化石を孵化す
地平が朱く燃えている。どうやら、朝がやってきたらしい。草木が青く萌える丘の上で、薫子は風の吹いてくる方を見つめた。後方から、若草を踏み拉く足音が聴こえてくる。振り返ると、犬童が朝陽の眩しさに目を細めながら丘を登ってくる姿が見えた。
「眩しいところだな、此処は」
呟きながら、犬童が薫子の傍らに立った。薫子は昇る朝陽を眺めながら、口を開く。
「綺麗なところじゃろう」
「ああ……此処に?」
薫子が頷いて、目の前の墓石へ視線をやった。
「そう、此処に」
言いながら、彼女は両膝を地面に突いて、墓石に記された名前を指でなぞった。犬童も地面に片膝を突き、薫子の様子を眺めていた。
「お前が恋……をした人が眠っているんだったな、此処には」
記憶を辿るように犬童が薫子に問い掛ける。薫子は軽く溜め息を吐いて呟いた。
「……そういう言い方は止さぬか」
「だが……化石の人を、俺は何と呼んだらいいのか分からない」
薫子は苦笑して、少し唸った。
「母上?――いや、それを聞いたら大笑いしそうじゃなあ、あやつは。……韻響、キョウ、と呼んでやれ」
犬童が墓石を見つめながら、その言葉を噛み締めるように復唱した。
「――キョウ」
その様子を見た薫子は、ふっ、と小さく笑い、それから目の前の墓石に手を合わせた。
「――キョウ、元気か……いや、死人に元気かと聞くのもおかしなことか。おまえが逝ってからまあ、随分と経ったが、わっちもあやつも変わりなく過ごしておる。此処は、遠くが見渡せて好いなあ。如何にも、おまえが好きそうなところじゃ。……今日はな、おまえの夫がせっせと研究していた機械人形を連れてきてやったぞ。ま、あやつにとってのかわいい息子みたいなものだし、おまえもどうせ、生きておったら息子のようにかわいがるに決まっておるから、息子の話を聞くような気持ちでこいつの話を聞いてやってくれ」
薫子が、まるでそこに韻響がいるかのような声で墓石へ語りかけるのを、犬童はしばらく黙って見守っていたが、やがて薫子に倣って墓石へ向かって手を合わせ、目を瞑った。それから少しの間、犬童は動かずにいたが、ひゅう、と一陣の風が吹き過ぎていくと彼は目を開き、凪いだ声で韻響に語りかけた。
「初めて御目にかかる。俺は犬童、機械人形だ。此処へ来る間に、あなたのことをいろいろと聴いた。俺も、あなたと同じ踊り子だ。――俺は踊ることが好き、だという風に感じるが、どうやらあなたはそうでもなかったらしいな。それよりも世界を周ること、見ることが好きだったと、カオルから聴いた。……世界を見るのは、俺も好きだ」
隣に視線を移すと、先ほどまで膝立ちだった薫子は、草原に腰を下ろして座っていた。犬童の視線に気付いた薫子は彼を一瞥して、口を開く。
「もう、よいのか」
犬童は立ち上がり、少しばかり苦い顔をした。
「ああ、何を言えばいいのか……よく分からない」
薫子も立ち上がって答えた。
「そうじゃなぁ……言いたいことだけ、言えばいい」
言われて、犬童はしばらく朝陽の昇った空を見つめていたが、韻響の墓石に視線を戻すと、ゆっくり口を開いた。
「いろいろ歩いて思ったが――世界は広いな」
丘を通り抜けようとした風が、犬童の銀の髪を揺らす。さわさわと丘の草木が音を立てるのを聞くともなく聞いていた薫子は、心の中だけで韻響に語りかけた。
(キョウ、おまえは昔――わっちに恋をしろ、と言ったなあ。おまえはまるで、わっちがおまえに恋をしているのを知っているかのような口振りじゃったが――あのときはわっちすら気付いていなかったのに――だとしたら、おまえ、随分と残酷な女よのう。ひどいなあ、女というものは)
薫子は短く溜め息を吐いた。
(……おまえへの、恋心――いや、もう違うのだろうなあ、そう……感傷……を、此処へ置いていけたらどんなに楽か。そんなに簡単なものではないということは、わっちにも分かるが、しかし――)
ふと、顔を上げると犬童は揺れる木々を見つめていた。見つめる犬童のその瞳には、命の輝きが瞬きの度に顔を覗かせては光を放っている。その様子を見た薫子は静かな声で呟いた。
「……もし、病に罹る者と、罹らない者の違いが……人の善悪で決まったら、と思うことがある。浅薄な考え、とは自分でも思うのだが、のう」
犬童が怪訝な顔で薫子を振り返った。
「……違うのか」
「違う。……違う、なあ」
薫子はいつもと何ら変わらない表情で話を続けたが、その瞳には深い哀しみの色が滲んで見えた。
「そもそも……善悪なんてものはな、犬童、人が勝手に決めることじゃよ。正しいことと善いことが同じとは限らない。同じように、歪んだものが悪とも限らない。受け手次第じゃ、そんなものは」
犬童が眉根を寄せて首を振った。
「解るように話してくれ」
「……わっちは、韻響が病に伏したとき、何も要らないと思った。手も、足も、目も耳も、命すらも要らないと思った。キョウが助かるなら、何も。こんなもの、ぜんぶくれてやると思った。――これは、正しいことか?」
犬童は黙って薫子の目を見ていたが、やがて、すい、と目を逸らした。そして、一呼吸置いてから口を開いた。
「正しくは、ない……恐らく」
薫子は乾いた笑い声を上げて、更に問いかける。
「ああ。折れ曲がった思いだとは、わっちも感じた。でもまあ、そんなものじゃよ、人なんてな。――では、あの思いは、悪か?」
「それは違う。……違うと思う、俺は」
それから二人はしばらく黙っていたが、強い風が足元を揺らすと、薫子が言葉を紡いだ。
「戦場から帰ってきた者を英雄ととるか、人殺しととるか、それは人それぞれだろう。善悪なんてのは、それだけじゃ。それだけだが、思ってしまうのは何故だろうなあ。……何故、キョウが死んで、わっちが生きているのか、と」
「……」
「わっちは自分のために人を殺せる。――たとえば、自分が誰かに殺されそうになったら、その誰かを殺すことができる。躊躇いもなく、そして恐らく、後悔もなく。……実際、かつて住んでいた村にキョウたちが足を踏み入れたとき、余所者だとして、彼女らを殺そうとしたこともある。そういう人間のわっちが生きていて、何故、キョウが死んだのか、と」
犬童は二呼吸の間、声を発さなかったが、首に巻いた踊り布を少し緩めると、少しだけ呆れたような顔で笑った。
「……まるで自分が悪人みたいな言い方だな」
「そう思ったか?」
「いいや、思わない」
薫子が何故、と言わんばかりに犬童を見上げる。気が付くと、風は止んでいた。
「俺も同じことができる。……大切な者のためだったら、人を殺せる。自分すら、殺せる」
「おまえとわっちのは違うよ。わっちは自分の命が危うくなれば、人を犠牲にできるのだから。自分のためじゃ、おまえは違うだろう?」
「……同じだ。俺も自分のために動ける。――誰かを守りたいと思う、自分の、ここにあるかもしれない心のためだ。だから、お前を悪だとは思わない――絶対に」
犬童は心臓の辺りに手をやって呟いた。瞳は、揺れていない。
「自分が何故、と思うのは仕方がないのかもしれない。それはカオルの心だ。――だが、そんな風にばかり思うのは哀しい。哀しくはないか、俺は少しだけ哀しく思う。……きっと、キョウも」
犬童の揺らがない瞳を、薫子は美しすぎるものとして少しばかり怖く思った。
韻響を失ったぬるい哀しみが、波紋のように胸に帰ってくるのを彼女は感じながら、犬童から目を逸らす。朝陽が眩しくて、瞼の裏が少し痛んだ。
「そう……じゃなあ。人なんて、在るように在って、成るように成り、消えるときは、そのように消えるだけ。……それが早いか、遅いかの違いだけよのう。キョウは、命の巡りが早かったのだろう。在るように在って……。どうしてだろうなあ、そういうことが寂しく感じるのは。生きることに意味など、ほんとうはないであろうに」
犬童は少しの間、何かを考えるように押し黙っていたが、やがて口を開くと静かな声で言葉を紡いでいった。
「俺が造られたことは、主の生の一環だ。たぶん、それ以上の意味はないのだろう。……だが、初めて目を開けたとき、主に出会った。その後、カオルにも。俺の呼吸に意味はない。でも、そうして人に出会い、巡って、此処に立っている。そのことを、そういう風に造られ、生まれたからだとは――それだけのことだとは、思いたくない。そして、言わせない。俺が此処に在ることを無意味だとは、誰にも」
薫子は少しだけ、目頭が熱くなる思いを感じた。出した声こそ震えなかったが、言葉を音にすることが、ひどく難しいことのように思えた。
「――少しだけ、祈ってもいいだろうか。わっちのような者が祈るなど、これほどまでに罰当たりなことはない気がするが」
それを聞いた犬童は柔く笑って、片膝を突き、自分の両手を合わせて握った。そして、薫子には視線を合わせず呟く。
「機械だって祈るのだから、お前が祈るのは当たり前だろう」
薫子は、少し驚きながらも呆れたように笑った。
「……それもそうじゃ」
薫子は両手を握って目を瞑った。そうする内に、心が凪いでいくのを感じた。此処に眠る、かつての友のために彼女は祈った。また、隣で祈っている彼と、彼の主のために祈った。そして、そう祈りたいという、自分の心のために彼女は祈った。
ふと、心の底から意識を浮上させると、犬童が花を一輪持って墓石を眺めていた。薫子がこちらを見ていることに気が付くと、犬童は持っている花を差し出して言った。
「此処には花が咲いていなかったから、今、少し魔力を地面に注いで育てた」
受け取った花は、白色に淡く光っていた。
「種から育っていない、俺の魔力から生まれた仮初めの花だ。……だから、次の朝には枯れてしまうだろうが、ないよりは」
薫子は頷いて、その白い花を韻響の墓石の前へ供えた。淡い光が、陽光の陰になっている韻響の名前をやさしく照らしている。
「――この花も、生まれ、消えるのじゃな」
「それは……無意味なことだと思うか。そう生まれたから、そう消えるだけだと」
「……思わんよ。たとえそうだとしても、思わない……」
柔らかい風が二人の間を過ぎていった。その風は、まるで二人の往く道を示すかのように丘を越え、道行く人々の間を縫い、遠いところに萌える木々の葉を揺らした。その風に導かれるように二人も歩き出し、韻響の眠る丘を後にした。
雲が風に押され、低く流れている。目に映る空は、太陽を称え青く広がっていた。二人は振り返らずに、風を追うようにして丘の向こうを歩んでいく。何処か遠くで、鐘の鳴る音が聴こえた。風の往く先はまだずっと、遠くに在る。
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