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愛とシステムはグロテスク ~映画「メイクアガール」感想~
昨年からアニメ映画もきちんと見ていこうという向きになっていまして、今年も何かいい作品との出会いがあるといいな~と思っていたんですが、来ましたよ!! もんのすごいのが!!!
あ、ネタバレ全開なので、未鑑賞の方はお気をつけ下さい。
世界をシステムとして見ている少年
物語は発明に打ち込む主人公・水溜明が、人工カノジョを何かあっさり作っちゃったところから始まります。まあ女の子なんてお砂糖とスパイスと素敵なものいっぱいあれば出来上がるので技術面へのツッコミは一旦脇に追いやりますが、問題は明がカノジョを作ろうとした動機です。
友人から彼女が出来たら仕事の能率上がったぜ!と聞いた瞬間、即座にカノジョ作りを敢行。これで僕の発明も順風満帆になるはずだ!と期待に胸を膨らませますが、どういうわけかカノジョが出来たのに全く発明が軌道に乗りません。乗るわけねーだろ。
要するにこの少年、世界の全てを単純なシステムとして見ていて、自分という関数にカノジョという入力を入れたらパワーアップという出力が得られるはずだというシステマチックな世界観で生きています。
0号ちゃんを作ってからもそれは変わらず、自分のことを密かに思ってくれる幼馴染みを0号ちゃんの入力データとして扱う始末でした。人の心とかないんかコイツ。
その反面、0号ちゃんはと言えばコイビトである明くんのために健気にもファミレスの仕事を覚えていき、本当に恋愛によってパワーアップしていく姿を見せてくれます。恋する乙女は人工物だろうと最強ってわけなのですが、もはや明くんと0号ちゃんのどっちが人間なんだか……という空気がこの作品の前半部分を通してずっと漂っていました。
ただ、0号ちゃんの献身は結局実を結びません。
本作のキャッチコピーは「超新感覚サイバーラブサスペンス」という結構ガチめにセンスを疑うダサさなのですが、おそらくこれは意図的に本編の内容とは外しているからこそのダサさなんですよね。
本作において、少なくとも“ラブ”はかなり皮肉めいた描き方をされています。
恋愛という煩わしいグロテスク
いきなり社会派かつ主語デカめな話を始めてしまい恐縮なのですが、現代人ってそもそも恋愛をしたがっていないと思うんですよ。恋愛以外にも娯楽は満ちていますし、一人でいる時間が何より愛おしい。そもそも仕事が忙しすぎて恋愛にかまけてる余裕もなかったりするわけで、そんな日々生きてるだけでも精一杯な状態で、他人と感情をぶつけ合う営みに価値なんて感じられない……そういう人間が多いんじゃないかと思います。
水溜明の恋愛に対する態度は、現代人のそういう恋愛に対する薄っすらとした忌避感を投影したものに感じられました。共感が難しいタイプの主人公かとは思いますが、発明という最優先事項をデートで煩わされて苛立つ姿にだけは万人に刺さるものがあったんじゃないかと思います。
もっと言うと、彼の場合恋愛という入力値を自身のパワーアップに変換しようとしていたから客観的に見て異常だっただけで、恋愛という入力値からめんどくさい日々を出力する想像をしてしまうという点では、実は我々も自分自身をシステムとして見てしまっています。そう、システム的な考えというのは案外誰しもやってしまいがちなものなのです。
……ああいえ、やっぱり主語がデカすぎなので、そうじゃない人も大勢いるとは思うんですけど。
明くんよりも0号ちゃんの方が恋愛を通じて人間らしくなっていったことは先述の通りですが、恋愛に対しての見方について言えば明くんの方が確かに人間的に感じられます。というより、0号ちゃんの恋愛観が非人間的すぎるんですよね。
0号ちゃんにとっての愛はアイデンティティそのものです。生まれた理由であり、存在している理由。ただ、言い換えればその存在意義は明くんありきです。他人に存在意義を仮託するというのはどこか脆くて、そしてグロいものです。
明くんからすれば正直たまったもんじゃないんですよ。今現在、発明という自分自身の宿命が頓挫しているというのに、他人の存在意義まで背負わなきゃいけないとなると完全にキャパオーバーです。お前の存在を何で僕が背負ってやらなきゃいけないんだ、それくらい自分でやってくれと吐き捨てる権利くらい彼にだってあります。いやまあ元はと言えば創ったお前が悪いとしか言いようがないので、結局は身から出た錆なんですけども。
0号ちゃんについては一種往年のヤンデレを思わせるキャラクター性と言ってしまってもいいと思うのですが、恋愛自体が嘘臭く感じられるようになってきた時代にあって、人工物だからこそ重すぎる愛がリアルに感じられるような巧妙な倒錯があったかと思います。
生成AIが人間以上のものを作り出してしまう時代になりつつある中で、愛すらもAIが人間のそれを超えてくるという描き方なのがかなり興味深かったです。それも、とびきりグロテスクな方向性で超えてくるという。
あれもこれも全てママが用意した
物語の後半はロボット窃盗団みたいな奴らに0号ちゃんが奪われて、囚われの姫となったカノジョを助けるために明くんが奮闘する王道展開となるのですが、ぶっちゃけこの辺は茶番に等しいので特に語ることはありません。
というのも、この辺のアクション活劇は本作においては表層でしかないからです。確かにコナン君じみたキックボードアクションは楽しいのですが、正直この点をあれこれ論じても本質的な話は何一つできません。
さて、明くんの拠点であるラボは、育ての親である水溜稲葉から受け継いだものであることが明かされます。サポートロボのソルトは明くんの発明とは作中でも語られるのですが、発明環境が稲葉由来だったことを思うと、結局はソルトも稲葉のお陰で作れた発明だったと言えます。
というかソルトがどう見ても明くんを庇護するためだけに援護に駆けつけたのが不自然……というよりはもはや象徴的ですらありました。同時に、交通システムも全て明くんに都合のいいように制御されます。そして極めつけは、黒幕の絵里が改造した戦闘ロボですら明くんへの攻撃を拒否。まるでこの世界が明くんを守るためにあるかの如く、全てが明くんの前にある障害を取り除いてくれるのです。ただ1人、最後に立ちはだかった0号ちゃんを除いては。
何が起きていたかは明白です。何もかも水溜稲葉が息子を守るために全システムを構築していたのです。つまり、何もかも稲葉の手のひらの上でした。
まず、0号ちゃん自体、稲葉が明くんのために遺したものだったと精神世界を通じて語られます。
であれば、明くんの業績として名高いソルトもやはり同じでしょう。結局、ソルトの真の発明者は水溜稲葉なのです。だからこそあれだけ人間的な可愛らしさを見せ、そして人間的に戸惑いも見せ、そして明くんを守る意思を何より優先したのです。ソルトのお茶目さは、言うなればお母さんのお茶目さです。ていうか明くんがゼロから作ったとしてこの茶目っ気宿すって不自然じゃないです?
何より、ずっと明くんが開発しきれなかった金のソルトがいましたが、明くんのピンチに至ってはマザーコンピューターの如く全てのシステムを統制する姿が見られました。監視カメラすら制御していたのが象徴的でしたよね。ママは子供のためという大義名分があれば常に監視を怠らないのです。そして、交通システムさえマザーにとっては息子に道を作るための手段でした。子供のためなら道を作り出すのはお母さんの特権です。主にお受験とか。
稲葉自身がお腹を痛めて産んだ子供ではないと明言されていながら、そういうグロい母性を感じさせる描写の数々がクライマックスには詰まっていました。本作を彩る二大グロテスクは、ズバリ恋愛と母性です
金ソルトがマザーコンピューターだとすると、明くんがこのロボットをずっと制御できずにいた理由も自ずと理解できるかと思います。お母さんにとって、子供とは制御するものであって制御されるものではないからです。だから、制御される立場になった時点でアイデンティティ・クライシスを起こして首が吹っ飛ぶほどの機能不全を起こします。
そうじゃないんですよ。子供が大ピンチになった時に、嬉々としてその障害を取り除いてあげるのがママの本懐です。クライマックスの明くんは全てが分かったかのような爽快感で0号ちゃんを救う活劇を演じてみせますが、本当にテンションが上っていたのはママの方じゃないでしょうか。私のお陰で!明ちゃんが輝いてるぅぅぅ!!という感覚だったでしょう。
恋愛の面から明くんに自分の存在意義を仮託していたのが0号ちゃんでしたが、子育ての面から明くんに自分の存在意義を仮託していたのが稲葉ママでした。双方等しくグロいのです。
とすると、本作のアクションシーンが如何に虚仮威しであるかも理解いただけるかと思います。確かにキックボードで並み居る車を押しのけていくカーチェイスアクションはカッコいいですし盛り上がります。ソルトが次々馳せ参ずる様子もかなりカタルシスをもって描かれました。
でも、その全部がママに用意してもらったものでしかないんですよ。だから、本当に水溜明が主人公として立ち上がるには、ママに依存しないで自ら立ち上がる必要があったのです。
この命に代えても、あなたを子宮から救出する
絵里と改造ソルトで構成された強盗団は、稲葉の庇護力の前には為すすべもなく完敗します。
まあ、ハッキリ言って彼女らは悪役でも何でもないんですよね。本当に明くんを襲っている邪悪というのは、絵里の元へ導いた稲葉のグロ母性なので。
言ってしまえば、終盤に至るまで、水溜明のいる場所はずっと水溜稲葉の子宮の中でした(水溜姓ってそういうこと?)。
つまり、生まれてきてすらいないんですよ。ずっと稲葉の研究の後を継ぐことだけに奔走し、それが上手くいかないと周りの全てに当たり散らす……。水溜稲葉の息子であることが彼のアイデンティティでした。水溜明もまた、アイデンティティを母親に仮託していたのです。
0号ちゃん救出劇のヒロイックな活躍すらも結局は母親のお膳立てにほかならないわけですから、この物語に真に必要なのは助産婦です。
同じく水溜稲葉から生まれた存在である0号ちゃんはそれを理解していたのでしょう。そして、水溜明を稲葉の子宮から救い出すに際して、最も邪魔な存在が0号ちゃん自身でした。
明くんが0号ちゃんを必要とすること、そして好きになること自体、全て稲葉が仕組んだことです。だからその全てを破壊しようとしたのがラストの凶行です。突然豹変したようにさえ見えますが、彼女が鉄パイプとナイフで彼を傷つけるのは全てを明くんを愛しているからです。
明くんを愛していればこそ、彼をこのまま稲葉の子宮の中に居させておくわけにはいきません。たとえそれが0号ちゃんのアイデンティティを失わせるものだったとしても。
最終的に、0号ちゃんは明くんを傷つけたことによりコイビトというアイデンティティを喪失しますが、0号ちゃんの愛そのものは勝利したのです。結局のところ、初期値である明くんへの愛という入力がずっと一貫していたとも言えます。
0号ちゃんを失い、明くんは元の日常に還っていきます。元より義手だった右手に加え、左手も義手となってますます人体錬成で真理を見た人の感が強まりますが、彼は結局0号ちゃんの存在を求めてしまいました。
0号ちゃんを救い出す際、彼は裸足でした。ただ、そのアシはソルトのキックボードに依存していたので、結局はお母さんが作ってくれた道を走っていたに過ぎません。
ところが0号ちゃんが目覚めたと知るや、今度は自分の足と靴で、ラボに向かいます。エレベーターに頼らず、階段を降りていく明。まるで二重螺旋構造のようなそれを下っていった彼を、元の姿を取り戻した彼女が迎えます。
「おかえり」
結局、彼はまたしても稲葉の子宮に戻っただけでした。
あの階段も結局は、遺伝子のプログラムの暗喩に過ぎなかったのです。
水溜明は人工物なのか
以上、この物語は全て水溜稲葉の仕組んだプログラムであり、その支配を破壊しようとした0号ちゃんの試みにもかかわらず、それすらも稲葉の計画の範疇だったという顛末でした。
0号ちゃん自身、稲葉が明くんに与えたいと願ったプレゼントなのです。だったらその行動もすべて仕組まれているに決まっていますよね。
そうなると更なる疑問も生じます。水溜明すらも0号ちゃんと同じく人工生命体なのではないかという点です。
そう匂わせる仕掛けは各所に散見されます。まずは右腕の義手。事故により改造されたとは公式サイトにも記述されていますが、その事故が何であったのかは結局作中で明示されません。
明くんの過去について唯一明らかなのは、施設から引き取られたということだけです。でも、何の施設なんでしょう? 文脈に依存するなら児童養護施設と読みたいところなのですが、稲葉が天才発明家であることを考慮するならば研究施設と読むことだってできるのです。
極めつけは0号ちゃん救出前に展開したスピリチュアル世界です。基本SFやってるのに何か急にスピりだしたな!?とさえ思いましたが、これも水溜明の脳自体がプログラムされたものと読めば全て通ります。つまりあれは突然のスピリチュアルなどではなく、水溜稲葉が故意に導入したチュートリアルなのです。事実、あのスピリチュアル世界に入るきっかけは、1体のソルトが暴走して明くんを傷つけたことでした。やはり全て稲葉の支配下です。
ただ、明くんが人工物か否か自体、結局本質でも何でもないのがこの作品の恐ろしいところじゃないかと思います。
明くんがデザイナーベイビーであろうが有性生殖から生まれた子供であろうが、どちらにせよ稲葉の子宮からは出られなかったのです。稲葉の構築したシステムかが全てを支配していたとしか言いようのない物語でした。
絵里が0号ちゃんの誘拐を決行した理由は、明くんへの嫉妬からだったと終盤明かされます。これについても、昨今生成AIという存在に対し、やはり嫉妬心や嫌悪感を抱かずにはいられないのが多くのクリエイターにとって危機感として横たわっているからこそ出てきた表現だったと思います。明くんが人工物だったとすれば、絵里の嫉妬心は完全に同種のものと言えます。
でも、明くんの描かれ方って人間でもAIでもどっちでもいいものだったんですよ。AIだろうと人間だろうと先人の知恵に依存しているという点では何も変わりませんし、そこからオリジナルを生み出せなかった以上、そこに差異はありません。
明くんも0号ちゃんも稲葉のコピーという点では変わりませんし、絵里に至ってはコピーにさえなれない存在でした。世界が稲葉の母性愛で構築されている以上、彼女はどう頑張っても微笑まれない存在だったんだよなあ……。
以上、メイクアガールという怪作を入力とした、感想という名の出力をお届け致しました。この感想文が、少しでもこの作品を正しく理解したシステムになっていたのなら幸いです。
繰り返しになりますが、本作において恋愛や母性愛は徹底してグロテスクに描かれました。一方、水溜明が抱いていたシステム思考も最後まで否定されることはありませんでした。一般的な映画だとここは否定されるもんですよね(主人公の固定観念は大抵覆されるもんです)。
ある意味、ここが本当に誠実な作品だとさえ思いました。変に愛を称揚したりしませんし、システム思考を否定したりもしません。
僕たちが生きている現実の世界観はこうなんだよというのを映像で示しはするのですが、時代性は反映するけど押し付けずに鑑賞物にとどめたという点で見事な線引きがなされていたなと感じます。我々観客が愛とシステム思考に対して客観視できる作品になっていたんですよね。
愛という感情的なもの、そしてシステムという論理的なものを共に天秤にかけつつ、天秤にかけただけで終わった作品と言ってもいいのかなと思います。そして、そのどちらもえげつないものとして描ききったのですから、どちらを重んじるかは我々の自由なわけですね。嫌な自由を突きつけてくるなあ……。