シルクロードの歴史3『海のシルクロード』
*天文学史に続いて中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。悪しからず。
1. 古代・中世の海のシルクロード
海のシルクロードは南シナ海、マラッカ海峡、インド洋、ベンガル湾、アラビア海、ペルシア湾、紅海など多くの海域を網羅した広大な交易網で、東南アジアでは主にオーストロネシア系民族、つまりマレー人やフィリピン人、南アジアではインド南東部周辺に分布するタミル人、西アジアではイランのペルシア人とアラビア半島のアラビア人の商人により運営された。
オーストロネシア系諸民族によりフィリピン、台湾、ボルネオ、インドシナ沿岸部で行われたPhillipine Jade Cultureの貿易路や、同じオーストロネシア人によりスリランカや南インドで行われた香辛料の貿易路の流れを汲むためであるとされる。
このフィリピン翡翠貿易の道は前20世紀頃から後5世紀頃まで機能していた交易路で、台湾原住民とフィリピン人の間で始まり、その後、東南アジア沿岸部各地に波及、前10世紀頃から後6世紀頃には、南インドやスリランカへの香辛料貿易も行われるようになり、これらオーストロネシア系民族の貿易路を元に前2世紀頃、海のシルクロードが誕生した。
基本的にはオーストロネシア系諸王国が海のシルクロードの物流を支配しており、ここで行われたインドと東南アジアの交流により、東南アジアには仏教やヒンドゥー教が広まる事となる。その後の7世紀頃にはシュリーヴィジャヤという国家が西アジアや南アジアとの貿易を独占し、東南アジアや中国南部の海上貿易を支配た。
この頃にはチョーラ朝の繁栄により南インドのタミル人、アッバース朝イスラム帝国の繁栄によりダウ船に乗ったアラブ商人も海のシルクロードに参加し、アラブ人の進出はインドネシアやフィリピン、マレーシアにイスラム教が広まるきっかけとなった。
その後、10世紀頃には中国の宋王朝が領土的な問題で他の陸のシルクロードを利用できなくなったため、貿易船団を編成し、シュリーヴィジャヤ支配下のインドネシアに小さな植民地を作って海のシルクロードに参加、しかし14世紀にはモンゴル帝国による東西交流による黒死病と小氷期による飢饉で、海での貿易自体が消滅してしまった。
2. 近世・近代の海のシルクロード
しかし15世紀頃には明王朝により鄭和の大船団が派遣され、シュリーヴィジャヤの王の亡命した政権であるマラッカとの貿易網を確立するなど海のシルクロードに復帰、しかし16世紀には先述の理由で、ヨーロッパにて大航海時代が始まり、ポルトガルがマラッカを征服した。
海のシルクロードを支配したヨーロッパ諸国は香辛料や織物の輸入を盛んに行い、海のシルクロードは繁栄、スペインがフィリピンを占領しマニラ・ガレオンという、太平洋を横断し同じくスペイン領のメキシコへと品々を運び、その後、インディアス艦隊によりメキシコからヨーロッパに送られるというルートが確立すると、中国とスペインの貿易も盛んとなった。
そこで中国は陶磁器や絹織物をマニラに送り、スペインは銀を中国に送り、これにより中国の銅銭の価値が低下し辺境には十分に流通しなかったため北の辺境で清朝が台頭し、明朝を滅ぼしたとする見解もある。
清朝の時代の1684年、今まで中国は冊封体制の考えから、貿易は国家主導のもの以外は正式には行われていなかったが、康熙帝により民間、つまり国家主導ではない会社などによる貿易が許可され、貿易港も外国人に開かれ、中国商人の海外渡航も承認した。
これにより現在では中国人の中でも客家人、閩南人、広東人など海のシルクロードの開かれた南部沿岸地域の人々の子孫が東南アジアに多く暮らしており、首相や大統領の経験者ではシンガポールのリー・クアンユー、リー・シェンロン、ゴー・チョクトン、ウィー・キムウィー、タイのアピシット・ウェーチャチーワ、タクシン・チナワット、インラック・シナワトラ、バンハーン・シラパアーチャー、チュワン・リークパイ、フィリピンのコラソン・アキノやベニグノ・アキノ3世、カンボジアのフン・セン、ソン・センなどがおり、アメリカ州ではアーサー・チュン、アフリカではジャン・ピン、オセアニアではアノテ・トンなどがいる。