ばしてみせる。
「兄さん、何処か遠くへ往くの?」
「え?」
「だって、そんな目をしてたから。この辺りに居を構えてる人らとはぜんぜん違う目よ。人のまんまで、だけど鳥に似とる。兄さん、飛ぶ鳥の目、ちゃんと見たことある?」
かぶりを振る。いずこかへと向かっていく鳥の姿は、いつも遠い。見えない風に乗り、時折その翼を羽ばたかせ、何処までも飛んでいく後ろ姿ばかりが、自分の目には焼き付いていた。首を振った自分にクローマは小さく笑い、そうだよね、と呟くと、自身の瞼をそっと閉じる。彼女がそうしている間、カザハナカモメを乗せる潮風の音と、姿は見えずとも近くにいるのだろう小鳥たちがちゅんちゅんと鳴く声が耳の奥に響いていた。
「飛ぶ鳥の目。自由に見えて、その実いつも何かを探してる——そういう目」
そして次に瞼を開けるとき、クローマはそのように呟いた。こちらをじっと見つめ、口元ばかりにうっすらと笑みを描いている彼女は、先ほどまで雪のカモメに向かって伸ばしていた片手を自身の前で握ったり開いたりをくり返す。それから背後の柵に背を預けると、広場の中心に在る噴水を眺めてほんの少しだけ笑った。彼女が背負っている弓矢が、その弾みにかたりと音を立てる。
「じつはね、わたし。元は猟師の家系に生まれた人間なの」
「猟師。あ……そうか。だから、弓矢を?」
「そう。素材から自分で見繕えるのがわたしのいいところなんよ」
はにかみながら言って、しかしクローマはどこか困ったみたいにぽり、と自身の頬を掻いた。
「でも、勘当されててね」
「勘当……? 親子の縁を切られたっていうことです?」
「うん。仕立屋になりたいから家業は継げん言うたら、もうカンカン。一晩に地鳴りと雷と山火事がやってきたみたいだったよ。思い出すだけで身震いするわ」
ぶるりと大げさにも見える仕草でそう話すクローマは、また少し空の方を見ようとし、けれど頭上ではなく自身の手のひらを目に映したようだった。通りでがらがらと荷車が複数台走る音がする。その音に驚いた小鳥が何処かから飛び立ち、目の前を掠めた。クローマは、視線だけでそんな鳥たちを追っている。
「それでも、諦め切れんくてね……」
吐息で紡がれた彼女の言葉は、隣にいなければきっとただの溜め息に聞こえたことだろう。少女がきっと誰に向けてでもなく、ただ自分だけに向けて息を吐く理由が、つい伸びやかに飛んでいく鳥たちを眺めてしまう理由が、自分にはなんとなく分かるような気がして、彼女が先ほど見上げなかった空を目に映す。目を瞑れば、空を横切る鳥たちの後ろ姿が瞼の裏に浮かび上がったから、諦めにも似た気持ちで淡く息を吐いた。
「——やめられないなら、仕方ないですよ」
「え?」
「僕もそうです。どうしようもないなって自分で分かっていても、ふらふらと歩くことがやめられない。仕方ないですよ。だって、自分自身ですら、自分を止められないんでしょう?」
クローマの方を見る。彼女はちょっとだけ驚いたみたいに目をぱちぱちさせると、それから少し困ったように頬を掻いて笑った。
「……なんか、お師さんみたいなこと言うなあ」
そうしてクローマは片腕の布を担ぎ直すと、目で鳥を追うのをやめ、けれども少し遠くの方を見る瞳をした。それは空ではなく、道の向こうを見る目だった。
「兄さん、中央の聖歌隊は知ってる?」
「それなら、はい。一度、コンサートに行ったことがあって。あの聖歌隊の歌を聴いていると……こう、胃の少し上が震えるような感じがしますね」
「まさに琴線に触れるってことやね。それで……わたし、なんと、そのすっごい聖歌隊が、今年の女神祭のときに着て歌う衣装を仕立てることになってるの!」
こちらを向き、胸を張ってそう発したクローマに、今度はこちらが驚きの瞬きをする番だった。常磐樹の街であの聖歌隊の合唱を聴いたときから薄々感じてはいたが、あの聖歌隊はこの緑の大陸で最も名のある合唱団らしい。天から自分の元へと歌が降りてきたように聴こえるそのさまから、彼らの歌は天詩とも呼ばれている様子だった。思わずクローマの方へ向き直り、首を傾げる。
「それが初仕事?」
「あはは、恐ろしいでしょ。もう緊張しすぎて手が震えるわ……嘘だけど!」
自分の問いかけにわざとらしく項垂れてみせたクローマは、しかしすぐに背筋をしゃんと伸ばし、目の奥に火を灯しては、己の紅樺の瞳をきらきらと輝かせている。そうしてさらりとした自身の髪の毛を指先でくるくると弄くると、こちらを見やってどこか照れくさそうに微笑んだ。
「緊張してるときほど、わたしって正確になるみたいなんだよね。やっぱ猟師っていうのがあるんかな。とにかく……とびきりの衣装を仕立ててみせるよ。わたしに任せてくれるって言ってくれたお師さんのためにもね」
そう片手にぐっと力を込めたクローマに、目を細めて頷いた。それから、少女の瞳を見る。そこでは、隠せもせずに美しい闘志が煌々と燃えていた。その色が目に移って、紅樺の色になったのではないか、と思えるほどに。聖歌隊が纏っていた、すべてを包み込むような桃色の衣装とはまた違う赤。異なった火の色だった。
「どんな衣装にするかはもう決めたんです?」
「大体ね。でも、細かいところは聖歌隊の子たちの顔見てから決めよ思ってて。今日この街から中央に出発するし、作業も向こうにあるお師さんのアトリエでするからさ」
自分のありきたりな、それでも一番気になっているところの質問をすれば、クローマは軽やかにそう答えて楽しげにその目に弧を描かせる。そうして彼女は胸の少し下辺りで両手を組み合わせると、目は未だ細めたままに空を見上げた。
「ただ……色は。色はね、天と繋がるような空色がいいって思うの」
朝の光を浴びるクローマの赤が、睫毛の隙間から火の粉となって散っていた。彼女は腕に抱えている、くるくると巻かれた大きな布を指先でそっと撫でると、何かを夢想する風にそちらの方を見やる。布は、水色をしていた。それはこんにちの冬空の深い青でもなく、いつかの夏空の遠い青でもなく……
「……もしかして、その布が?」
「ご名答! イメージに合う色を出せる染め師さんに中々出会えなくて、すっごく時間食っちゃったけど、でも、素敵な色でしょ? まるで……」
「春の空、みたいですね」
「うん、それそれ。兄さん、目がいいねえ。そういうところも、やっぱ鳥みたい」
彼女は頷き、満足げに笑った。そんなクローマの言葉に、なんとはなしに背後を振り返れば、港ではカゼハナカモメが緩やかな吹雪となって辺りを飛んでいる。雪を見たことはまだなかったが、どんなものかが分かる手前、きっと記憶を失う前の自分は雪を目にしたことが幾らかあったのだろう。少女の方へと視線を戻す。自分は鳥ほど、真っ直ぐには飛べない。
「鳥、か……僕自身はよく、魔法使いに見えると言われますけど……」
「ええ、魔法使い? そんなに遠い人じゃないと思うけどね、兄さんは」
自分の返答に、クローマは肩をすくめてどこか呆れた様子でかぶりを振った。魔法使いより、鳥の方が近いのか。いや、少なくとも猟師でもある彼女にとってはそうなのだろう。どちらが近いか。自分は、むしろ逆のように思える。それはきっと、自分が数人の魔法使いやそれに近しい人たちに出会い、言葉を交わし、時折その身体に——存在に触れもしたからだろう。息を吸う。空に鳥の軌跡が、雲となって残っているような気さえした。
「——クローマ。鳥って自由ですか?」
「不思議なことを訊くなあ。鳥のことは鳥に訊きなよ」
尤もな風で、投げやりな回答だった。それが少し可笑しくて笑みを洩らせば、彼女の方もちょっとだけ溜め息を吐き、悪戯っぽくも映る光を目の中に宿して口元を歪めていた。
「鳥に訊いたら、たぶん自由じゃないって言う気がするけどね。きっと、絶対、人間の方が自由に見える」
「それは……どうしてだろう」
「だって、人は鳥を射ることができるでしょ? 空を飛ぶものの翼を折ることができるんよ。それは鳥からしたら、すごく自由なことに見えない?」
言いながら、クローマは背負っている弓矢の方をちらと振り返る。杖や鍬を持つことはあっても、弓矢など手にしたことがない自分には、彼女の語る自由は知らない景色も同然のものだった。
「でもなあ。どれだけ人の中に自分の自由を見出したって、自分の自由はやっぱり自分の中にしかないと思うよ、わたしは」
なんだかんだね、と呟き、微かに唸りながらそう発したクローマは、小気味よい音を立てて水しぶきを上げ続けている噴水をその目に映したようだった。それからゆっくりと瞬きをした彼女は、胸元のリボンを指先でそっと撫で、視線を動かさないまま、ほんの少しだけ緊張した風に聞こえる呼吸を一つだけ宙に浮かべる。
「……わたしね、夢がたくさんあるけど、その中でも絶対に叶えたいものが一つあるんだ」
「夢……」
「そう。わたし、自分の仕立てた服を、いつか母さんと父さんに着てもらいたい」
彼女は心臓の上に手を当てて、そうっと息をしていた。その呼吸の仕方で、クローマの目の中に燃える美しい火とは別の何かが、彼女の赤にわずかな橙を宿させる。琥珀色の髪とはまた異なる橙。それは夜の一歩前で、家々に灯りはじめる明かりにも似た色だった。
「わたし、思うんだ。動物を狩って料理をしてそれを誰かに振る舞うことも、残った皮をなめして、それに合う布を断って縫い合わせて、その服を誰かに着てもらうことも、すべては地続きで繋がってるって。きっと、絶対、同じことだって」
担いでいる天色の布を抱き締めて、クローマはきっと自分のために頷いた。
「誇りある、大事なこと」
そうして彼女はこちらを見やると、片手をひらりと振って互いの服を指し示す。
「想いがあるもの。わたしの服にも、あなたの服にも!」
「僕の服にも?」
「もちろん。長いことそれを自然に着て旅ができているって時点で、その服にはとてつもない思いやりが込められてるんよ。目を閉じて、息を吸ったら分かるでしょう?」
その言葉に、そっと瞳を閉じてみた。この服は、色いぶきの月に旅立ったあの日から、木の杖と一緒にずっと自分と共に在る。木々に引っ掛け、躓き転び、雨風に濡れても砂嵐に吹かれても、すっかりだめになってしまうことなくこの自分と共に在ろうとしてくれたもの。目を開ける。クローマは確信めいた瞳でこちらを見ていた。
「だからね、きっと伝わるんだ。母さんと父さんにも、きっと、絶対伝わるの」
目を細めたのは、朝陽が眩しかったからではなかった。クローマは自身の奥に宿る郷愁すらも火に変えて、歩を進めている。或いは、針を。そうしてふと、彼女は自分の片手を太陽にかざして、その針仕事で傷付いた指先を見やる。
「自分の好きなことをめいっぱいやんのは、そりゃすっごく楽しいけど。でも、やっぱり、家に帰れないってのは、ちょっと寂しいからね」
仕方なさげに笑い声を洩らしてそう言ってから、しかしクローマは少しだけ困り顔で首を傾げた。
「……甘ったれに聞こえるかな?」
「いえ。……みんな、そう感じると思います」
「うん、そうよね……」
クローマの質問に首を振れば、彼女は安心したようにそっと笑んだ。片腕を柵の上に置き、クローマは港の方を眺める。そこではカザハナカモメが群れを成して、海原の上を大きく旋回していた。円を描いているのに、真っ直ぐに見える、不思議な飛び方だった。
「きっと自由って、ただ孤独になることではないと、そうわたしは思うから」
鳥たちの飛ぶさまを見て、クローマはそのように言いきった。そんな少女の言葉に、やっと朝の水で顔を洗えた心地になって、息を呑む。それから吸って、吐いた。言われてみれば、そうなのだ。その通りだった。自由の対価が孤独だと決め付けていた自分は、一体何処からやってきていたものなのだろうか。カモメたちは、未だ群れで輝く海の上を飛んでいる。朝の空気は冷たくて、気持ちの好いものだった。
「──って、ああ!」
クローマに倣ってそう港の方を眺めていれば、突如として隣で大声が上がる。よく通り、響き渡るあの声だ。びっくりして再び彼女の方を向けば、当の本人は慌てた様子で柵から背を離し、布を担ぎ直していた。
「そろそろ行かんと、お師さんにまーた意地悪な言いつけをされてまうわ! ほんと大変なんよ。ひたすら直線を引けとか円を描けとかおんなじ刺繍ばっか延々と刺せとか!」
「そっ、それは急いで行かないと。布、重くないですか? 手伝いましょうか?」
「いやいや、人に手伝わせてるとこなんか見られてしもたらもう!」
ぶんぶんと首を左右に振って、クローマはその場だけで駆け足をした。それから間もなく彼女は飛び出すように走り出し、そうして噴水の横でこちらを振り返って満面の笑みを見せた。
「素敵な洋服と──色々あんがとね、マイロウドさん! じゃあまたね! わたし、女神祭までは中央におるから、お祭りの聖歌隊、見に来てな!」
「こちらこそありがとう、クローマ。きっと素敵な衣装を作ってください」
「あはは、そんなの」
少女は声を上げて笑った。力強い、美しい声だった。それはまるで、飛び立つ鳥のように。
「きっと、絶対、よ!」
女神祭は、自分が旅立ったあの色いぶきの月に催される。天と繋がる春の空の水色。その青がどれほど素晴らしい衣装になるのか、きっと自分は目にすることができない。それをひどく残念に思いながら、けれど、おそらく、彼女の仕立てた衣装はたくさんの人たちから称えられるものになるだろうと、そんな確信があった。きっと、絶対。
走り去っていく少女を視線だけで見送って、それからそっと海を眺めた。
路銀のほとんどをつぎ込んで買った遊覧船のチケット。船は、週の終わりにこの街を出港する。往きたいところが分からないまま、次の土地へと。海を見て、何を分かろうとしていたのか。分かったのは結局、鳥の自由は手に入らないということだけだった。人の自由が、鳥には手に入らないように。
そして、海は広かった。
気が遠くなるほど、広かった。
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