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不夜城

 目次

 その夜は、煌びやかな無数の白く、時には赤く青く輝く照明たちに心浮かされていたのだ。
 今日、まだあどけなさの残る少女は生まれて初めての舞踏会に心酔していた。磨き抜かれた大理石の床も、気取ったポーズで壁に寄りかかる遠い親戚の女性も、つやつやと輝く赤い苺のタルトも、祖母の機嫌を取ろうと奮闘している己の父ですらも、煌めく魔法石に彩られた照明にひとたび照らされれば、少女にはすべてが美しいものとして目に映った。
 あまりにも瞳に映るものたちが光り輝いているものだから、少女は目の奥で星がちかちかと弾けるような錯覚に陥ったが、そんなことは気にも留めず、少女は目を細めて映る光景すべてに対し感嘆の息を吐いた。
 部屋の奥で楽の音を奏でる楽団は、さながら星々の瞬きのような調べを奏でている。確かに美しい音楽なのだが、いささか踊ることには向いていない曲のように少女は感じ、小首を傾げた。だが、疑問はすぐに解ける。
 舞踏会、それはすなわち誰もが踊れるように、誰かが踊らねばならないのだ。
 今、煌びやかなこの部屋では、いちばん最初に誰が踊るか、誰がはじめに部屋の中心へ一歩足を進めるか、それを無言の圧力で誰もが誰かに押し付けようとしている。
 少女は早く誰か――できれば素敵な人――と華やかな楽の音に合わせて踊ってみたかったが、確かにいちばん最初に踊るというのは少しばかり恥ずかしいものがあるかもしれない。
 ついでに言うと、今回初めて舞踏会参加した少女には、踊る相手というのもまだいなかった。移ろいやすい乙女の心は多少の落胆を覚え、その視線は背ほどもある大きな窓、その外に在る庭園だった。
(……ダンスが始まるまで庭園をまわってみようかな。きっとこのお屋敷は庭園も綺麗でしょうし)
 このお転婆な少女はその好奇心を武器に、そのことが父にでも見付かってしまったらお咎めを受けるであろう行為を実行に移した。
 部屋からそっと抜け出し、長い廊下に在った鍵のかかっていない窓をひょいと乗り越え、そのまま外の石畳の上へ足を降ろす。きょろきょろと辺りを見回し人がいないことを確認すると、長いドレスが汚れないように裾を持ち上げ、庭園の方へ向かって走り出した。
 少女が庭園の中の何やら花の浮いている池の近くまで来てみると、視界の端で何かがちかりと瞬くのを感じた。反射的にそちらへ身を向けると、白い正装に身を包んだ背の高い男が立っている。
 人がいるとは思ってもみなかった小さな乙女は驚きに肩を震わせ、引き返そうと一歩身を引いたが、それよりも先にこちらの気配に気付いた男がその顔を少女の方へと向けた。その顔には悪戯が成功した子どものような笑みが浮かんでいる。
「――あーあ、見付かっちまった」
 そう言いながら少しばかり面白そうに笑った相手を見て、少女は心の中で首を傾げた。
 今宵の舞踏会は、少女の両親の血縁者のみが集まるもののはずだ。少女は男の額で鋭く光っている角に目線をやる。――目の前の男は、鬼族である。そして自分は人間だ。遠い血縁者も集まるこの会ならば、鬼族が一人や二人いてもおかしくはないのだろうか。
 少女が訝しげな表情を浮かべるのに目敏く気が付いた男は、悪戯っぽい――まるで共犯者を見付けた、まるでそう言うかのような顔をして少女に問いかけた。
「おひいさん、あんたも星を見に来たのかい?」
「お、おひいさん……?」
 それとなくお姫さま、それと同じ意味で呼ばれたこの少女は様々な疑問点を心から弾き出し、その顔にぱっと喜色を浮かべた。その顔を見た男は喉の奥で笑ってから頷き、視線を背後の屋敷へと移した。
 彼の胸元でまたちかりと何かが煌めく。目を凝らしてよく見てみると、それは羽の生えた羊だった。空を飛ぶ羊の意匠が凝らされた、小さな金色の胸飾り。
 男がやれやれといった風に片手をひらひらと振る。
「あんなぎらぎらしたところにずっといたら疲れるだろ? 俺だったらもっと早くに抜け出すぜ」
「抜け出すって……あなたはもう抜け出しているじゃあありませんか。わ、わたしも人のことは言えないけれど……」
 言いながら、少女は急に罪悪感が強くなってきた。初めての舞踏会で、父に黙ってこっそり抜け出すなど、何ということをしてしまったのだろう。屋敷から零れる色とりどりの光を眺めて、途端にあの部屋へと戻りたくなってしまった。何よりこの庭園はやたらと暗い。
「もう戻りたくなったのか? 残念だな――共犯者を見付けたと思ったのに」
 男の瞳が楽しげにちかちかと輝いた。その光は少女の瞳の奥をぱちぱちと痛め付けたが、それは先の煌びやかな照明に似た、それでいてまた違う、人を惹き付ける力を放っている。このとき少女は男の瞳を初めて見たのだった。それはさながら赤き虎目石の瞳、この暗がりの中では男の瞳が茶よりも赤に塗れて見える。
「き――共犯とは? あなたが悪いことをしようとしているのなら、わ……わたしはそれを止めなければなりません」
 それを聞いた男は、どこかからかうように目を細めて言った。
「星を見るのがそれほど悪いことだとは知らなかったよ、おひいさん」
「ほ……星?」
「最初に言ったろ、あんたも星を見に来たのかい――って」
「あ、ああ……確かにそうだった……かも」
 男は視線を屋敷から外し、再び花の浮かぶ池へと移した。それから目線で同じところを見るように、と少女に促す。
「あのお屋敷の光に目が慣れてる内はよく見えないかもしれないな。ま、しばらく見ててみろよ」
 言われて、少女は池で光さざめく水面をじいと眺めてみた。しばらくそうしてみて、水面にぼんやりと白い光が浮かんできたのを少女は感じ、思わず声を上げそうになってしまった。一つ、また一つと白光が浮かび上がってくる。
 これは何かしらの魔法なのか、と隣の男に視線で問いかけてみれば、男はまるで子どものような笑みを浮かべて空を指差した。簡単だ、と楽しげに言いながら。
「――そこで光ってるのは、ただの星だ」
「星……これが? どうして、水の中に星が?」
 少女は生まれてこのかた、水面に映る星というものを見たことがなかったのだ。
 此処から何日か馬車を走らせたところに在る、己が住んでいる屋敷から星を眺めたことは数あれど、少女の家にはお転婆なこの子が落ちたら危ないということで池がなかった。更にはこの少女は屋敷の庭から外へはほとんど出たことがなかったのだ。そんな少女の瞳に、星が落ちている池の水面はひどく新鮮に映った。
「空の星はこの池の花に恋をしてるのさ。だからこうして落ちてきて、花を輝かせようと底の方で光ってんだ」
「ほんとう?」
「ああ、嘘だけどな」
 花開きそうになった乙女心がしぼんでいくのを少女は感じ、冷ややかな目で男を見た。男はそれも気にしない様子で吹き出すように笑い、己より頭二つ分ほど小さな少女の頭を軽く叩く。そうする男の顔は少年のするそれによく似ていた。
「ごめんごめん……映ってるだけだよ、空の星がこの水面にさ。お屋敷みたいな煌びやかさも、まあ――悪いとは言わないけどな……それにしたって俺はこれが好きなんだ」
「星も……水に映るのね」
「そうだな、水には大抵のものが映る。届くものも届かないものも、な」
「じゃあ――わたしの運命の人も映るかな」
 少女は熱心に水面を眺めていたため知る由もないが、少女の言葉を聞いた男の赤虎目石は少しばかり寂しげな光を湛えていた。だがその光もすぐに夜の中へ溶かした男は驚くほど優しい声で少女に頷いた。
「ああ……映るかもな」
「ほんとうにそう思う?」
「映らなくても、おひいさんならだいじょうぶだって」
「どうして? わたし、今……踊る相手もいないのよ」
 男は何か他のものを見るかのように視線を池から外し、屋敷の方を向いていた。それからふっと吐き出すように笑い、その赤虎目石の瞳を怪しく細める。星の明かりに照らされて、彼の胸元に在る金の羊が煌めいた。
 少女は空を見上げる。屋敷から抜け出したときよりも星の光が強くなっているように少女は感じ、再び視線を男の方へと戻した。しっかりと男の顔を見るのはこれが初めてだったかもしれない。
 白群色の癖っぽい髪、笑っていることが多いから気付かなかったが、想像よりも幾分か鋭い目の形、口元にはやはり悪戯っぽい笑みを乗せている。男は身を屈めて少女の手を取った。
「じゃ、俺と踊るかい、おひいさん?」
「え――」
 夜の淵から引き戻すかのように、誰かが頷きかけた自分の名前を呼ぶ声が庭園に響く。声のする方へ振り返ってみれば、自分と同じくらいの少年がこちらへ走ってきていた。
 ほとんど話したことはない――というか、出会ったのも今日が初めてだ――が、確か彼は母の兄の子ども、長男だ。少女は自分が抜け出してきたことを今更思い出し、上手く声が出せずに目の前の少年をただ見やるばかりだった。
「ああ、こんなところにいた! 屋敷の何処にもいないからもしかしたらって思ったんだ。あ、きみのお父さんには言ってないからたぶん、だいじょうぶだと思うよ。あのさ、ダンスが始まったんだ。きみも来ないか?……えっと……よろしければ、ぼくと踊ってくださいませんか?」
 言われて少女は少しばかり恥ずかしそうに少年の手を取った。
 そうだ、と振り返ったときにはもうあの、赤虎目石の目をした男の姿は何処にもなく、少女は一瞬心の底に夜がやってきたのを感じた。それでも、少年の手から伝わる暖かな温もりで少女のその夜はすぐに明け、柔らかな朝がやってくるのも少女は感じていた。
 あれは誰だったのだろう、あれは夢だったのだろうか。
 少女は少しだけ瞼を閉じて、彼が好きだと言っていた水面に浮かぶ星の光を想い出していた。
 その夜から数日後、舞踏会の会場として使われたあの屋敷――その中で無数に煌めいていた、魔法石で飾り付けられた輝く照明たちが幾つか盗まれたらしい、ということを少女は父から伝え聞いた。
 少女はその光輝く照明たちが盗まれたことよりも、その照明が放っていた強い光を自分が思い出せないことの方が不思議に思えた。あんなに美しく見えていた光たちが、今では瞼の裏の何処にもいない。ちかちかする痛みも、何もかも。
 瞼の裏に在るのはあの夜の星、静かに光さざめく花の水面と、そこで白く瞬く、決して届きはしない星の光だけだった。


20160524 
シリーズ:『貴石奇譚』〈ブラックシープの愛し方〉

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