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ゼン

 目次

 緑の伝う風車が立つ高台の方を見上げる。
 センリと出会ったこの街に訪れて二日目の夕暮れ。周りに村里や小さな町が多いこの街は、薄葉緑の街と呼ばれ、旅人や物資を運ぶ人の出入りが多く、この辺りでは交易の中継地として穏やかに栄えている街のようだった。
 風はあまり吹かないが緑の多いこの街では、植物を用いた薬品も数多く作られており、薬種屋もそこここに店を構えていた。
 そして此処は、街の中心に在る大広場ではなく、広場と呼ぶにはいささか小さい休憩所。円を描くように長椅子が並べられ、その背後に高木とコーデリアの低木が植えられているばかりのそこは、自分以外に人もなく、黄昏の光にがらんとしていた。
 見上げる高台の風車は、今日も回ってはいない。けれども、今日もセンリはあの場所で絵を描いているのだろう。こちらから彼の姿は見えないが、もしかすると、彼の方からはこちらの姿が見えるかもしれない。なんとなく、高台の方へ向けて片手を振ってみた。当たり前だが、返事はない。あったとしても、此処からでは見えない。明日、街を出る前に挨拶ができたらいいのだが。
 視線を落とし、手元の羊皮紙を見やる。
 一昨日ほとんど寝ていなかったのもあってか、昨日は宿屋の寝台に腰掛けた後からの記憶がなかった。コージィの元で暮らしていたときに自分の日課となっていた、手持ちの羊皮紙に手記を付けることも、一昨日と昨日の分がまだ書けていない。
 こういったものは焦って書くものではないのだろうが、それでも薄れてしまう前に記しておきたかった。たとえばその髪の色を、その瞳の光を、その瞬きの速さを、その微笑みの重さを、その言葉を、その色を、自分はきっと、もう手放したくはないのだろう。記したいのだ。もしもまた自分の中身が空になったとしても、必ずこの日々を、出会いを想い出せるように。
 しかし、それにしてもこの画板というのは便利なものである。外で何か描くならとセンリから譲り受けたお古の小さな画板には、彼が描いた鉛筆の跡や絵の具の跡がそこここに残っていた。画板の金具に挟んだ羊皮紙には未だ何も記されていないが、書きたいことは無数に在る。
 さて、何から書こうか。椅子に座る自分の隣に置いていたインク壺を持ち上げ、その中身をなんとなく揺らした。
 硝子の中で揺らめくインクは、ほとんど黒に近い濃い焦げ茶色をしてゆらりと揺れる。自分がはじめから持っていたというこのインクは不思議なもので、書いても書いてもその量が減らないようだった。高台の草原ではほぼ毎日手記を付けていたため、手持ちの羊皮紙の数は目に見えて減っていっていたのにもかかわらず、である。
 目を凝らして見る。そうすれば揺れる焦げ茶のインクは、その表面で幾つも色が遊んでいるように映った。赤から橙、橙から黄、黄から緑、緑から青——インクに宿り、水面で揺らめくそれらは不思議な色合いをつくり出している。そして羊皮紙の上に書き出せば、ペン先のインクは金の軌跡を描き出し、焦げ茶色に定着したのち、そこに交じる色たちは文字に宿る光の粒子として、微かにきらきらと輝くのだ。
 夕陽の光がインク壺の硝子をちかりと煌めかせた。それが少しだけ眩しくて目を細め、インク壺を画板の上に置いて顔を上げれば、インクがはじめに描く軌跡のような金色と目が合う。
「——面白いものを持ってるね」
 そう瞳に弧を描かせた目の前の人から発せられる声は、特別低くもなく、また、特別高くもなかった。その人は肩より下に落ちている黒の長髪を後ろへ掻き上げると、ふっと楽しげに——怪しげにと言うべきか——微笑んだ。
「と、いうか……きみも見ない顔だ。吟遊詩人? いや、楽器を持っていないね。じゃあ詩人かな? それとも、楽器を持たない口の歌うたい? そうだね、魔法使いって言われても信じるけれど」
「ああ、ええと……ただの旅人なんです。……そんなに見えますか、魔法使いに?」
「そうだね、きみ、少し不思議な感じがするから。持ってるインクもなんだか変わってる上、立派な杖も持ってるみたいだし、ほんとは魔法、使ったことあるんじゃないの?」
「な、ないですって。たぶん。少なくとも記憶している中では」
「いやいや、なんでちょっと曖昧なんだい」
 言って、呆れと可笑しさが半分ずつ混ざったような笑みで目の前の人は笑った。そういえば、いつの間にか隣に座っている。そちらへ向けて、一定より前の自身の記憶がないことを告げれば、信じてくれたのか、そうでもないのか、その人は少しだけ声を上げて笑った。
「記憶喪失! 色々扱ってきたけれど、それに効く薬は聞いたことがないなぁ」
「薬? 薬師なんですか?」
「そうだよ。それ以外に何に見える?」
 自信ありげな金の瞳にそう問われて、その頭のてっぺんから爪先までを見直してみる。悪戯っぽく微笑んでいる相手に、ああ、と思えば、言葉はすでに口から零れ落ちてしまっていた。
「——魔法使い」
 言えば、相手は一呼吸置いたのち、なんとなく大袈裟な溜め息を吐いては肩をすくめた。
「ちょっとちょっと、それはないだろう、失礼だなあ」
「えっ……でも、僕もさっき魔法使いに見えるって言われましたよ、あなたに」
「おっと、忘れていいよ。細かい男は好かれないものだろう?」
 悪びれる様子もなくそんな風に言ってのけた相手に、思わず呆れの混じった笑いを浮かべてしまった。どちらかと言うと、自分は呆れられる方が多い気がしていたが、どうもこの人にはちょっとだけ調子を狂わされるようだ。少しだけ笑いながらかぶりを振って、腕も脚も組んで座っている相手の姿をもう一度視界に入れる。
「あ、ちなみにだけど私、ゼンって名前。薬師のゼンだよ。どうぞよろしく」
 そう名乗った彼ないし彼女——性別の出やすい首元や脚は一枚続きの簡易的な赤銅色の唐装で隠され、手元は白い手袋に覆われているために、細身の男性にも、長身の女性にも見える——は、一房だけを三つ編みにしている長い黒髪を揺らして、ひらりとその手のひらを振った。唐装の上から羽織っている、苔色をした貫頭衣もまた、相手の身体の線を隠しているようにも見える。年の頃は二十代後半くらいに映るが、どうなのだろうか。
「僕はマイロウド。旅人です。こちらこそ、よろしくお願いします」
 そのように相手に倣ってこちらの名前を告げれば、ゼンの纏う貫頭衣の、鎖骨辺りでちかりと輝く金の留め具よりも強く金を宿す彼ないし彼女の目が、掛けている丸眼鏡の向こうで面白げにすっと細められた。
「きみの名前、難しいね」
「難しい?」
「だって、私のいちばん信じるもの——〝神さま〟って意味だろう? 簡単に呼ぶのがちょっと憚れるよ。それに私、神さまとか信じていないし」
「神さま?」
 ゼンの言葉に目を瞬く。少し首を傾げれば、ゼンもつられたように首を傾げた。
「そうか……そういう意味もあるんですね。てっきり、〝道〟だとばかり」
「道?」
「はい。自分の信じる道。往きたいところ」
「……なるほど、そうとも取れるか。人によって受け取り方が違う名前ってことだね、面白い。そういうところは私とおそろいだ」
 言ってにやりと笑むゼンは、声質だけでなく顔立ちや纏う雰囲気までもが中性的だ。長い睫毛に覆われるゼンの目は切れ長で、よく細められるそれは猫と言うよりは梟の瞳に似て見える。彼ないし彼女はその金色に弧を描かせると、組んでいる腕の片方の指先をぴっと立てて頷いた。
「ゼン。私の名前もそうだろう?」
「ゼン……たとえば、どんな意味があるんです?」
「そうだね。一つは〝悟ること〟、一つは〝善いこと〟、一つは〝進むこと〟、一つは〝すべて〟……」
 名のもつ意味をその薄い唇で浮かべながら、ゼンはこちらを覗き込んだ。
「まあ、どう取ってもらっても構わないけれど」
 そう言うゼンの斜陽の光にちかりと煌めく眼鏡が、彼ないし彼女の瞳が描く表情を一瞬だけ隠してしまっていた。組んでいた腕を解いて、両手を長椅子の上について軽く伸びをしたゼンは、硝子越しの金色でちらりとこちらを見る。ゼンが片手をひらりと振って、小広場に面している通りのずっと奥の方を示した。
「向こうの方に在る薬屋が私の城だよ。不調があるときは来てみたらどう? 安くするかは気分次第だけれどね」
「はは、なるべくそうならないように気を付けます。ゼンはどんな薬を扱っているんですか?」
「色々あるよ。でもそうだね、多いのは、普通の薬では治らない病を多少楽にする薬かな」
 簡単にそう言ってのけたゼンに、思わず首を傾げる。
「……ま、楽になるというだけなのだけれどね。人間、死ぬときは死ぬさ。何せ、薬を扱う私だって、その治らない病を患っている」
 その語り口があまりに気軽で、言葉の意味を理解する前にゼンの声が喉を通っていってしまった。ゼンはこちらを見たまま、少しだけ怪しげな笑みを浮かべている。あっけからんとしたゼンをしばらく眺め、そうして自分はやっと、彼ないし彼女の声が言葉として飲み込めたようだった。
「え……ゼン、病気、なんですか?」
 少しばかり腰を浮かせてそう問えば、ゼンは手のひらをひらひらさせて、小さく笑いながら軽く肩をすくめた。
「死ぬことはないけれどね。でも、それが原因で死のうとは思うかもしれない」
 言いながら、ゼンは組んでいる脚の膝に両肘をつき、その絡めた指先の上に自身の顎を乗せて、口元ばかりをにやりとさせる。それからこちらの手元を見、自分もその視線につられて己の指先を視界に映した。
 インクを吸っていない鵞ペンの先が、指と指の間で仕事を与えてもらえずに気を抜いている。そういえば、まだ一文字も書いていなかった。
「ところで、きみ、手紙でも書こうとしてた? だったら私、邪魔をしてしまったかな」
「あ、いえ」
 落としていた視線を上げて、ゼンの方を見る。それからふと、自分の背後で満開となっているコーデリアの鮮やかな花弁を目に映した。
「——手紙は、書くなと言われてますから」
 その言葉に、ゼンもまたコーデリアの方に顔を向けたのが視界の端に映った。けれどもあまり興味がないのかもしれない、すぐにその金色の瞳がこちらに向けられたのを感じる。
 息を吸い、前を向く。目を伏せれば未だまっさらな羊皮紙が映った。
 自分は、こうして手記を付けるのが好きだと、以前高台の草原でコージィに伝えたことがある。旅立つと告げる、その数日前だ。彼女は短く、また呆れたように、知ってるよ、と答えていた。そして数日後——旅立つと告げた後だ——彼女はこう言った。
 ——〝手紙とか、書くなよ。おれ、あんたの文章、苦手なんだ。なんか、あんたみたいで〟、と。
 息を吐く。もちろん、彼女の言葉を額面通り受け取ったわけではない。その言葉の裏側も、それを発した彼女の気持ちも、きっと自分は分かっているのだ。意味もなくペン先を滑らせて、見えない文字を羊皮紙に書いた。
 それから視線を上げれば、こちらをじっと見ていたらしいゼンと目が合った。その目元が面白そうに弧を描く。そうして前を向いたゼンは、黒い睫毛を少し伏せ、くつくつと喉の奥で笑ったようだった。彼ないし彼女の首近くで揺れる金色が、夕暮れの橙でちかりとまばゆく輝いている。
「——まあ何、とにかくね、きみも気を付けることだよ」
 自身の膝の上に頬杖をついて、ゼンはほとんど視線だけをこちらに向けるようにして言った。
「私のこれって、誰でもなり得る病だからさ」
 その言葉を聞いて、ふむと思わず自分の顎を触った。誰でもなり得る病。医学にも薬学にも明るくはないが、しかしおそらく、そういったものはこの世界に無数に存在するように思える。それでいて、自分たちに近しい病と言えば、自分には一つしか思い浮かばない。ゼンに向かって、少しだけ首を傾げた。
「……風邪?」
「近いねえ。でも遠いよ」
「近くて遠い?……ゼンは少し、難しいことを言いますね」
 結局それは一体どんな病なのか、そうゼンに問えば、彼ないし彼女はどこか皮肉っぽく見える表情で笑みながら、
「世界一馬鹿々々しい病」
 と、はっきり言い放ち、それから、
「けれど世界一、人の手には負えない病だろうね」
 と言ってみせた。
 やはり自分は、医学的な知識を持ち合わせていないようだ。それを聞いても思い当たる病は一つもない。〝知らない〟のだろう。そう示すために緩くかぶりを振れば、ゼンは困ったように、或いはそれを少し楽しむように、その肩を軽くすくめて微笑んだ。
「きみさ、何処から来たの?」
「さあ、分かりません」
「分からないことはないだろう、此処まで歩いてきたんだったら。何、案外秘密主義なの?」
 その問いかけを軽く否定すれば、ゼンはなんとなく不思議そうな表情をして首を傾げる。それから彼ないし彼女は何かを探すようにじっとこちらの瞳を見つめ、そうしてその表情を和らげると、息を洩らすようにしながら自身の黒い長髪に指先を通した。
「そうだったね、質問を変えようか。……きみ——マイロウド、きみは何処から歩いてきたの?」
「ああ、それなら——」
 頷いて、来し方を指し示す。
 小広場に面する石畳の道は、元の色も思い出せないほどに鮮やかな橙に染められていた。いつの間にかこんにちの太陽は赤々く燃え上がっていたようだ。
 石畳で照り返すその色と光の眩しさに目を細めながら、歩いてきた道を指す自分の指先もまた斜陽の色に染まっていることに気が付いて、ふとゼンの顔を見た。
「この街に続く道の上を、西に在る高台の方から歩いてきました。一日と……半日分」
 そう告げながら視界に映したゼンの姿は、その黒髪も服も指先も足下も橙の色に輪郭を染められていたが、しかし、ちかりと反射する眼鏡の奥に在る金色ばかりは、未だ陽の色に染まっていないように見える。こちらの言葉を聞いて、ゼンはやはり薄く微笑んだまま、小さく頷いた。
「そう。距離があるね、少しだけ」
「もっと遠くまで往くつもりです。そうしたいような気がして、今は」
「マイロウド、か」
 呟くゼンに頷きながら、ちらりと背後を振り返る。それからすぐに視線をゼンへ向けた。
「——この街の先にも、まだコーデリアは咲いていますか?」
 ゼンはこちらの問いに何かを思ったようで、その目を少しだけ細める。彼ないし彼女は静かにかぶりを振ると、太陽が沈んでいくのとは逆の方角を指した。
「街を抜けて街道沿いに行くと、途中に旅人用の小屋が在ってね。まあ、ディリィの花が咲いてるのはそこまでだろう。それに今月が終わったら、すぐに葉になってしまう。ディリィの葉って、アベリアの葉にもかなり似ているから……ディリィを見かけたと思っても、それはアベリアだよ、残念だけれどね」
「……僕、そんなに残念そうな顔、してますか」
「どうかな」
「——なんとなく……」
 言葉が喉に引っかかりながらも訥とそう発して、ゼンの目を見た。
「なんとなく、そこが最後な気がして」
「最後?」
「コーデリアが最後に咲いているところが、自分が迷える最後の場所な気がして」
「……引き返すかどうかってこと?」
「はい。そこを過ぎたら、もう戻れない気がするんです。だから……たぶん、僕はそこで、一度立ち止まってしまうと思う」
 こちらの瞳を見つめていたゼンは、ちらりとその視線を高みへと向けたようだった。つられてそちらへ視線を向ければ、この街の高台に在る蔦の風車が、夕焼けに照らされて緑でもなく枯茶でもない、輝く黄金色に染まっていた。
 顔を戻せば、ゼンはすでに、向かいに在る陽に照らされる長椅子へと自身の視線を向けている。そうしてそちらの方を眺めながら、ゼンはまるで小さく零すように微笑んだ。
「べつにいいんじゃない?」
「え?」
「きみが立ち往生したところで、誰かが不幸になるわけでもなし。気楽にやりなよ、旅なんてものは。焦りなんてものは、なんの薬にもならないぜ?」
 少しばかり冗談めかしてそう発したゼンに、思わずふっと笑みを洩らした。そんな自分に顔を向けたゼンは、白い手袋をしているその指先を、ちち、と舌を鳴らしながら軽く振る。
「それに、だ。多少立ち止まるくらいがなんなんだい? それって、悪なの? そんなことを言ったら、ずうっとこの街から動けない私たちは、一体どうなってしまうんだか」
「……ゼンは、ずっと此処に?」
「そうだね、薬師としてもこの街は具合が良いから。いろんな薬草が此処では育てられてるんだ。一等多いのは、向こうの風車の辺りだけれど」
「あ、僕、昨日行きましたよ。ゼンもよく?」
 問えば、ゼンは緩く首を左右に振って口元だけに弧を描かせた。
「一度だけだよ。薬草を拝借するときは、基本的に弟子を使ってるんだ。あそこ、動物もいないよね、鳥とかさ。私たちにとっての薬は、あちらさんたちにとって毒の場合も多いから、当たり前と言えば当たり前なんだけれど」
「あれ……でも、絵描きさん、いませんでしたか」
「どうだろう。あまり……よくは、見なかったからね。早く切り上げたんだ」
 ちらりと風車の高台の方を振り返った。斜陽に照らされて黄金色に染まり上がっている高台は、それでも空気だけは未だ緑の青さを纏っているように見える。あの場所のひんやりとした涼しさと静寂は、此処まで下りてくることはないようだ。
 視線を戻せば、ゼンは前を向いたまま、陽に染まる向かいの長椅子のことを見つめていた。しかし、横顔から覗くその金色の瞳は、何か別のものを映しているようにも見える。
「……ゼン、一つ訊いてもいいですか?」
 その瞳を視界に映すと、自分の口からぽろりとそんな言葉が零れて落ちた。ゼンが目の動きだけでこちらを向く。
「うん、何?」
「ゼンの病気って、なんて言う病気なんですか?」
「ええ?……早々にねたばらしするのって、ちょっと面白みに欠けない?」
「病気——ですか?」
「……質問に質問で返したところをまた質問で返すとは、きみ、中々やるねえ」
 こちらを向きながら、ゼンが喉の奥で笑いながらそう言った。透き色をした水晶の向こう側で、金色の目が鷹よりも鋭い光を宿し、しかし梟よりも柔らかく細められる。肩から流れる黒髪を背へ払っては脚を組み換え、ゼンは自身の身体も少しこちらへと向けた。そうして、彼ないし彼女は、組んだ膝の上で頬杖をつく。
「——その内分かるよ、たぶん、嫌でもね。たとえば、きみがこの街を抜けて、最後のディリィの花を見た後——もう一度、ディリィの花を見たときとか、きっとね、分かる」
「え? コーデリアがこの先、何処かに咲いてるんです? その——旅人用の小屋を過ぎた後も?」
「ま、今はそう聞こえるだろうけれどね」
 ゼンは肩をすくめて笑った。
「きみは、私みたいな気持ちにはならないかもしれないな。私の薬も、きっとたぶん、必要ないだろう。……でもなあ、存外、きみみたいのが拗らせると一等扱いにくかったりするからねえ」
「……なんだかよく分からないですけど、お世話にならないように気を付けます」
「そうして。私もけっこうね、自分のことでたくさんだから。自分で言っててどうかと思うけれど、薬師としては」
 言いながらゼンは、組んでいた脚を解いて、両手を組んではぐっと上に背伸びをした。
「気楽に行きなよ。良いときは良いし、だめなときはだめだし、病になるときはなるんだから、私みたいに」
 それからゼンは目を瞑り、どこか歌うかのように問うた。
「そうだろう?——〝マイロウド〟」
 果たしてそれは自分に向けられた問いかけだったのだろうか。
 結局、ゼンはその日、自身が患っている病の名を教えてくれることはなかった。


20180828 
シリーズ:『マイロウドの手記

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